BON VOYAGE!

「哀愁のヨーロッパ」
SPECIAL 1999-2000

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第84話:"Doggy, please take me home".

目が覚めたら、すでに8時45分だった。ああ、寝過ごしたなあ、と階下に降りたらまったく人の気配がなかった。ジョエルは朝食は9時半・・・10時、10時半、まあアイルランド時間だから、と言っていたから、このぶんだとまあ10時前ということはないだろう。

窓の外の冴えた空気の向こうにきれいな波が立っているのが望めた。今がチャンスかもしれない。

外に出てhouseのパノラマを撮影した。そして、そのまま西へ歩き出した。30分たったら引き返して、同じ道を戻る。シンプルな散歩になるはずだった。空気は肌を突き刺す寒さだが、雨も雪もない。たとえ降ってもフードと帽子で大丈夫だろう。道は舗装されているし。

石積みの低い壁で延々と仕切られた牧草地に牛や羊が点在している。やがて、一本道からはずれて海へと向かう道を見つけた。緩やかな下り道を降りていくと、どこからともなく犬が現れて追い越して行った。

犬が現れた。犬が先を進んでいく。

どこへ行くのだろう、と思いながら写真を撮っていると、10メートル先で立ち止まっている。私が歩き始めると、やっと駆けて行った。お別れか、と思ったら戻って来て足にまとわりつく。そして急かすようにまた小走りに先を行く。海岸で10分ほど撮影しているときにも、じっと待っていた。

海岸に波が打ち寄せる。海岸に波が打ち寄せる。

分岐点で、戯れに右手を伸ばして、this way! と声をかけると、ちゃんとその方向に向かう。ちゃんとしつけられた牧羊犬に違いなかった。愛おしいまでに、忠実に前を歩いて行く。

ひとりじゃないって、こんなに楽しいのか。

しかし、いいことは長くは続かなかった。雪だ。そう思ってフードをかぶった瞬間、頬に痛みが走った。大粒の霰が降っていた。いや、まるで散弾を浴びせかけるように襲って来た。

霰の来襲。霰の来襲。

雨や雪ならばなんとか進めるが、霰では後ろを向くしかない。引き返そう。海沿いの道をそのまま戻って行く。

気づくと、見覚えのない道だった。おそらく、海沿いの道を戻り過ぎて、往きのときの分岐点を過ぎたのだろう。慌てて海沿いの道から一本道へと上がった。東は埠頭、西は西端。さて、私の帰るべき家は、ここからどっちの方向だろう?

ここで間違えて時間をロスしたら、大変なことになる。だいたい、道が実質的に1本しかない島で迷ったなんてメンツに関わる。

犬は、迷うことなく西に向かった。霰が吹きすさぶ方向に、まともに顔を向けて歩くことになる。おいおい、本当なんだろうな?

昨日、車で来て、夜に教会への道を往復しただけで、実質的に初めての外出だから、まったく知らない景色、いや、だいたい目印になるような家とか廃虚がほとんどないのだ。

霰から顔をそむけながら、15分程歩いただろうか。石板に"MAINISTIR"と彫られたプレートがあって、緩やかなカーブをを曲がったところにMainistir houseが立っていた。犬は、どうして私はここから来たってわかったんだろう? ちゃんとバックドアまで案内して、ひと声小さく、しかし鋭く吠えた。ほら、着いたよ。ここだろ?

すでに朝食は始まっていた。犬がね、案内してくれたんだよ、そう興奮して報告する私に、モニク(ミズ大柄)は大きな体を揺らして、ああ、と物憂気にうなずいただけだった。別に珍しくもないらしい。それより、天気はどうだった? 雪? え、霰だった? まあ、大丈夫?

クリスマスの朝は、そんな島の洗礼で始まった。

(第84話:"Doggy, please take me home". 了)

text and photography by Takashi Kaneyama 1999

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