Bon Voyage!
ASIA AT RANDOM

WONDER ISLAND BALI

2000年9月4日〜6日。湖畔の宿でフランス人と友だちになる。

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9月4日(月)ウブド滞在中。ブサキ寺院から東海岸まで遠出。

さあ、お出かけ。

朝食を頼んだのになかなか来ないのでキャンセルして8時過ぎに出発した。例によってガイドのマデは1時間以上前から来ていたようだ。途中<ブッダ>でパンを買う。オーガニックの焼きたてパンで、なんでバリでスコーンとかブラウニーを食わなきゃいけないのだ、と心の中で毒づいたが、これがめっぽううまい。

ブキッ・ジュンブルでマデやお嬢様と記念撮影する。旅行で、こんな一般的な写真を撮るのは、たぶん修学旅行以来だと思う。

油断は出来ないブサキの僧。

9時半にはブサキ寺院に着いた。今回はサロンを持参しているので、マデに着付けてもらう。なぜか観光客が見あたらず、少し不安になるが、このガイド志望者の多さからみて、やっぱりブサキだろう。

長い参道をのぼっていく。次々に「ガイドします」「ヒンドゥー教徒以外はここまで、でも私と一緒ならもっと上まで行ける」などという勧誘が襲ってくる。マデに「絶対話しちゃいけません」と言われていたので、ふたりで無言で行く。

着いた。


苔むした石像群が出迎える。

本当にここまでか、と思ったが、まだ上に人がいるのでさらに進む。「You have to respect the temple!」と馬鹿な自称ガイドが叫ぶので、思わず英語で言い返す。「Off course, I respect, but Idon't believe you!」

お嬢様が、案内してくれるという僧とお話をして、「サロンもしているから、もっと上にも行ける」と言うのでついていくことにする。

きれいな英語で解説してくれる。中身はシヴァ、ブラフマー、ヴィシュヌのそれぞれの寺院、ここだけが黒い玄武岩、と知っていることではあっても、どれがどれだか、これだけたくさんの寺院が群れをなしているとよくわからないので助かった。写真は撮ってくれるし、一緒に写真にも収まってくれるし、さらに高いところまでのぼっていい景色を見せてくれるし、いやあいい人だと喜んでいたら。

いざ別れる段になってdonnationを求められた。もちろん私たちもお支払いするつもりであったのだが、「それぞれ10ドル」という価格には驚いた。いくらなんでも相場の10倍である。20ドルということは16万4000ルピア。私たちはイエ・プルで2万を1万に値切った実績を持っているのである(結局1万6500取られたけど)。ここがブサキであることを考えてもちょっと論外であろう。しかし、僧服の威厳ありそうなおじさんに値引き交渉するのもはばかられるし。

とかなんとか言いながら、実はふたりで1万5000ルピアで妥結して、握手して別れたのであった。持ち金を全部見せて「これしかない」と言って、礼を尽くして感謝の念を述べただけなのだが。

マデの遠慮。

マデの車は一路東へ。山あいから海を望むレストランで昼食。席に着こうとしたらマデがいない。探しに行くと、入り口の手前に座っていた。「一緒に食べようよ」と言ってなかば強引にマデも席に着かせる。こういう遠慮の仕方は、バリ人というより日本人に近い(こういう謙虚な日本人も少なくなったような気がするが)。

さらに東へ。サラックの産地シベタンを通り過ぎる。マデが露店からサラックを一袋買って「食べてください」と渡してくれた。産地だけあって、ペトゥルで食べたものより渋みが少ないような気がする。それよりも、マデの気遣いが嬉しかったのかもしれない。

アムラプラとウジュンを省略することにして、ティルタガンガへ。なんとなく水のあるところへ行きたかった。ここはかつての離宮で、いまでも満々と水をたたえたプールとユーモラスな噴水がある。

この近くに住みついたというフランス人が、自分で撮った写真を加工して万華鏡というかマンダラのようにした「アート」を展示していた。名前はジャッキーとかで、IBMでエンジニアをしていたそうである。作品の評価はともかく、いいなあ、こんなところに住めて、とちょっと羨ましかった。

あっまりに暑いので噴水のそばで水を手で頭にかけてピチャピチャする。マデも一緒。これが気持ちいいのだ。

ダブルイカットの真実。

チャンディダサを通過してトゥガナンへ。ここはバリアガ、つまりヒンドゥーがやって来る前のバリ土着の人々が住む村で、生活慣習や文化が違うらしい。で、村全体が観光化されており、入村料としてdonnationを払う。

ダブルイカット(グリンシン)の作り方を、説明を聞いてようやく理解した。なんとデザインしてから糸をところどころ縛って何度も染めていくのだ。そのたびに縛るところを変えることで模様ができるので、染め上がったら織っていく。こんなことを手でやっていたら、染めるだけで3か月以上というのも納得がいく。


こうしてデザイン通りに
糸を縛ってから染めに入る。

次は籐細工というか、最近なぜか日本で人気の編み籠。バリ島各地で売っているが、制作はほとんどトゥガナンだそうだ。シンプルな手作りで安いし、日常に使える気安さがよい。私は買わないが。お嬢様、値切りに挑戦するもここは定価制(fixed price)だったようだ。

あとは帰るだけなのだが、私がロンタル(ヤシの木で作った木簡)のバリ・カレンダー売りに引っかかる。絵柄はどうでもよいが、バリ文字で名前を彫ってくれる、というのに惹かれたのだ。執拗に薦める7000ルピアのものではなく、4000ルピアのカレンダーにして、フル・ネームをバリ文字(たぶん古サンスクリット)で入れてもらう。これを帰ってからスキャナーで取り込んでスタンプにすれば、はんこコレクションの3つ目だ(ちなみに他はトンバ文字とハングル)。

その塩をください。

すでに「スラマッ・ソレ」の時刻となっていた。マデに「コウモリの洞窟は省略してもいいから、塩作りを見たい!」と言うと「そんなに塩見たい?」。
ふたりで揃って「うん! 塩!」。

ということで、とにかく塩作りの現場へ。味のあるおじさんがヤシから作ったカップで塩をすくってはザルにあげていた。

浜につくられた砂場に海水をまき、それを大きなかめから何度もこし、さらに竹を半分に割った容器に入れて干し、ザルにあげていくらしい。とにかく、すっごく結晶の大きい塩で、舐めるとカリウムとか鉄とかの味を感じるくらい。

で、ザルの一山が1万5000ルピア、と言われてマデが「安いよ、そんなに要らないんだったら残りは私がもらうからー、信じられないくらい安いねー」と驚いていたが、いくらなんでも10kg近くも持って帰る気はしないので、1kgという注文をすると、例のヤシカップでざくっと2杯くれた。これで1万ルピア(約130円)。

おじさんとおばさんの写真を撮らせてもらうが、おばさんはケタケタ笑いながら恥ずかしがって向こうを向いたままなのであった。

コウモリを目前にして倒れる。

ゴア・ラワ(コウモリの洞窟)。お嬢様が気持ち悪くなられて棄権のため、私が代表して参観する。ちょっと後ろめたかったけど。で、たくさんコウモリがいて、たくさん撮影したが、もっのすごく気味悪かった。戻るときに冷えたミネラルを買う。3000ルピアというふざけた値をふっかけてくる。急いでいなければ1500にさせることろだが、「2000」と問答無用で札を出してミネラルを受け取る。

冷水でバンダナを湿らせて応急おしぼりにしてお嬢様の額に。たぶん、軽い脱水症状とBodyheatだと思う。車内はエアコンが効いているので、水飲んで休んでいれば大丈夫だろうと思う。

30分後、クルンクン着。クルタ・ゴサの天井画が目当てだったのだが、私は肝心のそれを完全に見逃していて、マデに「まだ見てないのー」と驚かれる。加えて、その天井画に到達した直後にデジカメのメモリーがフルになった。ひとりでさっさと歩いている罰かもしれない。

お嬢様も回復して、となりのミュージアムへ行く。さっき見た塩づくりが解説してあった。クルンクンはオランダがバリを占領する際に最後まで残った街で、クルンクンが落ちてオランダのバリ占領は完成したのだ。例のププタン(死の行進)を描いた絵とか、当時の各国の新聞などが展示されていて、けっこう興味深かった。もしかししたら、マデはこれを見てほしかったのだろうか?

すっかりお腹が空いたので、ギャニャールの市場でバビ・グリンを食べる。ここのサンバルは相当辛く、思わず水を飲んだら、辛さが口全体に拡散してもっと辛くなった。ひいひい苦しんでいたら店のお姉さんに思いっきり笑われた。

ウブドに着いたのはもう7時近かった。ほぼ11時間、これでふたりで25万ルピア(約3250円)なのだ。お嬢様は「それぞれ25万ルピア」と思っていたくらいである。

9月5日(火)ウブド→トヤ・ブンカ。湖面がすぐそばのコテージ。

グヌン・カウィの疑惑。

日本がクウェートに6−0というスコアで勝った、というメールをもらう。後半からの中田フォワード、中村俊輔が真ん中というのは私がプレステ2でやっているのと同じシステムではないか。だから言ったじゃないか。

すでにマデは迎えに来ているが、本格的なパッキングはこれからである。結局、入りきらなかったものをK氏からもらった段ボール箱に詰めてお嬢様に預かってもらうことにする。ワヤンよりも安心だし。余った蚊取り線香やアグン・ラカでもらっておいたオレンジの香りの石けんやビタミン剤で許してもらおう。

予定の12時を5分過ぎて出発。ライステラスの美しいテガラランを過ぎ、グヌン・カウィへ。なんか泉といくつかの社だけだ。たしか、石壁を彫った陵墓があるんじゃなかったっけ? と思いつつ、実はほとんど調べていないのでマデに頼りっ放しである。次にティルタ・エンプル。沐浴しているところを上から眺められるというかつてのスカルノ大統領別荘は、いまでは国の保養施設となっているそうだ。ここは帰路が指定されていて、延々とおみやげ屋アーケードを歩かされる。

2時前にはペネロカンに到達。ここで絶景を見ながら昼食というのが観光ツアーの定番なのだが、ほとんどがビュッフェスタイルで高いのでパスして湖畔のトヤ・ブンカ村へと降りて行く。この道も眺めはすごくいいが、運転する方は真剣である。

湖畔の宿。

あっという間に(途中マデが道を間違えたが)予約しておいたLakeside Cottageに到着。名前を言うと、ちゃんと予約が通っていた。部屋からは真ん前に湖が見える。昼食前にトレッキングの交渉に入る。なんと「カルデラ・トレッキング」という湖畔の平地を歩いてsunriseを見るという(軟弱な)コースがあったりする。もちろん、ここは男らしく「バトゥール山に登りたいのだ」と主張する。

それはいいが、ガイド料は2人以上が基本になっているので、1人だとほぼ倍額。いまのところは明日も明後日も予約なし。なので、「誰か、バトゥール山に登る人がいたら同じコースにするから知らせてくれ」と頼む。同じバトゥール山でも、初級、中級、上級の3コースがあるのだ。

マデと遅い昼食。レストランからも湖が窓いっぱいに広がる。(実は、今年は雨期が長くて湖水面が上昇して駐車場が湖に沈んでいるくらいなのだそうだ。オーナーは困っていたが、客にとってはいい眺めであった)。

バンガローの部屋を一歩出るとすでに湖畔である。さざ波が優しい音を立てている。湖にはかつて僧が修行した台や割れ門が上部だけ水面の上に突き出したまま沈んでいた。


部屋の窓からの風景。

さっそく日本人のカップルが来たので、「バトゥールに登らないかなあ」と期待したが、どうもカルデラコースにしたようだ。がっくり。軟弱モノめ。

部屋で荷をといて、軽く散歩していると、さっきチェックインとトレッキングの交渉をした男がやって来た。

「今来た男二人組が明朝バトゥールに登ることになった、一緒でいいか?」
もちろんOKである。
「そう言うだろうと思って、もうひとり一緒のパーティになっていいかと聞いてある、彼らはノー・プロブレムと言っていた、さっそく条件を説明しよう」

というわけで、本来ひとり25ドルの中級コースを18.5ドルにディスカウント、保険・水・ライトにもちろんガイドつき。コースはバトゥールを直登してから山頂の火口のまわりを一周して別のルートを降りてメインロードを車で帰るというもの。ふふふ、行いがよければ運もめぐってくるのだ。

レストランへ行く。トレッキングの手配をしてくれた男はクトゥといい、私がレストランに入ると席にやって来て、いろいろ話をする。

そうすると、白人カップルが「私たちも明日バトゥールに登りたい」とやって来た。つづいて最初に申し込んだ二人組もやって来て、クトゥが交渉に当たった。たぶん、計5人になったんだからもっと安くしろ、ということである。クトゥが相当困った顔になっている。聞くともなく聞いていたら、この4人ともフランス人のようであった。

あとでクトゥがテーブルにやって来て話してくれたところでは、問題ない、5人になったのでガイドを2人にした、大丈夫、という。

私としては、無理に値切るほどのことではないし、むしろ登山ガイドとの信頼関係を大事にしたいので、とくに値段の再交渉はしなかった。食事を終えて、例のフランス人4人のテーブルへ行って、フランス語で自己紹介しておく。最初が肝心である。4人はダニエル、ジュリエット、ジュレ、フィリップという名前だったが、覚えきれないので部屋に戻ってからメモした。

9月6日(水)トヤ・ブンカ。バトゥール山に登る。

星空のもと、足下は暗い。

3時前に目覚めて、完全に準備して朝食を早々に食べるも、他の4人は揃って遅刻。で、ライトが6つしかないらしく、私の分は持参のヘッドランプでいいことになる。

出発は4時15分ごろ。真っ暗だ。登山口もなにも、ホテルを出て歩いたらすぐにどこかの軒裏を通って行き、あっという間に登りになる。星がきれいだ。最初の休憩はなしで歩き続ける。全員元気だ。私はヘッドランプの明かりが弱いので、ガイドの次で歩く。快調。苦しくても歩きながら深呼吸できるくらい。

やがて急勾配の火山灰斜面に突入。ここで急速に気分が悪くなる。ほとんど吐きそうだったが、それは少し長めに休めば直った。さらに足の疲労が取れなくなり、乳酸がたまっている感じがする。ジュレが「エネルギーがいるだろう」と甘いドロップをくれた。そして足が攣りそうになり、危険を感じたので自主休憩、早くいえば座り込んで動けない状態になる。で、ガイドが前後でパーティをサンドイッチするはずなのに、後ろのガリが横道にはずれたきり、登って来ない。

道はすでに稜線がはっきり見えているので、待たないで行ってくれと伝える。もうすぐsunriseだ。ニョマンが、まずみんなを連れて行って、あとで戻って来るから、と言って先へ行く。

ひとり残って水を飲みつつ、疲労回復を待つ。見通しがいいので、だんだん明けてくる朝の気配が気持ちよい。東側斜面だから、あせらずとも視界は開けているし、sunriseは見られるだろう。あせらないことだ。

sunriseが近い。ゴールは近い?

6時になった。水平線にオレンジと濃紺の縞が出来ている。少しずつ歩き出す。足が思うように上がらない。6時15分、ついに太陽が顔を出した。早足になる。ニョマンが降りてきた。5分後、ついに頂上に着いた。

「Go---al?!」

みんながベンチで座っている。そこに向かって両手を上げてゴールしていくと、拍手で迎えてくれた。

コーラがnice priceだよ、というので振り返れば今まさにコーラを開けようとしているおばさんがいた。5000ルピア。

「I need oxygen, not CO2!(欲しいのは酸素で、炭酸ガスじゃないの!)」

と言ったが、通じるはずもなく、コーラか、コーヒーか、紅茶か、と迫ってくるのであった。

みんなで写真に収まる。


左からジュレ、フィリップ、ダニエル、ジュリエット。
しゃがんでいるのがガイドのニョマン。

結局温かくて甘い紅茶をもらうことにする。5000ルピア。ウブドの洒落たカフェで飲むよりも、幸福感では数段まさる。

ガリはまだ来ない。2日ほど寝ていないらしく、「寝てるんじゃないか」というのが冗談ではないかもしれない。私からも15分以上遅れてガリ到着。probolem、としか説明しないが、相当疲れてはいるようだ。


ガリが到着したときの朝日。

火山口の回りのエッジをぐるっと回って行く。いちおうルートに足場が切ってあるが、切り立っている稜線を歩くのはなかなかスリリング。


こういう稜線を延々と歩く。

1994年の噴火跡を見下ろしつつ下る。火山灰のスリッピィな斜面で、まるでスキーかサーフィンのように滑る。もうもうと灰煙が立って目鼻に侵入する。ジュリエットと斜面を滑りながらおしゃべりする。

「If you stay tonight, you can try again.
(今日もステイするなら明日も登れるわね。)」

「No, just once in my life.
(いいや、一生で一回でいいよ。)」

やがて平坦になり、小さなワルンがあった。ついに湖畔をめぐるメインロードに出て、ベモ待ち。しばしのちにベモ・トラックの荷台に地元民と共に乗る。景色はいいし、オープンエアだし、風は涼しい。これで荷台のへりに腰掛けて、落ちないように必死でつかんでいるという状況でなければ最高なのだが。

疲労回復には昼寝と散歩。

わずか数分のドライブでコテージに着き、そのままレストランで一緒に朝食。当然のように5人で同じテーブルを囲む。ま、戦友とまではいかないが、苦楽を共にした仲間、というところか。

実は右膝がガタガタである。筋肉がトレーニングし過ぎで痛んだような感じ。とにかく歯磨き、風呂、洗濯。PowerBookに写真を取り込んでから寝る。延々と寝る。途中スニッカーズでエネルギー補給。

3時過ぎ、レストランでナシ・チャンプールとオレンジジュースでランチにして散歩に出かける。道をはずれて湖へと降りていく女の後をついていくと、溶岩台地に耕地がつくられていた。

さらに先へ。パノラマを撮る。四駆が走り去る。ツーリストのレンタカーらしい。手を振る。

戻る。釣り竿を肩に、片手に釣果をを持って家路につく男。

地図が壁に描いてあるのを発見。温泉の標識につられて入って行く。西洋人カップルがいたので「You swimmed?」と聞いたら、「ここのはタダ、しかも湖のそば、というか湖の中だ、向こうは5ドルで、プールのなかさ」と得意げに話してくれた。

降りていく。戯れに湖水に足をつけてみる。さらに行くと、そこは地元の人のための沐浴場だった。泳ぐというほどのスペースではない。ちょうどマンディタイムでにぎわっていた。洗濯もマンディも一緒。

そこで30分ほどぼーっとする。女はブラジャー着けたままマンディするが、おばさん以上になると堂々としたものである。男が来て「入らないのか?」と誘ってくれるが、今日はやめておく。こういうところに海パンで入るのもまた、違和感があるのだ。

クトゥの詠唱。

コテージに戻ってマデが言っていたスタミナドリンク「クラティンダエン」と水を買って部屋へ。さっそくドリンクを飲んで、コーヒーを淹れた。日暮れ時の湖水風景を10分おきにでも撮影しようか、というつもりだが、どこかに出ていくのも面倒なのでこのテラスから撮ってしまえ、という怠惰なプランである。

そうしたらクトゥが来て、テラスで長話。あさってに葬式があるそうだ。午前中。その日はガイドのマデが10時に迎えに来てくれる予定なのだが、その前でも何とかなりそうだ。バリ島で葬式を見逃す手はない。クトゥと一緒に2kmほど歩くことにする。

なぜか、バリの土地は安い、10m四方で300万ルピア(要するに100平方メートルで約4万円)だ、と住むとか働くことをすすめる。まあ、こういう話は本来は気をつけないといけないのだが、クトゥは具体的にすすめるというよりは、一般論として話しているようである。

どうも彼は数字が好きで「ここは日本人の客が多いね」「そうですね、宿泊客の40%くらい」とか、「ここに泊まる人はみんなトレッキングするんだね」「そうですね、90%の方は登ります」と言った具合だ。

そのとき、隣の日本人の女の子2人組のひとりが鍵のかけ方がわからずに困っていたのでクトゥが助けに行く。「チャンスだよ、いまレストランに行けば彼女たちは食事中だ、go ahead!」とけしかける。

バリ人はすぐに「結婚しているか?」と聞くが、「まだ」というと、「彼女(girlfriend)は?」と振ってくる。面倒なので「10人」とか「20人」とか答えているのだが、クトゥは本気にしているので、慌てて「Don't take it serious!」と押しとどめる。

会話が途切れると、ときどき、低く詠唱する。バリの祈りの歌だという。

「ここにいても構わないか?」と聞く繊細さは持ち合わせてはいるが、クトゥは不器用な男だった。


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