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00.12.19

大江健三郎の愛媛方言

 大江健三郎氏の新刊『取り替え子(チェンジリング)』(講談社)を読みました。
 義兄の映画監督(伊丹十三氏に擬す)の死をモチーフにしたもので、旧友としての愛情が強くあふれている作品です。映画監督の自死の理由については、主人公・古義人(大江氏自身に擬す)も明らかには知らないように読めますが、むしろ、残された者たちが映画監督の死の意味を神話的に理解し慰藉を得るための方法を探っている小説であると、そのように僕は解釈しました。
 同時に、大きく報じられた伊丹氏の事件を扱うのですから、ジャーナリスティックな意味でも読者の興味をひく小説であると思います。大江氏の毎度の技法ですが、事実と虚構がない交ぜになっているらしい、本当か嘘か分からない――大真面目に書いてあるためふつうに読むと嘘とは思いにくい――エピソードが次々に提出されます。実在かどうか分からない謎の女性も出てきます。
 それにしては、スポーツ新聞や週刊誌などに
 「故伊丹十三監督の死因に新説! 大江健三郎が小説で暴露する『事実』
などという記事がまるで載らないのが不思議ではあります。大江氏の作品はあくまで虚構であることをよく弁えてのことなのか、それとも、芸能レポートを職とする人々は純文学の読者とは重ならないのか。
 ジャーナリスティックといえば、本文中で、あきらかに実在の有名人を、実名は示さずに論評しているところが多く、関心をかき立てられます。
 「こういう(低い)品性の同業者」(p.22)というのは北野武氏か。「内面から滲み出ている荒涼かつ凄惨なものに圧倒された」(p.96)というのはおすぎ氏もしくはピーコ氏のことか。十年以上も主人公を個人攻撃をしてきたという「大新聞の花形記者」(p.12)はいうまでもなく本多勝一氏だろう。この花形記者の追及に精神的打撃を受けている様子を包みなく書いている率直さには驚きます。
 「吾良の大ヒットした喜劇映画のなかの、脱税を指摘されて泣きわめく――じつは、泣き真似をしている――自営業者役のコメディアン」(p.226)は伊東四朗サンで、このコメディアンは批判の対象ではなく、後半の映画仕立ての部分で特に活躍する「大黄」という怪しげな指導者の風貌と関連づけられて語られています。僕は伊東四朗サンのファンなので、この大黄という人物の描写を、彼のイメージで読みました。大江文学で活躍する伊東四朗というのも不思議な取り合わせではあります。

 さて、作品中で、その伊東四朗――ではなく「大黄」ら谷間の人々が語る土地のことばは、異様なものです。当然、大江氏の故郷の愛媛県内子町のことばをベースにしているはずですが、これを読んで、愛媛方言の特徴が非常によく出ているとまでは思いません。むしろ、大江氏なりにソフィスティケートした、人工の方言、大江方言とでも呼ぶべきものかと思います。
 一例だけ示しましょう。

大黄 風呂場の鍵を持って行かせんかったものやから、自分で取りに来られた? 状況が変わったものやからね。その格好で湯槽につかられてしもうたならば、大事{おおごと}やで! 温泉やというてもいったん沸かして給湯する仕組みやもので、入れ替えが早急にはいきまへんのや!(p.280)

 とくに理由表現に注目したいのですが、愛媛県では「カラ」よりも「ケン」「ケー」「ケレ」などを使うところが多いと思います。たとえば内子町と同じ中予方言に属する温泉郡川内村(現川内町)では
 「ヤスカッタケン」(安かったから)
 「ヨントーヨンショージャケン」(4斗4升だから)
 「ナイケン」(ないから)
 「ダシトキマスケン」(出して置きますから)
 「デルジャケー」(出るから)
 「ガクゲイカイジャケー」(学芸会だから)
 「アイタイ ユー」(会いたいと 言っているから)
 「マダ ハジメジャケレ」(まだ 初めだから)
 「ナカッタケレ」(いなかったので)
 などと言い、ときには
 「ヨー センノデカラ」(できないので)
 などとも言います(NHK編『全国方言資料』)
 これらを参考にすると、先の引用の「仕組みやもので」などというのは、不思議な言い方で、共通語の「仕組みだもので」という形の「だ」をそのまま「や」に機械的に変換した形ではないかと思います。土地では「仕組みじゃけん」「仕組みなもんじゃけん」のようになるのではないでしょうか。
 もう少し愛媛方言に近づけるなら、たとえばこういうふうになるのではないでしょうか。愛媛出身ではない僕が添削するのは無謀としか言えませんが――。

大黄 風呂場の鍵を持って行かせなんだけん、自分で取りにお出でた? 状況が変わったもんじゃけんなあ。その格好で湯槽におつかりたら、大事{おおごと}じゃが! 温泉じゃいうてもいったん沸かして給湯する仕組みじゃけん、入れ替えが早急にはいきませんのじゃ!

 もし誤りがありましたらどうかご批正ください。指定の助動詞は「や」よりも「じゃ」のほうが古風で、今も主流だと思うので、そのようにしてみました。
 夏目漱石は「坊っちゃん」を書くにあたり、方言のせりふについては高浜虚子に監修をしてもらったようです。このことについては、今年、愛媛大学の佐藤栄作氏によって詳細な報告がなされました。自然な松山方言になっているようです。
 ひるがえって、愛媛出身の大江健三郎氏が、地元のことばをかえって人工の方言に直しているのは、漱石との対比で見ても面白いと思います。

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