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03.02.18

悲しくてうれしく

 「悲しい」という形容詞は、感情を表すことばの中でも基本的なものですが、なかなか複雑微妙な使われ方をします。
 「愛しい」と書いて「かなしい」と読ませることがあるように、このことばに、恋人や家族などへの愛情を表す用法があることは、学校の古典の時間などで習うとおりです。しかし、それだけではないので、たとえば、江戸時代初めの「醒睡笑」にはこういう話が載っています。

 かみつく犬の近くに行くのはいやだ、と言う人がいた。ところが、「『虎』という字を手のひらに書いて見せてやれば、かまれることはない」と教わったので、次に犬に出くわしたとき、その通り手のひらに「虎」と書いて見せたところ、犬は何とも思わずにボガとかみついた。
 かまれた男は「かなしく思ひ」、ある僧に訴えたところ、「ははあ分かった、その犬はまったく文字が分からなかったのだ」と言った。(巻一)

 ここに出てくる「かなし」を、現代語の「悲しい」と同じ意味だと考えると、ちょっと違和感があります。犬にかまれたときに、われわれは「悲しい」とは感じません。現代語の「悲しい」は、何か喪失感や欠落感などを伴って、涙が出そうになる気持ちを表すのだと思います。犬にかまれたときの感情ならば、むしろ、「くやしい」とか「腹立たしい」とかいったことばに近いでしょう――ただ、ちょっと現代語にはそれを指す適切なことばはなくなってしまったようです。
 『日本国語大辞典』では、「かなしい」の意味の一つに「他から受けた仕打ちがひどく心にこたえるさま。残念だ。くやしい」という語釈が載っており、鎌倉時代の例が挙がっています。上の「醒睡笑」の例も、それにつながるものと思われます。

 「悲しい」はまた、動詞化して「悲しぶ」「悲しむ」となり、「喜ぶ」と並べて使われることがあります。平安時代末期の「今昔物語」には、「喜び悲しんで」という不思議な言い方が頻繁に出てきます。

・比丘此ヲ聞テ喜ビ悲ムデ貴事无限シ。(巻第四-二十二)
・沈裕ヲ見テ喜ビ悲ブ(巻第九-十六)
・是ヲ見ルニ、喜ビ悲ブ事无限シ。(巻第十一-二十五)
・尼、此レヲ見テ涙ヲ流シテ喜ビ悲テ(巻第十二-十七)

のように。
 こう何度も出てくると、もう常套句という感じです。現代語と同様に考えれば、「喜び、かつ悲しむ」ということであるかのように思われますが、一体、そんな複雑な感情表現を、そういつも、だれもが安々とできるものでしょうか。
 「源氏物語」には、「うれしくも悲しくも思ひたまへられはべる」(宿木)という言い方が出てきますが、これは、「一方ではうれしく、一方では悲しい」ということです。しかし、「今昔物語」の「喜び悲しむ」はそれとは違い、「喜びの感情が激しくなる」という解釈が近いようです。
 再び『日本国語大辞典』をみると、「悲しぶ」および「悲しむ」には「感動をもよおす。心をうたれる」という意味もあります。喜んでいる場合でも、心が激していれば「悲しむ」と表現できたわけです。現代語の「悲しむ」に比べればかなり広い意味をもっています。

 では、同じく「今昔物語」にあるこういう例はどうでしょう。
 源信(有名な僧)は出世して母に孝行しようとしたが、母はそれを喜ばず、「立身出世して華やかに暮らすのではなく、むしろ修行に励んで特の高い聖人になってほしい」と手紙で書いてよこした。
 源信はそれを読んで母の心を知り、「極めて哀れに悲しくて、うれしく思ひたてまつる」。(巻第十五-三十九、原文は「極テ哀レニ悲シクテ喜シク思ヒ奉ル」)

 この文章の場合、「哀れ・悲し・うれし」と、感情語が3つ並んでいます。この「悲し」は、現代語の「悲しい」と同じ意味ではなさそうです。母に手紙で叱られたので、源信は暗い気持ちで涙が出そうになったのかというと、そうではないでしょう。やはりこれも「感激して、うれしく存じ上げた」ということであろうと思います。「今昔物語」によく出てくる「喜び悲しむ」という表現と同様に受け取ってよいのでしょう。

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