倉庫の中の時評2 

 
HSPな人達の時代    01.6.10
 大阪池田市の精神障害者による子供殺傷事件は何ともやりきれない事件だ。テレビを見ていると、識者が人権重視の精神障害者への対応を見直すべきだ、とやたらにがなり立てている。こういう識者になってはいけない、といつもながら肝に銘じる日々だ。私は、桝添は好きではないのだが、今回のコメントでは一番まともだった。日本では、精神障害者へのケアのシステムが遅れている。まず、そのシステムに金をかけてきちんとしないと解決にはならない、というもので、ちょっと見直した。やっぱり、介護体験で苦労したことはそれなりに人を成長させるものらしい。

 この事件はほとんど日本の社会の自家中毒とも言える出来事だ。中学時代からうまく人に適応できなかった容疑者は、社会にでても常にトラブルメーカーで有り続ける。もうイヤになって自殺しようとしたが死ねなくて死刑になるつもりだったという。どこまで信用していいかわからないにしても、もうイヤになったというのは本当だろうと思う。そういう感覚は、別に今の時代誰にでもあり得るからで、容疑者の生き方から見る限り、そのイヤになる度合いは相当のものだったことが推測できる。

 社会に適応できないということが、実は、とても簡単に起こりえるという予感をわれわれは持っている。特に今の時代はそうだ。私などは、社会に適応して生きていけていること自体が不思議なくらいだ。何かの拍子に、他人と折り合いの歯車が狂ってしまったら、それをどうやって修復したらいいのだろう。自分からはとてもできないとあきらめるとき、もう病気になるしかない。歯車が狂ってしまった人間を病気にまで追い込まずに、何とか普通に生活することを許容する社会ではなかったのだろうか。少なくとも、われわれの社会は。

 教育大の付属小学校という、もっとも歯車の狂わない環境に生きている人達の無垢なる聖地へ、歯車が決定的に狂ってしまった容疑者が乱入していったのはまことに象徴的だった。これは、日本という社会の、免疫不全症候群の一つの病である。われわれの社会が自分という異物に過敏に反応しすぎ、自分で自分を攻撃し始めたのだ。

 あらゆる意味で余裕を失った社会は、自分の歪みに耐えられず、歪みをもとに戻そうと過剰に反応する。社会というレベルで見てしまえば、精神障害はたぶんにそういった過剰反応の一つだ。病とは常に正常な状態に戻そうとする過剰反応である面を持つ。この病のメッセージを、われわれの社会はまったく聞こうとしない。人権を言うわりにはきちんとしたケアのない貧困な治療と、社会から障害者を隔離したいものたちの前で、結局、われわれの社会の歪みは増大し、病がますます増えていくという悪循環に陥っている。

 このような事件は、社会から容疑者のような人を強制的に隔離するような環境を作ることで、なくなるものではない。そんなに甘くはない。仮に、そういう環境を作ったら、社会の余裕は無くなり、歯車の狂いやすいところでぎりぎり持ちこたえている膨大な予備軍の歯車が本当に狂ってしまう。このような自家中毒的事件はますます増えるだろう。

 今週号のアエラに、HSPの人達という記事が出ていた。Highly Sensitive Person という意味。とても敏感すぎる人達という意味で、社会にうまく適応できない人達のことでもある。ただ、障害ではなく、人間関係に敏感すぎてうまくつきあえなかつたり、においや音などに敏感すぎて人と同じような生活が出来ない人を言う。今、こういう人が増えていて、会社勤めが出来なくて、中には、コピーライターや、詩人を目指す人もいるという。記事では、むしろ、均質な日本社会にとっては悪いことではないような書かれ方はしていた。

 昔なら、芸術家的感性の人達のことだろうが、今は、社会に適応できるかどうかというレベルで語られる。病ではないにしても、病の予備軍として、統計がとれるくらいに多くなってきたということだろう。HSPな人達と子供を襲った容疑者とは、かなりの違いはあるにしても、いずれも、われわれの社会の歪みに対する過剰な反応ではあろう。HSPな人達が、キレルことでしか自己を発現出来なくなったとしたら、それは病になる。

 それにしても、このまま行くと、みんなHSPになっちまうんじゃないだろうか。職場の同僚を見ていてもみんなどこかしら過敏だ。特に、有能である人達にだいたいHSPの傾向がある。もっとも、大学という職場は、割合と社会に適応できない人が勤められる所なので、最初からHSPな人達があつまっている場所ではあるのだが。この話題はこのまま行くとやばいので止めよう。

 とにかく、今度の事件は、かなりこたえた。身近に精神障害者がいるということもあるが、こういう事件が起こるたびにわれわれの社会の反応のレベルの低さにがっかりさせられる。われわれの社会自体に、病のメッセージを真摯に聞こうとする姿勢がないのだ。キンチョーのCMで高田渡が、生きるのが面倒だ、死ぬのも面倒だとうたっているが、面倒でもこのイヤな社会を生きざるを得ないことがイヤだ。

「本当に書きたいことはあるのか」  01.6.1
 実は、風邪は完全になおったわけではない。体の内部にくすぶっていて、時々咳が出たりだるさという形であらわれる。が、仕事をするには差し支えがないほどに体調は回復しているので、相変わらず忙しくしている。今日は、八王子で会議のあと、新宿で飲み会があって、その後都内のホテルに泊まって明日一番で名古屋の犬山に行く。口承文藝学会の大会が名古屋経済大学であるのだ。理事になっているのでいろいろと役割を果たさなくてはならない。日曜の最終で帰ってくる予定。昨日の晩は明治での研究会で「法華験記」の研究会で遅かった。こりゃ風邪はなおらんだろうな。

 この研究会で扱われた験記の話がおもしろかった巻中第百十、「肥後国の官人某」という題の話だが、朝早く出勤し夜遅くまで働いている官人が、夜仕事で呼び出されて出勤する途中、突然正気を失って山中に迷い込む。すると羅刹女が現れ、官人が乗っていた馬をむしゃむしゃと食べ官人を穴へ追い込む。すると穴から声が聞こえ、羅刹女を退散させる。さの声とは、実は、そこにかつて奉納された法華経が朽ちて散逸し、「妙」の次だけがそこに残った。その「妙」の字が、悪鬼を退け衆生を救っているということがわかる。家に戻った、官人は、出家すれば法華経の導きで浄土に往生できると告げられ、喜んで出家し往生するというものである。この話は、今昔物語にも出ている。

 「妙」の一字が、神となつて人々を救うというのもおもしろいが、なんと言っても、過労死するほど働いている官人が、突然、事故にあったように羅刹に襲われるが、法華経の一字に救われ、往生への道を用意されてしまう、というように、訳も分からずのうちに出家の道がかなえられるという出家譚になっているところが興味深かった。官人が山中に迷い込むのは、なにやら「遠野物語」を思い起こさせるが、彼が勤め人であるという点がポイントだ。

 この話の面白さは、官人が交通事故に遭うように、悪鬼に魅入られそして往生への切符を手にしてしまうという点だ。考えてみれば、これは他の人から見ればうらやましい話だろう。みんな、一生懸命修行して、善行を積んで往生への切符を手にしようと努力しているのに、この官人は、自分で努力したわけでもないのに切符を突然手にしてしまうのだ。こんなに簡単に手に入るものなのか。確かに「妙」という字の霊験は凄いとしても、助ける奴を選んだらどうだ、という声も聞こえてきそうだ。

 が、この話を、ある日、働き過ぎのサラリーマンが、出勤するとき都内に向かう通勤電車ではなくて、ふと我を失って反対方向の山へ向かう電車に乗ってしまったというように理解したらどうだろう。けっこう切実な話になってこないか。つまり、それなりに役人勤めの官人の内面が暗示されているのだ。その心の隙間に羅刹が入り込んだというように読めるのだ。たぶん、官人は、忙しい仕事の中で自分を取り戻したいと思っていたのではないか。そういう願望が山中に迷い込むきっかけになっていたのだし、往生への切符を喜んだ理由だろう。

いわゆる宮勤めの人間の内面がこの話にはあらわれているように思われてならない。その内面は今のサラリーマンとそんなに変わらないのではないか。リストラにあって僧侶の道に入る者もいると聞く。中島義直の「働くのがイヤな人のための本」もそういう人が読む哲学の本だ。出家という課題が、ただ日常の仕事をこなすそのレベルに存在するということだろう。人間を捉える幅が確実に広くなってきていることが窺える。

 私は、つい先日、ある人から、何故、あちこちにいろんな文章を書くのか、本当に書きたいことは無いのか、と質問された。けっこきつい問いだった。そのときはうまく応えられずにごまかしておいたが、はっきり言おう。本当に書きたいことなんかない。ただ、仕事として、書くことは楽しい。どんなテーマだって、好奇心を満足させてくれるし、そこに自分というものが刻印されればそれでよい、というぐらいでいつも書く。書くことにそんなに野心がないから、どこかでサラリーマンのように書いている(私は職人たと思っているのだが)。

 きっと私はこの官人とよく似ている。過労死するほど働いている。だから、ある日正気を失って山中に迷い込み、悪鬼に食べられそうになるかも知れない。そのとき、神が救ってくれるはずだ。これははかない願望だが、神が救ってくれないのに、ただ正気を失って悪鬼に食われるってあんまりにも理不尽だろう。

 そう、他力本願というのは、こういう生き方をせざるを得ない人間のためにあるのだ。最近このことがよくわかる。自力で自分を救済出来る人間なんて、あるいは、自分のやりたいことを実現しようと生きられるものなんてそんなにいやしない。人はしがらみの中で、断れない仕事を抱えて、ただ自分を酷使するように生きているということの方が多いのだ。それでも、救いはある。この験記の話はそう語っているように思えた。
出会い系サイトは「寂しさ共同体」   01.5.22
 最近、携帯の出会い系サイトがいろいろと話題になっている。要するに、ここで知り合って、殺人が起こったり、買春で判事が逮捕されたりと問題が起こっているということだ。この手の話題は得意なので、首をつっこむことにする。

 今年の東大の入試問題に使われた私の文章は、携帯を介した男女交際の話題だった。もう四・五年前話なのだが、世の中変わってないということか。携帯というコミュニケーションツールが、男女の出会いに果たした役割は、途方もなく大きい。少なくとも、携帯を介すことで、男女は見知らぬ他者との出会うための手続きに満ちた古臭い文化を捨てることができたのだ。

 見知らぬ男女が、結婚や恋愛という目的をどこかに意識しながら出会うためには、何処の社会でも文化システムか必要となる。それは、出会うためのシステムであると同時に、その出会いから危険を排除するシステムだ。例えば、私が調査している、中国雲南省白族の歌垣などは、典型的な男女の出会いの文化的システムである。歌を歌うという表現技術が要請されることで、まず、歌えない人間が排除される。歌えないのは、白族の共同体に適応しないとみなされるわけだ。歌を掛け合っても、最初から本当の名前を言わない。熱烈な恋の歌を歌っても、初対面の相手を最初から信用しない。こういう風に、徐々に相手に近づいていく、というように歌の掛け合いは進む。

 日本の見合いだって、合コンだって、初対面の相手といくら話が弾んでも、その場で自分をさらけだすようにはならないだろう。最初はまず構える、というような文化システムのなかにわれわれの男女交際は成立している。ところが、携帯コミュニケーションはこのシステムをどうやら破壊してしまった。

 メールで、見知らぬもの同士が、とにかくおしゃべりをする。他愛のない会話を交わす。たぶん、合コンで知り合って面と向かったら絶対に話さないことを、止めどなくしゃべる。携帯という道具を介すことが、人を饒舌にさせ、他者に対する警戒感を解くのだろう。が、そこに落とし穴があったというわけだ。

 この饒舌なおしゃべりはいったい何を伝えているのか。「言葉の重力」で私は、それを独り言のやりとりだと書いた。基本的には同じだと思っているが、むしろ、伝えているのは、寂しさのようなものではないかと感じる。おしゃべりな奴は寂しがり屋である。相手に距離を保ち構えてしまえば寡黙になる。人間はそういうものだ。つまり、饒舌におしゃべりすることは、自分が今淋しいということをメッセージとして相手に伝えていてる、ということなのだ。

 実は、これは重大なことだ。なぜなら、見知らぬ他者に、「淋しい」という自分の内面、別な言い方をすれば弱さを伝えていてるということになるからだ。いきなり相手の弱さを伝えられたら、たぶん悪い気はしない。すごく距離が近くなった気がする。そういう親しい関係を携帯ツールは一気に作ってしまうのだ。こういう親しさを、直に出会う男女関係で作るのは、それこそ途方もない手続きが必要で、だから、そのための文化システムが存在するのだ。が、携帯ツールは、その面倒な手続き文化を一挙に解消してくれるのだ。

 が、実は、これはかなり危ない。相手は、自分の弱さを受け止めてくれる善き人とは限らないからだ。中には、とんでもない奴がいる。あるいは、そこで作られる簡単な寂しさ共同体を利用して、自分のよこしまな欲望を実現しようとする輩がいるかも知れない。この携帯ツールの出会い系サイトを一つの文化システムだとすれば、男女を出会わせる機能はもつが、その出会いが孕む危険を排除する機能はまだ整えられていない。その意味では、まだシステムとしては未完成ということになろう。

 いきなり、寂しさ共同体を作ってしまう。それが、携帯コミュニケーションなのだ、と思う。そこには、自己を際だたせる行為ではなく、自己の弱さをさらけだして、その共同体にゆだねてしまいたい、という願望があろう。その願望はわからないではない。携帯だけの共同体なら、そんなに傷つくことはないだろうから、とみんな思っているのだろう。

 が、そんなに甘くはないのだ。携帯だけの共同体に満足出来るほど、われわれの「寂しさ」は軽いものではない。直に会いたくなる。しかし、直に会うには、この携帯ツールの出会いシステムはまだまだ未熟であり、危険である。直に出会ってはいけないのに、出会ってしまう。そこで起こること。「寂しさ」の反動として、人間の欲望を最大限に開放する合意だけが、そこでの関係となる。欲望は時に相手を容赦しない。結果、どちらかが本当に傷つく。

 見知らぬ他者に本当の名前を教えないという、歌垣のシステムはそれなりに優れている。歌が歌えないと出会えないというのも優れものだ。見知らぬ男女がお互い構えてしまって、なかなか意志を通じ合えない。だが、少しずつ分かり合っていく、という携帯コミュニケーションの反対を行く古典的出会い系もいいものじゃないかと思うのだが、どうだろうか。

評論は「芸」である。 01.5.14
風邪はまだ直らない。もうひき初めてから3週間になるだろうか。夜咳き込み、昼は体がだるいという症状がずっと続いている。これだけ続くと、風邪と共生しているという感じで、こうなったらとことんつきあってやろうじゃないか、という気になってくる。ただ、そろそろ授業を始めなくちゃいけないのがきつい。高熱でも出して入院でもすりゃあ、すっきりするのだが、普通に体は動くので始末が悪い。

風邪が直らないまま、12日にアジア民族文化学会の設立大会が何とか無事終了した。4年間この日のために準備してきたので、正直やり終えてほっとした。ほんとならここで風邪を引くところなのだが、今回はすでに風邪だった。咳き込みながら司会も何とかこなし、後は、発足した学会を軌道にのせるだけだ。それにしても、学会を一から作り上げる当事者になるなんて思ってもみなかった。こういう経験はそうあるものじゃない。そういう意味では、おもしろかった。むろん、これからが大変で、おもしろがってばかりはいられないのだが。

 昨日は、歌人中西洋子さんの歌集『草流離』の合評会が祝賀会があって、コメンテーターとして呼ばれていたので、越谷まで行った。体調は良くなかったのだが、何とか役割を果たした。久しぶりに多くの歌人たちと会えて楽しい会であった。主催は、「歌集を読む会」ということであちこちの結社の歌人たちが集まっていた。紹介があったが、ほとんど短歌の実作者たちで、私だけが実作者ではなかった。私は詩集を出してはいるが、自分を実作者だと思ったことはない。私には感傷的なところがあるので、その感傷性を言葉にのせる実験として詩を書いてはいるが、詩人として自分の詩の創作を世に問おうなどという野望は持っていない。

 考えてみれば、私はよく文章を書くが、文章を自分の「表現」として世に問おうなどという野望に欠けるところがある。たぶん研究者として、評論家としていまいちだめなそれが理由なのだろう。私はそういう野望を生むエネルギーを、学生運動と学生運動の後始末でほとんど使い切ってしまった。だから、ほとんど、力をあまり入れないで仕事をしているつもりだ。それが時に人からいろいろと批判されたりするのだろう。

 それにしてはよく書いている、と人から言われ自分でもそう思う。これは、別に世に問おうなどと言う野望で書いているのではなく、職人がひたすら自分の仕事に打ち込むようなノリで書いているだけだ。私の理想は、職人のノリで評論や研究ををやることである。会社員のノリではないし、芸術家のノリでもない。職人といっても宮大工のような人間国宝を目指すわけでもない。まあ、腕のいい職人さんですね、と、何人かの親しいお客に言われるくらいでいいのではないかと思っている。ただ、人よりはいい家を建てたいというくらい上昇志向はもっているので、それなりの努力は怠らない。

 私は評論を「芸」であると思っているとある人に語ったら、それはまずいのではいなかと批判された。確かに、まともにとれば批判される言い方だろう。確かにそれなりに屈折した言い方だ。ある時、ヘーゲルの研究者で画期的な翻訳をしている長谷川宏と話をする機会があって、ヘーゲルのあのうんざりするほどの体系へのこだわりについてどう思うか、と聞いたことがある。その時、長谷川さんは「あれはヘーゲルの芸だよ」と言った。私はこの言葉を聞いて、ヘーゲルについての認識を改め、それまでの違和感が消えた。むろん、その言葉はなかなか奥の深い言葉なのだが、単純な私は、長谷川さんの言葉の影響を受けて、私の評論は芸だと人に言っているのである。

むろん、芸はお客に喜んでもらえないと芸ではない。その点、芸の道は厳しい。が、別に、芸で身を立てるわけでもないし、そこは多少身を持ち崩しても芸で何とか糊口を凌ぐぐらいの程度、芸は身をたすくぐらいのノリでいこう。

職人も「芸」それなりに屈折した言い方である。私は素直ではない。でも職人も芸人もみんな素直ではないのだ。私は、素直ではない人とあまり付き合いたくはないのだが、自分の方ではどうも素直ではない。これはたぶん私のトラウマで、私はどこかで人間を信用していないのだ。いや人間というよりは自分なのかも知れない。それなのに人と付き合うのが好きなのは、私のやっかいなところだ。

自分はかけがえのないものなのか。  01.5.8
 連休中は、風邪でほとんど外にはでなかった。おかげで、30枚の論を一本書けたのだが、どうしたことか、連休終わりの頃になると、突然風邪が悪化し、夜咳き込むようになった。どうやら気管支炎になってしまったらしい。いままでもこういうことはあったので驚かないが、こうなると直るまでにかなり時間がかかる。それがやっかいだ。

 もうこうなったら、薬を飲んでじっとしている他はない。ひどい咳のせいで体力も消耗し、このままじゃ授業も無理だ。鬱々した気分のまま過ごさざるをえない。月光の方の連載の原稿は、ついに書けなかった。6年近く書き続けて初めて穴をあけた。こういうペースで仕事をするのもそろそろ限界かなと思う。

 連休中に書いた論は、共立の「文学・芸術」に載せるもので、締め切りはとっくに過ぎていたのだが、何とか間に合った。テーマは「境界」ということで、私は、「日本霊異記」の「よみがえり」譚を取り上げ、それとの関連で、編者景戒の見た夢について解釈をした。景戒の夢とは、死んだ当人が自分の死体の焼き方が悪いので自分で焼くのを手伝い、側の人に話しかけるが、人はその声が聞こえないので、自分が死んでいることが分かる、とい何とも不思議な夢である。

 落語の「そこつ長屋」に似た話がある。長屋の八っさんが浅草を通りかかると、人だかりがしていて、聞くと行き倒れだという。見ると隣の熊さんなので、八っさんは急いで長屋に帰り、熊さんに、おまえ浅草で行き倒れになっていたぞ、と言う。驚いた熊さんはそれはたいへんだと、行ってみると確か自分が倒れている。そこで行き倒れを背負って帰ることになるのだが、そのとき、熊さんは、背負っているこの俺は一体誰だと、八っさんに問いかけるのである。

 この話は有名で、三浦つとむの「日本語はどういう言語か」にも、想像の自分と現実の自分の二重性を示す例とし取り上げられている。むろん、景戒の夢は、それとはかなり違うのだが、死んだ自己と、死体としての自己が二重にあらわれていたりするところなどは似ている。つまり、二つの自分がそこに存在することの不思議さ、という点では同じだ。

 この二重化は、恐らく、自己という意識をかけがえのないものとして認識するからこそ起きえる、と言えるだろう。別な言い方をすれば、虚構もしくは死後の世界のなかまでも、自己というかけがえのなさを認めようとするから、二重化は起こるということだ。そうでなければ、死んだ後にすでに自己などは存在しないとか、ただ土に帰るとか、あるいは、黄泉の国があってそこへ行くだけだ、と思っているのであれば、現在の自分と死後の自分は地続きに存在しているだけで、自己が二重に存在して、そのことに不思議を感じるということはないはずだ。

 二重化というのは、今の自分と死後の自分とは全く違うという前提の上で、そのことを認められないという現在への執着が生み出すものだろう。熊さんは死んだ自分をみても最初は驚かない。世の中にはこういうことはあるくらいしか思っていない。たぶん、死後の自分と今の自分はつながっていて、ここで、熊さんは意識の中では死んだ自分と生きている自分のどちらにもなっている気分だろう。だが、背負っているこの俺は誰なのだ、と問いかけたとき、初めて、現在の自分に執着したと言えるのではないか。そのとき、熊さんの中で自分が二重に分裂したのだ。

 今の自分がかけがえのないものだと思ったとき、それ以外の自分は排除され隠される。それ以外の自分とは、家族や共同体や、自然、あるいは共同の幻想の中に溶け合っているような自分だ。自分をかけがえがないと思うことは、自分からそういうもろもろの外とのつながりによって成立する自分を消していくことだ。

 仏教という宗教は、そのようなかけがえのない自分を自覚させる強固な幻想だったろう。仏教における悟りとはそういうことだと思う。外界とのもろもろの関係を断ち切ってかけがえのないというまでに自分を純粋化させる。それが修行の目的だ。景戒もそういう修行者だったろう。

 しかし、そういう純粋化によって隠された別の自分は、消えてしまうわけではない。熊さんにの背に背負われたもう一人の熊さんのように誰の背中にも背負われているものなのだ。

 景戒が自分の死体を焼くことだけではこの二重化は成立しない。むしろ、ここでは、誰かに話しかけて、今の自分が生きている人と違う存在だと気付くことによって成立したとみるべきだ。熊さんが、自分を背負っているこの自分は誰だ、と叫んだのと同じように、死体としての自分と死後の世界にいる自分との二重化に気付いたのだ。そして、そのことは、景戒が、自分をかけがえのないものと認識していることを教えるのだ。

 このかけがえのなさとは、死んだら自分は二度と生者の世界には戻らないということであるというのが私の考えである。だから「よみがえり」幻想があれば、このようなかけがえのなさは生まれない。「日本霊異記」は「よみがえり」の世界を多く描いたが、編纂社、景戒は、「よみがえり」のない世界を生きようとしたのだ。

 「よみがえり」幻想が、民俗宗教の側であるとすれば、景戒の夢みた自分の二重化は、普遍的な宗教の側に属すだろう。普遍的な宗教とは、人間という存在をかけがえのないものとして普遍的にとらえかえすからだ。ただし、それにしては、景戒の夢は何とも中途半端である。人間を普遍的にとらえかえすその端緒でただ戸惑っているだけで終わっているからだ。

案外、この日本では、普遍的に人間をとらえかえすのが難しいということを物語っているのかも知れない。

 今、日本では、「人を殺すのは何故悪いのか」という問いが流行っていて、みんなきちんと答えられないで苦しんでいる。これは、日本人が、自分という存在がかけがえのないものだという認識を中途半端にもってしまった結果だと思っている。きちんと持っていれば、あるいは、持っていなければ、こういう問いは出てこない。

 自分という「人間」がかけがえがないなんていうことに根拠があるわけではない。だが、そう思わなければ、自分が自分に執着して生きる理由が見あたらない。この理由を正当化しようとして、宗教や哲学が動員される。それらは、まさに、われわれに自分の生は「よみがえらない」一回だけの生であることを強調する。

 今起きている問題は、こういうかけがえのなさという理由付づけに不安を感じ始めた、ということだろう。われわれはどこかで、「よみがえる」ような世界を捨てきれていないのかも知れない。いや、かけがえのなさという理由付けがあるにもかかわらずこんなにも人がたくさん理不尽に死んでいくことに、耐えきれなくなっているのだろう。

 別に、今度の論はこんなことを書いたわけではありません。念のため。ただ、咳き込む最悪の体調のなかで、自分は何故自分に執着するのだろうと、ふと考えてみてしまったのがきっかけです。病になると、人は、突然、宗教者のように自分の生きることのかけがえのなさに疑問を感じるもののようです。体調が良くなれば、こんなことを考えもしなくなるでしょう。

「病系」の歌い手たち
  01.4.27
 風邪を引いてしまった。連休はたぶん寝ているだろう。いつものことだ。しかし、連休中に二本原稿を書かなきゃいけない。これもいつものことだ。

 今日、東京大学から入試問題を送ってきた。今年の前期の国語の入試問題に私の文章が出題されていた。知らなかった。「言葉の重力」から、「独り言の詩形」という文の一部が出題された。このホームページの批評コーナーに出ている文章である。私は予備校で何年か教えていたから、東大の国語の問題に使われるということの意味がよくわかっている。自分で言うのもなんだが、これはけっこうすごいことだ。私大の入試問題に使われたのとは訳がちがう。

 予備校では東大の国語の出題を当てると、ん百万円の報奨金がもらえる。だから、全国の予備校講師は、必死になって予測する。けっこう当てるやつがいるから驚く。しかし、今度ばかり当たらなかったろう。私の本など誰も知らないだろうから。それに作者探しも悩むだろう。このホームページを偶然にも読んだ人は幸運である。国語問題の四番の出題の文章の著者は私です。

それにしても、出題の問題は記述式の問題だから、解答する自信はなかった。自分は東大に入れないことを改めて知った。たぶん、今年出るほとんどの参考書が私の文章をあれこれと批評して、いろんなことを言うのだろう。東大はこんな文章をどうして出題したのか、などと書く奴もいるかも知れない。まあ、楽しみだ。

 最近授業で、最近の歌い手達の話をしている。先週、Cocoのことを書いたが、それに関連して、Cocoや椎名林檎を病系と呼び、宇多田ヒカルや浜崎あゆみを孤独系と呼んでいること、何故若い男の歌い手には病系が出てこないのか、などと話している。病系は、自分の無意識が抱え込んだ病根を直視して言葉にする度胸のようなものがあるが、男にはそこまでは耐えられないのではないか。実は、この問題は、日本のシャーマンに何故女性が多いのか、ということの話の枕として使っている。

 男の歌は孤独で傷ついた心を元気づけるようなものばかりだ。女にもてたい下心があるからだという辛辣な指摘もあったが、どこかで社会的に生きようとすることを排除しきれないという気がする。尾崎豊のあの傷だらけの自分の歌も、どこかで、その傷の原因を社会の何かに求めようとするところがないではない。言い換えれば抗しようとする対象をまだ失ってはしない。

 Cocoの歌や椎名林檎の歌などは、社会で生きることの問題などどこかへ吹っ飛んでいる。そこが病系のかっこよさだ。しかし、そのかっこよさには、相当の負担があるのだろうということを想像させる。シャーマンが巫病にかかってシャーマンになるしかないように、この歌い手達は、歌い手になるしかなかったのではないか、と思わせる。ただ、自分と自分の神とだけ向き合っていて、結果として他人を救うのだ。

 この一週間に読んだ本は、吉本ばななの「ハチ公の最後の恋人」である。新興宗教の教祖の孫で霊力を持つ女の子と、修行僧みたいな男の子との恋愛の話だが、雰囲気は病系だ。登場人物たちはみな若いのにみんな死を見つめている。やっぱり、こういう病系の小説が今は旬だと思う。

 この社会のただなかを生きることの一つの決意は、社会性を排除してしまうこと。ここまで追い込んであるいは追い込まれて見える世界。それをCocoも林檎もバナナも描いている気がする。男は社会性を排除出来ない。男というジェンダーのつけがこういう形でまわってきたのだろう。社会的に生きることを男は男そのものとしてシンボライズ化してきたからだ。

 前回の時評で「働くことがイヤな人のための本」を取り上げたが、結局、これも男の本だという気はする。働くとか働かないとかそういう次元で生きられないものの問題が抜け落ちているのは、働くという社会性を排除出来ないことによる、働くか働かないかという2項対立的発想だ。

 最近、社会性を徹底して排除する生き方に共感しかかっている。社会的に生きようとして社会から排除されるナイーブさよりも、どうせうまくいかないんだから、社会なんかどうでもいいやというように自分に立てこもってしまう強靱さの方が、結果的には、社会にとってもいいのじゃないかと思うのだ。そういう強靱さを、今、女性の方が持っているのは確かである。
 
「働くことがイヤな人のための本」の憂鬱 01.4.20
 今日、TVのミュージックステーションで、活動休止宣言をしたCoCoが出演。番組の最後に歌ってそのまま消えていった。なんかじいーんときたなあ。しゃべりの極度な病的不安定さと、あの歌の強さ。歌を歌う以外にこの人は生きていけないんじゃないかと思う。休止宣言は残念。

 授業が始まって、忙しい。明日は、口承文藝学会の例会が共立で行われその準備やら、5月12日のアジア民族文化学会設立大会の準備やら、それに原稿があるわ会議があるわで今週は疲れた。毎日栄養剤を飲んで何とか頑張った。明治二部の文芸研究の授業は、文学発生論の研究をテーマに、折口やら時枝やら吉本やらを読んでいこうとけっこう意気込んだ授業だったが、蓋を開けてみたら6人しかいなかった。うーん、ちょっとテーマが難しかったかなあ。でも、この6人と楽しくやっていこう。どなたか、出たい方がいたら歓迎します。火曜日、7時5分から8時半まで、リバティタワーの1144(14階)て゜やってます。

 忙しくても、本は読む。本屋で中島義直の「働くことがイヤな人のための本」(日本経済新聞社)を、題名に惹かれてつい買ってしまった。けっこう売れている本らしい。私も働くのがイヤなんだ。そう思っている奴がやっぱり買うんだろうな。しかし、この本読んでも救われないよ。読んで損はしなかったが、あまり学ぶところはなかった。共感するところはあつたけど。

 人はほとんど自分の人生の意味を考えている。まあ、その割合をどの程度に置くかは難しいにしても、そういう面倒な人間は私を含めて多くなっているのは確かだ。この本はそういう面倒な人間に向けて書かれた本だ。つまり、人間は何故仕事をしなくてはならないのか、という答えのない哲学的問いを真剣に問うてしまうような頭が少し変な人に向けたものだ。だから、単純に働くのがイヤな人に向けられたものではない。そこのところを誤解してはいけない。

 私はその変な人間の部類に入るのでこの本を最後まで読むことはできた。でも、この本の結論には満足していない。結論は、在家の出家になれ、というようなものだからだ。つまり、こうだ。この世は、あるいは人間の生というものは、理不尽そのものだ。まずその理不尽さを徹底して受け入れろ。それをごまかすような生きる意味を簡単に見いだしてはならない。例えば自分の人生は満足のいくものだったなどというのは、この理不尽さを直視したくない逃げにすぎない、とまでいう。

 この理不尽な生を引き受けてそして死んでいくのが人間だとするなら、徹底して、その理不尽さを生きる意味を考え抜くことこ以外に、生きる意味はないというのだ。全ての基準はそこにあるから、仕事がいやになるのは当たり前で、そこそこに食べられる程度に仕事をして生きる意味を問い続ける生活をつづけるしかない、と言う。著者は、無用塾という哲学の私塾を作って、ただ哲学することのために生きている人達を集めて、自分の考えを実践しているらしい。

 出家しろと言ってしまっては宗教になる。出家した後の世界を保証しなければならなくなる。が、この本の言っているのは、答えのないような生きる意味をただ考えて生きろと言っているだけだから、救われるなどという保証のない在家出家を説いていると言っていいだろう。親鸞の言葉が随所にでてくるのも頷ける。こういう、徹底した生き方を説かれると私は引いてしまう。かなわんなあ、と思う。ここまで追いつめないとだめなのかと思う。私は哲学的な性癖を持つが哲学者になれないと思う所以だ。だが、共感はする。次のような言葉はこの本の一番いいたいところだろう。

 ―世間的な仕事において何もなしとげなかったからこそ、死ぬ間ぎわに「俺(私)の人生は何だったのか」と真剣に問いつづけることができるのだ。これは、生きてそして死ぬこと、この単純な不条理をごまかしなく見ることが出来る立場に置かれることであり、一つの恵みである。彼(彼女)がみずからの人生を振り返って、何の満足も覚えず、よってなんの執着も覚えないと心底確信して死ぬとしたら、それは救いである。―

 いやあ、これは宗教の言葉だ。人生で何か為し遂げてしまうのは実はマイナスなのだと言っているのだ。確かにここだけ読めば救いだろうなあ。親鸞の教えが、悪人正機説として流布し、救われたと思ったものが多かったように。確かに、何も為し遂げないで死を迎えることが恵みだと言うのは助かる気がする。だが、それを恵みに変えることの大変さがここではあまり強調されていない。

 著者は、自分が何者でもないという絶望的な劣等感を克服した体験を持つ。その体験とはこの世は理不尽だと居直ることだった、著者の哲学はその居直りから出発する。それはそれで共感するが、普通居直れないだろう。著者は引きこもりだったと言うが、どうもたいしたひきこもりではなかったようだ。著者が考えるより著者は強靱な精神の持ち主だつたように思われる。

 確かにマイナスはプラスだと言っているその主張に共感はする。が、プラスにするにはあまりに強靱な精神力が求められている。結局、人間の弱さを最後はみとめないのだ、この人は。ぶつぶつ言いながら野たれ死んでいく人はやっぱりマイナスを恵みに変えられないで死んでいくんだろうなあ。どちらかというと私はこっちのほうだ。理不尽さを直視するのではなくて、理不尽さのただ中を翻弄されて生きていくほうだ。私みたいなものを哲学は救うのだろうか。この本を読んで私は少しばかり憂鬱になるしかなかった。

「新しい歴史教科書を作る会」のイロニー 01.4.9
 最近、「新しい歴史教科書をつくる会」の教科書が話題になっている。左翼史観に毒された自虐史観を廃すという主張によって作られた教科書である。中身はよく知らないが、報道などで知り得た範囲では、特に戦争に関しては、従来とは違って、日本の戦争を世界的なパワーバランスのなかで仕方がなかったというような意図に貫かれて、韓国や中国に対する一方的な侵略という見方をとっていない。それが、韓国や中国から批判されている。

 私自身は、この教科書を作る会の連中はみんなどこかうさんくさくて、この人達の言うことは、左翼史観に凝り固まった連中よりも信用できないと思っている。うさんくさいと思うのは、その言説が 徹底して政治的であることで、建前では、客観性や民主的であれと主張してイデオロギー批判をするが、やっていることは、地方議会や教育委員会に圧力をかけて教科書を採択させようとしているのでもわかるように、権力依存型である。

 反戦イデオロギーも権力志向だが、権力をとれない位置にいるだけましである。ただ、新しい歴史教科書を作る会だって権力に近いわけではない。むしろ、この手の連中は、権力に近づけばたぶんに平気で言説を変える日和見だろうと思っている。だから、検定の修正に従ったのだろう。

 自民党のタカ派政治家を見ればわかるが、普段は右翼的な主張をしていても、大臣などの椅子に座れば平和主義者になる。社会党が政権について自衛隊を肯定したように、日本の右翼も権力に近づけば隣国に建前では頭をさげる平和主義者になる。右翼的な主張であれ、左翼的な主張であれ、日本の右翼も左翼も、アメリカや中国韓国と本当に喧嘩をしてまで主張を貫けはしない。石原慎太郎だってそうだ。

 だから、こういう教科書がでてきたからといってそんなに心配はしていない。例えば、彼等が主張するように韓国併合が、当時の大国の植民地化の動きに巻き込まれただけだとして、韓国併合を仕方がなかったとするなら、その論理は、この教科書にも当然はね返ってくる。この教科書が近隣諸国と日本との関係の悪化をもたらすことで日本を不利益にするなら、この教科書が消えても仕方がないという論理を、この人達は受け入れざるをえないだろう。

 歴史が世界の動きの中で作られるというその理解は当然、自分たち主張もまたその動きの中で作られるということでもある。むろん、彼等はそれを認めないだろう。なぜなら、こういうある絶対的なものの見方を相対化するような主張は、彼等の譲れない立場ではなくて、仮想敵の弱点を付くだけの論理でしかないからである。その意味で、彼等は、学問的な批判の論理性を政治的に使っている。別の言い方をすれば、その相対化の視点が自らに及ぶなどということはいっさい無視して使っている。そこがうさんくさいのである。

 こういううさくささはすぐに底が割れる。日本のイデオロギーがほとんど現実の変革に効力を持たなかったのも、このようにうさんくささがあったからだ。日本の左翼をかれらは批判しているつもりだが、実際は、日本の左翼の悪いところをほとんど継承しているのだ。だから心配はしていない。いまさら、教育勅語を教科書に載せたところで、グローバル化した厳しい競争社会中に出て行かざるを得ず、そこで孤立し傷つく子供達にどんな力を与えられるというのか。

 西尾幹二は4月4日の朝日新聞に「めざしたのは常識の確立」と題する文を投稿している。つまり、いままでの左翼史観の教科書はあまりに常識がなさすぎたから、常識的な教科書を作ったに過ぎないというものである。それはそれでたいへん説得力のある文章である。それは徹底した相対化を意図する客観的な体裁で書かれているからだ。むろん、その批判の意図が果たして自分たちの作った教科書に向けられたら。自分たちの教科書はその批判に耐えられるのか、そういう視点は全くない。

 気付かないのではなく、そういう視点を持ち込んだら都合が悪くなることをおそらくは知っているからだろう。その程度には西尾幹二は頭がいいはずだ。徹底した相対化の論理を、仮想敵に対して向けて自分には向けない。実は、こういう政治性は、柄谷行人も使っていることを福田和也が指摘していたが、今流行のカルスタの連中だってそうだ。

 この朝日新聞の文章こ西尾幹二はこう書いている。

 「日本語は中国語から文字を借りたが、それに先立つ何千年かの言語の歴史が想定される文のない長い時代に、口承文学が存在し、神話が語り継がれた。私たちは日本語の起源に関する現代言語学の推理にも触れ、縄文土偶がこわされて出土する不思議さから、太平洋南方に由来する民族神話をも考慮に入れる。神話を尊重すると、たちまち皇国史観だというようなばかなことを言う非知性的態度こそ、恥ずべき愚妹である。」

 最後の文章を除いては、ほとんど同意する。が、最後の文で主観的になってしまった。いまどき、神話を教材にしたら皇国史観だなどと本気で言う奴は、ほとんどいない。いても、たいしたことはない。西尾幹二は「イデオロギーに囚われた従来のいっさいの単調な歴史に反対するものである」とも書く。この言い方はなんと単調なんだろう。今の時代ほど、いろんな歴史観が出てきて、むしろ混乱している時代はないと言うべきだ。仮想敵が、卑小すぎるのである。あるいは、自分の都合のいい仮想敵を作って、単調な自己主張をしているだけなのでは、と思わざるを得ない。

 特定のイデオロギーがこの日本の社会に深刻な影響力を持っているなどと本当に信じているとしたらお笑いだ。信じていないのにこういうことを書くとしたら、それをデマゴギーという。つまりうさんくさいのだ。別の意図を持つ文章なのだ。この西尾幹二の文章は。ただ、こういう文章は、同じように、徹底してイデオロギーの歴史性を相対化する立場のカルスタの連中には衝撃をもたらすだろう。なぜなら、カルスタと同じやり方でカルスタの嫌いな右翼的な主張を保護してしまうからだ。そういうように考えれば、「新しい歴史教科書を作る会」の活動は、われわれの知にとってイロニーである。

帰農者の悲哀  01.3.30
 今日、アジア民族文化学会の打ち合わせがあり、何人かが集まった。5月12日(土)に設立大会があり、その準備に今おわれている。私は、事務局としていろいろと動かざるをえない。現在、申し込んでいただいた会員が185名。まだ、先の見えない学会なのに、これだけの人が申し込んでくれたのは、ある意味で、重い責任を感じる。

 年会費を4千円戴くのであるから、なんとか成功させなくてはいけない。不安はあるが、ただ、新しい何かをこれから立ち上げていくという充実感はある。なるべく多くの人と交流できる場になれば楽しいだろうな、と思っている。特に、韓国、中国、や東南アジアの留学生との交流を目指したいとは思っている。打ち合わせの終わった夕刻、千鳥が淵の桜並木の下を歩いてささやかな花見をした。

 相変わらず、書かなきゃならない原稿が山積している。森話社から、「シャーマニズム文化学」の校正原稿が送られてきた。この校正にけっこう手間取っている。「古代文学会叢書」の原稿もほぼ書き上げた。これがだいたい70枚。中西洋子さんの歌集「草流離」の書評を何とか書き上げた。4月の始めには勤め先の雑誌に載せると約束した論を書かなきゃいけない。勤め先でも何とか委員会の委員になっていて、会議に出なきゃいけない。そんなこんなで、春休みはなし。今年はスキーにも行けなかった。

 こういう時は、電車の中などで、なるべく仕事と関係のない本を読む。たまたま週刊誌の書評で目にとまった、田澤拓也著「脱サラ帰農者たち」(文藝春秋社)という本を買って読んだ。中高年で脱サラし、農業を始めた人達23人にノンフィクションライターがインタビューしたものをまとめた本である。私は、茅野に山小屋があり、時々行く、茅野には、都会を離れて山小屋暮らしをしていたり、定住している人達もけっこういる。例えばそういう人達の暮らしぶりは「田舎暮らしの本」とかに紹介されていて、都会人の夢を実現したかのように描かれている。

 が、この本の面白さは、決してそういう書き方になっていないことだ。どちらかと言えば、読後感はやや悲しくなるほどの本だ。ここで扱われている帰農者はほとんど団塊の世代である。何故、帰農者になったのか、理由はほとんど同じである。要するに、自分のアイデンティティを都市社会の中で見いだせなかったからである。農業が儲かるからといって農業に転じた人はほとんどいない。日本の農業政策や、グローバル化が、農業を斜陽化させていったその時代の流れの中で、農業にあえて転じる根拠は、経済的なものであるはずはない。つまり、経済性を度外視した、精神的な理由になる。

 とすれば、帰農者の精神世界とその行動は、団塊世代の精神構造を象徴しているだろう。厳しい競争の中で頑張ったが、そのことに疲れ果て、経済性よりも精神性を優先する生き方の中に、自分の再生を賭けようとする。それがうまく行けばいいのだが、経済性を無視して精神的な充実が得られるほど世の中甘くない。結果的に挫折を味わうということも多い。そうして、ただただ生活のために生きていくことの中に何とか精神性をとどめようと努力している。だいたいこんなところだ、団塊の世代の精神の物語は。私もそうだ。

 ほとんどの帰農者は年収をかつての半分か三分の一に減らして頑張っている。頑張る根拠は、自分は好きなことをしている、自然を相手にすることはサラリーマンをやるよりはいい、というものだ。成功している人達は、かなりの貯えがあって、農業を趣味でやっているか、農業に徹底した合理主義を持ち込んで、経済性を優先させた生活を送ろうとする人達だ。こういう人はかなり計画的で、結局、都市社会でも、農業でも、成功する人は成功するんだな、ということがわかる。

 都会がいやで自然と親しむ生活がしたいと漠然と決意して、たいした計画も立てずに農業を始めた人はだいたい苦労している。自然と親しむのも都市社会の合理主義から逃げるにも、結局計画性と合理主義が必要だという厳しい現実をこの本は伝えている。それが少し悲しい。結局、この本の哀しさは、帰農者の生活がうまくいっていないということにつきる。従って、彼等の脱サラの夢や、この生活に満足している、という言葉が、現実を耐えるためのいいわけに聞こえてしまうことにある。

 生活を楽しんでいるのも、自然と接して生きていることに充実を感じていることも恐らく本当なのだろう。この本を読んでいいわけに聞こえるのは、たぶんに、著者の誘導がある。が、それは著者がそう聞き取ったからに違いない。彼等は明るく自分を語らなかったのは確かなようだ。

 われわれは自然に生かされている。そうかんがえれば、農業は楽しい。しかし、生かされているならば、殺されているという言い方も成り立つ。こっちで考えれば農業は悲しいのだ。生きるためには最低の経済的基盤が必要だ。その基盤を得ることが難しいから日本農業は潰れかかっているのだ。それを理解するならば、安易に帰農すべきではないだろう。

 精神性として考えるなら、農業を文化として楽しむ方がいい。家庭菜園の延長でじゅうぶんではないか。農業によって、経済性より精神性を優先させたいのなら、農業の生産性の低い、アジアの貧しい国にいってボランティアをするべきだ。結局、精神性の充実性は、他者の評価によって得るのが一番確かだ。それにはボランティアがいい。日本の帰農者の悲哀は、自分を評価してくれるその他者がいないということにある。だから、彼等は明るくないのだろう。

 私は、徹底して、余裕の範囲で、趣味として自然に親しもうと思っている。だから、余裕がなければやらない。

ホームページ開設一周年  01.3.19
 このホームページを開設してから、一年がたった。アクセスも1万1千を越え、けっこうみんなに見てもらっている。この時評も相変わらず続けている。その時々の関心事や、研究テーマなどをただ書き連ねるだけなのだが、まあ、読んでくれる人がいるので、ありがたいと思っている。

 この時評は私的な文章だが、インターネットの良さは、私的なものが公開されることだ。インターネットは、私的なものが公開されることへの気後れや構えや恥ずかしさといったものを払拭した。これが、インターネットのすごさなのだろうと思う。「言葉の重力」という本で、私は、携帯が流行る現象を、独り言を共有しあう光景であると論じたことがある。それは、インターネットのこういう文章も同じであるだろう。

 独り言のような文章が、電脳空間に飛び交い、全世界のひとに読まれ得る可能性を持つ。そして、だれかが確実にその独り言を読んでいる。いつのまにか、その誰かとの独り言を共有しあう関係が生まれる。これは、たぶんに、おおげさに言えば人類にとって新しい関係の始まりなのだと思う。

 が、この関係の問題は、いくら電脳空間で、人と人とが関係を結んでも、その関係自体が、その人の独り言を増殖することはあれ、独り言を無用にする関係へと発展していかないことだ。理由は簡単で、インターネットで発信しなければ、つまり、黙ってしまえば、その関係はすぐに終わってしまうからだ。言い換えれば、独り言でもいいから、人に向かって発信するというそれなりの能動性が、この関係を支えているということである。

 誰かが発信しなければ、この電脳空間の関係は成立しない。その発信とは、結局、一つの面倒な社会参加にともなうコストや面倒臭さを覚悟することである。現代を生きる条件は、どんなにコストを払っても、独り言を共有出来る関係を求めるということである。今は携帯のメールの時代で、テレビで、ケータイ取り上げられた女子高校生の一日を追いかけていた。その女子高校生は、ついに我慢できずに途中で泣き出してしまった。誰からもメールが来ない状態の孤立感に耐えられなくなったのだという。

 このことによってわかったことは、電脳空間は、人が自分を孤独だと感じるためのハードルをかなり低くする、ということだ。携帯を一日持たないだけで泣き出してしまうこの安直な孤独感をわれわれは笑えない。映画ブレードランナーの原作「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」の世界では、レプリカの動物を人はペットとして愛玩している。レプリカとレプリカでない存在との境界の曖昧なこの世界の物語では、人は、レプリカを愛しレプリカを畏れる。孤独感へのハードルそのものが消失した世界では、人はモノに愛情を抱く。

 ロボットのペットが売れる現代は、すでに「ブレードランナー」の世界に近づいたと言えるのかも知れない。とにかく、積極的に生きようとすればするほど、どうしようもなく、孤独感へのハードルは低くなり、人との関係は希薄になる。それがいやで積極的に生きることを止めて黙ってしまえば、引きこもりとか言われて、社会的な後ろめたさを感じてしまう。

 この生きにくさをどうしたら突破出来るのだろう。私は、この時評で、いつもこのことを語って来たように思っている。

内面は研究できないのだろうか。 01.3.7
 3月の古代文学会の例会の発表は、Y氏の発表で、準備不足もあってか、質疑応答の際にかなり批判された。かつては、かなりきつい批判の出た例会ではあったが、最近、あまりこういう批判が出なかったので、久しぶりに緊張した例会となった。ただ、私は、批判というよりは、むしろ、自分の関心だけに引きつけた発言で、むしろ助け船を出す形になった。

 どうも、こういう場で、きつく批判するということが得意ではない。内容にかかわる批判はするが、その姿勢を含めて問いただすような批判が出来ないのは、たぶんに、自分の問題意識以外の事柄については、どうでもいいことだと思っているからだろう。さらに、私には、例えば、古代文学会という公的な立場にたって、その立場にとっての是非というようには判断が働かないのだ。つまり、私的な関心事だけを優先してこういう場に出ているので、こういう発表は失礼だなどとどうも言えない。批判されていると、どうやっていいところを探そうかなどと考えてしまうのは、天の邪鬼の心のせいだ。まあ、たぶん、いつか私もそのいい加減な姿勢を批判されることになるだろうなあ、などとつい考えてしまった例会ではあった。

 発表は天武天皇は壬申の乱を謀反としてとらえているのではないか、ということが出発点で、その後ろめたさが古事記という書物の成立に関係しているというものだった。確かに思いつきを並べたというような展開で説得力はなかったが、その説得力のなさは、結局、歴史的な事を扱うのではなく、どちらかという、天武の内面の問題を語ろうとしたことに原因があったように思えた。批判は、天武個人への主観的な感想を述べられたら、それについて研究者は何も言えない、だからそういう発表はだめだという痛烈なものであった。

 その通りだとは思う。批判されても仕方がない発表ではあったが、ただ、私の個人的関心にひっかかった問題としては、内面というのは研究対象にならないのだろうか、という疑問であった。天皇を公的な存在と見なせば、その公的な存在を主体にした記述は、確かに、それなりに普遍的なものであって、それは、普遍的な王の神話化の問題として客観性を帯びた説明が可能だ。天武個人の内面など誰にも見えないのだから、それを根拠に、古事記の成立やその序の記述を考えたって不毛なだけだ。というのも、確かにそうだ。

 だが、最近、そういう公的なレベルに思考の水準を設定してものを考えていくことに少し飽き飽きしてきた。天武だって内面はある。ただ見えないだけだ。天皇だとか、大宮人とか、官人とか、そういう公的なレベルでの主体を設定して、そこで表現を整理するやり方に魅力を感じなくなってきたのは、古代社会における個を見る方法がそろそろ考えられてもいいのではないかと思うようになったからだ。

 現場論だってそういう思いがかなりあつたのだろうと推測する。現場論は、個の内面に入り込む一つの方法だったのだろうと思う。個の内面を見ようとすることが近代的なものの見方だと言われてだいぶ経つ。そろそろこの言い方も色あせてきた。ただ、だからといって、個の内面を簡単に見ることが出来る、というわけではないことは承知している。が、それを見る方法をそろそろ模索するべきじゃないかという気はする。むろん、内面は他と無関係に独立してあるわけではない。無意識と向き合い、生活の中での利害がからみ、理想があり、欲望がある。それ自体意味づけられないもののたとえかも知れない。

 例えば、ある歌人を公的な存在として理解すれば、その歌の表現の理解は簡単だ。だが、よくわからない個の内面を介在させると、理解は難しい。今、求められている内面の理解とは、それ自身よくわからない錯綜した世界と向き合うということだ。そういう見方も、近代的だとするなら、たぶん、今のわれわれの内面がそうなっているからだろう。でも、それはそれでおもしろいではないか。凶行に走る17歳のわけのわからない内面を古代に見つける、というのも悪くはない気がする。
 
引きこもる人の言語論   01.2.28 
 ようやく、古代文学叢書の原稿を書き始めた。他の執筆者のみなさん遅くて申し訳ありません。でも私は書き出すと早いので、うかうかしていると私の方が脱稿は早いですよ。

 最近の私のテーマは、ずばり、自閉的であることだ。もともと、『言葉の重力』では、地上性ということを一つのモティーフにした。つまり、俯瞰的な位置にたたずにどうやって他者と分かり合えるかというのがテーマであったつもりだ。このモティーフは私の中で一貫していて、今度の原稿のテーマもそれの延長にある。

 地上的な位置にいるというのは、生活者の位置というようにも言えるが、別な見方をすれば、他者とうまくつきあえずにやや引きこもりがちな位置であるとも言える。今回私は、文学の言葉の発生論が論じられるその根拠を問題にした。結論はすごく簡単で、われわれが依拠してきた発生論は、だいたいが、引きこもり的な心のありかたが生み出したものではないのかということだ。

 引きこもりがちな人間にとって、他者に自分の言葉を届かせることが常に心的な負担になる。だが、その負担を自分の中で価値として評価し直すことができれば、その人の生き方はかなり変わる。例えば、そういう生き方の代表を文学的な表現を志す生き方ととらえていいだろう。

 そういうタイプの人間にとって、文学の言葉の発生を論じることは、どこかで、言葉を他者に届かせられないでいる自分の心の構造を、文学の言葉の発生の問題として重ねてしまうところがある。例えばそのわかりやすい例は、吉本隆明の「言語にとって美とは何か」である。吉本は、この本で、古代人が海を見て、単なる意識の反射としてでなく、意識のさわりのようなものを感じ取って、ウミと発音したなら、すでにそこには自己表出がある、と論じた。つまり、このウミは、対象としての海と同時に発声者の意識のさわりもまた表出された言葉なのだ。

 この意識のさわりとは何だろう。例えば、これを、他者にうまく自分を伝えられない齟齬のあらわれ、と解せないか。意識のさわりが生まれたということは、たぶんに伝わらないことを承知で伝えたい何かを抱え込んだ、ということではないか。言い換えれば、人間が他者とうまくつきあえずに引きこもった時に、意識のさわりが生まれたとも言える。単純な言い方をすれば、人間と動物の違いは、引きこもるかどうかの違いということにもなる。人間の進化は、引きこもることから始まった(本当かいな)。

 吉本が引きこもりを否定していないのは、一番新しい朝日新聞の時評コラムで、引きこもる若者にもっと徹底して引きこもれとアドバイスしていたのにも窺える。文学者なんてみんな引きこもっていたのだ、とも書いていた。当然、吉本自身も引きこもり的なのだ。

 折口信夫の発生論だって実は似たところがある。折口は、本当の自分の言葉は他者に伝わらないと信じ込んでいた。折口の発生論を文学理論にまで高めた古橋信孝だって、他者にうまく伝えられない言葉を抱えこんでいる人だというのはつきあってみてすぐわかる。実は、この私もそうである。つまりだ、文学の発生にかかわる言語研究は、他者にうまく伝わらない言葉をかかえこんだ人達がリードしてきたのだ(むろん、私はそこに入っていないが)。この現象をどう考えるのか。これは、ただ個人的な問題に過ぎないのだろうか。いや、われわれの日本語の問題にまで普遍化できるのだろうか。実は、今、そんなことを考えている最中なのです。

能動的でないから文化なのだ  01.2.18
 前々回、前回の時評で、能動的か能動的でないか、というような区別で、人間の生き方の価値をさだめるような言い方をしたが、ややおおざっぱな使い方であったと反省している。考えてみれば、人間が生きるということそのものは能動的であるとも言えるわけで、赤ちゃんも、病人も、障害者も、老人もみんな能動的に生きている。能動的に生きなければ死んでしまう。そこまで、広げてしまえば、能動性とは実に広すぎる概念だ。

 が、ここで意味させようとしているのは、ある社会的な条件のもとで強いられるように能動的に生きざるをえないような、そのような能動性である。それは、能動性ではないという見方もあるだろうが、人間というのは、強いられた条件を主体的な条件に転換させてしまう存在である。受験勉強に嬉々として能動的である奴がかならずいるが、だいたい、強いられた能動性を自分の選んだ能動性だとうまく転換させた奴だ。

 それは障害を負ってもその条件に負けずに能動的に生きる人の能動性とは違う。能動性それ自体が能動性の目的でしかない連中の、能動性なのだ。だから、こういう能動性は常に過剰である。何のために能動的でなければならないのか、そういう根拠を問うこと自体を喪失した奴の能動性だと言い換えてもいい。

 資本主義社会は、こういう過剰な能動性によって支えられてきた。われわれは、どこかで、このような能動性そのものをわれわれの優れた文化であると、近代以降思いこんできた。が、本当にそうなんだろうか。

 もう一度能動性という概念を広げて考えてみる。例えば、野生動物は、まさに能動的な存在だ。能動的であることを止めればすぐに死んでしまう。ライオンだって、足に小さな棘がささりそれが原因で獲物が捕れなくなれば死ぬ。能動性とは、野生動物にとって生きるための最低の条件なのだ。そう考えた場合、実は、能動性というのは、生の本能であり、自然の摂理のようなものでもあることがわかる。

 資本主義社会の過剰な能動性だって、そういうように考えれば、能動的に生きなければ死ぬしかない人間の生の摂理をいわばシステム化したものに過ぎないのだ。だから、これを文化と呼ぶにはやや抵抗がある。

 出典を忘れたが、縄文時代の人間の遺骨に小児麻痺にかかっていた成人の遺骨があったという報告を読んだ事を覚えている。その報告では、この成人は、たぶん大人になるまで介護されていたろうというのだ。この報告に妙に感動した記憶がある。狩猟採集(最近では農耕もおこなわれていたらしいことがわかってきたが)という、まさに、能動的で無くてはすぐに死に結びつく社会で、小児麻痺の人間を育てる精神的な余裕があったということに驚いた。これは、縄文の優れた文化であると言ってもいい。三内丸山遺跡のように、巨大の建造物だけが文化なのではない。大きな建造物を建てようとか、生産物を増産しようとか、大きな国を作ろうとか、いうのは、とてもわかりやすい能動性(欲望と言ってもいいが)の発露であり、文化としてはたいしたことはない。

 むしろ、そういう欲望の発露の障害になる、諸々の事態、例えば、病気とか、障害を負うこととか、そういう能動的ではない事態に、いかに排除しないかたちでそういう人達を受け入れていくかということ、のほうに品の高い文化がある。つまり、品のある文化というのは、能動的でないようなところにあるのだ。

 そういうように考えれば、家族や共同体は文化である。過剰な能動性の対極にあって、能動的でないものを許容する場所であるからだ。個人主義は自然の摂理(野生動物的能動性)に近い。過剰な能動性の側で生きる価値観である。そういう個人の能動的競争によって、現代が生み出したインターネットも、超高速の乗り物も、巨大な建造物も、三内丸山遺跡の高楼の柱跡のようなものでしかない。そんな文化などたかが知れているのだ。だが、小児麻痺の子を大人になるまできちんと面倒見ることのほうに豊かな文化がある。とすれば、現代だって、数千年後に今の時代を調査発掘すれば、能動的でない人間の生がどのように許容されていたか、そのことによって文化の価値が図られる、ということもあり得る。とすれば、われわれの社会が、豊かな文化を持つ社会なのか、おのずと答えは出るであろう。

 ことわっておくが、家族や共同体の復権を願望しているわけではない。人間は野生動物のようには能動的に生きられない、ということを強調したいだけだ。能動的でなければ死ぬしかないという厳しさにわれわれは耐えられない。われわれは、十分に弱く欠陥だらけである。そういう負性を非能動性と呼ぶなら、そういう負性を排除しない居場所や営みを文化として作ってきたのではないか。例えば、家族をそういう文化の一つと見る見方があってもいい。

 そういうように考えれば、何も、現代のテクノロジーの競争に別に追随する必要はない。そこでの文化の価値などたいしたことはない。むしろ、われわれが抱え込んだ非能動性を、どうやって、人と人との関係の中で受け入れてゆくのか、そうういうことを考えていく方に、品のある文化が生まれる。それを考える材料は、生活の中にある。だから、いつも現代の競争社会に乗り遅れまいとしたり、テクノロジーや現代の思想に敏感である必要はないのだ、とは、私自身への自戒である。
 
女のオヤジ化  01.2.9
 成績をようやくつけ終わった。入試も終わり、ようやく一段落といったところだ。だが、受験生の集まりは悪いし、卒業出来ない学生の問題とか、来年の入試をどうするとか(ついに、私の短大では今年定員割れです。まあよく頑張ったほうですが。)、問題山積。書かなきゃいけない原稿もある。

 こういう職業は、ほとんどがみなし労働(要するに9時から5時までと決められた時間内で働くわけではない労働)だから、実は、忙しいのと、忙しくないのとの基準がよくわからない。主観的には忙しいのだが、人から見たら結構楽だよなという見方もあるだろう。でも、いつも本を読んだり資料を探したり何かを考えていなくてはならないという点で、神経は使う。この仕事に休日というのは関係ない。そう考えれば、けっこうきつい職業とも言える。ただ、何でもそうだが、楽をしようと思えば楽が出来る職業でもある。性分として楽ができない性格だから、どんな職業についても忙しい忙しいと愚痴るのだろうなあ。

 小谷野敦についての時評の補足。

 前回、われわれの社会は、能動的に生きる奴と生きられない奴に分化していくだろう、そして、能動的に生きられない奴に矛盾は集中し、彼等が弱者ということになつていくだろう、というような事を言った。かつてのように、ある特定の階層に生まれたから不幸だ、という断定は、少なくても日本では難しい。不幸な家庭に生まれた奴は気の毒だが、うまく生き延びて大人になれば、やり直せるチャンスのまったくない社会ではない。貧乏人は一生貧乏だなどと誰も思っていない。それほど動きのない社会でもない。むしろ、誰でも、天国と地獄を味わう可能性がある不安定で流動的な社会を生きていることだけは確かだ。

 能動的に生きられないものが割りを食う社会。そして、だれもがそのようになる可能性を持つ社会。だから、われわれは、病気をおそれ、老いをおそれる。いずれも能動的に生きられないことの例であるからだ。

 私は今能動的に生きているつもりだが、そう生きることに拒否反応がないわけではない。本能的になのか、本質的にそうだからと言っていいのか、どこかおかしいのではないかと思うところがある。能動的に生きられないことが何故不幸なのだろうか。

 答えは簡単だ。消費しないからだ。かつては生産しないからだった。かつて東欧の社会主義国に寄生の罪というのがあったそうだ。成人になって働かない奴は逮捕されたそうだ。寄生の罪で。今の日本には実にたくさんいるのに。成熟した資本主義の日本では、能動的に生きられないものは、社会を支える消費という義務を果たせない。だから、嫌われる。日本では、働かなくても消費すればいい。女子高生のように。だから、女子高生はもてはやされる。

 能動的に生きられないものは、誰かに頼らざるを得ない。そうすると、家族とか共同体が必要になる。だが、どうも家族とか共同体というのは嫌われる。そのシステムが能動的でないからだ。田島陽子が、テレビタックルで、家庭での幼児虐待について、家庭というのは、ただ感情のはけ口になっている場所に過ぎない、と吐き捨てるように語っていた。この人は家庭というのが嫌いなんだな、というのがよくわかった。確かに、家庭は感情のはけ口だろう。しかし、だから家庭は重要だとも言える。われわれのなかで、その感情のはけ口である家庭によって精神的な危機から救われるものの割合は、幼児虐待に結びつく割合よりも圧倒的に多いはずだ。

 そのように考えれば、家庭は能動的でないから、能動的に生きざるを得ない人間にとって必要である。バランスをとるためだ。田島陽子にとっては、生きることすべてが能動性であり、能動的でないものは弱さだから克服すべきなのだろう。だから、家庭は弱さの象徴であり必要ないということだろう。だから、田島には家庭の負の面だけが見えてしまうのだ。個人として生きる決意をした人(特に女性)にこの傾向は多いように思える。

 小谷野敦は女性の社会進出が証明したのは、女のオヤジ化だったのではないか、と述べている。オヤジとは、能動的にただ生きるだけでのつまらない奴ということだ。

 何のために社会に出て働くのだろう。社会に出てばりばり働くことはそんなにいいことなのだろうか。社会に出ないで、人に頼って生きることはそんなに悪いことなのだろうか。社会にでて働く者にとって、会社のような組織に属せずクリエイティブな仕事をして世に認められる、というのが理想なのだろうが、そんな能動性の権化のような生き方が、ほんとにいい生き方なのだろうか。

 残念ながら、うまい答えは持ち合わせていない。ただ、能動的に生きるのはこの世を生きる宿命みたいなものだから、もう止められない。それなら、つまらない奴にならないためにはどうするか、と考えるしかない。オヤジ化しないための方策。これがオヤジのように生きている私の課題だ。当然社会でばりばり働く女性にとっての課題でもあるだろうが。

 
「もてない男」へのまなざし   01.2.6   
 成績を付ける仕事の方も何とか終わりそうだ。やはり授業がないと精神的に楽だ。今、古代文学会叢書の原稿を書き出さなくては行けないのだが、まだ、構想段階でなかなかすすまない。構想としては、「神の言葉」という言い方を何故われわれ(古代文学研究者ととりあえず規定してもいい)はすんなりと受け入れてしまうのだろうか、という疑問を解き明かすところにある。従来、こういう問の答えは、たいてい、宣長批判から始まって、研究者の無意識のナショナリズム批判で終わったのだが、そういう方向ではまったく考えていない。むしろ、時枝誠記の言語学や折口信夫の言葉に対する姿勢、吉本隆明や古橋信孝等の言語論の再検討ということになるだろうが、そこまでできるかどうかは分からない。特に、時枝言語学というのは、重要だと考えている。この孤立した言語理論は、実におもしろい。まあ、書き上がってから、内容は報告します。

 私は難しい本を読んでいる時に、気分転換のつもりで、あいまに軽めの本を読む。そして難しい本を読むのがやんなってしまう。最近読んだ軽めの本は、小谷野敦の「恋愛の超克」(角川書店)。これはおもしろかった。私は、小谷野敦のファンだから、この人の本は基本的に好きです。

 「もてない男」というのが彼の売りだが、まあ、これは、思考方法の戦略くらいに考えた方がいいだろう。文字通りとるとややこしくなる。もてないと思っていることと実際にもてないこととは違うことだし、もてないということの中身だって千差万別で、例えば障害者でもてないのと、引っ込み思案でもてないのとは一緒にできない。だから、「もてない」をつっこもうと思えばいくらでもつっこめる。これは、フェミニズムを代表とするエリート論客たちのええかっこしいを揶揄し、その思想の足下の脆弱さを指摘する戦略的言い方と思えばいいのだろう。

 要するに、小谷野が嗅ぎ取っているのは、立派な論客達の言葉は、競争社会を勝ち抜いてきたものの言説ではないか、ということだ。だから、彼等の、競争社会を勝ち抜いたのに相応の待遇を保証されない社会の仕組みに対する攻撃は鋭い。が、競争を勝ち抜けない奴の側から見れば、そういう議論は空しく映る。

 もてないというのは、自由恋愛という、近代が生み出した競争原理の上での恋愛に、負けるものの側の立場である。理想の恋愛を説く言説を小谷野は攻撃する。そういう言説は、結局勝者の共同体を作っていくだけだからだ。

 小谷野の論理に基本的に賛成である。私も「もてない」からではない。小谷野の理論は、現在のわれわれが理想を説くときの困難というよりは矛盾を「もてない」という言い方でうまく照らし出していると思うからだ。上野千鶴子も宮台真司もそうだが、彼等の言説は、現状の社会矛盾を仮想敵を設定することで肯定したり否定したりして、その矛盾を克服していくいう戦略をとる。仮想敵とは、例えば、国家であったり、家父長制であったりする。言ってみればわかりやすい弁証法なのだが、実は、そんなに問題は単純じゃない。現在を象徴する社会の矛盾、いじめ、差別、引きこもり、援助交際、売買春などは、仮想敵を設定する弁証法で処理できるほど甘くはない。

 何故、甘くはないのか。まず、今、われわれの現実的な生活の場面で、何がわれわれを抑圧しているか考えてみればいい。国家なのか、家族なのか、組織なのか。たぶんどれもそうだが、どれもそうではないという答えが返ってくるだろう。が、自分ではないのか、と問えばみんなそうだと答えるに違いない。結局、自分を抑圧しているのは自分である。そう思うのが一番確かであるような社会をわれわれは生きているのだ。それは、近代以降の資本主義社会のなかで、個が、共同体や家族から切り離され能動的に生きなければ生きたことにならないという不安を刷り込まれてしまったからだ。そこで、人間は能動的に生きるものと、生きられない者とに分かれる。当然、矛盾は、能動的に生きられないものに集中する。その結果、能動的に生きられないものは、自分を責めるというわけだ。結局、矛盾を背負った当人に、あなたの抱えた問題は家父長制にあると諭したところで、「何、それ、自分の問題よ」としか返事のしようのない社会であるということだ。

 とすれば、われわれが思想(思想というのは自分より弱者である他者をどう救うかという課題をもつものと考える)を持つとすれば、共同体や家族から切り離されて、なおかつ能動的に生きられないものが人間的に生きられるような社会をどう作るか、ということでなければならない。

 そういう存在に対して、家父長制を解体するから、ということでそういう人達の存在を肯定したりすることは、家父長制という仮想敵を解体したい自分の能動的な願望を、弱い者にあてはめようとしている、ということはすぐに見て取ることができるだろう。少なくとも、家父長制を解体すると評価することによって、共同体や家族から切り離され、能動的に生きられないものが人間的に生きられる社会イメージを提示したわけではない。彼等に仮託して自分の夢を語っているにすぎない。かつて左翼が闘争目標を失うと、差別されている人達を捜して一緒に生活をし、反権力の運動を展開するというのと基本的に同じである。

 われわれの社会には弱い者は確かにいる。しかし、その存在は、階級的に貧しいとか、家父長制の犠牲者であるとか、そんな図式化した枠組みではとらえられないのだ。なぜなら、その弱さは、能動的に生きることを止めれば、だれでも成り得る弱さだからだ。ところが、上野千鶴子も、宮台真司もそのような想像力を持ち合わせていない。弱者をあくまで仮想敵の犠牲者もしくは反抗者であるととらえる。が、小谷野の言っている「もてない」は能動的に生きられないものの謂いである。

 たぶん、小谷野もそして私も能動的に生きている。だから「もてる」のかもしれない。だが、これは、思想を誰に届かせるべきなのか、と問うたときの想像力の問題であって、上野千鶴子も宮台真司もその思想の言説を届かせる本当の相手を見ていないのではないか、と思う。上野千鶴子や宮台真司を読んで何となく感じていた違和感とは、そういうことであったのかと、私は、小谷野の本を読んで理解できた。

シャーマニズムの社会性 意味づけられない生を生きる  01.1.29
 映画「ザ・ビーチ」の情報。サムイに行って来た知人の話では、舞台となった秘密の島とは、サムイ島の近くにあるパンカ゜ン島とのこと。この島のリゾート地であるハードリンというところが伝説の楽園としてのビーチだとか。今でも、欧米人に人気の楽園とのことで、砂浜はトップレスビーチだそうです。が、実際に撮影された島は、奇岩で知られたピーピー島だとのこと。
 古代文学会の呉さんと久しぶりに映画の話をしていたらこの映画はアメリカでは評判悪いらしいけど、結構いい映画だと語ってました。同感。少なくとも、デカプリオは「タイタニック」よりはいい。狂気の顔は結構いけてた。むろん、ロバートカーライルもよかった。

 今日は「ふ」の会(エリアーデを読む会)。現代のネオシャーマニズムが、エリアーデを評価している、ということが話題になった。それから、シャーマンの利他性という問題。利他性とは、シャーマンが、他の利益のために存在するということ。宗教者は、他を利するために存在するのは当然だろう。たとえ自分の悟りのためだけに修行するのだとしても、それが宗教である限りにおいて、他者に開かれているものであるはずだ。

この会の帰りにいろいろと考えたことを書きます。

 宗教の社会性というのは、たぶんに難しいテーマで、宗教が、神もしくは神的な世界を内的な体験として探求しようとする意識の運動を抱え込む限り、その運動自体は、社会に背を向けるようにあらわれる。宗教者は、社会への奉仕者であるべきという倫理などどうでもいいところへ行ってしまう可能性があると思われる。ただし、これは邪教というのとは違う。だからカルト教団とも違う。カルト教団は、社会性をただ固有に作り上げるに過ぎない。その固有さの異質性の程度がひどければ、一般の社会と衝突を起こす、ということだ。ここで言っているのは、どんな宗教であれ、自分の内的な世界に閉じこもり社会性と背馳する運動を抱え込んでいるのではないか、ということだ。例えば、シャーマンの意識の運動などはそういう可能性を孕んでいないか。が、もし抱え込んだら、宗教は宗教でなくなると思う。

 シャーマンの神懸かりの意識の運動は、異常なほど過剰である。その過剰さは、社会(共同体という言い方をしてもいい)の中の様々な関係の中で意味づけられてしまう。つまり、自分の中に閉じこもり、神もしくはある境地を探求する意識の運動も、その意味では過剰な意識の運動に他ならない。例えば、意識を無にするというような禅の境地だって、意識にとってはかなりの負担を要求される過剰な意識の運動ではないか。過剰な運動である限り、それは、必ず社会に意味づけられてしまう。意味づけられないものをほうっておくほど社会は甘くない。社会に背馳する、というのは、意味づけられない意識の運動がある、ということだが、本当にあるのか。

 自分の心など誰にも分からない、という意味では、あるかもしれないが、宗教である限りない、というのが正しい。あればそれは社会にとって意味づけられないという意味で狂気であるに過ぎない。どんなに自分の中に閉じこもろうと、社会性を帯びる、つまり、社会の側に引きずり出されるのが宗教だ、ということだ。

 ところで、宗教者が社会に引きずり出されるのは、その意識の運動が、普通の人達の意識の運動よりあきらかに過剰であるからに他ならない。その過剰さが作り出す意味の豊富さに、人々は例えば神への通路や救いといった意味性を見いだす。

 だが、近代人が、ある意味において無宗教になっていったのは、誰もが、過剰な意識の運動を生き始め、その意識の過剰ささにおいて宗教者と特定される人との差が無くなってきたからではないか。

 近代以降の人間の日常の生は、意識を、狂気にならない程度にいかに過剰に運動させるか、というものである。特に資本主義の社会は、意識の消費そのものを誰もに強いる。過剰な意識は商品となる。哲学書、思想書、宗教書が売れるのは、個々人の過剰な意識の運動を満足させるためである。このような時代、つまり、誰もが過剰な意識の運動を強いられそれを競争しあうような社会では、宗教は、意識の過剰な運動という特権性を失う。例えば、その過剰さにおいて際だつシャーマンの意識の変性だって、都市社会では、夢で、ストレスで、ドラッグで、誰もが体験しえるものとなる。いいかえれば、シャーマンが現代の都市社会に存在したとしても、現代では、共同体の中に存在したシャーマンが特別な存在であったようには社会性を持たない、ということだ。伝統文化としてのシャーマンを除けば、われわれはいつでもシャーマン的な意識の過剰さに支配されかねない生を生きているのだ。田口ランディの「コンセント」という現代の成巫譚小説を、若い女性が自分のことが書かれているといって読んでいるのが、そのことを物語っている。

 それは、意識の過剰さが、社会的な意味性を与えられないで浮遊してしまうということである。別な言い方をすれば、それは、徹底して孤立した個人の問題でしかなくなってしまうということだ。だから、その意識の過剰な運動は意味づけられない何かとしてあらわれる、ということである。例えば、それを無意識というように言ってもいい。われわれは、無意識という言葉をよく口にするようになった。意味づけられないわれわれのあり方をとりあえず呼ぶ便利な言い方であるからだ。神秘主義という言い方もたぶんにそうだ。意味づけられない、意識の過剰さを呼ぶ言い方である。最近、近代以前の宗教者を神秘主義という言い方で呼ぶ傾向があるが、近代のわれわれの意識のあり方を当てはめている面があるのでもう少し慎重であった方がいい。。

 現代人の「引きこもり」とは、誰もに起こり得る普遍的な現象の問題として論じれば、現代人の意識の過剰な運動の意味づけられなさが、社会性を帯びてしまった、という言い方が出来る。つまり、社会は、引きこもりという過剰な意識の着地の仕方を認めたということだ。認められれば、とりあえず、引きこもるのが楽でいい。そうやって、引きこもりは大量生産される。たぶん、これからも多くなる。引きこもりは、軽い程度を含めれば、現代社会の象徴的な現象になるだろう。

 ネオシャーマニズム(最近流行の、トランスパーソナルとか、チャネリングとかいうやつ)も一種の引きこもりである。根底には、自分たちの意識の過剰さを意味づけられない、という問題を抱えている。だが、知的であるこれらの人達は、宇宙との合一とか、癒し、とか、伝統的シャーマニズムを勘案して様々な意味性を与えている。が、根底は、意味づけられないということから逃れられないのだから、それらの意味づけは、たぶんにその場しのぎの性格を持たざるをえない。私は、エリアーデという学者の功績は、シャーマニズムを、意味づけられない過剰な意識の運動を抱え込んでしまった近代人に、その意味づけられなさを肯定したままでも宗教的な意識が獲得出来る方法として体系化(意味づけ)したことだと考える。言い換えれば、社会に引きずりだされなくても、つまり、引きこもり的であっても人は宗教的に生きられる、そういう方法を与えたのだ。だから、ネオシャーマニズムはエリアーデをよく読むのだ。

 ちょっと、難しい文章になってしまった、反省します。言いたいことは、私はやや引きこもり的だが、ネオシャーマニズムも神秘主義も好きではないということです。ただ、そういうところへのめり込む人達のことはよくわかる気がします。つまり、シャーマニズムが何故今流行るのかというのがわかる、ということです。だから、シャーマニズムの勉強というのは、注意深くあらねばと思っています。

「複雑系」を読む ベータの悲哀 01.1.23
 今、学生の成績をつけるのにほとんど時間をとられている。なんせ、私の教えている学生は、非常勤で教えている学生を入れてだいたい750人いる。ほぼ全員の答案をこれから読んで成績をつけなければいけない。これは並大抵の作業ではない。場合によっては、前期試験の答案を読んだり、授業時間内で書かせた文章も読むから、考えただけでもうんざりする。でも、これをやらないと、一年私が教えてきたことは終わらない。つらくても、成績はつけなければ。
 
 一月はほとんど試験の時期で、試験の監督をやりながら「複雑系」(新潮文庫)という本を読んでいた。630ページある、分厚い科学系の本だったが、読み物風のルポルタージュなのであっという間に読めた。もう5年前に出た本で、最近聞かれなくなった「複雑系」という現代の理論をわかりやすく読み物風に解説したものだ。

 舞台はアメリカのサンタフェ研究所というところで、「複雑系」と称される新しい理論をそれぞれ独自に構築した、経済学者や物理学、分子生物学等の学者が集まっていて、そこで、新しい理論の共同研究が行われている。その理論というのは、ある存在が生成し、それが他の存在とからまって複雑に展開していくプロセスには、共通したパターンがあるというものだ。そのパターンを数値化できれば、生命の進化のシステムも、人間の脳の働きも、経済の複雑な動きも、人工的にシミュレーション出来ることになる。

 この理論を生み出す大きなきっかけは、DNAの構造の解明だという。遺伝子は、どういう仕組みで、細胞の複雑な分裂と増殖のシステムを作っているのか。実は、そのシステムは、例えば、経済という現象とよく似ているというのだ。要するにこういうことだ。いくつかの個体が発生する。すると、いくつかの個体は、他の個体との競争関係の中に置かれる。多数の個体との複雑な関係(ネットワーク)の中で、やがて、特定の個体が自己増殖(自己実現ともいう)を始める。それがいわゆる進化である。その進化のプロセスは、ある商品が突然売れたり、為替や株の相場が複雑に揺れ動く現象とよく似ている、というのだ。

 問題は自己増殖のプロセスにどういう法則があるかだが、そこには神の意志(経済学なら神の見えざる手)などというものは存在しない。様々な要素の関係のネットワークのなかで自ずとあらわれてくるに過ぎない。要するに、様々なものがより集まって関係しあうと、おのずと、何かが自己増殖してしまうものらしい。

 例えば、脳の中の神経の作用はデジタル的であると考えられている。OFFとONとが複雑に組み合わさって思考が作られているらしい。ただ、脳の働きというのは、自己増殖的である。自己増殖とは、プログラミングされた側がプログラミングした側を取り込んで、より複雑に自己を展開させていくことである。なにやら難しいのだが、要するに、神が人を作ったとするなら、作られた人は神を作り出してさらに自分を作る、というようなことだ。これを人間とロボットというように置き換えれば、わかりやすい。人間にプログラミングされたロボットが、プログラミングする人間という存在を自己のプログラムに書き込めたときに、ロボットは進化することになる。だから、人工知能というのは、決して夢ではない。こういう動き自体をシステムとして作れれば、自己増殖していくデジタルの頭脳が作れる筈である。現に、そういう実験が行われている。 実は、こういう作業をDNAという遺伝子は行っているらしい。

 この理論の思想的な意味は、本質や真理といった超越性に還元する古典的な思想を完全に解体することにあるだろう。つまり、あらゆる存在は、ゲームの中で動いているコマであると言うのだから。問題は、そのゲームのルールなのだが、それは神が作ったというようなものではない。複数の因子が寄り集まれば自ずとそういう動きになる、という以上のものではない。こう考えればいい。ある因子としての存在は、将棋の駒でしかないが、そのゲームの均衡が臨界に達すると、突如ある駒が自己増殖をしていく。それは、駒自体が、自分を動かす将棋全体のルールを組みこんで、そのルールを変えてしまうというように理解できるだろう。ルールという全体は、個の駒の動きに逆に還元されて絶えず流動化していく。従来の思想では、個は、普遍的で超越的な存在に還元されることで動いている(生きている)意味を見いだしたのだが、「複雑系」の理論では逆なのだ。超越的なものはそれ自体意味を持たない。複雑な個のネットワークを動かしながら自身も絶えず変化する関数のようなものでしかない。
 こういう思想に出会ったとき、われわれは自分という意味をどういうように見いだせばいいのだろう。

 結局、将来なんて、誰にもわからないということ。だが、将来というのは、ある特定のパターン化された動きのなかに生じるはずだから、計算は出来るということだ。どういうことや。つまりだ。将来というのは、当事者には絶対に予測がつかないということだ。なぜなら、将来は、関係のネットワークの中で生成されるものだから、その関係の中にいる存在がその関係を見通せない以上、将来は見えない筈だし、仮に将来を予測したとしても、その予測がまた将来を動かしてしまうので、結局は予測は無理だと言うこと。つまり、この理論は、超越的な存在などどこにもいない、ただ、あるパターン化された動きだけが宿命のようにあって、あらゆる存在はそれに巻き込まれて生きているだけだ、ということ。

 それでは究極のニヒリズムではないか。考えようによってはこんな空しい理論はない。ただ、おもしろいのは、個を巻き込む動きのパターンは、シミュレーションできるということ。つまり、デジタル化が可能だというのだ。超越的なものがないのなら、その動きは、ON/OFFのかなり複雑な組み合わせに過ぎない。むろん、自己増殖も、この複雑な動きである。われわれは自分の将来も生きる意味も見えないが、計算は出来る。これがこの理論のおもしろさだ。

 ところで、「複雑系」という理論を必死に考えている学者たちは、単なる駒ではないか。彼等はゲームに巻き込まれているだけではないのか。確かに巻き込まれている。それなら、超越的に存在しない彼等が、進化の現象を超越的に説明しようとする「複雑系」という理論自体を生み出せる筈がない。それは矛盾ではないか。確かにそうだ。確かにそうだが、これも自己増殖なのだと考えるべきなのだろう。われわれが、自分の生成の秘密を何とか理論化しようとするのは、神という存在をプログラミングして人間を生成する過程をデジタル化してみようという自己増殖的行為そのものなのだ。いわば、将棋の駒が、自分を動かすルールを自分の駒の動きに組みこんでしまったようなものなのだ。

 この理論は、実は、何故、世の中には、勝つ奴と負ける奴がいるのかを実に単純に説明する。例えば、ビデオのVHSが性能の良いベータに勝ったのは、最初にたまたま購買者が多かったからに過ぎない。VHSが自己増殖してしまったことによって、ベータは消えた。優れたモノが勝つなんていうのは幻想に過ぎない。自己増殖の根拠は、複雑な関係のネットワークの中で自ずと(偶然に)出てくるものであって、そこに確実な法則なんてものはない。マイクロソフトがマックに勝ったのも、確実な根拠があるわけではなく、たまたま、ある段階での幸運が、自己増殖的な動きを加速させてしまったということなのだ。

 この理論の教訓。自己増殖の側で生きなければ意味はないということ。「複雑系」という本は、実は、自己増殖の側で生きている(あるいはそう信じている)天才達の物語である。自己増殖とは、結局、運のいい能動性そのものだ。最近の進化の理論では、人間が進化の競争に勝てたのは、ただ運が良かったからに過ぎない、ということらしい。競争に勝つべくして勝ったわけではない。ただ、勝ったために能動的に生きざるを得なかったのか、能動的だったから進化の競争に勝ってしまったのか、そこはよく分からないが。能動的であることがどうやら、自己増殖にとって必要であることは読んでいて見えてきた。いかにも、アメリカ人が好きそうな理論だ。

 問題は運が悪くて負けてしまった奴だ。例えばベータのような奴。ベータはやっぱり、VHSより能動的ではなかったと思う。自分の性能の良さを過信しすぎて、販売戦略を誤った。VHSの方が元気だった。考えてみれば、元気よく動きまわっている方が、運がいいという気はする。自分の本質とか才能にうぬぼれて何もしないと消えていく、ということらしい。

 私は自己増殖の側で生きているのだろうか。うぬぼれるほどの才能も無いので、動き回っているのは確かだ。が、自己増殖しているかどうかは分からない。どちらかというと、VHSでなくてベータだという気はしている。


プロセスのない共同体  01.1.17
 最近見たビデオ。リドリー・スコット監督の「グラディエーター」、007シリーズの「ワールド・イズ・ノット・イナフ」、デカプリオ主演の「ザ・ビーチ」。それぞれ何の繋がりもないが、後の二本は実はつながりがある。ロバート・カーライルが出ている。ロバート・カーライルは、イギリスの俳優で「フル・モンテイ」でブレイクした。かなりマニアックなフアンがいるとはうちの奥さんの弁。007では、頭に弾丸をくらって痛さを感じなくなってしまったテロリストで、「ザ・ビーチ」では、ヒッピーの作った共同体に合わず狂って自殺してしまった男。「フルモンティ」でも、失業したさえない男だったし、とにかく、現代の暗さや狂気を演じさるにはうってつけの俳優だ。

 「グラディエーター」も、「ワールド・イズ・ノット・イナフ」も、まあこんなものだ。期待に違わずそこそこ楽しませてくれた。「ザ・ビーチ」はほとんど期待していなかったのだが、結構おもしろかった。むろん、映画としての出来はそれほどではないだろうが、そのストーリーはいろいろ考えさせるものがあった。

 舞台は、タイ。アジアを旅行する欧米のヒッピーの物語だ。実は、アジアにはいまだヒッピーがたくさんいる。欧米の物質文明を嫌うヒッピー文化はしっかりと根付いたらしい。デカプリオ扮する失意のアメリカ青年が、自分を見つめ直そうと、タイにやってくる。タイの安宿で、ロバートカーライル扮する狂った男と知り合いになり、彼から伝説のビーチのある島の地図をもらう。が、その男は自殺をしてしまう。デカプリオは安宿にいたフランス人の恋人同士らしい男女を誘い、三人で、その島に冒険に出かけることになる。

 その島とは、サムイ島の近くらしい。実は、サムイには、友人の上原君が今そこでのんびり過ごしているところだ。彼は、日本で働いて金を稼ぐとサムイへ行ってのんびりと毎日釣りをして暮らす。彼からいろいろと話は聞いている。確かに、若いうちからリタイアした欧米人は多いらしい。さて、三人はその島にたどり着くが、そこにまっていたのは、秘かに大麻畑を作っている農民の威嚇だった。農民から命からがら逃れた三人は、ついに伝説のビーチのある楽園にたどり着く。が、何のことはない、そこは、ヒッピーたちが管理する秘密の共同体だった。日本で言えば山岸会だ。最近話題のNAMもこういう共同体になる危険性はある。

 自給自足の暮らし。南海の島の理想的な共同体だったはずが、だんだんとその共同体が崩壊していく。崩壊の理由は、一つは、サメに襲われて死者やけが人が出たこと。共同体では病人は直せない。が、医者を連れてくれば、共同体の存在が外に知れてしまう。そこで病人は放って置かれる。もう一つは、デカプリオが、地図の写しを、この島に来る前に人に渡してしまったことだ。その結果、この島に四人の若者がやってくるが、農民に見つかり殺されてしまう。実は、農民と共同体は共存していて、外部にこの島のことを知らせないというルールを作っていたのだが、ヒッピーの側が破ってしまったわけだ。そこで、農民は怒り、結局は、共同体は崩壊する。

 この映画の教訓は、理想を信じて作為的に作った共同体はすぐ崩壊するということ。崩壊の理由は二つ。一つは、外の世界と隔絶した共同体などあり得ないということ。死や病人のような負の部分(ケガレ)に対処出来ない共同体も崩壊するということ。負の部分への対処は、医者か神である。いずれも、ここでの共同体にとっては外部の存在である。とすれば、外部との接触を失った共同体は崩壊するというのがここでの教訓だ(むろん、外部と接触すれば共同体は崩壊するという論理も同時になりたつことをことわっておく。共同体とはすごくデリケートな存在だと思う)。

 教訓としてはすごくわかりやすい映画だった。原作がベストセラーになったというのもよく分かる。ヒッピーの作った共同体は欧米人の見果てぬ夢であろうし、ある意味ではわれわれにとってもそうだ。しかし、自給自足の共同体の文化を最近調査している私の立場から言えば、それは夢というものではない。自給自足であっても、安定した共同体などないし、外部から隔絶した共同体などというものない。安定しているとすれば、そこに至るまでに様々な知恵と工夫、そして犠牲が積み重ねられている。そういうプロセスをみないで共同体を夢として語っても何の意味もない。が、そういうプロセスを捨象して物事の姿を夢見るのが、われわれの文化なのだとも言える。プロセスのない共同体は、南海の島だけにあるわけではない。都会の地下の集会室にもあろう。そう考えれば、この映画は、われわれの抱えた見果てぬ夢の根深さを伝えている。

明るさを捨てた少女達 01.1.11
 「シャーマニズム文化学」の原稿を75枚何とか正月の休みあけに書き上げた。ただ、以前に書いた「風土記論」の原稿を書き直す必要が出てきたので、こちらにとりかかりながら、同時に古代文学会叢書の原稿をぼちぼちと書き始めて、あいまに短歌の時評を書くという、あいもかわらず、よく仕事をしているなあ。
 「アジア民族文化学会」の案内の発送の準備も終えた。1800通の封書を郵送する、という大変な事務作業になったが、うまく反応があればいい。知り合いの小説家中沢けいから早速入りたい旨の年賀状がきて、うれしかった。
 
 今、ちょうど、来年度のシラバス原稿を書いている。どんな授業をするか、書いているときは案外に楽しい。実際に授業を進めるのはつらいのだが。特に、新しい授業をやってみようと思うときには、それなりにいろいろ考えが浮かんできて楽しいものである。来年度は、二つ新しい講義をしようと思っている。一つは、発生論の論の流れをたどる授業。明治のU部文芸でこんど新しく講座を持つので、そこでやろうと思っている。評論を中心とした内容と言われているので、発生論、という論を検討してみようと決めた。本居宣長、折口信夫、西郷信綱、古橋信孝、そして、吉本隆明等と、言葉論の分野まで踏み込むつもりだ。ただ、具体的にどういう風に展開するかはまだ何も考えていない。とりあえず、何故、発生論という論が成立し、それはどういう性格のものでどういうように展開してきたのか、それを検討してみようというのだ。むろん、カルスタ風にやるつもりはない。やれと言われてもできない。われわれは何故発生論を考えるのだろう。いや、何故起源を必要とするのだろう。何故文学的言語が生まれたのだろう。と、素朴に問ながら論じるつもりだが、自分の素朴な発生論をつくらないように注意しなければ。

 もう一つは、短大の「現代文化論」という講義で、毎年これにいつも苦しんでいる。来年度は「消費社会文化論」に決めた。やや色あせてきたテーマであるが、論じる価値は十分にあると思っている。1975年頃から日本は消費社会と言われる時代に突入したが、その突入の仕方をどこかで誤った、という気がしてならない。まあ、日本はいつも新しい時代への入り方を誤っているのだけれど。

 どんな風にも論じられるのでかえってやりにくい面はある。例えば村上春樹論だけでも論じられてしまう。それくらい広いテーマである。ちょっと前なら女子高生論くらいでおもしろく論じられたろうが、ガングロも消えた今、女子高生もどうやら一時の勢いを失いつつある。ケータイを普及させて、低迷する日本をかろうじて救ったその功績を最後に歴史から消えるのだろうか。そういえば、援助交際も、最近の14〜17歳の切れる男の子の迫力には影が薄い。女子高生が元気な時には男の子はじっと引きこもっていたが、今、こんな風に女子高生に代わって表に出てきた。あの筋肉弛緩剤を点滴に入れた容疑者も、どうも引きこもり的で切れやすい性格らしい。

 どうせなら、こういう、社会の様相をとりあげていくしかないだろう。消費社会は、人間を明るくする。それも半ば強制的に。消費社会になってから、みんなうわべはとても明るくなった。暗い奴もいるが、だいたい笑いの対象になっている。暗い人間が出てくるCMは、だいたいが笑われる存在として出てくる。消費社会は、人間の欲望を刺激する。欲望を最大限に発揮させるためには、家族や共同体を嫌う。なぜなら、家族や共同体は欲望をなるべく抑えて、少ない消費で生きられるようなシステムだからだ。だから、貧しい人や貧しい国は、家族や共同体を必要とする。しかし、消費社会は、個人の自立をささやき、その欲望を抑えないようにし向ける。欲望は、しかし、人を傷つける。欲望は、7・8割は実現されないからだ。人間は傷つき易くなり、孤独になり、しかし、明るくなる。昔、スポーツ新聞の求人欄にホステスさん募集の一行広告がたくさん並んでいて、ほとんど全部明るい人募集と書いてあったのを思い出す。それを見て、明るくふるまわなけりゃとてもじゃないけどやっていけいない職があるということを思い知った。何のことはない、今、日本の社会がそうなってしまったのだ。

 女子高生は明るかった。日本という消費社会のホステスだった。でも、今、少女達は、その明るさを捨て始めている。例えば、COCOや椎名林檎の歌を聴くとそう思う。明るく振る舞うのを辞めれば、狂気すれすれのところまで行くしかない。そうういう歌だ。男の子は背中を押されるようにして狂気の側に傾いてしまうやつがいる。そんな21世紀の人間の風景を論じる講義になるだろう「現代文化論」は。どんなんなるかわからないがお楽しみに。
 

発展途上国とアニメ 2001.1.4
 この正月は、茅野の山小屋で過ごした。今年は、客人がこなかったので民宿の親爺にならずにすんだ。本当は、仕事のストレス解消の目的でつくった山小屋だったが、結局は仕事をするために行く山小屋になってしまった。相変わらず、この正月も原稿を書いていた。

 あいまをみて、テレビを見たり、茅野のビデオ屋で借りてきたビデオを見たりして過ごした。見たビデオは「ムッソリーニとお茶を」という題名の映画。ムッソリーニが台頭した時代のイタリア。イタリアの文化に魅せられ、イタリアに住み着いてしまった、イギリスやアメリカの婦人達の物語。戦争が起こり、軟禁状態になってもめげずに、イタリアの文化を守ろうとする。脳天気と言えば脳天気な婦人たちの話なのだが、物語はよく出来ていて、レジスタンスもあれば少年の成長譚も盛り込まれている。この映画の教訓。ファシズムも、戦争も、思想も、社会をリタイアしたこの婦人達を押さえ込むことは出来ないということ。つまりだ、リタイアして芸術のために生きる、というのはなかなか強いモンだ、ということだ。この映画のメッセージなのだろうが、半分リタイアしかかっている私はそんなに強くはない。芸術をそんなに信じていないからかも知れない。

 テレビでおもしろかったのは、衛星放送でやっていた番組で、21世紀の日本人は世界に向けて文化を発信出来るのか、というような内容の特集番組だった。2日・3日と続けてやっていて、一回目が科学者の西澤潤一、二回目が建築家の磯崎新がレポーターをやっていた。一回目は、徹底した競争主義の原理に貫かれた、アメリカと中国の教育システムが紹介されていた。この厳しい競争に耐えながら、自分の明確な生き方を語る学生達を見て、ああ、こりゃ日本は負けるな、と正直思った。その競争はとにかく半端じゃない。こういう教育システム見せた上で、日本の教育システムの問題点が当然浮き彫りになった。識者達も、いかに、日本の教育システムがなっていないかを語る。でも、まてよ。

 結局、この激烈な競争システムというのは、発展途上国のシステムじゃないのか。学生達が烈しい競争に耐えるのは、競争に負ければ、人間的な生活すら営めない厳しい社会の現実があるからではないか。アメリカは、世界一の経済力を誇り、好景気に沸いているが、アメリカ人の全体的な生活水準はむしろ低くなっているという報告がある。アメリカの社会は、人間的な生活を営めない貧困層やマイノリティがかなりいる。ごく一部の富裕層だけが、好調な経済の恩恵を受けているだけだと言われている。中国は今や世界一の貧富の差のある国だ。開放経済政策は、貧しい農民層と、豊かな都市民層を生み出した。ただし、両国とも、階層社会ではなく、チャンスがあれば誰でも豊になれる自由がある。それが救いだ。中国も頭がよけれぱ農民層でも出世できる。

 創造力とは、結局、負ければ地獄の生活が待っているという不安があってこそ伸びてくる。そういうものではないか。若者達の生きる目的が明確なのも、負けられないという現実こそがすべてであるからだ。むろん、アメリカの不安とアジア諸国の不安とは違う。アメリカは、個人個人が、自由と民主主義の恩恵と引き替えに、敗者になればいつでも人間でなくなる生活が待っている。自由をテーマに生きることはこんなにも大変なのだ。貧しい発展途上のアジア諸国では、全体が貧しいから、まずはエリート達が国の発展というテーマを担いで、競争に耐えていく。だから、貧しい発展途上国と区別して、アメリカを先進国型の発展途上国と呼ぼう。中国は、だんだんとアメリカ型の発展途上国になりつつある。

 アメリカは巨大な発展途上国なのである。貧しさの原因でもある多くの移民を受け入れ、たくさんの貧困層を生み出している。彼等に絶えずチャンスという幻想を与え、社会を活気づける。そういう運動で成り立つ国がアメリカであり、多民族でなくなり、貧困層がなくなったアメリカはアメリカではない。発展途上国でなくなったらアメリカは死ぬのだ。その意味で、アメリカが創造力という活力を必要とするのは、発展途上国であることを辞められないからなのである。

 したがって、日本がいくら教育制度を改革しても効果がないことは見えている。問題は簡単なのだ。日本人に創造力がなくなったのは、日本が発展途上国でなくなったからなのだ。だから、解決策は簡単だ。アメリカのような発展途上国になるしかない。だが、移民を受け入れ、貧困層をうみだすような厳しい競争社会に日本人のメンタリティが耐えられるとは思わない。だから、無理だ。ただ、今借金がかなりあるから遠からず本物の発展途上国に墜落する可能性はある、情けないがそのときが創造力を高めるチャンスだ。

 3日目の番組はもやはり日本人の創造性がテーマだった。創造性とは何だろう。番組を通して発信されたのは、結局、競争に勝つ力、人がやっていないことを快感と思うこと、というようなことだ。ノーベル賞を何人出すか、などというところへ結局創造力は集約されてしまう。磯崎新は自然との共生ということを盛んに言っていたが、一方で、こうも、独創力が強調されるのは、ただ、日本の現状を変えたいとい切実さなのだろう。何故、現状を変えたいのか、その答えは、このままじゃ世界から取り残されるだ。なんだ、やっぱり発展途上国の発想じゃないか。

 今、日本が世界に誇れる文化はアニメであると番組は紹介していた。このアニメ文化について、アメリカで成功した工藤ゆきはおもしろいことを言っていた。戦争に敗れた日本は世界から相手にされなかった。だから内側に閉じこもるしかなかつた。その鬱屈したものが創造力となって爆発したのがアニメ文化じゃないのか。なかなか鋭い。つまりだ世界との競争から疎外され、閉じられたところで花開いアニメ文化が、今、世界の競争の中で勝者になっているのだ。なんと皮肉なのだろう。

 多数のアメリカ人が日本のアニメに夢中になるのは、厳しい競争の現実から逃避したいと思っているからに違いない。アメリカの合理主義は、敗者に対して、徹底した心理マニュアルを作って彼等が自殺しないように対策を立てる。つまり、アメリカでは、敗者の心を、壊れた車をメンテナンスするようにメンテナンスする。だから、セラピーと精神分析が発達する。厳しい競争原理の国では、現実からの逃避を基盤に成り立つ幻想の世界は文化ではない。だが、日本ではそれは立派な文化なのだ。だから、アニメが発達した。

 結論として、日本人が創造力を回復するには三つの方法がある。アメリカのような先進国型発展途上国になるか、本物の発展途上国に墜落するか、独自の方法で創造力を身につけるか、である。むろん、結論はおわかりであろうが、最後しかないだろう。アニメ文化はそれが可能であることを示唆しているかも知れない。

遊びでやれよ!NAM  00.12.25
 今、NAM(ニュウ・アソシェーション・ムーブメント)で話題になっている柄谷行人の「原理」を読んだ。通勤途中に読むには手頃の本だった。けっこうおもしろかった。この本はNAMへの入会案内書になっていて、この本を読めば一応入会したくなるようにはうまく書いてある。といっても、入会する気になったわけではないので念のため。

 けっこうおもしろく読んだ。いろんな意味でおもしろかった。思想の問題で言えば、柄谷が、このような運動を提唱するのはよくわかる。が、そのだめなところもよく見えた。柄谷の言うことはこうだ。資本主義と国家・民族を廃絶するためには、従来の左翼主義的な、いわゆる権力奪取型の闘争ではだめだ。特に資本主義という怪物に立ち向かうには、其処に属しながら内部から資本主義を無力化していくほかはない。それには、資本主義の本質である、貨幣の交換を、こちら側、つまり、資本主義を解体する側の貨幣の交換(資本という蓄積を産まない交換)に変質させていくしかない。それには、独自の貨幣を持ち、自由な関係の交換(関係 )ネットワークを資本主義内部に張り巡らして、資本主義そのものを無力化していくということだ。

 わかりやすく言えば、一種の生協運動を世界中にめぐらして、資本主義と国家、民族を無効にしてしまおうという戦略である。こういう組合運動主義的発想はプルードンのサンディカリズムによく似ている。ただ、サンディカリズムは、組合が生産手段を奪取し管理するという発想であって、そのためには直接的な行動(ストライキを含む)も辞さない。結局は、権力闘争になってしまうところがある。柄谷の言っているのは、一人一人を組み合いの労働者ではなく、消費者として規定し、消費者による反資本主義的交換そのものを資本主義内部でガンのように増殖させようと言うのだから、その戦略においてかなりの違いがある。むしろ、確信犯的な贋金づくりと考えた方がいい。

 理論的に言えば、確かに、独自な通貨を持つ社会関係(ネットワーク)を広げていこうというのであるから、これは、資本主義の中に贋金を流通させるようなものでもあり、贋金が浸透していけば資本主義はがたがたにになるように、資本主義打倒には効果があるかも知れない。が、それはあくまでも理論的にだ。

 NAMが提唱する独自通貨は、実は贋金ではない。資本主義内で許容される合法的な独自通貨である。例えばある商店街で独自に発行するようなクーポン券のようなものである。ただ、クーポン券は、利潤を生む目的で発行される。だから、資本主義の枠内にあるが、このクーポン券が利潤を目的にせず、相互扶助のような目的を含む交換の通貨であれば、資本主義とはずれてくる。つまり、あるネットワーク内で、資本のためではなく、たぶんに、創造的な行為や一種の相互扶助や善意といったものの実現のためにやりとりされるさまざまな交換を、効率的に価値化したものを通貨と呼ぶのだろう。その交換があらゆる人間生活の隅々に及び、資本の蓄積を目的とした交換を排除出来れば、NAMの目的は実現出来ることになる。が、果たしてそうか。

 当然、現状では、資本主義内部で、つまり、資本の蓄積を前提とした交換原理の中で誰もが生きている。それを受け入れながら、同時に独自の通貨を交換させる関係を作っていくということが、本当に可能なのか、そのことがどれほど困難なのか、実は、この困難さへの想像力が欠けているのではないか。

 われわれが消費者として存在しているのは、そこにただ生活に必要なものを得るために生きているのではなく、より快適な生を求める欲望を充足させるためでもある。資本主義の資本の蓄積を目的化する交換原理は、この欲望を満足させるシステムから生まれている。ただ、その欲望の実現を社会に平均的にならすことができない、という問題を抱えている。したがって 、国家もしくは共同体による社会的諸関係への強制力によって、富の再分配の不均質さ、もしくは、生きる条件の不平等そのものを平均化するシステムを必要としてきたのである。このシステムを福祉と考えてもいいし、地域共同体による相互扶助システムと考えてもよい。それらのシステムは、必ずしも、資本の蓄積を目的とはしていない。つまり、資本主義の発展は、このような、資本の蓄積を目的としない交換(関係)を組み込みながら、発展してきているのである。そういう関係を、国家に管理された関係とか、共同体的関係といってしまうのは早計に過ぎる。問題は、資本主義から見れば、NAMの独自通貨だって、同じように見えるということだ。資本主義にとって、たぶん、NAMのような運動は、資本主義が抱え込む弱点を補ってくれるありがたい運動にしかならないだろう。

 そんなことはないと言うかもしれない。NAMはあくまで資本主義を解体させるという理念をもった運動体であるのだから、資本主義の補完物にはなるはずはない、というだろう。だが、私はそんな理念など信用していない。一人の人間が生きる根拠を、一方で快適さを求める欲望に置き、一方で、その欲望を実現するシステムを廃絶するような理念を持って、独自な交換に生きろ、と言われて、実際に生きられる奴がいるとは思えない。もし、生きられる奴がいるとしたら、NAMを遊びでやっているか、もう、十分に資本主義の恩恵を受けてしまって、生活の向上のために生きる必要がないものが、ある程度の余裕のなかでやることだとしか思えない。

 仮に、世界中の人間が、独自の通貨をもって、相互扶助のネットワークを作っていたとして、本当に資本主義が廃絶できるのだろうか。その前提には、そうなったら、過剰な欲望というものを持たず、他者への思いやりを持つように、人間自身が変わっていくはずだ、という願望がありはしないか。つまり、人間はこうあるべきであつて、そういう人間像を前提に思想を作っていないだろうか。だから、資本主義に属しながらも、その資本主義を廃絶する理念を持った運動が出来る、ということをあけすけに語るのであろう。その楽観主義は、まつたくと言っていいほど、NAMの組織の原理に貫かれている。
 NAMは、左翼が犯してきた過ちをほんど繰り返している。NAMの理念に誰でも賛成するだろう。その行動に参加するものもいるだろう。だが、生活するということは、柄谷の言うように倫理的に生きることを時々無効にする。社会的な諸関係もそうだ。そこには、イレギュラーな人間関係が介在し、時に、人間を理想から遠ざけさせる。そういうときに、どうするのか。査問委員会を作って、NAM失格の烙印をおして追い出すのか。旧い左翼運動は、粛正というところまでつきすすんでしまった。NAMは、まさかそんな運動体ではないだろう。(権力を発生させない仕組みは確かに考慮されている)、しかし、この組織原理にはそういう人間の複雑さに触れた部分はまったくない。

左翼思想もそうだったが、その思想が実現される時期と、提起さる時期には、かなりのタイムラグがある。問題は、このタイムラグをどう埋めるのかという思想であるが、柄谷の思想にはこのタイムラグを埋める人間そのものへの思想が欠如している気がする。

 20世紀の思想の欠点は、思想の実現時期と提起の時期のタイムラグをどう埋めるか、というときの、人間への思想のないことだと私は思っている。そのタイムラグを埋めるのは実は欠点だらけの人間である。思想はその人間への考察を抜いたまま、理屈だけを立ち上げた。理屈に合わない人間の存在を排除しようとした。
 NAMは、余裕のあるきちんと思想を語れる人達の運動体だから、そういういい加減な人間は最初からいないと想定しているのだろう。それならそれでかまわない。それは、所詮、特権的な運動に過ぎない。
 私は、NAMのような動きがまったく必要ないと言っているのではない。何か、そこに、参加するには、資本主義を廃絶するようなモラルをもたなければだめだと言っているのが気に入らないのだ。

 遊びでやればいじやないか、遊びで。みんなで独自通貨作って遊べばいいじゃないか。生活のためなら、みんなで互助会作って助け合えばいいじゃないか。資本主義廃絶などという理念があれば、資本主義の補完物になっているのではないか、と疑念が出てきて、挫折したり、絶望するやつが必ず出てくる。そうやって運動はいつのまにか衰退していくのだ。いままでもそうだった。理念をもってくれた方が、資本主義にとってはありがたいのだ。

(ただし、私は理念そのものに絶望しているわけではない。その理念の実現のための理念の欠けていることを批判しているのだ。それは、理念なしでは生きられないが理念なしでも生きてしまうやっかいな人間というものへの考察なのであり、その人間への考察を欠いた思想は、無効だと思うのだ。たぶんに、21世紀の思想は、このやっかいな人間への考察が課題となるだろう)
明るい鬱  00.12.19
 ようやくあと一日で、後期の授業は終わる。何とかのりきったというところだ。ただ、ここ一週間、ほとんど体が使いものにならなくて仕事をしていない。まあ、危険信号ということで楽をしている。締め切りの原稿はあるが延ばせばいい。
 私は茅野に山小屋を持っていて(予備校時代は稼いでいたのでその稼ぎで小さい山小屋を建てました。)、週末にはなるべく行くようにしている。もともと自然は好きだし、田舎と都会との二重生活は前から考えていた。私の性格は、どうしてか、人と会えば会うほど落ち込んでいくところがあって、実は、都会ではけっこうストレスがたまる。かといって、都会が嫌いというわけではない。仕事は好きなのだが、体が仕事に適応しないのと同じように、人と会うのは好きなのだが、心はどこか負担に感じているのだ。だから、時々ガス抜きをしないといられなくなる。以前は、けっこう山に登っていた。これでも冬山にも登った。アウトドア指向だった。が、40を過ぎてから、足を痛めて高い山が無理になり、ほとんど運動をしなくなった。おかげで成人病になり、完璧な都会の仕事人間になった。
 犬を飼い始めたこともあって、犬を連れてどこかへ行きたいという思いもあり、山小屋を作った。人は大きい犬小屋だと言うが、まあ、快適ではある。自然の中にいるとやはり気分が落ち着く。むろん、仕事を持ちこんではいるが、やはり気分は違う。少々の鬱の気分は直ってしまう。
 先週のアエラの特集に「明るい鬱」というのがあった。たぶん、私のことだ。こういっては何だが、私は時々「鬱病」になる。むろん、病気というほどではないが、「鬱」であるのは確かだ。何もやる気がなくなる。何事も面倒になる。今生きていることにどういう意味があるのかなどと考える。いつなるかというと、たいてい、疲れ果てた時だ。そういう時の私は恐ろしく不機嫌で、たぶん、そういうときの私に会って、私を嫌いになった人は多いのではないかと思う。
 が、とりえは、回復が早いのと、「鬱」でも、そんなに暗くならないことだろう。だから「明るい鬱」なのである。鬱の状態になったとき、どういうわけか、自然の中にいると直る。だから、山小屋は私にとって必需品なのだ。何故直るのかというと、人がいないからである。情けないがそういうことだ。たぶん、私は、人の中にはいると無理をしてしまうように出来ているのだと思う。自然の中で無理をする必要はない。ただ、それだけのことでいやされる。たぶん、いやされることなんて単純なものなのだ。
 私は、脳天気に明るいやつがうらやましいと思うときがあるが、自分が何故明るくなれないのかよく考える。個人の問題で語れば原因はいくらでもあるので、ここは、人間は何故明るくなれないのか、と考えてみよう。私の結論はこうだ。あまり楽しく生きると、死ぬことが辛くなるからだ。いいかえれば、人間が必要以上につらがって生きるのは、死ぬことの辛さを軽減するためだということ。厭世観というのは、死を受け入れやすくするための準備であろう。仏教がこの世を「穢土」といい、「無常」と決めつけたのは、そう考えないと死を受け入れられないからだ。
 ところで、私はこれを信じているわけではない。辛く生きても明るく生きてもどうせ死ぬのなら明るく生きた方が得だといった、同じアホなら踊らにゃ損損…みたいな考え方もある。どちらかと言えばこつちが好きだが、だからと言って明るく生きられない。だから、明るい奴の人間の構造というものかよくわからん(時々妙に明るい私の奥さんのことがよくわからないときがある)。
 でも、人の中にいるから、明るいも暗いも成立する。自然の中にいれば、関係ないのだ。こういう関係ないという心のあり方を、人の中にいて作ってしまうのを「引きこもり」という。私は、それを避けたいので努力して自然の中に紛れ込んで「引きこもり」をする。こうやって何とかバランスをとっているのだ。情けないが、17歳のように突然切れるわけにもいかないし、自分も人も壊すわけにはいかない。50過ぎて人間を壊したくなったなどと言ったら笑いものになるだけだ。でもその気持ちわからないではない。人は社会的な存在だが、社会を負担とも思う存在でもある。その負担を負う心の強さを私は鍛え損なったが、今の17歳は、ほとんど鍛えるという経験をしていないようにも思える。彼等の「暗い鬱」状態を思うと気が滅入る。

何のために書くのか  00.12.11
 先週引いた風邪は何とか直ってきたが、今度は、パソコンのワープロの打ちすぎで頸椎症(一種のむち打ち症)にかかってしまった。下を向くと気分が悪くなってしまうというやっかいなものだ。昔かかったときはほんとにひどくて医者に行って首をつっていたが、今回は、そこまでひどくはないようだ。今年もあとわずか、しかし、書かなければならない原稿は100枚近くはある。無事に今年を終わりたい。
 文章表現の授業で、学生に「今何を書いているのか、何のために書いているのか」それを常に意識すれば、だれだっていい文章が書ける、と教えている。とまあ、言うのは簡単だが、実は、これは難しいことだ。
 例えば、こういう問題を出した。高校の元教諭が暴走族のメンバーにいじめられていた女生徒を助けるために努力したが、警察にも相手にされず、困ってしまって、たまたま知り合いの暴力団の組長に解決を以来したところそのいじめはぴたりとやんだという新聞記事がある。元教諭とは寺の住職で、暴力団の組長は檀家という関係だった。この元教諭のとった行動の是非について書けというものだ。文章を書かせたところ、99パーセントがの学生が、この元教諭のことを立派であるとか、尊敬できると書いた。
 予想された反応とはいえ、この圧倒的な支持には正直言って驚いた。内容はだいたい、まず女生徒がそれで助かったのだからよいというもの。他に方法がなかったのだから仕方がないというもの。警察などの公的な機関はどうせ何もやらないという不満を述べるもの。目には目を歯には歯をという論理を肯定するもの。暴力団だつて悪い人ばかりじゃないというもの。とまあ、いろいろだったが、この元教諭を賛美することでは共通だった。批判は数名で、いじめにいじめで対抗するようなものではないか、というものもあった。
 元教諭のとった行動を肯定するのには理由がある。学生達は、いじめの問題に敏感で、解決の方法がないことをわかっているから、水戸黄門でも何でもいいから、すかっと解決してしまったそのことを肯定しているのだ。だから、かなり感情的な反応で書いている。中には、警察や何も出来ない教師の悪口を徹底して書いている学生もいた。
 このままではまずいので、まず資料の読み方から教えた。新聞記事は短いもので全てを伝えているわけではない。例えば、記事では元教諭が「万策尽きた」と言っているが、そう言っているだけで、どう万策尽きたのかは書かれていない。つまり万策とは何をしたということかということは分からない。記事では親に相談したことと警察に行ったことしか書かれていない。とすれば、ここは疑って記事を読む必要がある。警察が何もしないも本当のところ、つまり怠慢なのか事件の性質上かかわれなかったのかはわからない。だから、こういう記事には、事実として認定出来る部分と、かなり省略されて具体的なことが分からない部分、それから書き手の恣意性が入り込む部分があって、それを計算しながら読まないと、恣意的に読んでしまったり、書き手の術中に陥ってしまったりすることがあるということを注意した。
 それから、大事なのは何のために書いているのか、ということだ。学生の書いた文章をいったいだれが読むのか。例えば、今いじめで苦しんでいる人が読むとする。とすると、この元教諭の行為を肯定することは、いじめに苦しんでいる人に、暴力団の知り合いがないと結局絶望するしかないと思わせることになるのではないか。
 たぶんこの元教諭の行動を否定はできないだろう。だから、肯定すること自体はおかしくはない。が、それについて書くことは、いじめで苦しんでいる人達に向かって、その解決についての考察を書くことになるということでもあるのだ。そう考えたとき、簡単に、この元教諭の行為を肯定出来るだろうか。やはり、悩むだろう。その悩みがないということに問題があるのだ。
 元教諭のとった行動への反応だけを書くならとても簡単だ。それは、個別的な事態における個別的な対処について個別的に反応しているに過ぎないからだ。つまり、そこには責任というものが発生しない。が、何か普遍的なもんだいとして論じようとすると、言い換えれば、いじめで悩んでいる人の解決のために、というようなことのために書こうとすると責任が発生する。
 何のために書くのか、というのはその責任を負うということだ。学生は今までみんな好きなことをだらだらと書いてきた。責任を負う書き方もあるのだと自覚させることは大変なことだ(私ぐらい老練になると責任を負わなくても負っているふりをする文章を書くことが出来る。が、そういうのは教えない)。私は、一年かけて何のために書くのか、ということを繰り返し教えてきたが、なかなか伝わらない。考えてみれば、責任を負うなんてことは社会に出て否応なしに責任にさらされないとわからないものだ。でもそういう文章を書けないと、社会に出ていっても評価されない。文章を教えることは本当に難しい。来年はやっと文章表現の授業から足を洗える。正直ほっとしている。

「何を」でなく「いかに」の大学 00.12.5
 月曜に、九州大分県にあるアジア太平洋大学の視察に行って来た。別府湾を望む山の上のリゾートホテルのような建物の大学である。今年出来たばかりだが、評判はいい。留学生と日本の学生とが半々というユニークな試みで、学生の集まり具合もいい。手厚い奨学金対策で、アジアからの留学生もかなりの数を確保している。日本の学生の競争率も高い。
 新しい大学で、しかも多国籍の学生がいて、国際化をうたっているから、今は一つ一つが実験のようなものだという。例えば、授業は、英語と日本語だが、日本語の授業も英語のテキストを作らなくてはいけないという。教授会は、日本語と英語だが、議論になると英語になるということだ。語学系の授業は、ビデオで記録し、その記録はパソコンに公開される。従って、講義を受けた学生は繰り返しパソコンでその授業の復習ができる仕組みになっている。授業料は、基本料金の他は、授業数に1万7千円をかけた金額だという。つまり、授業に金を払っているというコスト意識が明確になるわけで、授業をとってからつまらなかったりわからない授業だと、授業料を返して欲しいと文句を言う留学生もいるとのことだ。
 留学生は試験の結果が張り出され、上位のものには賞金が出るという。この賞金で授業料が免除になる仕組みだ。留学生はほとんど今は大学の敷地にある学生寮に住んでいる。要するに、ここは山の上に隔離された世界で、勉強と美しい景色を見る以外に何もないところだ。勉強以外にすることのない環境で、かなり厳しい競争原理が導入されているということはよく理解できた。
 問題もある。例えば奨学金は、今のところ補助が出ているが、この補助はすぐにうち切られるとのこと。奨学金の原資が無くなれば、奨学金を出せなくなり、貧しいアジアの学生は来なくなる。そうすると、日本人の学生だけの普通の国際学部になってしまう。それから、カリキュラムの貧しさが目立った。学部は、アジア太平洋学部と、マネジメント学部とかいう。よく意味の分からない名前の二学部だが、要するに、語学教育の盛んな経営もしくは商学部といったところ。ベンチャー企業を起こしたいアジアの学生を集めているといった感じで、カリキュラムを見る限り、国際的な専門学校といったところだ。多くの留学生を集めておいてまともな日本文化の講座がない。スタッフもいない。どうも前途多難とみた。
 ただ、感じたことは、この大学は、何を教えるかではなく、いかに教えるか、というスタンスで成り立つ大学であるということだ。教え方の工夫を実に様々に試みている。そこに新鮮さが見いだされていて、何を教えるかというところまでいっていないという感じである。
 考えてみれば、最近流行のメディア教育なるものも、何をではなくいかに教えるかの方法論である。共立の文芸に、文芸メディアコースができたが、これも、いかに文学を伝達するかの方法の学問ということらしい。
 「いかに」が最新のものであれば、「何を」はあまり問われないというのがどうも最近は目立つ。この大学は、その典型的な症例であるように見えた。
 「何を」は金儲けでいい。そのための必要な知識を、いかに効率的に学習するか。そのノウハウのグローバルスタンダードをとりあえずの学問のイメージとする大学であるということか。
 しかし、「いかに」は過度期の現象にすぎないだろう。「いかに」の大学を通過した学生が思い起こすのは、苦労して勉強した思い出だけだということにならないか。押しつけられる古くさい教養としての「何を」はいらないとしても、やはり、あなたは何のために勉強しているのか、何のために生きているのか、という生真面目な問を発する、ある、余分な雰囲気が必要だ。どうも、この大学にはそのような余分な雰囲気が感じられない。そういう問にそんなことを考える暇などないという顔であしらわれそうな雰囲気はある。僕はこういうところでは働きたくはないな(頼まれもしないだろうけど)。
 午後は、飛行機の時間までに暇ができので、みんなで(視察は三人)高崎山の猿を見にいった。係員の説明がおもしろくいろいろと勉強になった。猿のボスは一度なるとよほどのことがないと地位を追われることはない。年を取って体が弱ると一人ですうっと群を離れていくという。ボスを頂点とした順位は決まっていて、下の順位でも若ければ、じいっと待てば年寄りが次第に引退していって、やがて出世できるという。なにやら、典型的な日本の会社組織のようでおかしかった。どうも、アジア太平洋大学は、あまりに開かれすぎていてわれわれの職場の参考にはならなかったが、こっちの猿たちの社会はとても参考になった。私達の職場は猿並だった。そのことがよくわかった。

母のパラドックス 00.11.30
 さすがに疲れました。風邪も引きました。うちのナナ(愛犬)を、背中に出来たできものに薬を塗ってもらおうと医者に連れて行ったら、全身麻酔を打たれて何カ所かを切除されてしまった。絆創膏だらけでナナも調子悪そうだ。
 今週のアエラの特集記事は母親の呪縛というものだった。特に、今の若い女性にとって母親は呪縛として存在するらしい。授業で、万葉集の母親について説明したが、万葉の歌では、母親は徹底して娘の恋を邪魔するが、それは娘を守るためである。得体の知れぬ男から守るという意味もあろうが、恋という危険な状態から守るという意味合いもある。しかし、母親は娘を結婚させなくてはいけない。ここに母親のパラドックスがある。
 子は親の手を離れる時に、無防備の肌をさらすようなものだからたいてい傷つく。母親の役割は、子供の傷に対して一緒に痛がることだ。が、母親が痛がり過ぎれば、子供は、母親に甘え、外へ出ることを躊躇する。かといって、痛がらなければ、子の傷は倍になる。母親は、そこのバランスを巧みに均衡させる存在である。
 ベイトソンは、「ダブルバインド」という言葉を、母の子に対するパラドックス的な行為から名付けた。バリ島の母は、小さな息子の性器を刺激する。息子が興奮するとすっとそらしてしまう。それを繰り返すという。息子は、性的な興奮を通して感情を豊かにし、そして、同時に興奮を抑えることを覚えていく。子育ては、そもそもダブルバインドなのだ。自立しなさいと命令する、そのこと自身がすでにダブルバインドなのである。が、このダブルバインドに幾分引き裂かれながら、子供は、自立していくものなのだ。 たぶん、このダブルバンドが子供の精神を危うくしないのは、母と子とだけの閉じられた関係がそこにないからである。子は、成長するに従い、母親以外の人間関係に次第にウエイトを置くようになる。だから、次第に、母親に自分の傷を痛がってもらうことを余計なおせっかいだと思うようになる。それが普通の大人のなりかただろう。
 母親のパラドックスは、解消されるのではなく、子の成長によって、次第に意味のない、そのパラドックス自体が色あせたものになっていくのである。
 現代の母親はどうなのだろう。どうも、子供は成長しても、母以外の人間関係にあまりウエイトを置かない、と言えるのではないか。とすれば、母親のパラドックスはいつまでも色あせない。母親は、子供の社会的な成長を期待しながら、同時に、社会に出ていく時の子供の傷を嘗めてしまう。子供にとって母親はいつまでも色あせない存在として、いつも傍らにいる。
 引きこもりの子供の隣りの部屋には、たいてい母親がいる。が、引きこもりの子は、母親を決して部屋に入れない。が、徹底して離れることもしない。この矛盾した距離の取り方。母親のパラドックスが色あせないまま、そのまま子供との距離にあらわれてしまっているのだ。
 子も母も、今の社会では、孤立した個人だ。とすれば、孤立した者同士寄り添うしかない。が、その関係は、パラドックスそのものの関係だ。関係は最初からねじれているのだ。ふたりだけではこのねじれは直らない。
 母が個として孤独である社会なんてあるはずがなかった。が、今は違うらしい。母はとても孤独なのだ。とすれば、母の孤独は、無意識に子供が他との関係にウエイトを置くことを許さないだろう。どうやらそこいらへんに、今の母子の問題がありそうである。 

日本的なるもの 00.11.22
 加藤紘一は情けなかったなあ。期待していたのに。だが、考えてみれば、これは政治力学の問題で、個人の美学の問題じゃないから、当然と言えば当然の判断なのだろう。一人議場に乗り込んで賛成して除名になった方がかっこよく政治生命も失わないですむという意見もあったが、高倉建の任侠映画じゃあるまいし、一人かっこつけても無視されるのが落ちだろう。そんなに甘くはないと思う。ただ、おもしろかったのは、加藤紘一が若手の議員の前でおれと山崎で乗り込むからみんなはついてこないでくれ、と言うと、大将がそんなこというもんじゃないと諭されて黙ってしまったことだ。ここにも、極めて日本的な情の論理が働いていて、情けなくおかしかった。
 森首相は個人的にはすきだ。とにかく、暗くないのがいい。この脳天気さは一つの救いだ。この脳天気さは、担がれている御輿の脳天気さで、これまた日本的なるものの論理だ。御輿は明るいほうがいい。あまり考えられても困るのだ。
 ところで、森首相も危ないし、結局、加藤紘一も日本的な論理を見せつけて破滅した。これは、日本的なるものの断末魔の光景だな、と思う。私は日本的なるものが簡単に解体されてしまうことを快くは思っていない。むろん、自民党的なるものの体質は、嫌いだが、かといって、野党的体質がいいとも思わない。ただ、森首相なるものの日本的なる姿が生き延びることは、われわれも多少だらしなく、あんまり深く考えないで、厳しい競争社会の現実に適応せずとも、合理的でなくてはいけないなどと思わなくても、何とか生きていけるのではないか、と思わせてくれるのは確かだ。つまり、森首相的日本的なるものが死ねば、本当の意味で、われわれは、厳しい競争社会の現実に投げ出されるだろう。公共事業で食っていた田舎のおじさんやおばさんは職を失い、ネットの成金長者がかつての不動産屋のように幅を利かすだろう。それを悪いというつもりはない。将来の借金のことを考えればやむをえない時代の流れだ。
 しかし、今、日本的な論理に代わるものがあるのか。森首相を退陣させることができないのは、その論理がないせいだろう。外国は日本の政治を馬鹿にしている。だから退陣すべきだなどとメディアを通して言う知識人がいるが、結局、外側から見られる自分の問題としてしか論理を建てられない。いつも同じだ。日本的なるものにどういうように引導をわたすのか、その方法が見えてこない。日本的なるものは、われわれの生活と文化を支えているという今の現実がある。それを解体しないと立ちゆかないとするなら、どういうように解体し、次の論理をどう構築するのか。それが実はわからない。わからないなら、今の生活を死守するのが、当然の判断になる。だから、自民党は生き延び、森首相もかろうじて生き延びている。
 むろん、これは難しい問題だ。私にも分からない。分からないままに、日本的な論理は死んでいく気がする。そのことがわれわれにとって幸福なことなのか不幸なことなのか、それも実は分からない。
 でも、精神の健康という意味では、変化はした方がいい。その意味では、今は極めて不健康だ。加藤紘一の茶番によってわれわれは極めて不健康になってしまった。
 
教養って何だろう。 00.11.15
 ついに忙しさがきわまり、体調も思わしくなく、一週間ほど授業を休みました(正確には今休んでいる途中です)。学生のみなさんごめんなさい。それでも、明日は、明治の大学院で特別講義、あさっては八王子で会議、次の日の土曜は共立の公開講座で講演、次の日曜は、推薦の入試と、実は、休んでいる暇などないのです。考えてみれば、9月に中国から帰ってきてから、「歌垣の言葉論」を20枚、短歌の時評を3本で合計40枚近く。短い原稿だが俳句の言葉論を2本。それから、自分ひとりで書いたわけではないが、紀要の原稿「中国少数民族の調査記録」を80枚と、2ヶ月でこれだけ書いた。途中、シャーマニズムの研究会での発表もあった。ついでに、12月10日締め切りの原稿で75枚というのがあって、これから書く予定。う〜ん、これは早死にするなあ。
 これだけ仕事をしていると、どこかで藤森さんのようにねつ造しているのではないかと不安になるが、まあ、それは読み手も承知のことだから気にしないでおこう。別に、実証的な学問ということで仕事をしているわけではないから。
 公開講座で、「教養と私」という題で講演せざるをえなくなって実は困っている(私は公開講座委員で講演する人があまり居ないのでやるはめになってしまったのです)。だいたい教養などあるとは思っていないし、教養という言葉など嫌いだからだ。日本の教養なる言葉は、発展途上国が国を発展させようとする時の一つのスローガンみたいなもので、西欧的な知識を先に吸収したものが、まだ吸収していないものに教えるものか、西欧の普遍的な知の世界を知ってしまった特権的知識人が、世俗的な国家に奉仕するのを拒否し、自分の世界にひきこもってしまうときの根拠になるものか、だいたいそんなところに類別される言葉だ。
 今、私は、いろいろと本を読んだりものを書いたりしているが、別にそのことが教養になるなどとは思っていない。この仕事がそんなに嫌いじゃないというのと、大工がいい家を建てたいというのとそんなに違わない動機で、日々の忙しい日常をこなしている。腕のたつ大工でもどうしようもない奴はいる。それでいいのだと思う。私の身近に思想家と呼ばれているのがいるが、人間的にはどうしようもない。でもだからと言ってその思想の信憑性がなくなるわけでもない。アメリカの大統領だって、セクハラしたが、仕事はちゃんとしていた。それでいいのだ。
 ただ、いろんな人と出会って、数はかなり少ないがこの人は立派な人だと思うことはある。そういう人は、社会の中でいろいろと苦労して身につけた知恵をたくさんもっているのだなあと感じる。そういう人に出会うと、ほっとするのは確かだ。
 それにしても理想的な教養人とはどういう人なのだろうか。国家いや地球の未来に対して強い関心を抱いていて、深い知識に裏付けられた提言をする人。しかし、それだと思想家や哲学者ということになってしまう。それほどすごくなくて、仕事や生活のある場面で、的確な判断が出来る人。いや、人生について含蓄のある意見を持っている人。いや、人格者。大学の先生。なんかどうでもよくなってきた。ようするに、そういう人に私はあまり関心はないのだ。
 田舎で会う農家のおじさんは、とても穏やかな顔をしている。のんびり仕事をしていることがよくわかる。たぶん、家族や村やその程度の範囲の中で、それなりにうまくやっていく知識を持っていて、それ以上の複雑な社会や人間関係に対処する知識は持っていないだろう。だから、とても穏やかな顔をしている。このおじさんは、村の中では教養人だが、都市社会から見れば教養人ではない。そういうものなのだと思う。われわれは、田舎のおじさんを都市社会から見る見方で、教養があるか無いかを判断しているところがある。だから、視点を変えれば、誰も教養があり、誰も教養がないのだ。
 むろん、こういうややこしい話を公開講座で話すつもりはない。かといって何を話したらいいのか、実のところまだ悩んでいるのだ。

石器ねつぞう事件で失われたものとは何だろう  00.11.7
 今、旧石器時代の石器ねつぞう問題が世間をにぎわせている。石器を自分の手で埋めた藤村さんはみんなから今袋叩きにあっている。私は、たまたまスクープの毎日新聞を読んだが、なんでこんな一面の大見出しで報道しなくちゃいけないのか、というのがその時に抱いた感想だった。その時は、そんなに大問題とは思わなかったが、まあ、教科書を書き換えるとか、日本の考古学の信用の失墜だとか騒いでいるのを見ると、これは大きな問題なのかな、と思うのも確かだ。
 だが、やはり、あの一面すっぱ抜きの報道に違和感を覚えたことは未だに残っている。本当に、そんなに大問題だったのか。この事件は。
 毎日は自分の力でスクープしたからあれだけ力を入れたのだろう。が、これが、新聞社のスクープでなかったらこれだけ大々的に扱っただろうか。どうもそうではないという気がする。
 実際、このねつ造によって何が失われたのか。考古学への信頼か。しかし、一面すっぱ抜きで驚かねばならないほど今まで考古学は日本や世界で信頼されていたのだろうか。どうもそうとも思えないのだが。教科書にも載っていた事実を書き換えなくてはならないことか。確かに、ねつ造である事実と信じられてきたことが覆るのは情けないが、しかし、新しい証拠が発見されて定説が覆るというのはよくあることである。教科書に載っていることなんていつでもひっくりかえる可能性があるくらい思っていたほうがいい。科学というものへの信頼か。これもそんな信頼などあるのかよ、と言いたくなる。
 彼がやったことは情けないくらい愚かなことだが、それじゃ、本当に批判できるのか、と私などは逆に問いたくなる。例えば、証拠をねつ造しなくても、証拠を無視したり、強引な解釈をしたり、証拠を挙げないで論じたりすることを、学者はやってこなかったのか。私などは、証拠をあげないで推測で論じる方だから、この藤村さんをあまり厳しく批判する資格はないと思っている。
 ある暗黙のルールの範囲でのいいかげんさは許され、そのルールを踏み越えるいいかげんさは新聞の一面で大々的にたたかれる。その差はそれほどないと気がするからこそ、なんとなく不公平だなと思うのだ。
 これは、私の推測だが、彼の発見は、日本人のナショナリズムを大いにかきたてた。彼の力によって、北京原人よりも古い日本原人が発見されたのだ。ふだんナショナリズムに批判的にな知識人達が、この発見によって自分の中のナショナリズムを大いに満足させた。だが、これはねつ造だった。知識人は怒った。怒ることによって、安易にナショナリズムに酔ってしまった自分をごまかそうとした。この推測はややうがちすぎとは思うがねつ造だろうか。世界で一番古い石器を掘り出してほしいという期待に負けてしまった藤村さんは、案外に気の毒な人なのかもしれない。
 ただ、この事件に私が思ったことは、モノという物証に頼る、最も実証的な考古学という学問が、物を掘り出す人間を信じるか信じないかに、その実証の信憑性がゆだねられているという、そのおかしさだ。結局は、人間の信頼性に最後は返されてしまう。実証ってこんなものなのか。昔新聞で読んだある記事を思い出す。数学の世界で世界的な難問の一つがコンピューターを使って答えが出たという記事だった。そこに、ある数学者の次のようなコメントが載っていた。その答えが本当に正しいかどうかは、そのコンピューターの精度を信頼するかどうかにかかっていると。既に人間は、コンピューターの正確さを証明することは出来ない。信頼するしかない。最後は、信じるか信じないかだ。コンピューターと違って、人間はぼろが出る。これは考え方によっては、少しほっとする出来ごとなのかも知れない。
 とにかく、藤村さんは可哀想な人だ。自業自得だとしても、日本人のあいまいさや負の部分を必要以上に負わされた、という気はする。
 
「リバーズエッジ」とイ族の供犠の儀礼  00.10.30
 日曜(29日)に短大の学生と佐倉にある歴博へ行く。毎年恒例の行事である。民俗の展示コーナーを見るのが目的。ここ4、5年行っているが今年新しい展示物が増えていた。それは、都市民俗のコーナーで、「金の神・銀の神」とある屋号の、占いや除霊の店である。黒いスモークのかかったガラス戸に「10時オープン」と書いてあったのが妙にリアルだった。思わず腕時計を見てしまった。医者にもなおせない神のさわりや霊のさわりの相談を受け付けると看板にある。現代の民俗として追加されたのだ。ついでに、占いで有名な新宿の母の写真も近くにある。
 無意識と向き合うことでバランスをとらざるを得ない現代人の生、というのが、今、いくつかの授業のテーマである。民俗学もそのテーマに入る。吉本ばななや川上弘美、笙野頼子を読んでいる授業もそういうテーマだ。この無意識を「死」と言い換える戸、よりこのバランスの取り方はドラマチックで、危ういものとなる。
 授業で使おうとおもって久しぶりに岡崎京子の「リバーズエッジ」を読み直した。やはり、さすがだ。ここには、今の現代の抱え込んだ病のほとんどがある。正常と異常の境界を危ういバランスで生きる少年少女。みんな少しずつあるいはかなり危ない生き方をしている。性障害、食の障害、愛の障害と、生の基本的な機能に障害を負っているかれらは、唯一セイダカアワダチソウの中に隠された死体を見ることで心が落ち着くのだ。
 死体は彼らの無意識である。彼らの暗渠を死体は象徴する。自分の暗渠が死体というモノによって示されることで、一時的に心は安定するのだ。なぜなら、死体は、考えさせることや不安などという内面的なもののいっさいを、無効にしてしまう迫力があるからだ。「死」の迫力といってもいい。死体の魔力と言ってもいい。死を意識したとき、人は、恋愛の悩みも試験に落ちたことも性の不一致もどうでもよくなるだろう。とりあえず、何も考えないで畏れていればいいだけの時間がそこに存在し、それだけで心は落ち着く、いや、正確に言えば麻痺する。死体を見つめる少女はただただ「実感がわかない」という。実感とは、恋愛の悩みや試験の悩みなどうでもよくなってしまう事態に恐怖するということだ。だから死体に「実感がわかない」ことで、かれらは、生の実感からも回避できている。
 死体に「実感がわかない」ほど少年少女は病んでいるということになる。死体の魔力によって相対化されなければならないほどの、ずれてしまった人間がそこにあるということだからだ。
 今、ちょうど、中国少数民族のイ族の供犠の儀礼の報告書を書いている。イ族の人達は、家族の平安を祈って、羊を殺す。殺した羊はあの世へ行くが、ついでに自分たちの禍もあの世に持っていってもらうのである。彼らは羊の死体を作り、その「死」に特別な意味を付加する。むろん、彼らは死体を前に「麻痺」とたりはしない。が、何となく、「リバーズエッジ」の少年少女と似ているものを感じる。それは、彼らの生に「死体」が必要だという一点においてである。少年少女にとって、死体は、彼らの健康と平安を祈るための生贄であったのだ。イ族もまた彼らの無意識と向き合う。その無意識には彼らの底知れぬ文化が潜んでいる。時々その無意識と向き合い、彼らも厳しい現実の生活とのバランスをとろうとしているのだ。
 
 
村の外か中か  00.10.22
 21日の午前中、マドカから電話。マドカとは詩人の奥村真で昔からの知り合いだ。彼の詩集『分別の盛り場』(白地社1996)は私の気に入っている詩集である(彼のHPは私のHPのリンク集から入れる)。彼は、今、確か、パソコン関係の会社で働いていると思ったが、聞くと、最近、ある劇団のオーディションを受けて合格し、今、演劇もやっているという。どうやら、昔の学生運動が少しは役にたっているらしく、そのとき鍛えた大声が、今、演劇の発声の基礎が出来ているとして褒められているという。人生何が役に立つかわからないものだ。それにしても、五十にもなって、何で演劇なのか、と聞くと、体をつかって表現するのは楽しい、自分にあっているのかもしれないと言っていた。なんかうらやましくなってしまった。そういう楽しい事って、自分は今、やっているだろうかと考えると、どうも、やっていない。
 その日の午後、今度発足させる学会「アジア民族文化学会」の準備作業のため、共立女子短大へ行く。やはり、学会を発足させることは大変なことだ。案内状を発送する準備や、名簿作成のことなど打ち合わせをする。
 その夜、俳句結社「童子吟社」の13周年記念パーティに行く。招待だが、この一年、「俳句の言葉論」を書かしてもらっていたので、お礼を言うつもりで挨拶をした。とにかく、もう毎月原稿を書かないですむと思うとうれしくなった。調子にのって、少数民族のことなどをスピーチで話をした。そうしたら、その話はもったいないから、来年連載で書いてくれないかとたのまれてしまった。こういうのをやぶ蛇というのだろうか。
 どういう話をしたかというと、白族の小石宝山の歌垣で取材をしていた時の話。張さんが歌い手達にインタビューすると、彼らは中国語がわからないという。つまり学校へ行っていないらしいことがわかった。小学校へ行っていれば、中国語を習うから、簡単な中国語は話せる。会場に白族の若者がいて、彼は中学校まで行っていた。しかし、彼は白族の歌が聞き取れないという。去年、小学校の若い先生に話しを聞いたときも同じで、彼女たちも歌は歌えなかった。中国語が話せないということは、彼らは、農民として、自分の村で結婚しそこで老いそこで一生を過ごすということを意味する。それは当たり前の生き方だが、開放経済の今の中国では、閉じられた生き方というイメージがただよってしまう。その歌の会場ではシャーマンが何人もいて神の言葉を発していた。当然、そのシャーマンも中国語を話せない。そこから、わかったことは、歌が歌えるということは、共同体の中で生きるという覚悟(むろん、この覚悟は無意識のものであるが)、があるからだ、ということだ。教育を受けることは、共同体の外にでることを意味する。その時点で、歌は歌えなくなるのだ。それだけ、歌を歌うには共同体の内部での習練が必要なのでもある。閉じられているからこそ、シャーマンがいて神と話ができる。共同体の外に出ていけば、神に自分たちを開くことはできない。
 この歌を歌うということを、この日本での俳句を詠む、短歌を詠む、詩を書く、といいうことに置き換えても同じではないだろうか、というのがスピーチの主旨であった。われわれは、少数民族の農民のように、閉じられて生活してはいない。が、どこかで、ここで生きていく、という覚悟のようなものを持っていないと、表現というのはできないのではないか、ということを言った。むろん、ここでのここが何かということは難しい。農民にとって、外の世界に出て高度な教育を受ければ、豊かな生活とより刺激的でおもしろい世界を手に入れることができる。だから、共同体を出た人達は歌を捨てる。共同体の外に出て歌を捨てない人は、歌を一つの文化として再認識した人達だ。つまり、こういうことだ。われわれが文学的表現を必要とするのは、一端共同体の外に出て、文化として再認識しているレベルなのか。それとも、共同体の外に出ないで中で生きていく、というレベルなのか、ということだ。
 中で生きていく人達にとって歌は、自己を高めていくような文化的表現ではない。が、その歌が自分の生にしめる割合は、文化的認識よりはるかに高い。かつては、歌がうまくなければいい結婚出来ない、ということも十分あったはずである。
 この話が俳句結社でかなり受けた。俳人達は、自分達は俳句の共同体の中にいる、と解釈したようだ。そうなのかも知れない。が、本当は、われわれは皆外にいる人間だ。それでも中にいる、と考えるとすれば、それは、かなり個人の生き方の問題になる。それは、簡単には人に説明できないものだろう。
 さて、私は、今、楽しいことを何かやっているのだろうか。文章を書くことは苦痛ではない。が、楽しいこととは言えない。学生にむかっておしゃべりするのも辛くはない。楽しい時もある。が、楽しいことか、と問われるとそうとも言えない。どうも、脳をつかうような領域に楽しそうなことはあまりないという気もする。身体の領域に楽しそうなことはある、というのが正解らしい。マドカも詩を書くことより演劇が楽しいというのは、そういうことなのだろう。それじゃ、自分にそういう楽しいことが出来るか、というと、うーん、もう一度山登りを始めるか、とかスキーの腕を鍛えるかとかそれくらいのことしか思いつかない。あんまりたいしたことない。どうもこのまま、楽しくない領域で生きていくしかなさそうだ。 



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