なぜ歌うのか  万葉集講義  
   

T章 文学の根拠

1 何故文学を必要とするのか
 この授業の目的の一つは、われわれは何故文学を必要とするのか、という問いを大事にしていくことです。今、大学で文学部が文化学部とか、コミュニケーション学部とか情報、メディア学部とかに変わりつつあります。それは、実は、文学というものが何故必要なのかの説明に自信を無くした社会が、最も説明しやすい名称で文学を説明しているということでもあるのです。つまり、今の時代、文学は、文化であるとか、情報であるとか、メディアであるととらえかえせば、文学が現代に必要な理由が説明できると考えているわけです。が、それは、結局、何か本質的な説明を回避している気がします。
 人が文学に惹かれるのは、文化だからでも情報だからでもありません。シンプルな言い方をすれば、心動かされるからです。そういうシンプルな説明を、われわれは、今の時代にとっての必要な説明として展開できる自信がないから、文学という名称がつかないのに実態は文学を教えているような変な学部が増えつつあるのです。ということは、今われわれが問われているのは、文学に惹かれるのは心動かされるからだ、というようなシンプルな説明を、われわれにとっても社会にとってもとっても大事なことなんだと自信をもって説明できるかどうかだと思います。むろん、自信だけではだめで、どのように説明すればそのようなシンプルさが受け入れられるのか、その方法を考えて行かなければなりません。
 この授業ではそういうシンプルな説明を、当たり前のこととして退けずにどうやって説明したらいいか模索しながら、果敢に展開していきたいと思っています。

 文学部で学生がこないなら、もっと本質的に名前を変えて感動学部でも作ればいいのだというのはどうでしょう。さすがに感動学部というのはちょっと気が引けますね。
 ただ、問題は感動するかしないかという視点は大事にするべきで、とすれば、感動って何だろう、このように問い返す必要がありますね。つまり、文学における感動ってなんだろう。それはどのようにして生じたものなのか。まずそこから考えてみましょう。
 感動というのは心が揺り動かされることでしょう。心動かされるということだけを取り出せば、例えば、人が悲しんでいるのを見ると、こちらも悲しくなる。あるいは動物だって悲しむ。そういう場合の悲しみのような心の動きが、文学的感動につながる感動なのでしょうか。おそらく、さかのぼってつきつめればそうだと言えるかもしれません。だが、もっと限定してその発生を考えないと、文学はただ心が揺れ動く物理的な現象の一つになってしまいます。
 こう考えたらどうでしょうか。子どもを失ったチンパンジーがいます。子どもを失ったときそのチンパンジーはとても悲しみました。それは、ここでいう文学的感動でしょうか。いや、違うと思います。なぜなら、そこには言葉が介在していないからです。子どもを失えば誰でも悲しみます。それはある高度な関係性を持つ動物の精神的もしくは肉体的反応であると言えます。チンパンジーも人間もその高度な関係性を持った動物の中に入ります。が、それでは、チンパンジーと人間の違いとは何でしょうか。チンパンジーは子どもを失ったという悲しみをやがて忘れてしまいます。人間は忘れません。そこが違います。何故チンパンジーは忘れるのでしょうか。チンパンジーは過去や未来を持たないからです。ただ現在を生きているからなのです。ところが、人間は過去を引きずり未来を見ます。だから忘れないのです。
 現在だけを生きられるというのはある意味で幸せなことです。どんな苦痛も現在だけで終わってしまい、次の現在に引きずらないからです。しかし、人間は引きずります。ある意味ではそれは不幸なことかも知れません。忘れないということは、悲しみを感じた出来事を何度も何度も心の中で繰り返すことだからです。しかし、心の中で繰り返すとき、実は、その悲しみは対象化され、その悲しみを克服した新しい自分へ変わるきっかけになっているのです。つまり、過去を引きずることで人間は変化(よく言えば成長)するのだと言えます。その変化があるからこそ人間は人間なんだと言うことができるのです。ただし、時に、その悲しみの繰り返しが変化を生み出せないとき、どうなるか。それを絶望の状態といいます。人間は、だからいつも絶望と背中合わせになって生きているとも言えるのです。
 人間は何故悲しみを繰り返すのでしょう。それは、言葉を持っているからです。言い換えれば、過去や未来を持つのは言葉があるからだと言えます。言葉によって、人間は、過去を現在に描く事が出来るのです。つまり、言葉は、過去という、現在に存在しない世界をまざまざと再現する機能を持っているということです。言葉を持ったからこそ、人間は、心動かされる機会をたくさん持つことになったわけです。現実に目の前で子どもが失われなくても、人は、食事をしているときでも、散歩しているときでも、眠りにつく前でも子どもを失った悲しみに襲われることになります。それは、言葉が、その悲しみを心の中に再現するからです。おそらく、文学につながる感動は、こういう言葉の持つ働きを起源としている。そう考えることができます。
 チンパンジーに言葉を覚えさせる実験をしているある研究所が、子供を失ったチンパンジーにその子どもの事を思い起こす言葉を教えたそうです。すると、数年たっても、その言葉を示されるとチンパンジーは子供を失ったことを想い起こし悲観に暮れたそうです。その時チンパンジーに示された言葉は、文学の言葉ではありませんが、それにつながる言葉のはじめの姿だと言えないでしょうか。


2 心動かす言葉の可能性をさぐる
 言葉について別の角度から考えてみましょう。言葉はすべて文学の言語の始まりなのでしょうか。そういう言い方は間違ってはいないにしても、あまりに漠然と言葉を取り扱うことになってしまう気がします。
 吉本隆明は『言語にとって美とは何か』(角川文庫)で次のような事を述べています。人間が海を見て「ウミ」と言葉を発したとします。その音声としての「ウミ」には、対象である海を直接指し示す働き(指示表出)と、発話者の意識のさわりのようなもの(仮に内面と解釈してもいい)を示す働き(自己表出)の二つがあります。文学の言葉は当然この二つの働きを併せ持ちますが、後者のはたらきが文学的言語の要素になっていく、と論じています。
 難しいですが、こう考えてみましょう。例えばここにチョークがあります。ただ「チョークがあります」といっただけでは、意識のさわりのようなものは伝わりにくい。そこで、工夫して、高い声と低い声を交互に交えリズムをつけながら「チョークがあるぞ」と歌ってみましょう。すると、そこにはただチョークがあるのではない別の何かの意味が表されることになります。その何かを、ここでいう意識のさわりのようなものとして考えてみましょう。あるいは、歌が歌えない人は「チョークはここに孤立している」と語ってみます。そうするとこの言葉は、ただのチョークではないあたかも人間の内面を語る言葉になります。つまり意識のさわりを表現したことになるわけです。
 つまり、言葉は、ただ明確な対象を示すはたらきではない、意味として表しにくい何かを表す機能をもっており、その機能は様々な工夫によって、あらわされていいくということです。例えば、歌を歌うことや、あるいは文体を工夫して詩的な表現を作っていくことがそうです。そういう、意味としては簡単に表し得ない何かを表していく言語上の工夫が、われわれの文学につながっていくということなのです。

 それなら、何故、意識のさわりのようなものを人は表そうとするのでしょうか。それは、われわれの社会的なあり方が、ただ目の前にある対象を指し示す言葉のはたらきでは満足しないからです。言い換えれば、われわれ人間という存在は、見えない世界、つまり、意識のさわりのようなものを伝えたり伝えられたりしなければ、生きているという自分たちの意味やあるいは社会生活そのものを営めないからなのです。こう言ってもいい、意識のさわりのようなものを伝えられると人は心動かされる。その心動かされる体験がないと人は人として生きられないということです。
 おそらく、それは、われわれが現在だけではなく、過去や未来という時間を生きていることと関係しています。未来や過去は見えない世界です。ただ眼前の対象を指し示すはたらきだけでは過去や未来は示せません。心動かすような言葉のはたらきによってこそ過去や未来は可能となるということなのです。逆も言えます。過去や未来を生き始めたとき、人間は、心を動かす言葉のはたらきを手に入れたのだと。つまり、過去や未来という見えない世界を併せ持って人が人として存在し始めたとき、人は、見えない世界に触れる(つまりそれが心動かすという言葉の働きである)こと、それ無しでは人は人として生きられなくなったということです。
 心動かす言葉のはたらきの重要性がおわかりいただけたでしょうか。心動かされる体験とは見えない世界に関わっていく体験ということなのです。それは、まさに、われわれがこの現在だけを生きるのではなく過去や未来を含めて生きるということなのです。こういう本質的な言葉のはたらきを起源として、実は文学という言葉の世界は成り立っているのです。何故、こんな大事な文学が今衰退しているのでしょう。それは、文学の持つ言葉のはたらき、つまり、見えない世界にかかわっていくそういう体験が、できにくい時代だからだと思われます。過去も未来もわれわれに可能性をもってあらわれてくれない、そういう時代なのです。人の心が抱え込んだ闇はあまりに深くて、文学という言葉のはたらきではとてもじゃないけど見えない世界(闇)を描くには限界があるということなのではないでしょうか。むろん、だから文学はもうだめだということではなくて、それなら、どのように工夫すれば、文学の言葉は、この現代の見えない世界を描けるのか、それを追求していくことが求められているということです。

 つまり、文学の言葉はもう一度現代の見えない世界にどう触れうるのか、その可能性を試すべきであり、あるいは変革すべきなのです。その限界を指摘してその衰退だけを述べることはあまりいいことだとは思えません。
 この授業では、そういった、心動かす言葉の可能性をあらためて考えて見たいと思っています。何故、言葉は人の心を動かすのか。そういうシンプルな問いから始めたいと思います。そうすることで、心動かす言葉の可能性、見えない世界に踏み込む言葉の可能性がより広げられればよいと思うからです。


3 歌の発生
 言葉が見えない世界を心動かすものとしてあらわし始めたときが、文学の発生なのだとすると、その最初はどんな言葉で見えない世界とはどんなものだったのでしょう。
 おそらく、それは、神もしくは霊にかかわるイメージだったと想定できます。神と言っても、人格神ではなく、自然を神とみなすようなアニミズムの世界と考えるべきでしょう。あるいは、死者が霊となるというイメージであったかもしれません。四万五千年前のネアンデルタール人の墓から花粉が検出されたといいます。つまり、彼らは死者を埋葬し花を供えていたわけですが、何のために花を供えたかというと、死者を単なるモノではない、霊とみなす発想があったからに違いありません。
 自然と人間の距離が今よりはるかに近かったとき、自然は人間にとって過去であり未来であったはずです。だが、人が自然からの疎外を感じ取ったとき、人は自然に見えない世界を感じ、そこに意識のさわりを感じ取るようになったと思われます。その意識のさわりとは、人の内面であると同時に、自然という外部における見えない何かである、といえます。それは死に対して、人が見えない何かを感じ取ることに対応しているでしょう。死者は自然の側の見えない世界に行く、という自然を他界とみなす考えを古代の人びとは持っていました。人は自然(あの世)から生まれ、自然に帰る、と思っていたのです。自然はまさに人間にとって過去であり未来だったわけです。
 とすれば、意識のさわりとしての言葉は、そういった自然としての神や霊にかかわるものとして生まれてきた、と言えるのではないでしょう。それはどういう言葉だったのでしょうか。おそらく、歌のようなものであったのではないでしょうか。
 というのは、神や霊にかかわるものとしてあらわれたとするなら、その言葉は、いわゆる日常に使う言葉と違っていなくてはならないからです。その言葉そのものに心動かす力がみなぎっていなければならないからです。とすれば最初声としての言葉は、抑揚をつけ、リズムをつけ、その意味としての言葉の性格を逸脱してしまうようなあり方によって「意識のさわり」を伝えようとしたに違いありません。そういう言葉の様相は「歌のようなもの」だったと思われます。

 折口信夫は『国文学の発生』(全集第一巻)で、文学の発生とは、最初に文学の言葉から出発したのではなく、神の言葉(呪言)が、シャーマンの口から発せられ、それが律文のような繰り返しの詞章として伝承されていき、やがて文学の言葉になっていくのだと述べています(配布資料)。その最初のシャーマンの口から発せられる言葉は、日常に使われる言葉ではなく、神の言葉の刻印を受けた「歌のようなもの」だということでしょう。折口はその詞章を、氏族の由来を語る神の一人称語りとしての叙事(神話)であると述べますが、むろん、そのような叙事として形を為していくまでには、神の言葉のかなり長い歴史が必要であったに違いありません。
 折口信夫はこのように文学の言葉の最初のイメージをシャーマンの神懸かりの言葉とするような自分の説を、信仰起源説と呼んでいます。この信仰起源説に対しては当然批判もあります。それは実証されないものである、という批判もありますし、シャーマンの言葉から文学が生まれるという具体的なイメージそのものが、古代にそのままあてはめることはできないのではないかといった批判です。
 確かに、そういった批判は当てはまると思われます。だが、折口信夫の「信仰起源説」をそのまま受け取るのではなく、一つの発生のイメージを探る合理的な理論として受け取っていけばいいのではないでしょうか。
 例えば古橋信孝は、折口信夫の信仰起源説を踏まえながら、歌の発生について次のように述べています。

  神懸かりした人、つまり神がしゃべる言葉は意味不明だった。その神の言葉を翻訳し たものが、神の呪言である。だから神の呪言は神のことばとみなしうるように装わねば ならなかった。日本の場合、後に、五七音を基本とする音数律と、その五七音を一行と した場合、その一行を別の言い方で繰り返す繰り返しが神の呪言の装いだった。だから、 歌は始源的に装いを本質としていた。(『古代和歌の発生』東京大学出版会一九八八)

 古橋信孝は、神の言葉とはいっていません。神の言葉の装いといっています。だから、装い方が重要で、それが、歌の韻律であったり定型であったりするというのです。このような言い方ならば、なにも始まりはいつもシャーマンであるといわなくて済みます。神を装うことが出来ればシャーマンでなくてもいいわけですから。
 重要なのは、最初の歌とは、神の言葉の装いだということなのです。古代社会では、見えない世界を神の世界というイメージでしか想像しえませんでしたし、それ以外に見えない世界をあらわす方法を持っていなかったのです。だからこそ、常に、神の装いという、見えない世界を表現する方法が生まれたのだということでしょう。そして装いだからこそ、装う方法が共有され、その装いが次第に記号化されてくるわけです。つまり、ある一定の言葉の秩序(装いの方法としての記号)に従えば、それは神の言葉のような見えない世界を表現することを可能にするのだと了解され、皆がその方法に親しみ始める、ということが起こるわけです。その装いの方法の記号化とは、日常の言葉の秩序と違う言い方を共同化したものということですから、定型と考えることができます。
 定型とは、ある一定の手順によって成立する特異な表現を、誰もが繰り返すことを可能にする、言葉を表現するときの規格です。規格が出来ると、その規格そのものが、象徴的な意味を帯びて、その規格(定型)自体が非日常の世界を呼び起こすのだと幻想されてきます。それを記号化とここでは呼んでいます。
 「歌のようなもの」が、次第に、歌として人々にとっての見えない世界を表現する重要な手段になっていったのは、そういうプロセスがあると考えられます。「装い」とはそのようなプロセスを上手く論理化するうまい言い方ではないでしょうか。


4 発生論から見た歌の機能
 折口が文学の発生を、宗教的な言語だとする考えは、こちら側がうまく咀嚼していけば、納得のいくものです。人間が見えない世界を対象化するはじまりが宗教であることは、それ自身とても合理的な考えです。ただこの場合の宗教とは、特定の神を信ずる教団宗教としての宗教ではなく、人間を取り巻く環境そのものの人間にとっての図りがたさを、神としてあらわした、そのようなアニミズム的信仰を意味します。そのようなアニミズム的信仰は、古代ではなくても、実は、現在のわれわれの社会の中でも十分に見いだすことができるのです。

 文化人類学者山田陽一は『霊のうたが聴こえる―ワヘイ族の民族誌』(春秋社 1991)で、パプアニューギニアのワヘイ族の「うた」について報告しています。
 ワヘイ族はグハという霊的な存在とともに生活しています。彼らにとってグハは神話的な存在であると同時に畏怖すべき霊的な存在です。彼らのうたはこのグハの力を動態的に表現します。そのうたの「高い声」と「低い声」の絡みが生み出す「ぶつかり」や「揺れ」や「うねり」の効果が、グハという霊的な存在の力のありようを動態的に表現するのです。それは、グハの多様な力を模倣する行為そのものなのです。
 従って彼らにとってうたは「神話的世界の単なる再現ではなく、人びとの主体的、能動的な力の希求であるとともに怖れの表明なのであり、神話的=霊的存在についての人びとの意識が顕著に反映されたものと見るべきなのである」と山田陽一は述べています。あるいは「うたの体験は、霊の語りの表出と知覚によって、揺れという霊の根源的な力をみずからの内に取り込む体験にほかならない」、また、「彼らはまた、霊を恐れる気持ちと幸福感とが紙一重のちがいしかなく、いずれも不安定に揺れ動き、簡単に相互転換するものであることも承知しているはずである」とも述べています。
 山田陽一が述べるワヘイ族のうたとは、その声の抑揚がかなり重要なウエイトを占めていることがわかります。ここでは、声の言葉としての意味よりも、その声のうねりが、霊的な存在であるグハの表現であり、同時にワヘイ族の人びとの霊的なものへのかかわりを積極的に促し、同時にワヘイ族存在のありかたそのものを彼らに深く理解させるものなのです。
 ここには歌の声としてありかたあるいはそれがある抑揚をもって歌われることの意味が、とてもわかりやすく述べられています。何故歌なのかは、歌が声で歌われることで、言葉の意味を超えて豊富な表現力を持つからなのです。つまり、歌の言葉の、日常の言葉から逸脱したその言葉のありようが、見えない世界へのたくさんのメッセージ性を持つからなのです。 
 歌の力の例としてバリ島のある村のサンヒャンドゥダーリという祭りのビデオを見てみましょう。(ビジュアルフォークロアによる「神と語る人々」)。バリ島で土着の信仰を伝えるこの村では、モンスーンをもたらす神を招き村の安全と豊作を祈願します。二人の少女を選び、祭りの当日、歌に合わせて二人に神を憑依させます。すると、二人はまったく同じ踊りを始めます。二人は踊りをまったく踊ったことがありません。おそらくは、歌のリズムにあわせて二人は踊っていると思われます。つまり、歌の抑揚が、踊りという動きになってこちら側にあらわれ、それを神の動きとして村人は受けとるわけです。神懸かり状態にあった二人の少女は、その間ほとんど何も覚えていないといいます。
 もう一本のビデオは、NHKでかつて放映された「脳と宇宙」というシリーズの一本です。シャーマニズムの世界を科学的に分析するという非常に面白い番組でしたた。その中に、宮古島のユタである根間ツル子さんが登場します。根間さんのもとに巫病にかかった女性が相談に訪れます。巫病の苦しみを訴えるのですが、ツル子さんは辛抱強く世話をし、やがてその女性は、自分の膝をたたいてリズムをとりだし、歌うように自分の頭の中に宿った何者かの声を歌い出します。根間さんもまだ歌うことによって神の声を語るユタなのです。この映像によって、歌が神の声を引き出すということがわかります。
 ただ、この場合、重要なのは、歌うということは、神の声をこちら側の世界に翻訳しているということであって、それなりのコントロールがそこで為されているということを確認することです。
 神懸かって自分を失うのではなく、神の声の宿る無意識から自在に神の声のメッセージを取り出すことが出来るのは、ある意味では、醒めてもいるからです。つまり、そういう、神の世界に入り込みながら、同時に、それをこちら側にうまく伝えようとする醒めた作業もできるのがユタの技術なのです。とすれば、ここでの歌の機能とは、ただ神の声としてあるということだけではなく、神の声をこちら側に伝える媒介的なはたらき、というようにも言えるでしょう。言い換えれば、歌は、日常と非日常の両方を合わせ持っているということです。脳の働きとして考えれば、無意識の世界に入り込んでいながら一方ではこちら側の現実の世界への意識を失わない、つまり、無意識からの情報と現実世界への判断(醒めている)との両方をバランスよく働かせているということになります。それが歌を歌っているときの、脳の状態ということになります。

 神とこちら側の世界の媒介者としてシャーマンは存在しています。とすれば、歌の機能とは、シャーマン的役割に近いと言えるのではないでしょうか。
 歌を発生論的に考えた場合、そういうところから、歌の持つ本質的な機能が見えてこないでしょうか。それは、歌が、神の世と人の世を媒介する、ということです。文化人類学等の資料からそういった歌の働きが確認できます。たぶん、言葉というものの本来の機能はそこにあったと言えないでしょうか。言葉は見えない世界をこちら側にあらわし、あるいは、こちら側の世界を見えない世界にあらわす、そういう幻想とともに言葉は、見える世界での単なる伝達手段という機能を超えて、見えない世界に深くかかわっている人間の生そのものをあらわすものになったのです。そういった言葉の機能を獲得するによって、人間は見えない世界(過去・未来)を抱え込み、言語を一挙に複雑化していったということではないでしょうか。
 その言葉の機能を歌が象徴的に担っている、と考えてもいいでしょう。歌は、そういう言葉の本来の機能をとどめるものなのです。
 
 折口信夫の文学の発生の論から、歌の発生の問題を考え、歌の発生とは、まさに神の言葉を装うものだと論じてきました。その具体的な言葉の様相として、例えば、それは、パプアニューギニアのワヘイ族のうたであり、あるいは、バリ島の少女に神を乗り移らせる歌の例などをあげました。それらの例では、声の抑揚そのものが、神を示現させる働きを担っていました。宮古島のユタの事例や、多くのシャーマンが歌を歌うことなどから、歌は一方で、神とこちら側を媒介する働きをもつのではないかと考えてきました。それは、歌が向こう側の世界である非日常性と、こちら側の日常性との両方の性格を持つということです。そういった歌の性格に、歌の力というものの根拠があると言えるのではないでしょうか。


U章  神謡から万葉へ

1 声の叙事から文字の叙事へ
 折口信夫の発生論で重要なのは、シャーマンが歌った神の言葉とは、神の一人称による叙事詩である、ととらえたことです。つまり、ある村落や村落を統合した部族(クニ)の由来を語る神話を、シャーマンが神を装って歌うというイメージです。このイメージは、古代の歌が全てそうだったと一面的な理解さえしなければ、基本的には首肯出来るものです。
 というのは、ワヘイ族も神話を歌っていますし、中国の少数民族も神話をやはり今でも歌っています。神話を歌う多くの事例や、文字のない時代の伝承のあり方を考えれば、神話とは本来歌のようなものとして歌われていた(独特なリズムで語られていたと言ってもよい)ものだということは、ほぼ間違いないと思われます。神話とは、長いものです。その長い詞章が歌われていたことが間違いないとすれば、古事記の神話もまた歌われていたはずです。その歌われていた神話を稗田阿礼や当時の古事記の編纂者が文字の神話に作り直した、ということでしょう。当時神話がどのように歌われていたか、その資料はほとんど残っていません。が、その痕跡を示す文字資料はないことはありません。
 例えば、出雲国風土記の「国引き神話」はそれを示す一つの例と言えるでしょう。ここでは巨人神である八束水臣津命が海の彼方から陸地を引っ張って島根半島を作った様子が、律文で描かれています。

  意宇となづくる所以は、国引きましし八束水臣津野命、詔のたまひしく「八雲立つ出  雲の国は、狭布の稚国なるかも、初国小さく作らせり。故、作り縫はな」と詔りたま  ひて「たく衾、志羅紀の国の三埼を、国の余りありやと見れば、国の余りあり」と  詔りたまひて、童女の胸?取らして、大魚のきだ衝き別けて、はたすすき穂振り別け  て、三身の綱うち挂けて、霜黒葛くるやくるやに、河船のもそろもそろに、国来々々  と引き来縫へる国は、去豆の折絶より、八穂爾支豆支の御埼なり。此くて、堅め立て  し加志は、石見の国と出雲の国との境なる、名は佐比賣山、是なり。亦、持ち引ける  綱は、薗の長濱、是なり。亦「北門の佐伎の国を、国の余りありやと見れば、国の余  りあり」と詔りたまひて、童女の胸?取らして、大魚のきだ衝き別けて、はたすすき  穂振り別けて、三身の綱うち挂けて、霜黒葛くるやくるやに、河船のもそろもそろに、  国来々々と引き来縫へる国は、多久の折絶より、狭田の国、是なり。亦「北門の農波  の国を、余りありやと見れば、国の余りあり」と詔りたまひて、童女の胸?取らして、  大魚のきだ衝き別けて、はたすすき穂振り別けて、三身の綱うち挂けて、霜黒葛くる  やくるやに、河船のもそろもそろに、国来々々と引き来縫へる国は、宇波の折絶より、  闇見の国、是なり。亦「高志の都都の三埼を、国の余りありやと見れば、国の余りあ  り」と詔りたまひて、童女の胸?取らして、大魚のきだ衝き別けて、はたすすき穂振  り別けて、三身の綱うち挂けて、霜黒葛くるやくるやに、河船のもそろもそろに、   国来々々と引き来縫へる国は、三穂の埼なり。持ち引ける綱は、夜見の嶋なり。堅め  立てし加志は、伯耆の国なる火神岳、是なり。「今は国引き訖へつ」と詔りたまひて  意宇の杜に御杖衝き立てて、「おゑ」と詔りたまひき、故、意宇といふ。                    (『出雲国風土記意宇郡』)
 訳
 「意宇」と名付けた由来は次の如くである。八束水臣津野命が「出雲の国は小さいので 作り縫おう」と言って、まず、新羅の岬から余分な土地に綱を懸けて「国来国来」と引 っ張って来て縫った国は杵築の地であり、土地を繋ぎ固めるために立てた杭は三瓶山に なった。引いた綱は薗の長浜になった。また、北方の佐伎の国(隠岐嶋か?)の土地の 余りを引いて、佐陀本郷の土地に縫い合わせた。また、北方の農波の国の土地の余りを 引いて、手染郷からクラミ谷あたりまでの土地を縫いあわせた。また、北陸地方の都都 地方(能登半島か?)の土地の余りを引いて来て縫い合わせた国は、美保の岬である。 その時に引いた引き綱が夜見嶋(今の夜見ケ浜)となり、繋ぎ固めるために立てた杭が 大山となった。国引きを終わった八束水臣津野命は、意宇の社に杖を立てて「おゑ」と 言った。それで「意宇」と言うのである。

 この神話は出雲の創世神話とも言えますが、それが律文で書かれているのは、おそらくもとは歌われていたということを示しています。
 かつて神話は歌われていた(独特なリズムで語られていたこともここでは歌の範囲に入れる)のです。とすれば、折口信夫が説く、歌の最初の姿を、神の一人称語りの叙事とする説は、とりあえず一人称というところを外せばそれなりに納得のいくものとなります。
 問題なのは、神の一人称としての叙事という折口のとらえ方ですが、これはどうなのでしょうか。
 沖縄には、口頭伝承による神謡を伝えている地域があります。例えば、宮古島の狩俣で行われる祖神祭(ウヤガン)では、祖神がやってきて村を創っていく様子を歌う神話的な内容の歌が、神と一体化した女性達によった歌われます。この神謡は、二時間近く歌われる長いものですが、ここでは時々神は一人称として顔を出します。この狩俣で歌われている、村の起源を語る「神謡」の一つ「祓い声」の一部を紹介します。神が降りてきて、まず井戸を探し歩くという内容です。神が一人称で語っていることに注目して下さい。

祓い声
 柔だりる、百神              穏やかな百の神
 和だりる、世直さ             和やかな世直しの神
 天道の、みおぷぎ             太陽のお蔭で
 やぐみゅーいの、みおぷぎ         恐れ多い太陽のお蔭で
 父太陽の、みおぷぎ         父・太陽のお蔭で
 親太陽の、みおぷぎ            親・太陽のお蔭で
 ゆー月の、みおぷぎ            月神のお蔭で
 ゆー太陽の、みおぷぎ           日神のお蔭で
 根立りの主、吾な             部落の大元を立てた私は
 やぐみ神、吾な              恐れ多い神である私は
 四元ぬ、神よー             四方の元の神である
 四にびぬ、神よー             四つの威部に祭られる神である
 神ま、柔たりる              神は穏やかに
 主さ、むぷゆたりる            主は穏やかに
 母ぬ神、吾な               母の神である私は
 やぐみ、大神ま              恐れ多い大神は
 いつゆ、新けんな             一番の新しくは
 いつゆ、始みんな             一番始めには
 たばり地ん、降りてぃ           タバリ地に降りて
 神ぬ地ん、降りてぃ            神の地に降りて
 かなぎ井ぬ、水を             カナギ泉井の水を
 神ぬ井ぬ、水ゆ              神の泉井の水を
 する真口、受てぃ             美しい真口に受けて
 かぎ真口、受けてぃ            美しい間口に受けて(飲んでみると)
 水多さや、いすが             水量は多いが
 ゆー多さや、いすが            水は多くあるが
 水淡さ、やりば              水の味が薄いので
 ゆー淡さ、やりば 水が美味でないので
 すとぅぐ水、成らん            祭り用の水にはならぬ
 いのい水、成らん             生活用の水にはならぬ 
               (小野重朗『南島歌謡』NHKブックス一九七七より) 
 何故神が一人称で顔を出すのでしょうか。むろん、それは歌い手が神を演じるということですが、この場合の演じるとは、神と一体化する、つまり神懸かるというように考えれば、まさに神が歌っている、つまりこの世に現れ、この世の起源を現在の村人に語っている、ということになります。神謡が何故、祭りで歌われるのか、それは、神が現在のこの世に現れ、この世の起源を再現するからに他なりません。そこに祭りそのものの意味があると考えられますから、神が一人称として顔を出すのは、この祭りの本質的な意味を象徴的に示していることになります。
 神がこの世に現れる、という象徴的な行為を、演出しようとすれば必然的に神の独り言として歌は歌われていく、ということです。従って、折口信夫の言っていることはうなずけるものです。ただし、資料の歌をよく見ればわかりますが、歌は全部一人称ではありません。実はこのことも重要なことなのです。基本的な筋の流れはやはり三人称で進められていきます。歌は、本質として神との媒介的な位置にあるものですから、全部一人称ということはあり得ないのです。神を客観的に叙述する醒めた三人称が無ければ叙事は展開できません。
 それなら、歌い手(語り手)が神そのものになって、三人称で起源神話を歌ったらどうなのでしょう。それは三人称なのでしょうか。それともそれは一人称なのでしょうか。こうなるとすでに文法の問題ではなくなりますね。こう考えてみましよう。当初は、歌い手は神と一体化していたのだから、一人称も三人称もなかった。だが、その内容がテキスト化され、文法的なルールに従うようになって一人称とか三人称とかの区別が出てきた。
 こう考えたら、最初は神の一人称による叙事という言い方は、正しくないということになります。要するに、神の言葉だったのであり、そこでは、一人称とか三人称とかの秩序に従う以前の言葉に溢れていただけだ、というのがどうも本当ではなかったでしょうか。
 一人称とか、三人称とかいうのは、言葉自体がすでに、こちら側のものとしての性格を強く持ち、神にならなくてもその言葉を語れるようなテキストとなっていったときに、生じてくる問題だ、ということのようです。ただ、ここで大事なのは、それでも全部が三人称にならずに、一人称というような部分が残るのは、神という存在のあらわれを、テキストの中で強くとどめようとする意識があるからだ、ということでしょう。そのところを押さえておけばいいのだと思います。

 ところで、このような神の独り言としての叙事は、われわれが扱う古代のテキストには見ることが出来ません。古事記とか日本書紀の神話も、かつて神謡のように歌われていた叙事から、文字化された神話へと展開したらしいとは、推測できますが、文字化された神話には、散文の文体があって、神謡のような文体はありません。
 例えば、古事記出雲神話の「八千矛神の命の歌」(神語歌)も、叙事的な要素がほのみえ、やはり叙事としての歌が歌われていたものだという一つの資料とみなせます。あるいは、出雲国風土記の「国引き神話」も、韻文で記述されていて、やはり叙事として歌われていたらしいことが推測出来ます。

古事記 出雲神話 神語歌    
  此の八千矛の神、高志の国の沼河比売を婚はむとして、幸行しし時に、其の沼河比売  の家に到りて、歌ひたまひしく
八千矛の 神の命は
八島国 妻枕きかねて
遠々し 高志の国に
賢し女を ありと聞こして
麗し女を ありと聞こして
さ婚ばひに あり立たし
婚ばひに あり通はせ
太刀が緒も 未だ解かねば
襲をも 未だ解かねば
少女の 寝すや板戸を
押そぶらひ 我が立たせれば
引こづらひ 我が立たせれば
青山に ?は鳴きぬ
さ野つ鳥 雉は響む
庭つ鳥 鶏は鳴く
心痛くも 鳴くなる鳥か
    この鳥も 打ち止めこせね
    いしたふや 海人駈使
    事の 語り言も こをば

  爾に、その沼河比売、未だ戸を開かずて、内より歌ひしく、
    八千矛の 神の命
    ぬえ草の 女にしあれば
    我が心 浦渚の鳥ぞ
    今こそは 我鳥にあらめ
    後は 汝鳥にあらむを
    命は な殺せたまひそ
    いしたふや 海人馳使
    事の 語り言も こをば
    青山に 日が隠らば
    ぬばたまの 夜は出でなむ
    朝日の 笑み栄え来て
    栲綱の 白き腕
    沫雪の 若やる胸を
    そだたき たたきまながり
    ま玉手 玉手さし枕き
    百長に 寝はなさむを
    あやに な恋ひ聞こし
    八千矛の 神の命
    事の 語り言も こをば
  故、其の夜は合はさずて、明日の夜に、御合したまひき。

 が、逆な見方をすれば、かつて神話が歌われていたということを示す資料はこれだけしかない、ということでもあります。声の資料は残らないからそれは当然だとも言えますが、一方、本当に当時(神話が文字で記された頃)神話は歌われていたのかどうか、実はあまりわからない、ということでもあります。
 もし本当に歌われていたのなら、もっと歌の台本のようなテキストが残っていたとしてもおかしくないような気がします。少なくとも、記紀歌謡は一字一音で書かれており、それなら歌謡ではなく、叙事的な部分も一字一音もしくは、声で再現出来るような文字の記述であってもおかしくはないでしょう。太安万侶は古事記序文で、神話を一字一音で記すことを、「事の趣更に長し」として退けていますが、それは、すでに声で語ることではなく、読むことを前提にしているからです。
 どうやら、律令国家の成立とともに、叙事(神話)を声で語る(あるいは歌う)ことが、少なくとも、テキストとしての叙事のレベルでは消えてしまった、というようには言えるのではないでしょうか。
 むろん、それは、声の世界が消えてしまったということではありません。文字を通して神話を表現する新たな方法があらわれたのだということです。声で語られた(歌われた)世界そのものは、文字による表現に影響を受けつつもそれなりに存続していたに違いはありません。ただ、そのことを示す資料はありませんので、文字によって表現されてから、声による世界がどのように持続しどのように展開していったのか、よくわからないのです。

 記紀神話は、文字を通してあらわれた叙事的な世界です。声で語られ(歌われ)ていた世界とはかなり違う、と考える必要があるでしょう。
 とすれば声の力が持っていた呪力(神の世をこの世に顕現させるような力)は失われているでしょう。声は、その音声の届く範囲で人々の意識を集中させる強い力を持ちます。その力が、声の呪力を支えているのですが、文字はそういう力を持ちません。
 だが、文字は、その場にいない人々を巻き込む力を持っています。声が必要とされる共同体の範囲が、国家的なレベルへと拡大すれば、ラジオやテレビのようなメディアを持たない限り、声の力は社会の隅々にまで届きません。文字は違います。文字は音声の届かない遠い地域にまで届きます。従って、その社会が、一部の特権的な階層に言葉の力を独占させるのではなく、その言葉の力を社会全体に広げなくてはと考えたとき、文字は、その必要性を獲得し、その社会に広がることになります。日本は、律令国家を作ったとき、そういう社会になったのです。その意味では、文字は声の持つ力を持ちませんが、言葉の力そのものを失ったわけではありません。文字は文字で声の言葉では持ち得ない別の力を持つことになります。

 それは、抽象性の力と言ってもいいかも知れません。例えば古事記神話の最初に登場する神は「天之御中主神」です。読みは「アメノミナカヌシ」ですが、この神は、文字を読めばその意味がすぐにわかることに気づきます。つまり、この神は文字で作られた神であと言ってもいいでしょう。それに対して、「宇摩志阿斯訶備比古遅神」は「ウマシアシカビヒコヂ」と読みますが、こっちの神は明らかに声で作られた神です。文字を読んでもよくわかりません。だがその音声を聞けば、正確な意味はわからないにしても何となくという感覚で直感的にイメージが浮かんで来ます。直感的にイメージが浮かんでくるのは、その音声を生得のものとする文化圏に属しているからです。
 天之御中主神は、その表記を通して、天の中心にある神さまであるという意味が読み取れます。「天の中心」という抽象性があらわされている神だと考えてもいいでしょう。この抽象性は、明らかに「天」や「中」という抽象性を持った文字の力によるところが多いでしょう。むろん、音声も言葉である限り抽象性を持たないことはありません。ただ、文字はその抽象性の範囲を一挙に広げます。それが大事なのです。
 天之御中主神の場合、その読み(音声)が分からなくても、意味がわかります。とすると、漢字の意味がわかればこの神さまを共有できます。ということは、日本人でなくても、つまり漢字文化圏に属する外国人であっても、この神を共有できるということです。これは抽象性それ自体がかなり力を持っているということです。別な言い方をすれば、住む地域や文化の違いを乗り越えてしまう抽象性は持っている、ということです。こういう抽象性を、普遍性と言ってもいいでしょう。それが文字の力ということになります。
 文字による抽象性は、声(音声)に反応する個々の身体的なレベルでの理解を切り捨て、様々な違いを持つ個々人がその意味を共有しうる水準に、意味を設定できます。別な言い方をすれば、その抽象的な意味の世界を通して、個々人を共通の基盤に立たせることを可能にします。天之御中主神という神の意味が理解出来れば、外国人同士であっても共通のの基盤に立てる、ということです。むろん、声としての「宇摩志阿斯訶備比古遅神」でも外国人同士で理解できれば同じなのですが、声を共有するのは、その身体的なレベルでの理解を求められるという意味で、かなり困難です。わたしたちは日本語を流ちょうに話す外国人に親しみを感じますが、日本語を話さない外国人は敬遠します。そういうものです。
 しかし、日本語を話さない外国人でも、日本語の文字の意味を共通に理解できれば、同じ理解の世界を共有する事になります。
 記紀の神話の文字表現には、多くの渡来人が関わっていることが指摘されています。考えてみれば、日本の神話は外国人がかかわって作ったのだ、と言っても間違いではないのです。それを可能にしたのは、神話が文字によって記述されたからなのです。 
 

2 記紀歌謡について
 ところで、この文字による神話(叙事)の記述は、声で歌われていた歌にどういう影響をもたらしたでしょうか。初めは叙事が歌われていたものだと考えました。おそらく、この歌われていた叙事は、文字化されたテキストのレベルでは消えました。
 ところが、記紀には歌がたくさん入っています、いずれも短いものであり記紀歌謡と呼ばれています。この記紀歌謡についてはどう考えればいいでしょうか。
 記紀歌謡はいずれも一字一音で記載されており、変体漢文でありながら漢文で記述される散文とは表記が明らかに区別されています。これは、ただ意味を理解すればいいと言ったレベルでの、読むことを目的とした表記ではありません。明らかに、声として再現されなければならないことを意識した表記の仕方です。
 これらの記紀歌謡は、例えば狩俣の神謡から比べたら本当に短いものです。例えば、 「八千矛神の命の歌」(神語歌)は比較的長い歌謡ですが、それでも歌えば数分といったものではないでしょうか。これらの歌謡は、果たして、長い叙事の歌謡が短くなって記載されたものでしょうか。確かに、「八千矛神の命の歌」の場合などは、叙事的な要素がないとは言えません。三人称で始まりながら、一人称で語るところなど、神の一人語りの叙事ではなかったかと思わせますが、だからといって、もともと長く歌われていた叙事がこのように凝縮されたと断定することはためらわれます。
 というのは、その内容は、八千矛神が女性の元を訪れ、女性と戸を挟んで問答をするというものだからです。つまり、このシチュエーションは、万葉に多く見られる、男が女のもとを訪れ歌を送りそれに女が歌を返すという恋歌のシチュエーションになっています。ということは、叙事の物語のある一場面が、歌によって拡大(強調)されている、とみなせます。その一場面とは、求婚の場面です。
 こう考えたとき、仮に、「八千矛神の命の歌」が「八千矛神」の神話(叙事)を踏まえたものであったとしても、それは叙事を凝縮したのではなく叙事の一場面が切り取られたのだと理解するべきでしょう。
 従って、記紀歌謡については、常に二つの考え方がついてまわります。一つは、創作歌だとするものです。もう一つは、民謡として歌われていた歌謡が、物語の中に組み込まれたのだとするものです。むろん、それらは、記紀歌謡が神話や歴史上の登場人物等によって実際に歌われたものを記録したという考えをとらないことを前提にしています。記紀そのものの歴史としての資料価値が疑わしいこともありますし、この前提にたって話を進めていきましょう。
 おそらく二つの考え方は、両方ともあり得ると思われます。例えば、古事記の、仁徳天皇のところで、女鳥王と速総別王の反逆の物語があります。

 古事記(仁徳天皇) 女鳥王と速総別王の反逆
 天皇、その弟速総別王を媒として、庶妹女鳥王を乞ひまひき。ここに女鳥王、速総 別王に語りて曰ひけらく、「大后の強きによりて、八田若郎女を治めたまはず。故、仕 えへ奉らじと思ふ。吾は汝命の妻にならむ」といひて、すなはち相婚ひき。ここをもち て速総別王、復奏さざりき。ここに天皇、女鳥王の坐す所に直に幸でまして、その 殿戸の閾の上に坐しき。ここに女鳥王、機に坐して服織りたまへり。ここに天皇歌ひた まひしく
   女鳥の 我が王の 織ろす機 誰が料ろかも
 とうたひたまひき。女鳥王答へて歌ひたまひしく。
   高行くや 速総別の 御襲料    
 ちうたひたまひき。故、天皇その情を知りたまひて、宮に還り入りましき。この時、そ の夫速総別王至来ましし時、その妻女鳥王歌ひたまひしく。
   雲雀は 天に翔る 高行くや 速総別 鷦鷯取らさね
 とうたひたまひき。天皇、この歌を聞きたまひて、すなはち軍を興して殺さむとしたま ひき。ここに速総別王、女鳥王、共に逃げ退きて、倉椅山に騰りき。ここに速総別王歌 ひたまひしく。
   梯立ての 倉椅山を 嶮しみと 岩かきかねて 我が手取らすも
 とうたひたまひき。また歌ひたまひしく。
   梯立ての 倉椅山は 嶮しけど 妹と登れば 嶮しくもあらず
 とうたひたまひき。故、其地より逃げ亡せて、宇陀の蘇邇に到りし時、御軍追ひ到りて 殺しき。 

 この物語の中にいくつかの歌謡が挿入されています。仁徳天皇は速総別王を仲立ちとして女鳥王に求婚しますが、女鳥王はそれを拒絶し仲立ちとなった速総別王と一緒になってしまいます。それを知らずに、天皇が求婚した女鳥王に会いに行く場面、「女鳥の我が王の織ろす機誰が料かも」と天皇が歌うと、女鳥王は「高行くや速総別の御襲料」と返します。このやりとりで天皇は、自分が裏切られた事実を知るのですが、この歌などは、ほとんど天皇と女鳥王との会話になっていて、民間で歌われていた民謡というよりは、物語にあわせて創作されたと考えるべきでしょう。
 天皇への反逆が露見した女鳥王と速総別王は天皇の差し向けた追っ手から逃げます。倉椅山というところに逃げてきて「梯立ての〜」の歌を歌います。この二首は、物語にあわせて創作されたとはとても思えません。もし、創作なら、もう少し物語にあわせた内容にするべきでしょう。なぜ二人は倉椅山で歌を歌わなければならないのか、あるいは、なぜ、妹(女鳥王)と二人で山に登る様子を歌わなければならないのか、そういったことについて考えますと、二人の逃避行を歌うのなら、もっと別の歌があってもおかしくはないと思えます。
 仮に、この二首を物語と切り離して読めば、山で逢い引きをする男女の歌であるとも読めます。むしろ、そう読んだ方が適切なのではないかとさえ思われます。
 むろん、この二首を追いつめられた男女の逃避行の歌と読むことも出来ます。物語から切り離して、ただの男女の逢い引きの歌とも読めます。つまり、これらの歌を様々なシチュエーションにおいてみると、それぞれ違った読み方が可能になるということです。
 とすれば、やはりこの二首は、他のシチュエーションで歌われていた歌をこの物語の逃避行を盛り上げる歌としてここに組み込まれたのだと解釈するのが適当かと思われます。おそらくは、歌垣等で歌われ、人口に膾炙した恋歌が取り入れられたのでしょう。
 

3 短歌謡の起源
 ここで歌の起源という問題にもう一度立ち返ってみましょう。まず、最初に折口信夫の信仰起源説や、宮古島狩俣の神謡から、歌の最初のイメージとして、声で歌われる叙事詩、しかもそれは長い歌謡である、というものを想定しました。
 ところが、その叙事が、文字によって記述される段階になると、声の叙事そのもの、つまり長歌謡としての歌そのものは、そのままでは文字の世界に登場しないことが分かってきました。叙事の部分は散文として記述されています。それは、声の叙事をベースにしながらも、文字による新たな神話や歴史の表現として生まれたもの、と捉えるべきでしょう。
 声の歌はそれなら全く消えたのか。ところが、記紀の叙述には、歌謡が組み込まれています。この歌謡は、創作されたらしいものもあれば、記紀の内容とはかかわりなく歌われていた歌を記紀のテキストに組み込んだものもあるらしいことがわかりました。
 整理するとここで二つのことが問題になります。

@ 何故記紀の叙事(神話や歴史の散文的叙述)は、歌謡を新たに組み込まなければなら なかったのか。
Aこの組み込まれた歌謡の起源とはどういうものか。

 まず@ですが、すでに述べたように、これらの歌謡は短いものであり、一字一音で記されています。つまり、明らかに声で歌うことが記述の上で意識されているということが出来ます。別の言い方をすれば、散文の部分は、意味の上での理解を重要視し(変体漢文である古事記の記述は、散文叙述のなかにも一部声を意識する部分を残してはいるが)、歌謡は声を、ということです。この書き分けは、明らかに、散文とは違う歌の機能が自覚されたものです。ただ、ここで重要なのは、その自覚というのは、あくまでも、文字表現というレベルの上での自覚だということです。
 つまり、文字によって散文と歌の部分を明確に書き分けて行くなかで、歌は声であることが自覚されたと言うことですが、そう意識した人々にとって、実は、そのことは、歌は声でなくても良くなってしまったことを意味します。だからこそ、歌は声として歌われるべきなのだという歌に対する価値観のようなものがそこに生まれた、ということです。
 歌が声以外で表現される事の無かったときはそういう価値観は生まれません。声でなくてもよくなったから、そういう価値観が生まれたのです。だから、記紀の中に歌が一字一音として、声(音声)を価値とする表記方法で記されたのです。
 まだ@の問題は解決してませんね。何故、記紀の叙述は、声としての歌を組み込む必要があったのか。その答えの一つは、やはり、声(音声)を失ってしまったから、ということでしょう。言い換えれば、声(音声)をどうやって再現するのか、それが記紀の叙述者にとっての課題だったと思われます。その課題を、声として記述しやすい短い歌謡を物語の中に組み込むことで解決したのです。
 それから、もう一つは、物語の盛り上がりの問題だったようにも思います。文字での記述には、声の持つ、聞き手を歌や語りの中に引きずり込んでしまう圧倒的な力がありません。そこで、どうやって読み手を引き込んでいくか、叙述の工夫を強いられます。
 歴史の記述にそんな盛り上がりの工夫などいらないということであれば、それでいいのですが、記紀の記述者はそうは考えなかったようです。その一つの工夫として、歌謡を取り込むということがあった、ということでしょう。
 記紀歌謡の多くが、登場人物の心(情というべきか)の表白になっていることに注目すれば、まさに、心は散文では描けない、という意識がそこにあったということではないでしょうか。「八千矛神の命の歌」にしても「女鳥王と速総別王の反逆の物語」にしても、八千矛神の心の苛立ちや、速総別王の女鳥王に対する心情が、歌という表現を通して、よく伝わってきます。これが散文で客観的に叙述されたら、その効果は半減するでしょう。
 むろん、記紀歌謡全部が登場人物の心の表白になっているわけではありませんが、そのような使われ方が非常に多くなっている、ということは言えると思います。
 このことは、万葉以前の歌が、万葉の歌へと展開していく、一つの重要なステップだったと思われます。
 少なくとも、記紀という、文字で記述された叙事というレベルにおいて、歌というものが、人間(登場人物)の声、あるいはその心の展開として、自覚されたということです。この自覚こそが、万葉の歌へと導いたのです。
 この自覚は、ただ、記紀という叙述の内部だけで起こった、というものだったのでしょうか。おそらくは、歌というものが、声によって人々を一体化させるそういうパワーへの期待というよりは、人間の心(内面)を表出するもの、という理解があったからこそ、記紀の中に組み込まれたのだと考えた方が適切かと思われます。むろん、そこには、組み込まれる事で多様に解釈が可能な歌というものの性格が作用していたからだということも指摘しておくべきでしょう。

 このように考えた場合、このような心を表出するようになった歌の起源をどのように考えるべきかということが問われてきます。つまりAの問題を解決しなくてはなりません。
 記紀歌謡は、いずれも短いものです。長いものもありますが、声で歌ったとしても、一時間も二時間も歌い続けるものではありません。
 それから、何と言っても歌の性格そのものが叙事としての歌とは違います。多くが恋歌の性格を持っています。とすれば、長時間歌われる叙事が短くなってこれらの歌になったのだということではないでしょう。叙事とは違う起源を持つと考えるべきでしょう。
 本書では、歌の起源について、折口信夫や古橋信孝の論考を踏まえながら考えをめぐらしているのですが、その古橋氏は、このような短い歌について長い叙事的歌謡とは最初から性格が違うと述べています。
 
  長歌謡が神々の事跡をうたうゆえに歌詞が固定的であるのに対して、短歌謡は心のほ んの一部をうたうにすぎないものゆえ最初から固定的ではないのである。これは短歌謡 が現在をうたうものであることでもある。世界あるいは人の心の多様さは、差異・変化 こそがうたわれることを求めており、変化の最先端が現在なのである。
  おそらく始源的に、神謡のように始源をうたう歌謡と現在をうたう歌謡の二首があっ た。始源は神々の事跡としてうたわれる場合が多く、長歌謡になるが、現在はほんの一 部だけしかうたえないからむしろ短歌謡になった。そうかんがえたほうがいいのは、世 界は神謡によって全てが覆い尽くされるわけではないからだ。現在の秩序は始源によっ て根拠づけられているのであり、始源と現在は等価のはずだから、現在をうたうのも始 源をうたうのも同じだった。その意味でも、二首の歌が始源的にあったということであ る。 古橋信孝『幻想の古代』(新典社 一九八九)

 この古橋氏の短歌謡の説明の優れているところは、短歌謡は「心の一部」をうたうものでありそれゆえ「現在」を歌うものだと定義したことです。この定義は確かにあてはまります。短歌謡は、恋歌が多く、恋歌というものは、常に揺れ動き定まらない恋する心の表現だからです。だから、歌うたびに心の表現が無数のバリエーションをもって繰り返されるわけです。この定義によって、長歌謡である神謡との本質的な違いがよくわかってきます。とすれば、長歌謡が短くなって短歌謡になった、という理屈は成立しないことがわかるでしょう。 
 後半の説明はやや難しいですね。要するに、始源を叙事的にうたう長歌謡も現在をうたう短歌謡も、ともに、歌を必要とする社会にとっては同じくらい重要だった、ということを言っているわけです。それは、始源をうたう長歌謡も現在をうたう歌謡も、神の世界とも言うべき非日常の側に人々を引き込む力において同じだということです。
 それならどこが違うのでしょう。例えば、叙事としての神謡のうたわれる場は、神聖な儀礼の場面だったでしょう。宮古島、狩俣のウヤガンでうたわれる神謡は、まさに、神になった女性達が祭りの中でうたうものでした。固定的な詞章であるからこそ、そこには不変の始源が再現されるということでしょう。
 それに対し、短歌謡が歌われる場は、男女が歌で掛け合いをするような場が想定できます。いわゆる歌垣です。歌垣については、後ほど詳しく考察していきます。ここでは、祭りのようなとても盛り上がって、みんなが興奮するような場で、男女が恋の歌を歌い合う、そういう場を想像して下さい。
 このような歌の掛け合いは、明らかに、神謡がうたわれるような神聖な場所では行われないでしょう。もし、祭りのような場で行われるとすれば、神聖な儀礼のの終わった、日本の祭りで言えば、神と人とが一緒になって食事をして酒を飲んで歌い踊るような「なおらい」のような場でしょう。饗宴の場と言ってもいいですね。そこでは、神聖な場では抑えられていたエネルギーが発散される場ですので、歌も出てくるというものです。こういう場で、男女の結びつきを表現していく恋の歌がやり取りされるのは自然なことだと思われます。


4 差異を歌うとは
 さて、こういう場で、短歌謡が男女の掛け合いで歌われたとすれば、古橋信孝の言い方で言えば、それは共同体の差異をあらわす、ということになります。これについての説明をこれから展開しますが、難しいので、よく分からない人はこの部分は飛ばしても結構です。
 われわれの住む世界は、いろんな差異を抱え込んでいます。むろん、それを矛盾と言い換えても同じ事ですが、シンプルな言い方で、差異としておきましょう。とにかく、われわれの住む世界は、とらえがたい世界です。この世のとらえ難さは、とても、人々を始源に一体化させるような神謡の力では覆い尽くせません。自分たちの世界を、理解したり、あるいは、分析したり、あるいは、心地よい幻想で埋め尽くしてしまう、そういう、超越的な場所に立った言語表現では、必ず表現しきれない何かが残ってしまうのです。
 それなら、そういう超越的なものとは違う、どういう表現が求められるのでしょうか。
それは、ただただ、今を生きている存在をそのまま託してしまうような言葉の表現なのです。そういった表現を通して、人々は、生きている実感のようなものを確認できます。
 それは、とらえ難い世界のただ中で生きている、人間の心の表情を絶えず示していくようなものになるでしょう。差異を生きている自分をそのままあらわすというようなことです。
 しかし、今を生きていることを言語化する、なんてことを目的に歌が歌われるというようなことはちょっと考えにくいですね。おそらくは、祭りの場面で、しかも、そんなに窮屈な儀礼でないようなところで、例えば「なおらい」のような宴会の場面で、そのような表現は自ずとうまれてくるのではないかと思うのです。そういう表現が、ここでいう短歌謡の歌であると理解すればいいでしょう。
 だから、そういう歌は、日常の労働で疲れ果てた精神の解放というような意味や、男女の出逢いの場や男女のコミュニケーションの保証とか、いろんな役割を持っていたと思われます。それは、そういう歌、つまり短歌謡が、歌う行為を通して、人々をハイテンションにし、一種の解放感を与えるものだったからです。
 そういう解放感を与える歌は、音楽としての力が重要になります。神謡は、叙事を神の如き言葉で語るのですから、音楽性よりは、呪文のようなリズムであればいいのですが、短歌謡は、やはり、いわゆるノリのいい音楽が必要とされます。その意味でより歌らしくなると言っていいでしょう。
 短歌謡もまた言語表現ですが、その言語表現という面では、どうしても、現在を歌うことが中心になってくるでしょう。現在を生きている今の心を歌うことこそが、ノリのいいハイテンション状態での共感を得やすいからですし、その現在を表象することに、その現在を必ずしも快適には生きていない人々の心を解放する働きがあるからです。
 つまり、差異を抱えこむからこそ、差異に満ちた現在をそのまま表象する、そういった言葉による歌が生まれる、ということです。歌の掛け合いは非日常の場を設定することで行われますが、神の世界である非日常の側では、日常が抱える差異そのものを取り込み、例えば歌の掛け合いといった対立構造を設定することで、その差異自体を、燃焼させ、克服させてしまうのです。日常では深刻な個々の男女の間のディスコミュニケーションも、歌垣のような非日常の世界での歌の掛け合いによって、たちまち克服されてしまいます。その意味では、みんな、歌を通して、神懸かったような状態になって、男女の掛け合いという対立を作り出し、そして、その対立を超えるというわけです。
 男女の恋歌の掛け合いは、共同体が抱え込んでいる様々な差異によって成立するのである、という古橋信孝の言い方を、私なりに説明してきましたが、理解できたでしょうか。やはり難しいですね、差異というキーワードがとても抽象的過ぎるのが原因ですが、ここでは、男女が、掛け合いという形で対立し合う関係を持続するのは、男女が生きている世界そのものに矛盾とでも言うべき差異があるからに他ならない、そういったきわめて抽象的な意味で、男女の歌の掛け合いは、差異を前提にして成り立つのだと考えておきましょう。

5 短歌謡のテキスト化
 さて、このような出自を持つであろう短歌謡が、記紀の物語の中に組み込まれていったのですが、そこに何が起こったのでしょう。
 それは短歌謡のテキスト化だったと考えられます。テキスト化とは、その歌がある意味のまとまりとして取り出され、その歌が生まれた場とは違う別の場面の中で使われていく、そういった言語表現として自立していくことを言います。例えば先にあげた例で言えば、
速総別王と女鳥王の物語の中で出てきた「梯立ての倉椅山を嶮しみと岩かきかねて我が手取らすも」「梯立ての倉椅山は嶮しけど妹と登れば嶮しくもあらず」の歌がテキスト化されたものと言えます。
 これらの歌はすでに述べたように、本来は、恋歌として歌われていたものを、物語歌として取り込んだのでしょう。とすれば、この二首の歌は、本来歌われいていた場面を離れた言語表現としてテキスト化されていると言えます。
 テキスト化が起きるのは、歌が伝承されたりあるいは流行したりする、つまり、多くの人たちに共有されるから起こることだと考えられます。言い換えれば、こういうようにテキスト化がみられるということ自体、すでに、歌が、ある共同体や限定された地域のものではなくて、広い流通範囲を持っている、ということを示しています。そういう社会的な条件が当然成立していなければなりません。
 そのような社会的な条件としては、やはり律令国家の成立ということが大きいと思われます。国家は、人々の移動する空間を作ります。むろん、国家など成立しなくても人は移動するでしょうが、しかし、律令国家の成立における移動は、それ以前の比ではなかったはずです。中央から地方に、あるいは地方から中央に人々(官人)が移動してこそ、国家は成立するからです。また、律令国家は、文字を普及させます。文字によって、例えば法律は作られ、その文字による法律を隅々まで普及させてこそ、国家は維持されるからです。必然的に文字はさまざまなものを記録し始めますが、歌も例外ではなかったでしょう。万葉集の出現もこの文字の成立なしには語れません。
 この文字も、歌の流通には大きな意味を持ったと思われます。むろん、文字によらなければ歌は流通しない、などということはないでしょうが、文字も又歌の重要な移動手段だったことは言えるかと思います。
 歌が移動するということは、その歌が属していた場所から外れ、別の場所に収まる事です。ただ、ここで問題にしているのは、ある歌が記紀のある物語、つまり、違うシチュエーションの中にどうして収まってしまうのか、ということです。歌の属していた場が変わっても、その歌に相応しい場であれば、問題はないわけです。だが、速総別王の歌は、もと恋歌として歌われた場面と、この逃避行をする男女の心を歌う歌ではかなり違うのではないかと思います。
 この事に対し、先に引用した古橋信孝の文に、歌は「心のほんの一部をうたうものにすぎない」と書かれていましたが、これが参考になります。歌が短いということが、何よりも心の全部を表すのに適していないということですが、これは歌の掛け合いを考えれば当然のことです。掛け合いは、歌い手同士が、会話を積み重ねるように歌で心情を吐露したり、あるいは、歌で遊んだりするものですが、その一つの歌が常に不十分な断片であるからこそ、それに対し相手がその不十分さを補ったりあるいは責めたりするように返し、さらにまた相手の不十分さにこちらも反応する、そうやった歌のやり取りが続くわけです。短歌謡は、おそらくは、そういう歌の掛け合いから生まれた、とも思われますので、最初から、意味としては、不十分さを抱え込んでいるものなのです。
 だが、その不十分さこそが実は歌のテキスト化に適しているのだと言えるのです。つまり、心のある断片しかあらわしていないということは、その表現は、それだけ様々な場面に読み替えられる可能性を持つということになるからです。言い換えれば多様な解釈を許す柔軟性を最初から持っているということです。速総別王の歌も、元は、倉椅山での相手との逢瀬を歌う恋の歌だったと思われますが、古事記の物語の中に挿入されますと、逃避行を続ける男女の強い結びつきを歌った悲しい歌のように読むことが出来ます。そのように読めるのは、最初からこの歌が心の全体を説明的に歌っていないからです。短歌謡がテキスト化していくについては、この点が最も大きなポイントであったと思われます。
 例えば、長歌謡の一部分の歌詞がテキスト化され、それが物語の中に入ってきたということも当然考えられますが、むしろ、短歌謡そのものが流動化する社会的状況の中でテキスト化されやすい環境にあり、その断片的な性格が、物語の登場人物の心意を表現するのに相応しいと判断されて組み込まれ、短歌謡は以前とは違う表現として生きつづけていく、ということであったかと思います。

 このように、短歌謡は、当時の社会状況(律令国家成立期)の中でとてもテキスト化されやすいものとなり、このようなテキスト化が様々なレベルで起こったのだと思われます。それは、何も例えば古事記という文字テキストの中だけと限定する必要はありません。一人の心の中でも起こり得ると考えてもいいわけです。心の中で、恋愛のただ中にいる自分の心情を一つの物語として振り返るとき、ふと、有名な短歌謡のフレーズが浮かんできて、その時の自分の立場をぴたりに歌う歌として口ずさんでみるなんてことがあっていいわけです。
 そうやって、無数の歌が人々の心の中でテキスト化されていったと考えられますし、あるいは、似たような歌が心の中で作られ、あるいは、それよりもっとぴったり自分の心を歌う歌が作られる、そうやって、万葉集の多くの歌が出来上がっていったのです。 
 例として、万葉集の最初の相聞歌をあげてみましょう

磐姫皇后の、天皇を思ひて作りませる御歌四首
  君が行き日の長くなりぬ山たづね迎へか行かむ待ちにか待たむ    巻二・八五 
かくばかり恋ひつつあらずば高山の磐根し枕きて死なましものを      八六  ありつつも君をば待たむ打ち靡くわが黒髪に霜の置くまでに        八七   秋の田の穂の上にらふ朝霞何処辺の方に我が恋ひ止まむ 八八  
 巻二・八五〜八八です。まず八五の題詞に「磐姫皇后の、天皇を思ひて作りませる御歌四首」とありますが、実際に磐姫が歌ったものだと考えない方がいいでしょう。
 おそらくは、伝承されていた歌が、磐姫皇后の物語を構成する歌謡として組み合わされたのか、あるいは創作されたかのかと思われますが、実は八五の歌「君が行き日長くなりぬ山たづね迎へか行かむ待ちにか待たむ」は、九〇番の歌として再登場し、ここでは、近親相姦ゆえに罪を受け流される軽太子を慕う衣通王の歌として出てきます。ということは、このように二つの物語の中に取り入れられているということは、「君が行き日〜」の歌はテキスト化されているということが明らかに分かります。
 一方、物語というコンテキストの中に置かないでこの歌だけを解釈すれば、最近通ってこない男、あるいは旅にでてなかなか帰ってこない夫を待つ女の心情ということになるでしょう。
 おそらくテキスト化されるに当たって重要なのは、この心情だけが意味として取り出されれば良いのであって、その心情が生まれる前後の具体的なシチュエーションは問わない、ということです。そうやって取り出された心情が、別のシチュエーションの物語の心の表現として使われるわけです。
 おそらくそこには、男を待つ女の心情が、ある普遍性を持った心として人々に共有されるようになったということが考えられるでしょう。つまり、だれにでも当てはまるような心の表現として意識されるからこそ、そのような心情が、前後の具体的なシチュエーションと切り離されて取り出され、別の場面に適用されることを可能にしていくのです。人間の心というもの、特に男女の恋愛時における様々な心の動きが、ある普遍的な様態として自覚され、多くの人に共有されていく、ということですが、それは当然、歌垣で歌を交わしていたようなレベルではなく、歌を通して、人間の心のあり方を自覚するようになった新しい時代の表現を感じさせます。
 ところで、八五から八八までの歌四首は、ただ、漠然と並んでいるのではありません。八五は、なかなかやってこない男を待つ女が、迎えに行こうかそれとも待っていようかと、揺れ動く心の葛藤が歌われています。八六は、こんなに恋に苦しむなら死んだ方がましだと嘆き、八七は、このままずっと待っていよう白髪になるまでと歌い、八八で自分の恋はいつになったらすっきりと晴れるのだろうかと、恋の行方に暗澹たる思いになります。
 このように見ていくと、これは一つの恋の物語というよりは、男を待つ女の心理的な動きをそのまま歌で展開していると見てよいでしょう。一応は、題詞に磐姫の歌とあるように、物語的に演出してはいますが、よく読めば、この四首は、男を待つ女の揺れ動く心の展開が、リアルに描写されていると言えます。現代だって、好きな人がなかなやってこなかったり、連絡をしてくれなかったら、心の中はこんな風に動いていくのだろうな、と思います。その意味では、すでにこのように歌が並べられた、という点ですでに、誰にでもあてはまるような心のあり方が表現されているのだ、ということになります。
 万葉集のレベルでは、このように、物語の中に組み込まれなくても、テキスト化された短歌謡はここまでに人間の心の普遍的な表情を伝えるものになっていったのです。ここまでくると、短歌謡は声で歌われる歌謡というものではなく、すでに、人間の心を表出しようとする歌、つまり文学としての短歌であり和歌になっていると言えるでしょう。


6 定型の成立
 これまで述べてきたような歌の発生から万葉までの流れをチャート図にまとめておきました。
 最初は、始源の「うた」の世界があり、それから、神謡のような長歌謡と短歌謡の二つが別れ、長歌謡は散文としての神話や歴史の叙述に組み込まれていきます。一方、短歌謡は、テキスト化され、記紀の物語の中に組み込まれたり、あるいは、貴族や官人達の心情を切り取る表現として、万葉集の短歌へと展開していきます。長歌謡と短歌謡は、その性格からして別のものですが、当然、相互作用しながら展開していったと考えられます。
 こういった展開の背景には、文字による歌の記録、あるいは、文字による歌の表現ということが大きく関わっています。文字の成立は、七世紀から八世紀にかけての律令国家の成立とかかわると考えていいでしょう。言い換えれば、七世紀から八世紀にかけて、歌をめぐる環境は激変し、村落的なレベルで謡われていた長歌謡や短歌謡は、文字と出逢い、神話や物語、そして、人間の心情表現へと一挙に加速していったのだと思われます。
 ただ、忘れていけないのは、声で歌われ、声の歌が生活の中で生きている、そういう歌の世界は決して失われたわけではないということです。律令国家成立以降も、そういった歌謡は生きていたはずです。ただ、資料には残ってません。現在、フィールドワークによって日本の各地でかろうじて生き残っているそういった声の歌謡の世界が記録されていますが、おそらくは、かつては日本の社会にもっと豊富に生きていたのだと思われます。
 ところで、チャート図の右側、時代的に言えば律令国家の時代ということになりますが、短歌謡は、定型として形が固定化し、万葉集にみられるような膨大な和歌を生み出すことになります。これはどうしてでしょう。何故、定型がこの時代に固定したのでしょうか。
 記紀歌謡を見ればわかるのですが、和歌の様式である五七五七七に統一されているわけではありません。その意味では、万葉以前では、短歌謡の様式はそれほど固定化されてはいなかったと考えられます。それが、どうして、今でも短歌の音数律としてある五七五七七になったのでしょうか。
 まず、何故五音七音なのかという問題については、いろいろな説がありますが、漢詩の音数や、中国の少数民族の歌の音数などもほとんどが五音七音であり、どうもアジアに共通した音数であるらしいという以外に、なかなか決定的な説明というのは難しいようです。
 先に、古橋信孝の「装い」という言い方を使って定型を「装いの方法の記号化」と述べておきましたが、この「装い」についてもう少し考えてみましょう。

 古橋信孝は神謡から万葉の定型の成立までを一次発生・二次発生・三次発生の三つの段階に分けて説明しています(『万葉歌の成立』講談社学術文庫版。この本は残念ながら現在絶版になっています。この本の解説は私が書いています)。古橋氏の考えはこれまで述べてきたつもりですので、ここでは歌の呪性という観点から説明してみましょう。
 一次発生とは、村落共同体における神謡のレベルを言います。すでに述べたように、古橋は、折口信夫が唱えるような歌の発生における神の言葉とは、人が神の言葉を装うことだといいます。神の装いとしての言葉は日常の言葉と違っていなければならず、その違いこそがここでは神の装いということになる。この装いを共同体へと人々の心を一体化させる力が歌の呪性ということであり、古橋はそれを共同体への転移と語ります。つまり、このレベルでの歌の力(呪性)とは、共同体の成員である個を共同体へ転移させる力ということになるでしょうか。この段階では、歌は共同体の地域性に閉じられたものであり、その共同体以外にはその歌は広がりを持たない。だからこそ、歌は、その共同体の内部で強い力を持つのだということも出来ます。具体例として沖縄宮古島の狩俣のウヤガン(祖神祭)を上げました。
 第二次発生とは、村落共同体が統合され、クニとなった、ある地域の部族国家のような段階での歌です。この段階では、それまでの村落共同体内部に閉じられていた歌は、その統合された地域の広さに応じて普遍的な広がりを持たなければならなくなります。つまり、クニというレベルでの共同体国家に転移させるための歌が必要とされる。そのためには、いくつかの村落共同体に共通して理解されるために意味がより強調されてくる。そして、その広がりに応じて、歌そのものが共同体のまつりなどの場から離れより多くの場などで歌われることが考えられる。とすれば、その歌は、メロディやリズムの面でも、人々に受け入れやすいようにより洗練されたものになるでしょう。例えば、村落共同体を超えて広く流行する歌謡などがこの段階で成立すると考えられます。
 短歌謡などのテキスト化もすでにこの段階で成立していたと思われます。資料としては、記紀歌謡がこの段階に相当すると古橋は述べています。さて、歌の呪性とはどうなったのでしょうか。この段階では、共同体という地域性に根ざしていた歌の呪性は、拡散していくはずです。とすれば、歌は、何らかの形でその力をとどめなければなりません。これは私の意見ですが、この段階で、歌の呪性は、恋歌に特化し始めたのではないかと思います。記紀歌謡を見ている限り、ただ謡えば呪性があるというようには言えなくなったことがわかります。すでに見てきたように、叙事的な歌はなく、ほとんどが恋歌になっています。これは、歌の力(呪性)を、恋歌のような抒情的(私の言い方で言えばハイテンション)装いのもとでしか発揮できなくなった、ということなのではないでしょうか。
 第三次発生は、律令国家成立の段階における歌の成立です。この段階において、歌は、律令国家という近代の洗礼を受けます。例えばそれは文字です。
 文字との出会いによって、歌は、より意味性を強化することになります。当時日本は標準語などはなく言語において統一されていなかったはずです。村落共同体が違えば、あるいは、クニが違えば、歌は共有されなかったでしょう。律令国家の成立は、そういった多言語状況の解決としてあらわれます。それは文字による多言語的地方の統一でもあるわけです。律令国家は法律(律令)という普遍的な意味性を獲得した言語によって成立する国家ですので、その文字によって、歌が記録されたり。あるいは、文字によって表現されはじめるのです。そうすると、そういう歌は、多言語的状況にあった日本各地に一挙に広がっていきます。万葉の成立はこの段階にあるのですが、この万葉の歌がすでに人間の内面を獲得していたことはすでに論じましたが、その内面性の獲得も、文字の力によると言っていいでしょう。
 さて、歌の力(呪性)はどうなったのでしょうか。神謡のようなレベルでの呪性は消えたと言っていいのではないでしょうか。消えたからこそ、歌は和歌として国家の広がりに拡大し得たのであり、個々の内面を語り始めたのです。
 そう考えていきますと、ここで大きな問題にぶつかります。何故、律令国家の時代に、歌が必要とされたのでしょうか。文字によって歴史も書かれ、法律も制度も整えられてきたこの時代に何故歌が必要とされたのでしょう。それは、歌の力(呪性)を当時の人々が必要としていたからだと思われます。むろん、ここで問題にしている当時の人々とは、歌を文字で表現し始めた、律令国家の担い手達、貴族や官人達のことです。
 歌の力とは、神の側に引き込む力であると考えてきましたが、そういう力そのものを直接的には失ってはいたとしても、やはり必要としたのでしょう。古橋は、律令国家の貴族達は、神の世を起源とする幻想で結ばれた共同体集団であり、その共同体に転移する歌の力をやはり必要としたのだと述べています。少なくとも、近代化された7・8世紀に、古代的な力が求められたことは確かなようです。
 これは、何故天皇という存在が律令国家の中心に存在するか、という問題と重なってきます。律令国家は厳密に言えば、法制度によって支配されるシステムですから、神の立場に近い天皇を必要としません。それでも、天皇を制度の中心に据えざるをえなかったのは、律令という近代的なシステムだけでは国を治めるのに無理であると判断されたからでしょう。
 つまり、どんなに近代化しても、神の側の存在を現在も抱く、そういうきわめて古代的なあり方を否定できないのです。そういった、古代性と近代性の融合した性格を持って、日本の新しい国家のシステムは作られたのですが、それは歌の問題にしても同じなのです。和歌の伝統が天皇制と繋がりのあるものとしてよく論じられるのですが、それは間違ってはいないのです。
 さて、律令国家の担い手である貴族達は、歌の力という古代性を必要としました。ところが、神謡ならば祭りのような場でただ声で歌えばいいわけですが、すでにそういうわけにはいきません。そこで、歌の形式を固定化し、その固定した様式を通して、古代性、つまり歌の呪性を装い始めたのではないか、と言うのが古橋信孝の考えです。皆が一定の固定化された定型のもとで歌を歌えば、神を祖先とする共同の幻想をその場で共有できる。そういうことでしょうか。
 なかなか説得力のある論理だと思います。このように考えれば、なぜ、この定型が歴史を超えて受け継がれてきたのか理解できます。万葉集で完成する和歌は、以降、王朝文化を象徴するものとして作られ続けますが、まさに、和歌を作ることが王朝文化共同体の幻想を共有することだったのでしょう。和歌は王朝文化の再生産として、日本文化そのものを支えていったということです。
 ただ、私は定型の成立にはもう一つの要素があるのではないかと思っています。それは、即興で歌われる歌の掛け合いを保証する、ルールのようなものだったのではないかということです。むろん、歌垣を念頭に置いて言っているのですが、このことは次の章で詳しく述べたいと思います。
 一方、ただ、古代性というだけでは歌は魅力あるものにはなりません。ただの伝統的な様式でしかありません。むしろ、この歌が、新しい時代の新しい生き方を表現できたから、歌は、多くの人に作られたのだと言えないでしょうか。つまり、近代性もやはりなくてはならないはずです。すでに述べたように、万葉集は、恋愛の当事者の心を普遍的に表現することが可能でした。それは、七・八世紀の近代化された時代の人々の共感(感動)を形成したものと思われます。その共感こそが大事だったはずです。つまり、ただの古いものの再現だけではだめだったということでしょう。新しい時代における心を表現するのが近代性だとすれば、定型の成立とは、古代性と近代性、この両方を保証するものとして成立したのだと言うことができるでしょう。

 ところで、律令国家の担い手達にとって、近代性を表すといっても、歌はほとんどが恋歌でした。恋歌を通して近代性を表現したということになります。万葉集は圧倒的に恋歌ばかりです。恋歌を歌うことが、歌の力の発現だったということです。あるいは、新しい時代の心の問題を謡うことだったわけです。このことはとても重要なことです。
 何故ほとんどが恋歌なのか。短歌謡のテキスト化が次第に人間の内面を語り始めるようになることはすでに述べました。記紀歌謡の段階で、叙事が散文化されると、恋歌のような短歌謡が歌の力を担い始める、ということも指摘しました。つまりこういうことです。恋歌は、神の側に引き込んでいくような歌の力(古代性)をとどめ、しかも、恋する当事者の心理表現としての近代性をも持ち得る、とても優れたジャンルなのだということです。
 ただ、恋歌は、すでに述べたように常に心の断片でしかないという限定性を特徴としていますから、社会を批判したり思想を表現したりするのには適しているとは言えません。世界を俯瞰的に表現するには短すぎるし、もともとそういうものではないからです。
 だから、明治以降、旧いものの象徴として何度も批判され、日本人の精神をだめにするものだと批判されもしましたが、短歌はいまだに廃れることなく続いています。それは、現代のわれわれも、また、こういう古代性と近代性を併せ持つ詩形を必要としているということではないでしょうか。

7 現代の呪性

 ここで歌の呪性について考えてみたいと思います。歌が歌である所以は、歌自体に呪的な働きがあるとこれまで論じてきました。それでは、この呪性は万葉集にどのように受け継がれていったのでしょう。
 呪的な働きとは、見えない対象への直接的な働きかけです。つまり、歌を通して、社会の安寧や生産の豊饒、恋の成就が願われるわけです。人間にとって、神の側に由来するそれら(生産、恋愛)をこちら側に顕現させ形あるものにするためには、向こう側とこちら側とを重ね合わせる呪術的な力が必要になります。それが歌ということになります。歌の呪的な働きとは、この世の力では実現不可能な事象を、向こう側の力によって可能にするように期待される作用そのものであるとうことです。
 声の歌が長く歌われたり、繰り返し歌われるというのは、この呪術性の問題でした。それなら、詩の意識の側に歌がとりこまれたとき、この呪術性はどうなるのでしょうか。古代における歌の問題を考えるとき、この問題はとても大事になります。呪術性の蓄積の上に和歌という詩の形式が成立したのは間違いないと思われますが、その呪術性の喪失の上に和歌は成立した、ということでしょうか。それとも、呪術性はそのまま受け継がれているということでしょうか。
 呪術性を、歌を取り巻く関係性や、その社会的なありかたを含めた作用としてとらえるなら、社会の変化に対応して、呪術性そのものの変化や消失はあるでしょうが、人の心を動かす言葉のより直接的な作用とまで普遍化すれば、消えたとは言えないかも知れません。
 万葉の相聞歌を読むと、ほとんど、不在の対象を歌っています。恋歌はある意味でそのように歌うものですが、本来、歌の掛け合いとして対手とやりとりする、というシチュエーションでは、対象は目の前にいます。その場合、眼前の対象と、歌の掛け合いを持続することに歌うことの意味が集中する。おそらく、歌の持続そのものに歌の呪術的な働きが期待されたからだと思われます。
 が、万葉の歌には、そういう持続性は失われ、むしろ、一首一首の意味の重さが問われ始めます。例えば、旅の歌なら、旅先や故郷に残した対手を思う歌になります。あるいは、訪れてこない恋人を歌う歌や、今此処にいない恋人を思う歌となりますが、それらの一首の意味に込められた、歌い手の意味の重さが、歌の詩としての正否を決めることになるわけです。こういう歌が、いわゆる抒情歌として、日本の詩の歴史の最初にあらわれたのです。
 その場合、意味の側に呪術性が転換された、と言ってもよいのではないでしょうか。つまり、行為としての呪術性、別な言い方で言えば、歌う場での関係性や社会的なあり方の作用として発揮されたその呪術性、例えば儀礼的な場で歌われるからこそ効力があるような歌のあり方、から離れて、言葉の意味(その意味を支える声や音の音楽性との比重の変化によって前面に出てきた意味性)の力によって、呪術的な効果が担われるようになった、ということです。
 例えば次のような歌は、まさに呪術性が意味として担われたものと言えます。

  君が行く道の長手を繰り畳ね焼き滅さむ天の火もがも      巻十五・三七二四 
 この歌は、旅に出る夫の安否を気遣う妻の歌ですが、夫の不在による不安に対して、まさに呪術的な行為を意味の領域において顕現させることで解消しようとする歌です。歌い手の祈りがとても切実にあらわれ、意味としてもその比喩的な言葉の使い方において美しい詩になっています。このような歌の言葉に呪術性の抒情歌への転換がみてとれるのではないでしょうか。
 が、実は、こういう歌は、呪術性そのものの効果を遠ざけることになります。  
 呪術性とは、こちら側(人間)でなく、向こう側に由来する力への信頼に基づきます。呪術という言い方をするのは、その力を一神教的な神の力ではなく、自然神もしくは精霊信仰的な、生活空間に近いところにある異界的な領域を想定するからです。つまり、ちょっと祈れば届きそうな、あるいはおまじないをすれば成就しそうな距離の短さこそ、呪術という言い方をする理由です。
 が、このような、意味に担われた呪術性には、おまじないをすればかないそうな距離の短さは計算されていない
思われます。むしろ、歌の上では、不在の対象への距離が絶望的なまでに広がっていることを感じさせるのです。向こう側の力を「天の火もがも」と、より絶対的なイメージで形容しようとすることそのものが、その不安の深淵を象徴しています。つまり、おまじないで縮められる距離でないからこそ、その悲しみのような心のある状態が、人間の普遍的な感情の様相として、詩の言葉を形成するのだ、と言ってもよいでしょう。
 おそらく、人と人との関係が決定的に変化したのだ、と思われます。人との別れや心と心の行き違いといった出来事が、人間の心と心の断層を浮き彫りにし、人は、おまじない程度では回復できない心の深淵を手に入れてしまったのです。
 こうなると、ただ行為としての呪術的な歌は威力を失ってしまいます。このように抱え込んだ心の深淵さは、儀礼やおまじないが効力を発揮した共同体(共同幻想)の範囲を超えてしまっているからです。だから、このような深淵さを理解するより広い層に届く言葉の力として、意味の力に頼らざるをえないのです。日本の抒情的な詩の言葉はこういう状況を背景に成立しました。それは、ある意味で、人の心が呪術の届かない深淵を手に入れたからこそなのだと言えます。その深淵とは、失われた何かです。つまり不在そのものです。抒情とはその不在を埋めようとする、あるいは、埋められないことの心を描写する意味の言葉として発生したのです。万葉の多くの歌は、抒情歌としての性格を持ちますが、ほとんどが不在の対象を歌うか、不在によって揺れ動く心を歌うものになっています。
 歌が抒情歌として詩になっていったとき、呪術性は消えてしまったのでしょうか。ある意味では消えたのかも知れません。が、消えていないとも言えます。短いのその詩形によって歌われる和歌は、その根本のところで、不在の何かを求めようとする心の動きを抱え込んでいます。その心の動きは、かつて向こう側の世界に住む精霊たちに常に何事かをもとめてやまなかったわれわれの心の動きを継承するものなのではないでしょうか。別な言い方をすれば、その根っこの呪術性を失っていないからこそ、われわれは和歌という形式から離れられない。つまり、不在を埋める心の働きという、人間の原初の心の構造がそこでただ繰り返されるシンプルさにこそ、この和歌の器の持つ意義があるといえるのではないでしょうか。
 
 最近、今橋愛の『O脚の膝』(北溟社 二〇〇三年)という歌集を読み、こういう歌に出会いました。

   わかるとこに
  かぎおいといて
   ゆめですか

わたしはわたし
   あなたのものだ   


そこにいるときすこしさみしそうなとき
めをつむる。あまい。そこにいたとき

 
胃からりんご。
リンゴの形のままでそう
肩はずれそう
この目。とれそう 


ああまちに
今日も光がさしこむよ
記憶。どこにもうちつけて痛い


   手や足はしばられていない
   今ここにいる。のにここに
  
 どこにもいない
 
 呪術性という観点から見れば、これらの歌は、抒情歌がその始まりにおいて色濃く持っていた不在の対象を、ほとんどおまじないのレベルにまでもどして回復しようとする、そういう試みの歌であると言えます。その意味で、抒情歌が持っていた呪術性の部分を取り戻そうとしている、と言ってもよいでしょう。
 例えば一首目の歌ですが、何とも不思議な歌です。私はかつて『言葉の重力』という本を書いたことがありますが、その中で「独り言の詩形」という文章を書きました。携帯などを通じておしゃべりする男女の会話が、結局、コミュニケーションの体をなさず、「独り言」をただやり取りしているだけでないかと論じたものです。つまり、「独り言」という孤独なパフォーマンスを共有し合うはかない関係がそこにあるといったことを論じたものですが、ただ、孤独を共有し合える関係を構築出来る、というところに情報ツールのある意味での力があるということを含めて書きました。
 その時点では私はまだ携帯というツールを通して孤独(孤立)が共有される関係を想定していました。言い換えれば、どんなに孤独であっても、その孤独をやり取りできる関係はあるのだという意味での、社会性もしくは関係性を思い描いていました。それすらなくなったら、われわれは「表現」するなどということすら不可能になるのではないかという思いがあったのです。
 ところが、この今橋愛の歌を読むと、ついに、孤独(孤立)を共有する関係性までもが失われつつあると言う気がしたのです。つまり、「表現」すら不可能になるぎりぎりの淵までこの歌は追いやられている、と思わせます。
 この歌は、確かにふたりの関係性を前提に成り立っていますが、穂村弘という評論家が指摘するように(『短歌』角川書店・平成十六年二月号)、この歌い手にとって、この関係性そのものが奇蹟のようにかろうじて成り立っている、と思わせるところにこの歌の「表現」としての根拠があります。
 「わかるとこに/かぎおいていて」はすでに一緒に暮らしている程度の関係を思わせるのに、いきなり「ゆめですか」で読み手は一挙に足下が崩されるような不安に投げ出されます。この二人の関係に何かがあったというようなことではなく、この歌い手にとって関係というものは常にこういうはかなさと紙一重でかろうじてなりたっているものだということに気づかされるのです。あとのことばは、祈りのようなものです。
 この歌を解釈すれば、実は「わかるとこに/かぎおいといて」というのはすでにそら言ではないかと思わせます。この歌い手は、いきなり二人の関係が成り立っている現実を構成するところから出発しますが、すでにそこからこの歌の捨て身のような仮構が始まっているように思えます。独り言ではなく、一人芝居ではないでしょうか。
 問題は、この一人芝居が、叫びもしくは祈りのようなニュアンスのことばとしての性格を帯びているところなのです。意味としては、かぎをおいといてと頼む相手に言葉は発せられていますが、その実、ことばは神のような何かに向かっていると思われます。読んでいて胸が痛くなるような歌です。その痛さは、この人は、すでに、現実の関係の中ではことばが誰にも届かない閉じられた世界にいてそこから抜け出られないでいることを、感じるからです。
 最後の「わたしはわたし/あなたのものだ」は意味としてつながらないところに意味があります。わたしはわたしなのにあなたのものだ、という脈絡がつながるのは、この世の秩序から外れたところでしょう。もし、強引にこの二句につながりをもとめるなら、「あなた」は神の如き存在でなくてはならなくなる。あなたが神だからこそ、「わたしはわたし」と「あなたのものだ」がつながるのです。もし、このあなたが歌い手の相手なら、この歌い手は二句の間でただ分裂するだけです。「わたしはわたし」なのだし同時に「わたしはあなたのもの」なのですから。
 強烈な自己への意識と同時に、その自己が他者なしには存在し得ないことへの、鳥肌が立つほどの自覚。強烈な自己への意識は実は他者を失っている自覚から促されるのだとすれば、この〈私〉は分裂するしかありません。
 こういう〈私〉の光景をどこかで見たような気がしてなりません。  
最近私はシャーマニズムに興味を感じていて、それについて調べたり文章を書いたりしているのですが、シャーマンが自らの神とコミュニケーションするまでのつらい体験を語る「成巫譚」について書いたことがあります。そのような「成巫譚」が現代の小説のテーマとしても描かれることについて次のように書きました。

  共同体、家族という世界を失い、それぞれが孤立し閉じられている、というのが現在 を生きる人間の負の光景であるとすれば、その負の面を負って生きるには、自分の無意 識に向き合い、その中で、他者とつながるような世界を見出していくしかない。実は、 シャーマンの成巫譚とは、徹底して自分の無意識に向き合い、神という他者とつながる ことで、自分という閉じられた世界から解き放たれた精神のドラマなのである。
(『シャーマニズムの文化学』共著・森話社2001年)
 
 見たことがあるというのは、神という他者とつながらざるを得なくなったシャーマンの心の光景であったのです。そのような視点から改めて今橋愛の歌を読んで見ると、「かぎおいといて」と頼む相手(他者)は、いつのまにか、無意識の扉の向こう側に存在する神の如き他者になってしまっていると読むことが出来ます。とすれば、この短い言葉の流れの中で、他者が変容しているのです。それは同時に〈私〉が変容していると言ってもいいでしょう。言い換えれば、この歌には、シャーマンが神懸かる時のような〈私〉の変性を認めることができるのです。
 つまり、現実の人間関係における他者との絆を失った結果、神とでも呼ぶしかない他者に絆を求める心のはたらきがあるといってもいいでしょう。だから最後は「わたしはわたし/あなたのもの」になるのです。
 それにしても、何故この歌は短歌なのでしょう。五行に分けてこのように書かれたら別に短歌でなくてもいいと思うのです。少なくとも、この書き方は、短歌のしらべを分断していて、短歌に見られたくないというかたくなな姿勢が感じられるますが、やはり短歌として表現されているのです。もし何処かで短歌でなければならないとしているのなら、それは、最後の、神のごとき他者との絆を保証する祈りのようなニュアンスを保証してくれるのは、短歌という詩形なのだする歌い手の思いがあるからではないでしょうか。五行分けにしたのは、一行で書くときに帯びる「しらべ」が持つ共同体的な美の感じを拒絶するためだと思われます。「しらべ」が出てしまったら表現が不可能になるようなところへ追い込まれている逼迫感が伝わりません。それでも短歌なのは、結局、神のごとき他者の所在が、定型という無意識の場所以外に見いだせないからです。というより、定型という場所以外にあれば、すでにそこではことばなど存在せず、「表現」も存在しないからです。この歌にとって、定型は「表現」をかろうじてなりたたせる最後の場所である、ということなのです。

 つまり、今橋愛の歌は、和歌の伝統が根っこのところで抱え込んでいた呪術性を、ことばとの格闘の中で復活させていると言えるでしょう。ただ、興味深いのは、その場合、抒情歌としての和歌の伝統が洗練させてきた、詩の言葉の意味や美を、一度解体しなくてはならないということです。そうしたうえで、ぎりぎりのところで抒情歌であろうとしています。メッセージ性や言葉の芸術的な洗練を優先する自由詩であったら、根っこにある呪術性が消えてしまうからです。そういう歌はただのシュールな歌にすぎません。この作者が抱え込んだ不在という深淵を埋めようとするシンプルなそれこそ呪術的なレベルにある心の動きは伝わらないのです。
 従って、今橋愛の歌は、和歌からかなり遠く離れているようでいて、和歌の伝統を最も強く体現している、と言えるでしょう。まさに、古代と近代と言うよりは現代の融合が見られる歌だと言えます。
 

V章 歌垣論

1 日本の歌垣について

 歌垣関連記事及び歌
A 常陸国風土記・筑波郡
それ筑波岳は、高く雲に秀で、最頂は西の峯崢しくエく、雄の神と謂ひて登らしめず。唯、東の峯は四方磐石にて、昇り降りは?しく屹てるも、其の側に泉流れて冬も夏も絶えず。坂より東の諸国の男女、春の花の開くるとき、秋の葉の黄づる節、相携ひ駢?り、飲食を持ち来て、騎にも歩にも登臨り、遊楽しみ栖遲ぶ。其の唱にいはく。
 筑波嶺に 逢はむと いひし子は 誰が言聞けば 神嶺 あすばけむ
 筑波嶺に 廬りて 妻なしに 我が寝む夜ろは 早やも 明けぬかも
詠へる歌甚多くして載車るに勝へず。俗の諺にいはく、筑波峯の会に娉の財を得ざれば、児女とせずと言へり。 

B常陸国風土記・香島郡
 古、年少き僮子ありき(俗、加味乃乎止古、加味乃乎止売といふ)。男を那賀の寒田の郎子といひ、女を海上の安是の嬢子となづく。ともに、形容端正しく、郷里に光華けり。名聲を相聞きて、望念を同存くし、自愛む心滅ぬ。月を経、日を累ねて 歌の會 (俗、宇太我岐といひ、又、加我毘といふ)邂逅に相遇へり。時に、郎子歌ひけらく
   いやぜるの 安是の小松に 木綿垂でて 吾を振り見ゆも 安是小島はも 
  嬢子、報へ歌ひけらく
    潮には 立たむと言へど 汝夫の子が 八十島隠り 吾を見さ走り
  便ち、相語らまく欲ひ、人の知らむことを恐りて、遊の場より避け、松の下に隠り  て、手携はり、憤りを吐く、(略)偏へに語らひの甘き味に沈れ、頗に夜の開けむ  ことを忘る。俄かにして、鶏鳴き、狗吠えて、天暁け日明かなり。ここに、僮子等、  為むすべを知らず、遂に人の見むことを愧ぢて、松の樹と化成れり。郎子を奈美松と  謂ひ、嬢子を古津松と称ふ。

C摂津国風土記逸文
  摂津の国の風土記に曰く、雄伴の郡、波比具利岡。此の岡の西に歌垣山あり。昔者、  男も女も、此の上に集ひ登りて、常に歌垣を為しき。因りて名と為す。

D筑波嶺に登りて?歌会をせし日に作れる歌一首 併せて短歌
  鷲の住む 筑波の山の 裳羽服津の その津の上に 率ひて 未通女壮士の
行き集ひ かがふ ?歌に 人妻に 吾も交らむ わが妻に 他も言問へ
この山を 領く神の 昔より 禁めぬ行事ぞ 今日のみは めぐしもな見そ
言も咎むな                        巻九・一七五九
反歌
  男の神に雲立ちのぼり時雨ふり濡れ通るともわれ帰らめや      一七六〇 
右の件の歌は、高橋連虫麻呂の歌集の中に出づ。

E清寧天皇記 
 平群臣の祖、名は志毘臣、歌垣に立ちて、其の袁祁命(顕宗天皇)の婚はむとしたまふ 美人の手を取りき。其の嬢子は莵田首等の女、名は大魚なり。爾に袁祁命も亦歌垣に立 ちたまひき。
  

F武烈天皇即位前紀
 是に、太子(武烈天皇)…影媛を聘へむと思ほして、媒人を遣して、影媛が宅に向は しめて会はむことを期る。影媛、會に真鳥大臣の男鮪に?されぬ。…太子の期りたま ふ所に違はむことを恐りて、報して曰さく、「妾望はくは、海柘榴市の巷に待ち 奉らむ」とまうす。…果して期りし所に之きて、歌場の衆に立たして、〔歌場、比を ば宇多我岐と云ふ〕影媛が袖を執へて、たちやすらひ従容ふ。

G続日本紀 聖武天皇天平六年(七三四)二月一日
 天皇、朱雀門に御して歌垣を覧す。男女二百四十余人、五品已上の風流有る者、皆そ の中に交雑る。正四位下長田王、従四位下栗栖王、門部王、従五位野中王等を頭とす。本末 を以て唱和し、難波曲・倭部曲・浅茅原曲・広瀬曲・八裳刺曲の音を為す。都の中の  士女をして縦に覧せしむ。歓を極めて罷む。歌垣を奉れる男女らに禄賜ふこと 差有り。

H続日本紀 称徳天皇宝亀元年(七七〇)三月二十八日
 葛井・船・津・文・武生・蔵の六氏の男女二百三十人、歌垣に供奉る。その服は並に青揩の細布衣を著、紅の長紐を垂る。男女相並びて、行を分けて徐に進む。歌ひて曰く。「少女らに 男立ち添ひ 踏み平らす 西の都は 万世の宮」といふ。その歌垣に歌ひて曰く。「淵も瀬も 清く爽けし 博多川 千歳を待ちて 澄める川かも」といふ。哥の曲折毎に、袂を挙げて節を為す。その余の四首は並に是れ古詩なり。復煩はしくは載せず。時に五位已上と内舎人と女孺とに詔して、亦その歌垣の中に列らしむ。歌、数?訖りて、河内大夫縦四位藤原朝臣雄田麻呂已下、和?を奏る。六氏の哥垣の人に、商布二千段、綿五十屯を賜ふ。

 A〜Hのように、古事記・日本書紀、続日本紀、風土記、万葉集には、歌垣という行事のことや、そこで歌われた歌が出てきます。また歌垣とは出てこなくても、風土記には、泉や温泉などの湧く神聖な場所で男女が集まり歌を歌ったという記述がいくつかあり、あちこちで男女が歌を掛け合う行事をしていたことがわかります。これらの資料から、かって日本の古代社会では、少なくとも八世紀までは、歌垣という行事が日本の各地で行われていたようです。これらの資料から判断すると、歌垣とは、結婚や恋愛を目的に男女がある特定の場所に集まり、恋の歌をやりとりする行事のことを意味します。
 呼び方としては、常陸国風土記「童子女松原」伝承の記事に、「?歌の會」と出てきますが、その注に「ウタガキ」「カガヒ」という読み方を記しています。また「遊の場」を「ウタガキのニハ」と訓んでいます。万葉集巻九・一七五九には「かがふ?詞」とあります。摂津国風土記逸文には「歌垣山」が出てきます。古事記の清寧天皇記には、志毘臣と袁祁命とが大魚という女性を取り合う場面では「歌垣に立ちて」歌を掛け合うとあり、また、日本書紀のほうでは、武烈天皇のところになりますが、「歌場の衆に立たして」とあり、「歌場」に「ウタガキ」という訓みを与えています。続日本紀の聖武天皇天平六年の記事に「天皇、朱雀門に御いまして歌垣を覧す」とあります。
 このように見ていきますと、歌垣の呼び方は、「カガヒ」「ウタガキ」と呼ばれていて、字も、決まっていなかったようですが、次第に「歌垣」という字に統一されていったと思われます。歌垣の意義については、「?歌」は中国『文選』の「魏都賦」に出てくる言葉で、「歌を歌いながら踊り跳ねる風習」のことを言います。これは野蛮さを象徴する意味で用いられているらしく、地方の野蛮な文化へのニュアンスを持つ言葉を、日本の知識人が日本の歌垣の風習を呼ぶのにあてはめたということらしいのですが、この野蛮さというニュアンスを理解していたとするなら、当時の中央宮人がどのように歌垣を見ていたかがわかってきます。つまり、中央にはないエキゾチックな風俗として歌垣は見なされていたのかも知れません。
 「歌垣」という言葉は、歌を掛け合うことから、歌掛けが変化したものであるという説もありますが、その変化は無理だと言うことであまり支持されておりません。むしろ、「人垣をなして、多く歌によって争いが行われた、ここに呼称成立の一因があったのである」(高橋六二「垣の歌争ひ」『想像力と様式』古代文学会編、武蔵野書院一九七九)というように、歌を掛け合う場に「垣」が出来たからだとする説や、あるいは、垣に囲われた場そのものが歌を掛け合う場としての意味を持っていた、というような説がいいかと思われます。
 実際歌垣には老若男女が集まって歌を歌ったらしいのですが、歌垣の基本はやはり未婚の男女が結婚や恋愛を目的に歌を掛け合うということでしょう。常陸国風土記に「筑波嶺の会に娉の財を得ざれば児女とせずといへり」とあり、男女にとって、結婚相手を探す場であったことがわかります。ただ、高橋虫麻呂の筑波山歌垣見聞記といった趣の万葉集の歌(巻九・一七五九)には、「人妻に吾も交じらむ わが妻に他も言問へ」とありますから、既婚の男女も交じっていたようです。この場合は、恋愛を楽しむためとか、歌を楽しむためとか、ということでしょうが、当然、既婚の男女が配偶者以外の異性と恋歌を交わすのは社会の秩序から逸脱する行為ですから、「この山を領く神の昔より禁めぬ行事ぞ」と、神から許されていることだとわざわざことわっているわけです。歌垣は不倫しほうだいなのか、と思われるかも知れませんが、ほんとのことはよくわかりません。ただ、筑波の山の神の支配する場所であるとするとき、この神が、配偶者以外との恋歌のやり取りを許しても、それ以上にすすむことを許しているのかどうかはわかりません。世の中そんなに甘くはないと思います。
 万葉集にはこれが歌垣で歌われた歌だと明記された歌は出てきませんが、中には、歌垣で歌われていた歌もあるのではないかと思われます。あくまで推測にすぎませんし、歌垣で歌われた歌の形式も、五七五七七だったのかどうか、風土記に載っている歌の例ですとそうなってますが、よくはわかりません。ただ、万葉の恋歌の成立ということを考えていくと、歌垣の歌は万葉の恋歌の基礎的な部分を培ったのではないか、ということは十分に言えるかと思います。

2 歌垣の起源
 歌垣の起源はどのように考えられるでしょう。これまでの研究では歌垣は主に民俗儀礼としてイメージされてきました。まず、歌垣を訪れる神と精霊の問答として捉えたのが折口信夫です。折口は、歌垣の歌の掛け合いの起源を、例えば「なる木責め」のような神と精霊の問答と考えました。神の宿る果実を実らす木に、土地の精霊が「成るか成らぬか」と問いつめ、神である木が「成る」と答えるという問答ですが、この神と精霊との問答は、神と神を迎える土地の乙女との問答として行われると折口は言います。そこに、神と乙女との結婚としての神婚が成立し、歌垣の男女はその神婚を擬するものとして歌を掛け合うのだと言うのです。そして、その神婚は男女の性的な結合を意味するから生産予祝儀礼でもあり、歌垣は、生産の豊饒を予祝する「祭り」としての意味合いを持つと言うわけです。民俗儀礼から歌垣を説いたもう一人に土橋寛がいます。土橋寛は、春に人々が山に入り生産の豊饒を予祝する儀礼と一緒に歌垣は行われたと説きます。この春山入りを「国見儀礼」だと言っています。「国見」は天皇が高い山に立って自分の支配する土地を見る儀礼で、その見る行為によってその土地の豊饒を予祝するというものですが、そういう国見儀礼を一般でも春山入りのような行事として行い、その時に歌垣を行ったというのです。何故歌垣が行われたかというと、歌垣では、男女の性的な営みを伴い、それは出産へとつながりますから、生産予祝の意味がそこに成立するからだということです。折口の考えとそこはよく似ております。
 今までの歌垣研究はだいたいこのように、歌垣の起源を、生産予祝の儀礼といった「祭り」として位置づけてきました。確かに、歌垣は、祭りのような非日常の場所で行われますし、男女が歌を掛け合う起源を、神婚のような神話的幻想に求めることも納得は出来ます。ただ、そう捉えてしまうと、歌垣での歌というものは、祭りの場のその非日常的な空間を成立させるもの、という性格が強く与えられてしまいます。つまりそれ以上のものではなくなってしまいます。いったい男女が掛け合う恋歌というものはどういうものなのか、それを考えようとするためには、いったん生産予祝といったとらえ方を離れて、歌とは何であるのか、という原点に立ち戻って考えてみる必要があります。

 そこで、すでに述べましたが、短歌謡は心の一部(断片)を歌うものだから、何首も掛け合うことになるのだという古橋信考の考え方がここで生きてきます。
 起源は起源として、男女が歌垣で歌を掛け合うのは、例えば恋をしたいとか、結婚相手を探したいとか、歌を楽しみたいとか、そういった歌い手の現在が、歌い手の心の一部として歌に直接乗せられるからです。それが問いかけのような形で歌われれば、相手は答えざるを得ませんが、答える方もまた心の一部であれば、そのやり取りは完結しませんので繰り返されることになります。そういった掛け合いの仕組みによって、歌垣という世界は成り立っていると言えるでしょう。別の言い方をすれば、神婚のような物語に沿って歌を掛け合うという、ただ神のような非日常の存在になりきるというよりは、歌い手の様々な現在の欲求のようなものが、歌の世界に抱え込まれ、完結しない心の世界が展開されるから、歌垣の歌の掛け合いは成立するのだということではないでしょうか。
 とすれば、歌垣の起源は、生産予祝といったところに帰される神婚というような幻想の成立に求めるよりは、歌い手の現在が抱える課題を、歌を通して解決するといった社会的な要求が、歌の世界に取り込まれたときに、歌垣は始まったと、そういったところに求めるのがいいのではないでしょうか。


3 中国少数民族白族の歌垣 
 このような歌垣の歌の掛け合いのあり方は、実際今でも恋愛や結婚を目的に歌の掛け合いを行っている中国少数民族において見ることができます。
 ここでは中国雲南省白族の歌垣について見ていきましょう。まず白族の概説から見ていきます。

白族について
 白族は主に中国雲南省に居住する少数民族で、人口約一六〇万(一九九〇年の統計)。水稲を稲作とする二毛作を行っています。もともと雲南に南下してきたチベット系少数民族で、唐代の南詔国(八世紀頃成立〜九〇二年に滅ぶ)の主要民族であった白蛮の末裔と言われています。また南詔国の後に成立する大理国(九三七年〜一二五三年元のフビライによって滅亡)の主要民族でもあります。大理白族自治州(?海周辺の地域)に約一〇〇万が居住し、他の少数民族と同様固有の文字を持っていません(漢字の発音を借用した漢字による白語を作ったがほとんど使われていない)。
 以上が白族の概要ですが、私は一九九七年に、工藤隆の案内で白族の歌垣文化に接し、それ以来何度か白族の歌垣の調査を続けてきました。ここでいう歌垣という言い方は、日本の古代における、男女が恋愛もしくは結婚を目的に歌を掛け合う行事の呼び方ですが、こういった恋愛もしくは結婚を目的にした男女の歌の掛け合いを一般的に呼ぶ言い方として現在広く使われていますので、中国の少数民族の、恋愛や結婚を目的に男女が歌を掛け合う行事を歌垣と呼ぶことにします。
 少数民族の歌垣については、苗族の歌垣がよく知られていました。NHKでも一九八九年二月に貴州省苗族の香炉山での歌垣の祭「爬坡節」の様子が「貴州省の歌垣」として放映されています。白族の歌垣を紹介したのは工藤隆で、工藤隆に連れられて私も千代宇佐に加わりその成果として『中国少数民族歌垣調査全記録1998』(工藤隆・岡部隆志共著 大修館書店 二〇〇〇年六月一〇日)が出版され、白族の歌垣がかなり知られるようになってきました。
 白族の歌垣が興味深いのは、ここで歌垣の定義として述べた、恋愛や結婚を目的にした男女の歌の掛け合いがそのまま確認できることにあります。その意味で、白族の歌垣では歌の掛け合いが時には男女の間の駆け引きやたたかいといった性格を帯びた真剣なものになります。白族の歌垣が、歌垣の古来の伝統をそのままの形で継承しているものなのかどうかは分かりませんが、男女が恋愛や結婚を目的に歌を掛け合うとしたら、こんな風に歌い合うだろうという合理的な推測に耐えうる歌垣であることには違いありません。その意味では、日本の古代の歌垣を考える上でとても貴重なモデルだと言えます。

歌垣の概要
 白族の人々は豊かな歌の文化を持っており、祭の時などは歌の掛け合いが自然発生的に伴います。その意味で歌の掛け合いはあちこちで行われているようなのですが、特に、雲南の剣川県、?源県の地域で、歌の掛け合いが盛んです。工藤氏と私が今まで調査したこの地域の歌垣は次の三つです。
  1剣川県石宝山の歌会(農暦七月二十七日〜二十九日)
  2?源県?碧湖海灯会(農暦七月二十二日〜二十三日)
  3?源県橋後観音会(農暦八月一日)
 1は白族の歌垣でももっとも大規模に行われます。他と比べて期間が三日間であることがそれを物語っています。参加者はかなり遠くから泊まりがけでやって来ます。かつては途中一泊して歩いてやって来る人もいたということです。この三つの中で1だけが歌を掛け合うことを目的とした祭りですが、2・3は、その土地の宗教行事の中で歌の掛け合いがおこなわれるものです。2は日本で言えばお盆の行事です。3は、橋後の街の近くの山の上にある観音堂の祭りで、この中で規模も一番小さく、祭りの前夜祭の夜中に若者達が歌の掛け合いをします。観音堂の周囲の十二、三の村の人たちが集まって歌を掛け合います。筆者がかつて調査した?源県の鳳河村の人たちも近くの青源洞という鍾乳洞で行われる歌垣に行くと語っていましたが、こういういくつかの村の人々が集まる小規模の歌垣はまだあちこちにあると思われます。
 歌は白語によって歌われ、八句で一首。八句の音数の基本形は、七七七五・七七七五です。一、二、四、六、八句の最後の音を同じくし(韻)、メロディーは一句と二句の組み合わせを一塊りにした定型の旋律があり、それを四回繰り返します。ひとつの歌の長さはだいたい三十秒から四十秒程度です。
 歌の内容は即興で恋愛の歌詞がほとんどです。歌い方にはある決まったパターンがあります。こういう場面ではこういうように歌うというある決まりがあり、その決まりの中 で、洗練された言葉、例えば、詩的な比喩を用いて歌うのがうまい歌い手ということになります。男女のどちらかが歌いかけ、互いに気に入れば歌の掛け合いが続くことになりますが、今まで見た掛け合いの長さは、平均一時間から二時間といったところでした。長い掛け合いで四時間半(記録したもの)というのがあり、一晩続いた例などもあると聞いています。勝ち負けという考え方はあるようで、歌い続けられなくなったら負けになります。ただし、ほとんどは、どちらかが歌い疲れ、自然に別れていくというのが多いようです。男女はそれぞれグループ同士で来る場合が多く、その中の一人が歌を掛け合い、連れはその歌の掛け合いをじっと聞いています。
 歌垣に来る人の目的はだいたい次のようにまとめられる
 @歌を歌うことを楽しむために来る人(未婚の若者から老人まで)
 A歌を歌うことで結婚相手を捜しに来る未婚の若者(歌を歌わなくても、同じ目的の若  者も集まってくる)
 B歌の上での恋人と会うために来る人。(既婚の男女が歌垣で配偶者以外との愛人関係  を作ることは許容されている)
 現在は@の目的で来る人が圧倒的に多く、そのため、主催者側も、うまい歌い手を招待し、舞台をことらえてそこで掛け合いを演じさせています。特に、石宝山の歌垣などは、男女の出会いの場という社会的な機能から、観光という別の社会的な機能に変わりつつあるようです。歌垣の場は、基本的には、未婚の男女が結婚相手を探す目的を実現するところです。その意味ではAがもっとも歌垣らしい歌の掛け合いと言えるでしょう。夫婦で歌垣に来る場合も歌垣の場では独身を装い、家に帰っても歌垣の話はお互いしないということのようです。かつてはBの場合はも多かったといいます。白族の婚姻は昔は結婚相手を親が決めました。男女が地域や親の拘束から離れ自由に結婚出来るようになったのは文革以降であるということで、それ以前は、歌垣で出会って恋愛関係になった男女が結婚出来ない場合は、その二人は歌垣の場でお互いに歌恋人として歌垣の中での恋愛を続けるのだといいます。
 歌の掛け合いの基本的な内容は男女の恋愛ですが、歌を楽しんだりする場合や、歌う相手によっては(歌を掛け合う両者は同姓の場合もあったりあるいは中年、老人と様々である)、挨拶や相手をからかったりとその場の雰囲気によって歌の内容は多様に変化します。 ここで出会った男女が、性的な関係にまでいたることはあるようです。ある子供のいない夫婦が、歌垣で子種を授かりに来ることがあると歌垣の中での聞き取りの際にそういう話を聞いています。そこで授かった子は神の子と考えるということでした。文革では、歌垣は淫風として禁止されたということですが、だからといって、歌垣が性的な関係において放縦であるということではないでしょう。一晩男女が恋愛を目的に歌を掛け合うのですから、ある場合には性的な関係にまですすむことがあるというだけのことで、それがこの歌垣にとって大きな意味のあるものとなっているわけではないと思います。男女が出会う場においてそれは常に付随することであって、ただ、歌垣の場合は、その場自体がハレの空間ですから、例えばそこで子種が授かるような場合でも、共同体に許容される意味づけがしやすいということだと考えられます。

歌の掛け合いの展開
 従来、少数民族の歌垣における歌の掛け合いは、ある一定の歌い方に沿って展開すると論じられてきました。例えば内田るり子は「照葉樹林文化圏における歌垣と歌掛け」(『文学』岩波書店一九八四年十二月)という論の中で、壮族の歌垣の事例をとりあげ、歌の掛け合いは「沿路歌、見面歌、情歌、盤歌、搶歌・闘歌、初交歌、深交歌、離別歌・相送歌」という順序で進行すると述べています。この論をふまえて、辰巳正明も歌の掛け合いは一定の順序に従うと述べその順序を「歌路」と呼んでいます(『詩の起原』笠間書院二〇〇〇年)。
 白族にも確かに歌路はあるようですが、それはあくまで歌のテキストとしてであって、実際の掛け合いの時にはその歌路に沿って歌われません。出会った男女が相手の素性を探りながら自分の歌(恋愛)の相手としてふさわしいかどうか、歌を交わしながら探っていくもので、その場の雰囲気や、相手との距離や親密さの程度に応じて、何度も同じような歌を続けたり、繰り返したりします。白族では、歌路と言わず、繞路(ラオルー)という言い方をします。繞とはぐるぐる回るというような意味で、実際の掛け合いでは、男女の関係そのものがあるストーリーのように展開しないのと同じように、相手を疑ったり、愛情を確認したり、また疑ったりと、テキストとして記憶されている歌の歌詞をその都度即興で利用しながら、自分の気持ちを歌っていくわけです。ですから、どうしてもぐるぐるまわるように歌のやり取りは進んでいきます。
 より具体的にどんな事が歌われるのか、述べていきます。
 まず、出会った男女は、いきなり熱烈な相愛の歌を最初から交わします。私はあなたと結婚したい、とか、あなたのような人と会うために山を越えて来たのだ、と最初から情熱的に歌います。これが挨拶という考え方もあるでしょうが、ある意味では、歌の上では最初から相思相愛の関係を設定してしまう、というように思われます。が、最初から相思相愛の関係を作ってしまったら、掛け合いは続くのだろうか、と心配になりますが、むろんそのことによって歌が途絶えることはありません。お互いそういう歌の歌詞を楽しむ、という要素も当然あるでしょう。歌を掛け合うことは、歌自体を楽しむという動機の占める割合が大きいですから、とりあえずは相思相愛の言葉をただ繰り返すだけで、歌の掛け合いは持続します。が、それだけでは、男女の関係は進みません。特に、歌の掛け合いを通して、歌い手の関係そのものを変化させたい場合には、その掛け合いが問答のようにかみ合わなくてはなりません。つまり、相手の歌に対して、どのように返すのか、その返し方によって、掛け合い自体が変化したり、あるいは、両者の関係そのものがそこで終わってしまいかねない緊張が生まれます。
 そういう戦いもしくは駆け引きのような掛け合いの具体的な内容を、一般的にこういうものだと説明することは困難です。そこに決まったパターンがあるわけではないからです。ただ、白族の歌の内容は会話に近いものです。その意味では、一般的な男女が恋愛から結婚へいたるまでにお互いを探り合いながら交わしていく会話が、そのまま歌という形式で交わされている、というようにも言えないことはありません。
 例えば、よくあるパターンが自分の村や家に来ないか、という誘い(問い)であり、答える相手は拒否はしないが巧みにはぐらかしていきます。住んでいる村や名前や年齢も当然歌の中で聞いていくが、これも最初は本当のことを教えません。聞く方もそのことは承知していて、何度もお互いの愛情を確認するやり取りが続いたりした後、突然、あなたには奥さんがいるのではないか、とか夫がいるのではないか、という問いかけが入ったりします。それも何度か繰り返されます。その意味では、あるパターンに沿って歌の掛け合いが進行していく、というものではなく、むしろ、歌自体を楽しむという前提の上で、(歌の上での)相思相愛の関係を確認したり、相手を疑ったり、誘ったり、婉曲に断ったりとそういった要素が混然となって、一時間も二時間もえんえんと掛け合いが続いていくのです。そして、お互い歌い疲れれば、何となく掛け合いは終わってしまいます。
 ただしいつもそんなふうにうまくいくわけではありません。歌を掛け合っても気心が合わなかったりすれば、その歌の掛け合いはぎくしゃくしたものになり、時には相手への呪詛ともいえるような悪口を言い合って喧嘩別れになる場合もあります。こう考えると、確かに白族の歌の掛け合いは会話に近いのですが、会話に近いということは、歌の上でのやりとりが、現実的な男女の関係に影響を与えるということです。言い換えれば、彼等の歌の掛け合いは、常に歌い手の現実的な関係への影響が計算されているということです。これは、白族の歌垣の大きな特徴と言っていいでしょう。当たり前であると思われるかも知れませんが、実は、歌というのは、現実的な関係をいったん消去した上で成立する表現形態です。だから、見知らぬ他者同士でも恋愛の歌を掛け合うことができるのです。歌の力は、現実的な関係を、ハレの場での関係に変えてしまう力があるのです。
 
白族の歌垣の特徴
 歌垣という場は、一方でそのハレの場における関係を、生活(現実)の側に着地させる通路を抱え込んでいるところに、その特性があると思われます。そうでなければ、歌垣の場は、常にハレの場であり、そこでいくら恋愛が成立しても、その恋愛関係は生活の場に降りてくるということはないでしょう。降りてこなければ、歌垣が結婚を目的にする、というその意義は失われます。ただ、祭の場所で歌を歌うという非日常の世界を楽しむだけの世界になってしまうでしょう。
 白族の歌垣はその意味で、歌垣の特性、すなわち、生活(現実)の側への通路を抱え込んだハレの場としての特性を現在でも極めて色濃く留めている、と言えるのではないでしょうか。そういった、白族の歌垣の特徴を具体的に保証しているのは、何といっても聴き手(観客)の存在です。歌垣には必ず聴き手がいます。この聴き手が歌垣にとっては重要なのです。男女の歌の掛け合い自体はその男女を二人だけの空間に閉じてしまいます。閉じられてしまっては、二人は歌垣の用意した恋愛空間に浸るだけですが、聴き手が介在することで、彼らの恋愛自体は、様々な意味を帯びて聴き手にひらかれるのです。聴き手にとって、二人の歌の掛け合いは、娯楽であったり、二人の恋への好奇心であったり、ある時は二人の恋愛の証人となり、あるいは二人の恋愛を監視したりします。白族の歌垣は、そういった聴き手と歌い手との関係が相互作用として機能している希有な歌垣なのです。この相互作用が崩れれば、観客はただ歌を享受するだけの存在となり、歌い手は、恋愛を演じる真剣さを失って歌の技術だけを競うようになってしまうでしょう。
 実は、白族の歌垣文化も中国の資本主義的な経済政策による急速な市場経済化の中で、そういった歌い手と観客の相互作用を失いつつあります。歌垣自体が次第に芸能イベント化や観光化されつつあるのであるのです。それはそれで時代の流れとして仕方がないとしても、この時代の流れの中で白族の歌垣の特徴がどのように変容していくのか、あるいはどのようにそれを守っていくのか、そういったことをこれから見届けなければならないと考えています。 

4 日本の歌垣をどう論じるのか
 以上のような、現在でもまだ続けられている白族の歌垣を参考にした場合、日本の古代の歌垣はどのように見えてくるでしょうか。少なくとも、折口信夫や土橋寛によって唱えられた民俗儀礼的な解釈を超えて、実際の歌の様相は見えてこないでしょうか。
 例えば次のように整理できると思います。

1男女の対立を前提とした歌の掛け合いがあった。
2掛け合いの中でかわされる歌は、同一の韻律で長さも同じ、同一の旋律である。
3基本的に即興の歌であった。従って、掛け合いの歌い手は、一人対一人であるのが基本の組み合わせであったろう。独唱や合唱はあったとしてもそれがメインではなかったろう。
4方言を含めて同一の言葉が通用する範囲での人たちが歌を掛け合う。
5歌の掛け合いは持続したはずである。
6歌の内容は、恋愛を基本とする恋歌、相手をからかうようなからかい歌、悪口歌が考えられるが、流行する歌を楽しむということもあったかもしれない。
7歌垣の目的には、結婚の相手もしくは恋人を探す、あるいは、お互い歌を楽しむために歌の上だけでの恋人を探す、うまい歌い手との歌競べ、といったことが考えられる。
8参加者は未婚の男女が中心だろうが、既婚の成年男女も、あるいは、老人も参加したと考えられる。
9歌垣で歌われる歌は、観客(第三者)に公開されているものである。 

 この中で重要だと思われるのは5と9です。掛け合いは持続したということと、第三者に公開されるということです。
 歌の掛け合いは持続するものです。日本の歌垣もそうだったはずですが、実は、記紀歌謡や万葉集の歌を見る限りでは、長く持続していくような歌は見られません。特に問答と分類されている歌は、二首一組で記載されています。これは、文字によって書かれた歌であるという条件が当然作用していると思われますが、それ以上に、歌垣で歌われていた膨大な即興歌そのもののレベルとは、違うレベルの歌が記紀歌謡や万葉集には載っていると考えた方がいいでしょう。それは、物語歌として再構成されたり、独詠歌であったり、同じ歌の掛け合いでも、歌垣という場そのものとは違う、例えば貴族の宴などのような場に応じたものに変化していった、といった事が考えられます。
 古橋信孝が述べる短歌謡のあり方とは、心の一部を歌うものであるが故に現在的であり、従って何首も重ねていくものだということでした。持続していく掛け合いとはまさに、そういう歌のあり方を具体化するものだったと思われます。だが、歌が文字化され、即興で長時間掛け合うようなものではなくなっていきますと、歌は、いったん歌い手の内面に回収されながらやり取りされると考えられます。そうしますと、歌詞の意味が重要視されてきますし、また、歌い手の内面も表出されてきますから、歌い手の現在の表出というあり方が変わってきます。歌い手の心が、歌い手にとって絶対的なものに変わっていくと言ってもいいのかもしれません。従って、そのような心のありようをやり取りすれば、持続する必然を失い、それこそ、動かしがたい自分の置かれた状況や心を訴えるのみ、という歌い方になるでしょう。その意味では、万葉集の多くの男女の歌の掛け合いは、互いの絶対的になりつつある心と心との対立だけが鮮明になる、先へ進まない掛け合い、ということになっていったのではないでしょうか。
 ただし、一方では、そうでありつつも、やはり、歌は心の断片を表出する性格を失っていないと考えることができます。短歌謡は短歌として変貌を遂げても、完結しない心のありようを歌うものだということです。一首一首完結しているようで完結していないのが短歌なのだということではないでしょうか。そう考えたとき、和歌というものの性格が分かってくる気がします。見方によっては、歌い手の動かしがたい内面を表す表現でいながら、一方では、歌い手の動いていく現在の心の断片を映し出すものでしかない、ということです。だから、和歌は、会話のようにやり取りされ、次から次へと次へと同じような歌が重ねられていくということではないでしょうか。
 もう一つは、歌の公開性ということです。歌垣の歌の掛け合いは、第三者(あるいは社会)に公開されていたということは白族の掛け合いの分析で述べましたが、これは、日本の歌垣においても当然同じだったはずです。恋愛する当事者だけが知り得る掛け合いというのは、あり得ないと見るべきでしょう。男女が歌垣で歌を掛け合うということは、声を出して歌うということです。当たり前ですが、よく考えれば、ひそひそ声で語り合ってもいいのです。しかし、歌(声)であるのは、その歌が二人以外に聞こえるということであり(むろん、実際に第三者に聞こえない場所で歌っても、歌である限りにおいて聞こえることが前提にされているはずです)、社会の中で人々に共有され得るということなのです。
 声による歌の掛け合いは、二人だけの完結した世界を構成しません。これは大事なことであると思われます。というのも、恋愛は、社会の中では禁忌ですが、それが歌でなされる限りでは、社会はその禁忌を許容するからです。声による歌は、禁忌を解放する歌垣的空間をそこに現出させるからです。つまり、歌垣という場でなくても、恋愛が声による歌でなされれば、それは、社会的な了解が得られるということになります。
 恋愛は男女を社会から閉じてしまいます。だが、歌(声)で恋愛をすることは、閉じられた二人を社会に開いていくのです。それが歌垣での歌の持つ意味であると思われます。社会は男女が出会い結婚へ至ることを期待します。が、恋愛というプロセスは社会にとって諸刃の剣でしょう。恋愛は男女を結びつけますが、時に恋愛は過剰になり、男女が社会から離脱してしまう危険を孕むからです。が、歌(声)の恋愛がそこに介在すれば、その危険性はかなり防ぐことができるでしょう。なぜなら、歌としての声は公共的なものであるからで、歌うことで、男女は公共的な世界に開かれてしまうからです。公共的な世界は男女の恋愛を非日常的なものとして括弧にくくるかたちで許容します。そうすることで、恋愛を許容しながら恋愛の過剰さを融和し得るのです。
 さて、日本の古代の歌垣においてもやはりこのような公開性があるとするなら、万葉集における恋歌はもやはりこのような公開性の上にあったと見てよいのでしょうか。おそらくは、そうだとも言えるし、違うとも言えます。万葉集の歌はまず声を失ったと言えます。少なくとも、歌垣で掛け合われていたような声の世界は失われていたはずです。とすれば、第三者の聴き手という存在は、想定しにくくなります。儀礼の場や宴のような場所で歌われれば第三者は想定できますが、私的な贈答歌となると難しいですね。
 それじゃ何故私的なやりとりの歌が万葉集に残ったのでしょうか。当然、そういう私的な歌の蒐集がなされたということですが、それでけでは説明はつきません。やはり、何処かで、私的な歌であるにしろ、歌というものはみんなに聞かれる(読まれる)ものであるという意識がそこにあったからではないでしょうか。
 一方、即興で現在の気持ちを歌に込めていくような歌垣の歌い方ではなく、自分の心を見つめたような、あるいは、詩の言葉として洗練させていく表現は、対話性を失っているという見方も出来ます。それだけ内面に向かっているとも言えますが、すでにそういった表現は文芸的な意識によって歌われていると言っていいでしょう。万葉集の歌がすでにそのような文芸意識を抱え込んだものであることは間違いありません。とすれば、その時の第三者とは、聴き手ではなく、近代的な意味での読者の成立ということになりますが、そういった読者が成立していたとは言えないにしても、歌垣で恋歌を聴いている聴き手とは違う聴き手もしくは読み手が成立していたとは言えるのではないでしょうか。
 それは、漢詩の知識を持ち、優れた詩の表現とそうでない詩の表現との差を自覚し始めた貴族層や宮人たちだったと思われます。ただ、そういった読み手が近代的な読者と違うのは、そこに詩としての普遍性を常に追求したとは思えないからです。つまり、一方でやはり、歌垣の歌の聴き手のように、聞き耳をたてて恋歌の掛け合いを聞くような観客になったとも考えられるのです。
 このような聴き手が成立するのは、万葉集の歌が、一方では歌い手の内面に向かうような新しさを持ち合わせながら一方では歌垣の掛け合いのように即興で心の断片を歌い重ねていくような、多様な性格を持ち合わせていることと対応しているからだと思われます。
 いずれにしろ、万葉集の歌は、歌垣の世界での、持続していく男女の掛け合い歌のあり方を色濃くとどめているとは言えるでしょう。

W章 万葉集の歌

1 万葉集概説
 ここから実際に万葉集に入り、万葉集の歌を取り上げながら歌というものについて考えていきたいと思います。その前に、万葉集について簡単に説明をしたいと思います。(『万葉集 全訳注』講談社文庫 中西進解説による)

◆二十巻 約四五〇〇首。
◆成立
二十巻末の歌 天平宝宇三年 七五九年。
成立はこれ以降となる
巻十七以降は 天平一八年(七四六)年以降の歌。巻十六までは天平一六(七四四)年以前の歌。従って、巻十六までは七四四年以前にすでに成立していたと考えられるが、後の時代の歌もその後に加えられた可能性もある。
段階的に編纂されて成立。九世紀初め(平城天皇)の時期に整備されたか。
当初は二十巻より多かったと考えられている。二十巻と明記されるのは後拾遺集(一八〇六)の序文である。
編纂については、大伴家持の手が加わっているのは確かだが、それ以外の人の手も加わっていると考えられる。

◆構成を三部に分けて考えることができる
一部 巻一〜巻七
純正な万葉集 雑歌・相聞・挽歌 を中心に構成
作者明記の歌が中心 作者未詳歌は巻七のみ 巻五は太宰府の歌が中心 

二部 巻八〜一六
作者未詳歌が中心 巻一三 宮廷詞章的歌群 巻十四 東歌 巻一五は話題の歌群を二つ載せる 巻一六 日常生活的な匂いの濃い歌集

三部 巻一七以降
大伴家持の歌日記的性格    

◆時代区分
第一期 初期万葉の時代
 壬申の乱(六七二年)まで 「集団的・儀礼的な記紀歌謡の要素を濃厚にとどめて、混沌とした抒情がこの期には見られる。」白村江の戦いの敗北。国際的な危機の時代。
 代表歌人 額田王 

第二期 白鳳万葉の時代
 六七二年 〜 七〇二年(壬申の乱が終わって持統天皇の崩ずる年まで) 天武・持統・文武と天武天皇の律令国家形成の意志を受け継ぎ、律令国家を形成していく時期。政治的には安定した時期。「天皇を神とする思想が生まれる」 代表歌人 柿本人麻呂「天皇を神とする思想を渾身の力をこめて歌った歌人」

第三期 平城万葉の時代 
 七〇二年 〜 七二九年 七一〇年の平城京遷都を中心とした時代。文明開化の時代。遣唐使(七〇二年・七一七、七一八年)。唐文化の浸透した時代。新しい文化と旧い文化との交錯する時代。天智・天武の皇子・皇女達が歌人として登場。長皇子・志皇子など。天武の皇子である草壁皇子を取り巻く人々を中心に動いた時代。文武・元明・元正・聖武と続くが、文武は草壁皇子、元明は草壁の妃で天智の皇女、元正は草壁の皇女、聖武は文武の子である。
 後半は唐文化の担い手でもあった長屋王が政治の実験を握る。長屋王の自害(七二九年)をもって第三期は終わる。それは皇親政治の終わりであり、藤原氏が台頭し、政治的には混乱した時代が続く。

第四期 天平万葉の時代
 七二九(天平元)年 〜 七五九(天平宝宇三)年 長屋王自害の天平元年(七二九年)から、万葉集年代判別歌の最後の歌の年(七五九年)まで。
 主に聖武天皇の時代。天平文化の隆盛。この時期の初めは、大伴旅人、山上憶良、山部赤人、笠金村らの歌人が活躍。後半には、大伴家持、坂上郎女、田辺福麿らが活躍。
 柿本人麻呂が万葉の第一のピークとするなら、第二のピークがこの時期。歌人たちは、白鳳の伝統を受け継ぎながら、唐風文化や仏教を受容し、それぞれ個性を発揮しながら貴族文芸として和歌を創作していった。

 万葉の時代区分によれば、最後の歌が、因幡の国での新年を言祝ぐ歌で終わっています。これが、七五九年です。初期万葉の時代からこの759年まではおおよそ百年と言っていいでしょう。ちなみに、

六四五年 大化の改新 中大兄皇子・中臣鎌足ら蘇我入鹿を殺す。
六六三年 日本・百済の連合軍、白村江の戦いで、唐と新羅の連合軍に大敗する。
六七二年 壬申の乱 大海人皇子が大友皇子を滅ぼし天武天皇となる。

というように、初期万葉は動乱の時代でした。
 天武天皇以降、日本は、律令制度の導入による、政治社会の改革、そして、仏教の浸透、唐文化の影響というように、政治、社会、文化の面で、かなりの変化が見られます。この百年は、日本の歴史の中でも、かなり流動的で日本という社会のあり方がおおきく変化した時代だと言えるでしょう。
 まず、グローバリズムの時代だったと言えます。とにかく海外と戦争をしていたのですから。それから、改革の時代でした。律令制度の導入は、郵政民営化なんてものではありません。明治維新に匹敵する改革でした。それにともない市場経済が限定的であれ導入されたのです。
 一方、古代的な仕組みや考え方がなくなったわけではありません。従って、改革の側の勢力と古い伝統に固執する勢力が、権力闘争を展開する時代となります。仏教という権威(思想)を基盤に、中央集権国家を作ったものの、その権威を維持することは簡単ではないのです。社会は時代の変化に対応できず混乱し、国家を批判する材料はいくらでもあり、反乱の種はつきませんでした。例えば、大仏造営はそういう国家の危機に対する国家の側の一大事業でもありました。
 一方、文化の面でも大きな変化がありました。なんといっても、朝鮮半島や、中国から、先進文化が入ってきたこと、皇族や豪族等の貴族階層の出現は、教養としての文化を花開かせました。その一つが詩歌の文化です。この時期の詩歌特に和歌は隆盛を極めます。和歌は、古い文化と新しい詩歌の文化とを融合し得る詩の形式だったからなのです。
 この百年、歌い手もまた変化していきます。額田王や柿本人麻呂と大伴家持とは明らかにその生き方やその内面が違ってきています。
 大伴家持が生きた時代は、個がいやおうなく露出した時代でした。和歌は、その個の逃げ場所であったり、アイデンティティであったりと、より複雑な役割を持つことになります。初期万葉との大きな違いは、私的な世界により閉じられてくる傾向になったことでしょう。それは、和歌自体が貴族文化の文芸として自立してくる一方、公的な性格、例えば、自然や神とのコミュニケーションを担うような祭祀の役割を失っていくことと対応してきます。が、それでも万葉集の歌は、すでに述べてきたように、古代と近代の融合したものでした。公的な性格はないといいつつも、万葉集最後の歌、

    新しき年の始の初春の今日ふる雪のしや重け吉事     巻二十・四五一六

は新春を言祝ぐ歌であり、それなりの公的な性格を持っています。慣習的な儀礼歌ではありますが、神や自然への働きかけを全く失ったわけではありません。

 さてこのテキストでは、一つの見方として、古代と近代の融合した歌のあり方を見て行こうと思いますが、主に作者不明歌を中心に扱っていこうと思っています。作者不明歌の方は、歌に込められた一般的な意識がよくあらわれると判断するからです。個別的な歴史や社会背景を背負う個人ではなく、類としてあらわれる作者の歌の背景を探るには、常に、歌とは何かという普遍的な問いかけが必要です。そういった問いかけを絶えず携えておく、という意味で、作者不明歌を扱っていきます。
 それでは、これから巻十四の「東歌」のいくつかの歌を具体的に見ながら、万葉の歌について考えていきましょう。

2 自然を歌うということ

 巻十四には「東歌」という題名がついています。巻にこのようなある地域を示す名前が付いているのはここだけです。東歌があるなら、西歌とか南歌があってもいいのですが、そういうものはありません。しかも東歌は「あづまうた」と読み、「ひがしうた」とは読みません。「アヅマ」の語源は、足柄峠で、ヤマトタケルが入水したタチバナヒメをしのび「吾妻ハヤ」と発したという神話に由来するとされていますが、西郷信綱は、東のアヅマとは、中央の都から見た当時の世界の端のことではないかと述べています。端のことを「ツマ」と言いますね。そのツマに接頭語のアがついて「アヅマ」と呼んだのではないかと言うのです。そして、その反対の端にあるのが「サツマ」だったろうと言うのです。サツマは今の鹿児島県。東国とは反対の方角の国の端っこということです。なるほど、このように言われると信憑性が出てきます。東のほうの端がアヅマでその反対の西の端がサツマということです。
 ここでは東歌を論じるつもりはないので、何故アヅマと呼ぶのかについてはこれくらいにしておきますが、何故「東国」が歌集名として選ばれたのかというと、当時の中央である都にとって東国が、他の地方と比べて特別な地域であったということだと思われます。ヨーロッパにおけるアジア趣味を「オリエンタリズム」と呼びますが、それと近いかも知れません。従って、東国で集められた歌を「東歌」としてまとめ、他の歌と区別したということでしょう。
 その意味では、この「東歌」がそのまま東国の歌をそのまま伝えているとは言えません。中央から見た東国のイメージが反映している、とは言えるでしょう。ただ、そうであっても、東国の方言が入っていたり、他の巻に見られない歌の特徴が見られることから、東国の人々の歌の世界を考える重要な資料であることは確かです。
 この「東歌」の歌は作者不明歌ですが、東国の人ではなく東国に赴任してきた中央宮人が歌ったのではないかという説があり、また、地元の人たちの歌を官人たちが記録したのだという説や、いや、皆土地の人たちが歌ったものだという説や、いろいろあるのですが、本当のところはわかりません。たぶん、官人の歌もあり、地元の人の歌もあり、ということでしょうが、総じて、「東歌」らしさがあるということで蒐集されたのですから、東国的な歌の性格はあるのであって、その意味では東国の人が歌った歌が中心になっていると考えても間違いではないと思います。
 
 それでは歌を見ていきましょう。まず冒頭の歌から。

    夏麻引く海上潟の沖つ渚に船はとどめむさ夜更けにけり  巻十四・三三四八
右の一首は、上総国の歌

 「夏麻引く」は海を引き出す言葉です。講談社全訳注に「夏の麻を根引きする畝(うね)」の意で続くかとあります。「うね」を引き出す言葉を使って「うみ」を引き出す言葉として用いたと考えられます。歌の意味は、もう夜も更けてきたことだから、海上潟の沖に船をとどめよう、というものです。海上潟は、左注に「上総国」とあるので、千葉市の沖合ではないかと言われています。
 何故夜が更けてきたので船を沖合に留めようとするのかというと、千葉市あたりの沖合は遠浅で、夜港に入っていくと座礁の危険があるので、よるは沖合に止まっていた方が安全だということのようです。
 この船はどういう船でしょう。魚をとる漁船でしょうか。そうではないでしょう。この歌を歌っているのは官人だと思われますから、この船は人や荷物を運ぶ船でしょう。千葉には国府がありましたから、恐らく東海道を旅してきた官人が、神奈川の方から千葉まで船で渡った折りの歌ではないかとも言われています。神奈川から千葉へは陸路で行くより船で言った方が近いのです。現在アクアラインが通っていますが、かつてはそこを船で移動していたわけです。
 歌の意味としてはそれほど難しい歌ではありませんが、でも、何故このような歌を歌ったのだろうか、と考えていくと、案外に難しくなります。歌い手は何故このように歌ったのでしょう。いったい何に向かって歌ったのでしょう。
 人は何故歌うのか、あるいは詩を作るのか、ということを考えた場合、それは心動かされたからだ、と答えるのが普通です。それで正しいと思います。恐らくここでも同じだったと思います。ただ、その心を動かされるというその内実が問題ですが。
 この歌は船の上で歌われていることがわかります。夕暮れから夜にかけての時間、暮れてゆく海を見つめて、歌い手の心はどのように動かされたのでしょう。この歌のポイントは「さ夜更けにけり」にあります。歌い手の一番揺り動かされる心は、だいたい歌の最後の方で表現されます。つまり歌い手は、夜が更けてきたことを強く歌いたかったということになります。
 もし歌い手がこの船の船長なら、夜が更けてきたから船を沖合に泊めるぞと指示を出している、そういう歌になりますが、歌い手は船長とは考えられません。何かに心動かされたから歌を歌ったのだとすると、それは「夜」ということになります。夜が更けてくることに心動かされたのです。
 海という神秘な自然のただ中でしかも危険な船の上で夜を迎える、この感覚が分かるとこの歌は理解できると思います。アニミズムが今よりも人の心を覆っていた古代、海は神の領域でした。しかも、夜とは神の時間であって、夕暮れは神の時間の到来を告げるものです。そのような神秘な海の上で神の支配する夜を迎えるとき、心穏やかでいられるものはいないはずです。思わず海の神や夜を支配する神に祈らずにはいられなかったでしょう。とすれば、この歌は、そのような祈りが歌われているのだと言えないでしょうか。
 夜を歌った歌に次のような歌があります。

ぬばたまの夜さり来れば川音高しも嵐かも疾き  巻七・一一〇一
  
 漆黒の夜の中で、嵐によって激しく波立っている川音を聞いているのでしょう。夜のただ中で聞くからこそ、嵐も川音もすさまじい畏れとして感じられるのです。夜が、川音や嵐の驚異を倍増させていると言ってもいいでしょう。
 そういう夜の畏れを、海の上で受け止めた歌い手は、思わず夜に向かってこの「夏麻引く」の歌を歌ったのではないでしょうか。それは航海の無事を願うものだったかも知れませんし、ただ夜の神秘に触れて言葉にせざるを得なかったのかも知れませんし、あるいは、もっと近代的な意識で、更けゆく夜の神秘さに感動を覚えた、ということだってあったかも知れません。ただ、大事なことは、この歌は夜に向かって歌われていることです。このことが分かればいいのではないでしょうか。
 旅にあって自然を歌う時の歌い方の特徴がこの歌にはよく表れていると思います。

  葛飾の真間の浦廻を漕ぐ船の船人騒ぐ波立つらしも 巻十四・三三四九  

 「葛飾」は今でも地名が残っています。陸地から東京湾に浮かぶ船を見て歌った歌ということがわかります。真間は崖の意味で、その崖の上に下総の国庁があったらしく、その国庁から官人が海に浮かぶ船を見て作った歌ではないかと、講談社全訳注にあります。意味はそれほど難しくはありません。船の船頭達が騒いでいる、波が立ちはじめたらしいよ、という意味です。難しい歌ではないのですが、よく考えてみますとこの歌はおかしくありませんか。
 というのも、この歌には「らし」という推量の助動詞が用いられています。「らし」はいわゆる根拠のある推量でして、強い推量とも言われます。いずれにしろ、推量の助動詞が使われているということは、「波が立っているらしい」という意味で、その根拠として「船人騒ぐ」があるわけです。さて、そうであるなら、この歌の歌い手にとって、船の上で騒いでいる船頭たちは見えているが、波は見えていないということになります。これは変ではありませんか。
 これは、崖の上から海を見て歌っている歌です。船頭が見えているのだから、当然海も見えているはずで、歌い手にとって波は見えていると考えるのが自然でしょう。そうではなく、この波とは、現在の光景ではなくこれから波が立ちはじめる近い未来を指しているのだ、ということでしょうか。船頭はそれを予見して騒いでいるということでしょうか。あるいはそうかも知れません。が、そうでないかも知れません。波は立っているのだが、歌い手にはその波が実際見えていないのかも知れません。諸注釈の訳を読む限りでは、この波はこれから起こるであろう未来のことだとは言っていません。あくまでも、歌い手にこの波は見えていないという解釈です。
 この解釈は間違っているとは思えません。現に推量の「らし」が使われているのですからう解釈するのは当然です。実は、「らし」を用いた次のような歌があります。

武庫の海の庭よくあらし漁する海人の釣船波の上に見ゆ   巻十五・三六〇九
 
 武庫の海は穏やかであるらしい、漁をしている釣り船が穏やかな波の上に見えることだ、という意味です。「あらし」は「あるらし」の詰まった形。つまりここにも推量の「らし」が使われています。でも、この歌は「らし」を使う歌ではないような気がします。というのも、波の上に釣り船が見える、と歌っているのですから、海の様子は現に見えているわけです。とすれば「穏やかであるらしい」などと歌う必要はないはずでしょう。「らし」を使うということは、海の穏やかな様子は歌い手にとって見えていないということを意味するのです。それならこれから穏やかになるらしいという未来のことを意味しているのでしょうか。それにも無理があります。現に穏やかな波の上に漂う船が歌われているのですから、穏やかなのは現在の状態です。とすればこの歌は助動詞の使い方が間違っているということになります。そうとらえていいのでしょうか。
 いや間違っているのはむしろわれわれの解釈だと考えるべきでしょう。そこで「らし」の用法について検討する必要があります。『古代語誌』(おうふう社刊)に「らし」の用法について興味深い解説が載っています。万葉で使われる「らし」は他界の霊威をあらわす場合があるというのです。例えば

桜田へ鶴鳴き渡る年魚市潟塩干にけらし鶴鳴き渡る  巻三・二七一

この歌の場合、波に隠れている干潟は神の領域であり、現れ出た潟の霊威を鶴声のうちに認めた断定を「らし」と表していると述べています。このように考えると、三六〇九の歌が解けてきます。「海の庭」の庭(ニハ)とは神聖な空間を示す言葉です。つまり、ここで穏やかな海と表現されている海は、神の領域としての海なのであって、目の前に見えている海そのもののことではないということです。つまり、穏やかというのは神のあらわれそのものであって、それは簡単には見えないものなのです。穏やかな海そのものは見えていても、神のあらわれとしての海は実際に見えているわけではないということです。ですから、目の前の穏やかな海の上に浮かぶ釣り船を見て、神のあらわれとしての海は穏やかであるらしい、と推量で歌っているのです。こう考えれば、「らし」を使うことに何の問題もないということになります。
 同じことが、東歌の三三四八にも言えるでしょう。陸地から東京湾に浮かぶ船を見て、波が立っているらしいと歌っていますが、ここで推量「らし」でとらえられている波はやはり見えていないのです。何故ならそれは神の霊威としての波だからです。実際に見えている波ではなく、神の霊威の現れとしての波が立っているらしい、とここでは歌われているのです。ここでは波が神の霊威だということになります。これで何故「らし」が使われているのか、という疑問が解決しました。波を神の現れとみる万葉人の感じ方を理解しないとなかなか理解しづらい歌だということがわかったでしょうか。このように万葉の歌は、言葉の意味だけを解釈してもうまく理解できない歌があるのです。

 万葉の人たちにとって、自然は神の霊威のあらわれでした。だから自然を歌うことは、その神の霊威を歌うことでもあったのです。現代のわれわれは美しい自然を見て感動します。たぶん、当時はそういう感動はなかったでしょう。自然は神の領域でした。その感覚は、現代のわれわれだって持っています。ただ、われわれはそういう感覚の由来を、人間の美的な感性に求めてしまうだけです。神の側に由来するとは考えないだけです。万葉の人たちはそれを神の側に由来すると考えたのです。
 ところで、そういう万葉人の感性とは、当時にあって、古くからあったものなのでしょうか。恐らく違います。自然を神の領域とすること自体はかなり古くからあったものでしょう。ただ、それを、このような歌において表現していくことは古くはなかったはずです。三三四七も三三四八も、旅の途中かあるいは赴任先での官人の歌です。いわば異郷とでも言うべき地域で歌われている自然ですが、このような異郷の自然が表現の対象になるのは、地方に赴任する官人たちが登場してからです。
 官人が異郷の自然を歌うのは、異郷を旅する自分の不安な心に見合うものだったからです。彼等は王ではありません。王にとって異郷は支配の対象になりますから、その地を巡行し、土地の神を誉め、王としての威力を刻印していきます。が、官人は逆に異郷にある自らの不安を鎮めるために異郷の自然、すなわち土地の神あるいは自然の霊威を歌ったに違いありません。そういう歌は、自分の心の不安定さに響き合うものだったはずです。
 三三四八は、夜の霊威に向かって旅の無事を願う歌だったでしょう。同時に、旅にあって不安な自分の心の揺れを歌うことでもあったでしょう。その意味で、万葉の時代、というより、地方へ赴任する多くの官人を生み出した律令制の時代、神の側に属していた自然が、歌い手の心と響き合う自然として発見された、といっていいのかも知れません。三三四八は旅の歌とは直接言えませんが、波の霊威を言葉に表そうとするその歌の姿勢は、異郷にあって不安な心がとらえた霊威への祈りのようなものであったはずです。その意味では、やはり、これらの自然を歌う歌は、古代と近代が融合されているのです。

3 オノマトペ論

  信濃なる須賀の荒野にほととぎす鳴く声聞けば時すぎにけり 巻十四・三三五二

 この歌も意味はそれほど難しくないのに、よく考えると難しい歌です。信濃の須賀の荒野というところで、ホトトギスの鳴き声を聞くと、時が経ってしまったなあ、というような歌ですが、問題はこの最後の「時過ぎにけり」の時がどういう時なのか、この歌のなかに説明がないことです。いろいろと解釈があって、例えば、講談社全訳注には、この時とは、帰京時の遅延、死別後の時間の経過(荒野は埋葬の地)とあります。あるいは、ホトトギスは農時期を告げる鳥としても知られていますので、そういった農時期の時だという説もあります。
 だが、一番納得のいく説は、この「時過ぎにけり」はホトトギスの「聞きなし」であるというものです。つまり、ホトトギスは「トキスギニケリ」と鳴いたわけで、その「聞きなし」の言葉を歌にすることにこの歌の意義はあるのだ、ということになるでしょうか。とすれば、この時がどういう時かは、厳密に分からなくてもこの歌の面白さは理解できると思います。このように鳥の声を「聞きなし」てそれを歌の言葉にするのは他にも見られます。例えば

  烏とふ大をそ鳥の真実にも来まさぬ君を児ろ来とそ鳴く  巻十四・三五二一
 
 この歌も「聞きなし」が歌われている歌です。烏の声が「児ろ来」と聞きなしされたわけで、実際には来ていないのに「児ろ来」と鳴くのは、あの鳥は大嘘つきだと言うわけです。このような「聞きなし」は今でも変わらずにありますが、この「聞きなし」を歌に表現するというのは、やはり「声」である音の面白さがそこに自覚されているからだということでしょう。
 万葉では、鳥もまた神の領域というカテゴリーに属す存在です。特にホトトギスはそうです。ですから、そのような鳥の声が「聞きなし」されたとき、そこに神の領域としての声が感受されたと言えなくもないでしょう。だが、ここでは、そのような幻想としての鳥の声以上に、音、意味という言語の構成要素が、本来の総合的なあり方を失って、音と意とがバラバラになり、その結果新しい言葉が発見され、そこに面白さが見出されていると言えます。
 万葉の歌は、言葉の意味が重視されるようになった段階にある、とは既に述べてきたことですが、どうやら、言葉の音の面白さもまた発見されてきた段階にあると言えるようです。特に、東歌には、このような音の面白さを歌い込んでいる歌があります。

  多麻川に曝す手作りさらさらに何そこの児のここだ愛しき  巻十四・三三七三

 「さらさら」はオノマトペです。布を曝す作業の擬態語です。同時に「曝す」の「サラ」に響き合っています。この音の「さらさら」が、意味としての「さらにさらに(更に更に)」の意味になって下句へとつながって行く構造になっています。まさに音の面白さが追求されている歌と言えます。
 ところで、こういうように、オノマトペが多義的な意味を獲得して歌の修辞的機能を獲得していくことを、近藤信義は「音喩」と呼んでいます。
 近藤氏の説明によると、古代のオノマトペは、音が始原的世界(異界)から来るという幻想に支えられているといいます。つまり、音自体が意味を超えた意味(異界からの音)として感受される契機があったということです。だから、「さらさら」というオノマトペが歌の言葉として用いられるということです。

 オノマトペは、擬音語・擬態語を指す言葉ですが、古代の言語表現にはこのオノマトペが効果的に使われています。
 たとえば「古事記」では、イザナキとイザナミが天の浮き橋に立って天の沼矛を下ろしてかき回す場面「塩こをろこをろに書き鳴して引きあげたまふ時」とあります。「こをろこをろ」は海水をかき回す時の擬音語でしょう。ここの神話表現では、ただ静かにかき回すのでなく「こをろこをろ」という音によって喚起されるそのイメージによってかき回されている、というわけです。このオノマトペの言葉に海水が凝り固まって陸地が生成してくる様子が凝集されているのです。言い換えれば、この「こをろこをろ」という音でなければ海水は凝り固まらないということです。つまりこの音の表現こそがこの神話部分の核になっているわけです。
「出雲風土記」の国引き神話でもオノマトペが重要な役割を果たしています。

  「高志の都都の三埼を、国の余ありやと見れば、国の余あり」と詔りたまひて、童女 の胸?取らして、大魚のきだ衝き別けて、はたすすき穂振り別けて、三身の綱うち挂け て、霜黒葛くるやくるやに、河船のもそろもそろに、引き来縫へる国は、三穂の埼なり。 持ち引ける綱は、夜見の島なり。堅め立てし加志は、伯耆の国なる火神岳、是なり。
 
「くるやくるやに」「もそろもそろ」は、擬音語ではなく擬態語です。国に綱を打ちかけその国を引っ張り、国がこちらへと動いてくる様子(擬態)が、このオノマトペによってとても感覚的に表されています。さっと一息にやってくるのではなく、いかにも動かしがたいものが神の力によって少しずつ少しずつ近づいてくる、という感じでやってくるのがわかります。この感じがこの神話にとってやはり重要なのです。この神は八束水臣津野命で、この神話では巨人神として描かれますが、その巨人神の力のイメージがまさにこのオノマトペによって喚起されていることが分かります。
 「古事記」の国生み神話に出てくる「こをろこをろに」とよく似た言葉に「うじたかれころろきて」があります。黄泉国へイザナミに会いに行ったイザナキが、腐った死体としてのイザナミを見たときのその死体の様子の表現である。「ころろきて」は大系本では「声がむせびふさがって」と訳されています。和名抄の「嘶咽」(ころろく)という字からの解釈ですが、いずれにしろ、蛆がたかってうるさく音を立てている様子が「ころろ」であるとすれば、これもオノマトペでしょう。「うじたかれ」もここでは一字一音表記ですが、むしろ音の感覚よりは「蛆がたかる」というその意味性が優先された言葉でしょう。だから意味がとりやすいのです。それに続けて、「ころろきて」は意味としては不明の言葉ですが、その音の語感によってその意味するところがわかってしまう言葉でもあります。
 それなら、何故散文的に蛆がたかっていてうるさく音を発していたと表現しなかったのか、ということが気になります。前後は意味を優先した散文脈なのに突然「うじたかれころろきて」という一字一音の、前後の文脈とは違った種類の言葉がどうして差し挟まれるたのでしょうか。
 このような問いは、オノマトペの言葉を見つける時に必ず起こる問いです。オノマトペは本来他の意味的な言葉で置き換え可能であるのに、あえて感覚的な音の語感を優先させる言葉で表現してしまうのでしょうか。
 特に「うじたかれころろきて」は、「こをろこをろに」よりはかなり複雑な言葉であって、即興で出てきたような言葉とは違います。とすれば、一字一音のそれ自体では意味不明だとしても、音の語感によってイメージが喚起されるこのような表現が、もともと神話の表現と切り離せないものとしてあったということでしょう。このことから、本来、文字に記録される以前の神話的表現にはこのようなオノマトペの表現が豊富にあったのではないか、という推測が成り立ちます。
 オノマトペはほとんどが繰り返しの表現になっています。「ごろごろ」「くすくす」「パリパリ」「そろそろ」というように、擬音・擬態は繰り返しの言葉で表現されるのが表現上の規則になっています。繰り返しの方が語感をわかりやすく印象づけイメージを喚起させる効果が高いからでしょう。従って、メロディやリズムを伴う声での伝達にオノマトペが多用されるであろうことは理解できます。
 実は、この繰り返しの表現というのは古代の様式性を持った表現の一つの特徴でした。すでに触れましたが、折口信夫は、歌の言葉の発生を神の発する呪言とし、その言葉を繰り返しのイメージととらえています(『国文学の発生』)。折口の発生論を受けた古橋信孝は、古代の繰り返しの言葉とは、神の言葉を装うとする様式的な表現だとしています。むろん、これらの発生論的把握はオノマトペそのものを論じたものではありませんが、特にオノマトペが歌の言葉に多用されることを考えますと、オノマトペの言葉が神の言葉のような装いという様式性を保証するものということになると考えられます。最近では、清水章雄が、これらの様式性としての繰り返しというとらえ方を受けて、オノマトペの繰り返しが漢詩の繰り返し表現の影響を受け、詩の言葉として完成されていったのだと論じています(「草木言語論―オノマトペの発生―」岡部隆志・丸山隆司編『神の言葉・人の言葉』所収、古代文学叢書T武蔵野書院二〇〇一年)。
 オノマトペの繰り返しを古代の表現としてとらえるとき、オノマトペは、神の側の世界、つまり神話的世界を喚起する力を持った表現だったようです。
 一方、擬音語・擬態語としてのオノマトペの特徴を認知言語学的に語れば、「感覚や身体行動を『運動』あるいは『動き』という次元で表現する特性を持つと同時に、心の動きのダイナミックスをうまく表現するユニークな言語」(芋阪直行編著『感性の言葉を研究する』新曜社一九九九年)ということになります。確かにオノマトペには「運動」「動き」があり、さらにその「運動」「動き」はオノマトペの言葉の主体の心の「動き」の状態を直接に伝えます。とすると、そのようなはたらきを、繰り返しが担うと考えるとわかりやすい説明になるでしょう。つまりオノマトペの繰り返しとは、「動き」(対象の動きであると同時に言語主体の心の動き)を伝えるものなのである、ということです。それは繰り返しがまさにリズムだからでしょう。
 繰り返しとしの持つ働きとして、言葉の自立があります。風が「そよ」と吹くでもいいのですが、「そよそよ」と吹くと言った場合、「そよそよ」という表現が様々な喚起力を持つ言葉として自立します。この自立によって、「そよそよ」は多義的に他の言葉に結びつくはたらきを得るのだと思われます。例えば「そよそよ」とだけで、必ずしも風の音だけではない何らかの動態のイメージがそこに喚起されるでしょう。特に擬態語においてそのはたらきは効果的になります。「さら」だけでは何かわからないが「さらさら」と繰り返されると何らかのイメージが喚起されるのは、「さらさら」が「さら」に対して、自立し得る表現だからです。
 この喚起力は、繰り返しが動的なイメージ(リズム)を持つということと関連しています。オノマトペは言語主体の身体感覚とその受け手の感覚との共感覚を基盤にしているところがあり、その意味において、意味の共有という概念のはたらきとは違うところで言語が共有される面を持っています。そこに概念としての意味が加わったとき、伝達性はより強いのに概念としては曖昧である、という言語世界が成立します。それがオノマトペ言語の特徴であると言っていいでしょう。つまり、強力な伝達性と曖昧な概念性がオノマトペの特徴です。オノマトペが多義的な言語であるのは、その伝達の確かさに比べて概念としての意味性が希薄すぎるからなのです。
 オノマトペが神話の言葉に用いられるのは、その概念の曖昧さと伝達の確かさが、神話の言葉の主体を「神」として幻想させやすいからでしょう。「こをろこをろ」と海をかき回すそのイメージの主体は、意味より先に強い身体感覚的喚起力で聴き手にはたらきかける何者か、です。そのはたらきかけによって聴き手は神話という表現を感じ取る共感覚的世界に引き込まれるのです。たぶんにその共感覚的世界の感受こそが、神という幻想の創出に必要だったのでしょう。音の羅列が作る共感覚的世界のはたらきによって、神の幻想は喚起されるということです。だからこそ、神話表現の中でオノマトペは意味の言葉には簡単には置き換えられない表現として固定化していったのだと思われます。

 さて、オノマトペを効果的に用いた三三七三の歌には、当然、オノマトペの言葉が持つ古代的な幻想性、つまり神の領域を喚起させる力が働いている、といえるでしょう。同時に、この歌には「サラ」という音が、意味にならない音の状態として入っています。近藤信義はそれを、言葉としての音をニュートラルな音の状態として貯えているのだといいます。そのはたらきによって、いったんニュートラルな音の状態に還元された音は、別の多様な意味に変換される可能性を孕んでしまうわけです。それが歌の言葉としての修辞的な機能としはたらき始める、ということなわけです。
 近藤氏はオノマトペを孕んだ序詞を、「何らかの音を放出するためにそれを貯えている部位」という解釈を施します。「多摩川に曝す手作りさらさらに」には、曝すの「サラ」と「さらさらに」の「サラサラ」がニュートラルな音として貯えられたということになります。
 ニュートラルな音に還元されるということはどういうことでしょうか。氏の説明では音が始原性として感受されるそのことが、音を意味に還元されない“音”に定位するととらえています。ニュートラルになった音が多義的な意味を孕むそのことを近藤氏は「このような構造が実は古代の人々の異界をとらえ、感受する方法の一つであるということである。つまり外からの啓示的な〈兆〉を見出そうとする心のありようが音の領域に表れているということであろう」と述べます。音が意味の多義性を孕むのは、それ自体神秘な異界の音がこちら側にあらわれるとき何らかの意味と結びつくが、その結びつき方に一定の法則はなく、その結びつき方の不規則性こそが異界性の証拠だと感受される、ということでしょう。つまり、オノマトペは神の領域にある音のこちら側の世界へのあらわれ。ということです。言葉自体が神の領域にゆだねられてしまうそのあり方をニュートラルだと言っているようです。
 このようなとらえ方は、神という外部から、言葉の修辞的機能を説明してしまう論理ですが、そこには、古代の言葉の様相はわからないから、神という幻想によって生きていた古代の言語感覚を論理の核に据えようとする発想があります。それは折口や古橋の発生論の論理でもあります。ただ、一方で、神という外部に頼らない論理はどう可能なのか、という視点はあってもいいのではないでしょうか。
 確かにオノマトペはそれ自体ある規範的な意味性を超えてしまう感覚的表現です。さらに日常言語としてもオノマトペは、一つの意味に限定されない可塑性を持つ言葉です。だからこそ詩的な言葉に成り得るわけです。が、ここでの問題は、それが和歌の表現となったときに、詩的な言葉というよりは、一瞬ニュートラルな音として存在してしまうということです。「さらさら」と表現されたとき、「さらさら」は一瞬身体感覚的な表象あるいは意味的な表象にも絡め取られない純粋な音として存在してしまいます。だが、そうであれば本来それは言葉ではありません。純粋な音などという言葉はありません。が、それでもやはりそれは言葉としてそこに存在しています。ニュートラルということはそういうように存在するということではないでしょうか。そのとき、その言葉は一瞬フリーハンドになります。つまり意味から自由になるわけです。自由になるから、その言葉は色々な意味と結びやすくなり多義的になっていく、ということります。それを言葉がモノとして存在してしまう、と考えたいと思います。言葉であるが言葉ではないその瞬間がモノとしての言葉ということです。モノとしての言葉などあるわけではないのですが、一瞬そういう表情を見せる、というところにオノマトペの言葉の特徴がある、ということです。その特徴を、いわば詩的な表現における修辞の可能性として抱え込んだのが、和歌なのです。
 むろん、日常言語としてのオノマトペが常にモノとしての言葉の表情を見せる、ということではありません。それはたぶんに和歌という様式の中での出来事と考えるべきでしょう。和歌の様式は、和歌の言葉を規範としての意味の世界から自由にします。この様式シニフィアンとでも呼ぶはたらきによって、和歌の言葉は、その明瞭な意味の世界からの解釈ではとらえきれない表象の世界を獲得しているわけです。だから、和歌は、日常の何気ない出来事をただ言葉にしただけでも、そこに詩的な表象があるように受け取られるのです。この様式シニフィアンにオノマトペの言葉が絡め取られるとき、オノマトペはそれこそ意味への負担から解放されその音としての表情をより積極的にあらわにするのだと言えるでしょう。
 そのとき、言葉の「曝す」も「さらさらに」も一瞬音としての「サラ」や「サラサラ」になります。「さらす」「さらさらに」と「サラ」「サラサラ」のその落差としての空隙がそこに生じます。実は、その空隙が異界からのはたらきともあらわされるような不思議な表象を生み出しているのではないでしょうか。つまり「さらさら」は何らかの意味に融合されることを主張し、「サラサラ」は意味づけられない言葉であることをむしろ積極的に主張するわけです。それは、まさに、記号としての言葉と記号ではないモノとの、分裂し融合した言葉の動きそのものと言えるでしょう。そういう言葉の存在が、古代の表現世界の中で作られていった、ということです。
 清水章雄は古代のオノマトペを草木言語と呼んでいますが(「草木言語論」前掲)、それは、異界としての自然性の表象にオノマトペが使われていると考えるからです。幼児が話すオノマトペは、混沌とした幼児の無意識を含む感覚世界と地続きですが、幼児の段階を失ったわれわれは、オノマトペを通して、むしろ無意識としてのわれわれの自然性を再現しようとします。その論理はたぶんに古代の表現としてのオノマトペにはたらいているでしょう。だが、一方で、オノマトペが詩の言葉として機能し始めるとき、それはわれわれの自然性あるいは異界性といったもののあらわれではなく、意味に関連づけられない言葉そのものとして、むしろ、意味づけられない世界そのものに常に対峙するわれわれの表現への感性に直接響き合う言葉として、そこにあらわれるのではないでしょうか。
 そういう言葉の一瞬の表情をここではモノとしての言葉と呼んでいるわけです。このモノとしての言葉への変身のしやすさによって、オノマトペは歌の言葉として用いられたのです。なぜなら、オノマトペは歌の言葉の中に一瞬意味の空隙を作るからです。その空隙によって、歌の言葉は、時には神の領域の側を喚起する力を発揮し、時には、言葉の遊びであったり、あるいは、言い難い感覚の表象を表現するる言葉であったりと、豊かな詩の言葉になっていくのだと言えるのではないでしょうか。
 
4 旅の問答

霞ゐる富士の山びにわが来なば何方へ向きてか妹は嘆かむ 巻十四・三三五七

 この歌も実はよく考えると不思議な内容です。この歌い手は、恐らく家に妻を残して旅に出た途中でこの歌を歌ったのではないかと考えられます。いやそうではなく、これは富士の山麓で歌垣のようなものをやっているか、逢い引きしている男女の歌の一つだという解釈も成り立ちますが、ここではその説はとりません。というのも、万葉で歌われる歌で、家の外にいる男について嘆く女は、ほぼ、家の側にいるからです。ですから、この歌でも女は家にいると見て間違いないでしょう。とすれば、男は、妻と別れて旅に出たか、あるいは、女の元に通っていた男が女の家から帰る所か、ということになりますが、やはりこの歌は、旅に出た夫の歌でなくてはなりません。というのも、「何方へ向きてか」という表現に、旅に出た夫を気遣う妻の様子が見て取れるからです。これが通ってきた男と別れたばかりの女の歌とすると、こういう気遣いはなかなか出てきません。
 さて、この歌を旅に出た夫の歌とした場合、この歌はやや不可解なことを歌っているよえに思えます。というのも、妻が家にいるなら、その妻には、夫のさしかかった富士の山麓に霞がかかっていようといまいと、その方向は分からないはずではないか。いや、仮に富士の山麓あたりに今頃さしかかっていると想像すれば、霞がかかっていようといまいと夫のいる方向はだいたいだがわかるはずではないか、という疑問が浮かぶのです。
 妻の家は夫の居る富士の山麓とはかなり離れていると考えるのが自然でしょう。とすれば、妻は夫のいる場所に霞がかかっていようがいまいが見えないはずなのに、何故、夫は、ここに霞ががかかっていると妻は今俺のいる所が分からないだろうなあ、というような歌を歌ったのでしょうか。
 それは、実際にはかなり遠く離れているところにいるにしろ、やはり霞がかかっていると見えないと、夫は思ったのだと思います。あるいは、そのように思うことが、ここでは当然のことだったのです。それは次のような歌によって理解できます。

  日の暮に碓氷の山を越ゆる日は背なのが袖もさやに振らしつ 巻十四・三四〇二

 この歌は明らかに旅に出た夫を思いやる妻の歌です。夫が碓氷峠の山を越える日は、袖を振っているのがはっきりと見えたと歌っています。が、どう考えても、妻の側から碓氷峠を越える夫が見えたはずはありません。麓に家があったとしてもそれは無理でしょう。 とすればこの歌は見えない夫の姿を見えたと歌っていることになります。さらにつけ加えるなら、見えたのは恐らく碓氷峠が晴れていたからでしょう。つまり、碓氷峠が富士の山麓のように霞がかかっていたり、曇っていたら、夫の袖振る姿は見えなかったと歌われたかも知れません。このように、実際は見えない距離にあったとしても、見えていると歌う歌い方があるのです。そして、そのと気には、天候も大事であるということが分かります。防人歌には次のような歌があります。

  足柄の御坂に立して袖振らば家なる妹は清に見もがも     (巻二〇・四四二三)
    右の一首は埼玉郡の上丁藤原部等母麿
  色深く背なが衣は染めましを御坂たばらばま清かに見む       (四四二四)
    右の一首は、妻、物部刀自売
     
 これらの歌は、防人として出征するときに、送られる夫と送る側の妻が歌を掛け合ったものだと思います。興味深いのは、足柄の御坂つまり、足柄峠が両方に歌い込まれていて、夫は、足柄峠で故郷の妻が見えると歌い、妻は足柄峠の夫が見えると歌っているところです。この夫婦は今の埼玉県に住んでいますから、足柄峠はそれこそかなり離れています。このように見えないにもかかわらず見える事を前提にお互いに歌をやり取りすることがあったということがここからわかります。この防人歌は、出発前の掛け合いですが、実際に足柄峠にさしかかったとき、こういうやりとりはあったのだと思われます。むろん、今と違って携帯があるわけじゃないので、夫は足柄峠に着いたら歌うことをあらかじめ妻に言っておき、妻は足柄峠に着く頃を見はからって、互いに歌を交わす、なんてことがあったのではないでしょうか。
 それを示しているのが次の歌群です。

     中臣朝臣宅守と狭野茅上娘子との贈答の歌
  あしひきの山路越えむとする君を心に持ちて安けくもなし (巻一五・三七二三)
  君が行く道のながてを繰り畳ね焼き亡ぼさむ天の火もがも    (三七二四)
  わが背子しけだし罷らば白妙の袖を振らさね見つつ思はむ    (三七二五)
この頃は恋ひつつもあらむ玉匣明けてをちより術なかるべし   (三七二六)
     右の四首は、娘子の別に臨みて作れる歌
  塵泥の数にもあらぬわれ故に思ひわぶらむ妹が悲しさ      (三七二七)
あおによし奈良の大路は行きよけどこの山道は行きあしかりけり (三七二八) 
  うるはしと吾が思ふ妹を思ひつつ行けばかもとな行きあしかるらむ(三七二九) 
  恐みと告らずありしをみ越路の手向に立ちて妹が名告りつ    (三七三〇)       右の四首は、中臣宅守の上道して作れる歌

 この贈答歌はとても有名なものです。三七二四の歌は、すでに出てきましたね、万葉集の中でも絶唱と言われている歌です。
 この歌群の背景は、中臣朝臣宅守が罪を犯し今の石川県に配流される際、妻(愛人という説もあり)の狭野茅上娘子が歌を贈り、それに宅守が答えたものです。妻の歌は出発前に歌われたものですが、答えの歌は、「上道して作れる歌」と左注にあるように、旅の途中で歌われています。
 この贈答歌は問答になっていますが、この問答はいったいどの時点で成立するのでしょうか。歌垣の掛け合いや使者などに手紙を託すような贈答によって成立する相聞歌などのような問答の場合、問答が成立する時点とは、相互に相手の歌が確認できた時、つまり返歌が届いた時とするべきでしょう。ところが、この贈答歌群の場合、問答が成立するのは宅守が「み越路」で返歌を歌った時点であると思われます。恐らく、この宅守の歌は配流地についてから都にいる娘子に送られたのでしょうが、そうであったとしても、やはり、この問答が成立するのは、娘子が「あしひきの山路」と思いやったその場所、つまり宅守が「み越路」と歌い返したその場所で歌った時なのだと思われます。なぜなら、この問答が成立するかしないかは、宅守の旅の安全に深くかかわっているからです。
 宅守が「み越路」と歌った峠は、近江から越前に抜ける境界に位置する愛発山だと言われていますが、いよいよ娘子のいる幾内から離れ悲別の情がここで極まるので、宅守はこのような別れの歌を歌ったのだと、一般的な解釈ではそうなっています。そうとるなら、あの時私はこんな歌を歌いましたよと歌を使いに託して娘子に届けた時点で、この問答は成立してもいいわけです。
 が、そう言えないのは、娘子の歌がたんに悲別の思いを歌ったのではなく、旅立つ宅守の行路の安全を祈願して歌っているからです。「天の火もがも」と歌った三七二四の歌などは、まさに天への祈願であり、歌を歌うことで行路が安全に保たれるような、特殊な力への幻想(呪力)を働かした歌だとも言えるでしょう。
 とするなら、宅守は境界の峠で、やはり、娘子のその祈願に応える歌を歌ったのだと考えるべきでしょう。何故、峠で歌ったのか。それは、峠が旅路の困難を象徴する場所であったからです。古代の旅は困難を極めましたが、特に峠は難所どした。それで、旅人は、峠の神に手向をし、行旅の安全を祈願したのです。その様子は、宅守の三七三〇の歌にも歌い込まれています。「み越路」と神聖な意の「み」をつけたのは、その峠の神に対する尊敬であり、また、「恐みと告らずありしを」というのは、妹の名を呼ぶとそのことによって峠の神が妹にたたると信じられていたからで、それほど、峠の神を恐れ、かしこんでいたということを表す意でしょう。が、それでも、「妹の名」を口に出してしまったということは、峠の神に対する手向という祈願より、妹の祈願に応えるということのほうが歌い手にとってより切実だったことを表しています。
 手向をするだけなら、ここで歌を歌う必然は何もありません。むしろ歌うことは「妹の名」を口に出してしまうことだから危険ですらあるのです。それでも歌うということは、それだけ娘子のことが忘れられないというのでなく、峠の禁忌に触れてさえも、娘子の歌に応えることのほうが宅守の旅にとって大事だったからでしょう。つまり、娘子が「焼き亡ぼさむ」と祈った困難な行路の象徴であるその峠で、娘子に向かって歌い返すことが、娘子の祈願を現実のものとして成就することを意味したのであって、結局、そのことが彼の旅の安全を保証したのだと思われます。とすれば、中臣朝臣宅守と狭野茅上娘子の問答は、返歌が歌われたこの峠でまさに成立しなければならなかったのです。
 それなら、娘子は、その時点では、宅守が何を歌ったのかを知りようがないではないかという疑問がわきますが、それについて、古橋信孝は次のように述べています。

  たとえば旅に出ている男は、旅の無事を祈って、自らの共同体の帰属を確認するよう に歌をうたう。その心は家にいる妹への想いとして表出される。そして一方の家にいる 妹は旅にある男を想う歌をうたい、男の道中安全を祈る。なぜこのようなことが可能か というと、旅にある男は家の妹がうたっている歌を予想できるからであり、家にいる妹 も旅の男の歌を想定できるからである。なぜなら、それは旅にある男のうたう歌と家に 待つ女の歌が累積されて共同性を持っている、つまり、こういう場合はこういう歌をう たうという共通の了解が成り立っているからにほかならない。(古橋信孝編『日本文芸 史古代T』河出書房新社)

 旅にある男と家にいる妹(妻)との間でこのように歌うものだという共同の了解が成り立っているという指摘は、さらに、離れている二人の間で歌を掛け合うという行為が儀礼の如くに成り立っていたのではないかと推測させます。つまり、旅の問答とも言うべき歌の掛け合いがあった、ということです。そういった旅の問答の典型的な例は次のようなやりとりでしょう。

    西海道節度使の判官佐伯宿禰東人の妻の、夫の君に贈れる歌 
  間無く恋ふるにかあらむ草枕旅なる君の夢にし見ゆる     (巻四・六二一)
   佐伯宿禰東人の和へたる歌一首
  草枕旅に久しくなりぬれば汝をこそ思へ恋ひそ吾妹         (六二二)

 妻が旅をしている夫に歌を送り夫は返事を出す、ただそれだけでは、互いに相手を気遣うやり取りにすぎませんが、ただ、眼前にいない相手に対してあたかもいるかのように互いに歌を掛け合った、と考えたらどうでしょう。儀礼のような、と言ったのはそういう歌の掛け合いを想定したからです。そうすると、そこで歌われる歌は、相手に直接働きかけるような力を帯びてくると思いませんか。この佐伯宿禰東人の妻の歌と夫の歌は、手紙によるやりとりでしょうが、本当は互いに見えない相手に向かって歌のやり取りをしたのではないでしょうか。
 この歌の掛け合いつまり問答にはある決まりのようなものがあったようです。それは、妻が、夫の旅における障害とも言うべき険しい自然を歌うことです。それは、主に山や峠あるいは岬などです。それに対して、夫の歌は、妻が歌の中で言葉にした山や峠の側で歌うということです。
 ここではそのようなやり取りを旅の問答と呼んでいますが、実際に旅の問答がそのまま万葉集にあるわけではないのですが、旅に出ている夫を心配する歌や、旅にある夫の側の歌を集めてみますと、実際は旅の問答があったらしいことがよくわかります。

   妻の側の歌
  わが背子はいづく行くらむ奥つもの名張りの山を今日か越ゆらむ (巻4・五一一)  山科の石田の小野の柞原見つつか君が山道越ゆらむ       (巻9・一七三〇)  み越路の雪降る山を越えむ日は留まれるわれを懸けてしのばせ     (一七八六)  外のみに君を相見て木綿畳手向の山を明日か越え去なむ    (巻12・三一五一)  曇り夜のたどきも知らぬ山越えて往ます君をば何時とか待たむ    (三一八六)  朝霞たなびく山を越えて去なばわれは恋ひむな逢はむ日までに     (三一八八)  雲居なる海山越えてい行きなばわれは恋ひむな後は逢ひむとも     (三一九〇)  よしゑやし恋ひじとすれど木綿間山越えにし君が思ほゆらくに     (三一九一)  草陰の荒蘭の崎の笠島を見つつか君が山道越ゆらむ          (三一九二)  玉かつま島熊山の夕暮に独りか君が山道越ゆらむ           (三一九三)  息の緒にわが思ふ君は鶏が鳴く東方の坂を今日か越ゆらむ       (三一九四)  日の暮に碓氷の山を越ゆる日は背なのが袖もさやに振らしつ  (巻14・三四〇二)  東路の手児の呼坂越えと去なば吾は恋ひむな後は逢はむとも      (三四七七)  足柄の八重山越えていましなば誰をか君と見つつしのばむ   (巻20・四四四〇)
 
   夫の側の歌
  吾妹子をいざ見の山を高みかも大和の見えぬ国遠みかも     (巻1・四四)
  石見のや高角山の木の際よりわが振る袖を妹見つらむか     (巻2・一三二)
  ここにして家やも何処白雲のたなびく山を越えて来にけり    (巻3・二八七)
  亦打山夕越え行きて廬前の角太河原に独りかも宿む          (二九八)
  佐保過ぎて寧楽の手向に置く幣は妹を目離れず相見しめとそ      (三〇〇)
  磐が根のこごしき山を越えかねて哭には泣くとも色に出めやも     (三〇一)  妹に恋ひわが越え行けば背の山の妹に恋ひずてあるが羨し    (巻7・一二〇八)  山科の石田の社に幣置かばけだし吾妹に直に逢はむかも     (巻9・一七三一)  行きて見て来ては恋しき朝香潟山越しに置きて寝ねかてぬかも (巻11・二六九八)  玉くしろ纒き寝し妹を月も経ず置きてや越えむこの山の岬   (巻12・三一四八)  霞立つ春の長日を奥処なく知らぬ山道を恋ひつつか来む        (三一五〇)  み雪降る越の大山行き過ぎていづれの日にかわが里を見む       (三一五五)  あしひきの山は百重に隠すとも妹は忘れじ直に逢ふまでに       (三一八九)    一は伝はく、隠せども君を思はく止む時もなし
  相模嶺の小峰見かくし忘れ来る妹が名呼びて吾を哭し泣く   (巻14・三三六二)   或る本の歌に曰はく、武蔵嶺の小峰見かくし忘れ行く君が名かけて吾を哭し泣くる
  東路の手児の呼坂越えがねて山にか寝むも宿は無しに         (三四四二)  ひなくもり碓氷の坂を越えしだに妹が恋ひしく忘らえぬかも      (四四〇七)

 このように集めて見ると、妻の側の歌が山や峠が歌いこまれ、夫の側の歌は山や峠の側で歌われていることがよく分かると思います。これだけ同じような歌があるということは、やはり旅の問答があったということを示しているのではないでしょうか。夫が危険な場所や、あるいは峠のような異郷への境を通りかかったとき夫は妻に向かい、妻もその頃を見はからって、互いに見えない相手に向かってあたかも見えているかのように歌の掛け合いをしたのです。そうすることが、旅の安全を祈る行為そのものだったのです。
  
 折口信夫は、歌の始まりを問答と考え、その問答の成立を「神と精霊との問答が、神に扮する者と人との問答になる、そして神になっている人と、其を接待する村々の處女たちとの間の問答になる。」と述べています。外来の神と土地神との問答に、その土地(村)の生産の予祝の意味が込められているので、村では、その問答を神の立場に立つ者と人(乙女)との歌の掛け合いという形で繰り返すと言うのです。
 このような旅の問答が、呪術的な意味合いを抱え込んだ儀礼だったのかどうかははっきりとはわかりません。歌を掛け合うこと自体は、歌垣の例などのように当時盛んに行われていたのですから、そのような掛け合いが旅の時に行われただけであって、何も儀礼のように考えなくてもいいのではないかとも言えます。ただ、そうであったとしても、そのような歌の掛け合いには、旅の無事を願い、あるいは家に残された妻の安否を願う「祈り」があったには違いありません。従って、旅の問答は当事者にとって切実な儀礼あったのです。
 旅の問答における歌の機能とは、妻の居る共同体と、夫のいる異郷との境界であり旅の困難を象徴する山や峠との空間的な距離を無化するような作用のことと言っていいでしょう。このことは、古代における歌のあり方について考えさせるという意味でとても興味深いことです。
 というのは、いわゆる恋愛をうたう相聞歌の問答の場合、お互いの距離を認識させるように歌うのが普通で、「表現としては対立関係を保ちながら、心情として寄り添うという」というようなものだったからです。親和を前提に対立を歌うのが恋愛的相聞歌のあり方だったとすれば、旅の生活における問答は、その逆で、お互いの距離を前提に、それを解消しようとする方向での問答であることがわかります。が、結局は同じことで、親和に対しては対立を、対立に対しては親和を、というように、歌は歌の置かれた状況に対してアンビィヴァレンツに働いていたということなのです。

 最後に確認しておきたいのは、旅の問答は、一貫して、背と妹との問答として歌われているということです。旅の問答の歌では、題詞には「妻」が出てきますが、歌の中では「妹」と呼びます。つまり、歌では妻と夫ではなく男女の関係として成立しているわけです。
 これは、旅の問答において、その埋めなければならない距離は、旅の途中としての異郷と家郷との間であると同時に、男女の間でもあるということなのです。別の言い方で言えば、異郷と家郷との距離を、恋愛関係にある男女の間を埋めるというシチュエーションにおいて埋めようとしたということです。
 ここに、古代の歌のあり方がよくあらわれているのです。前に日本の短歌謡が恋歌として展開されてきた経緯を述べました。恋歌こそが内面を語る詩の表現だったということですが、旅によって離れてしまう男女の内面もまた恋歌によって表現されたのです。恋歌の力というものを改めて認識させられます。
 それから、旅の問答もやはり古代と近代の融合があります。問答にこめられた歌の「祈り」が当時でもより古代的な心意なのだとすれば、旅という行為もあるいはそこで成立する「心」は新しいものだと言えるでしょう。防人歌を考えることでそのことはよりはっきりすると思います。

5 防人歌論

防人歌の成立
 巻十四の東歌には防人歌が五首あります。防人歌は巻二十に九十三首あり、東歌の五首を加えると合計九十八首あります。これらは題詞等で防人歌とわかるものです。ちなみに防人歌群冒頭の巻二十・四三二一の題詞には「天平勝宝七歳(七五五年)乙未の二月に、相替りて筑紫に遣はさゆる諸国の防人等が歌」とあり、防人歌が八十四首続きます。これら八十四首は、時の兵部小輔大伴家持の命令によって、それぞれの国の防人の歌が集められ家持に進上された歌です。家持はこれらの防人歌の歌巻を、当時の左大臣橘諸兄に献上したのであろうと推測されています。東歌の防人歌五首がどのような経緯で東歌の中に入り込んだのかよく分かりませんが、いずれにしろ、公的に蒐集された防人歌のいくつかが、東歌の編纂過程で、東国の人々の歌として組み込まれたということでしょう。防人歌もまた旅の歌と言ってよいものですが、ここでは、防人歌を通して、万葉に於ける歌のあり方を見ていこうと思います。

 白村江の戦いでの敗北によって、唐・新羅の来襲に怯えた日本は、東国から二十一歳から六十歳までの成年男子を徴集し、北九州西北部の防備に当たらせました。何故、東国から徴集したのかについては、武勇に優れていたとか、遠国で簡単には逃げて帰れないからだという説があります。任務の期間は三年で、人員は約三千人、千人ずつ毎年交替しました。三年の任務といっても任地へ赴く旅の期間は勘定に入っていないので、実質は三年半にわたる徭役となります。
 この負担が過酷なものであったことは言うまでもないでしょう。経済的負担も大きかったと思います。何より、遠い異国へ、戦争になるかも知れぬそういう場所へ兵隊として赴くのです。途中の旅も楽なものではありませんでした。とすれば、防人にとられることは、ひょっとすると帰れないかも知れないといった不安のつきまとう辛い別れをもたらしたはずです。従って、防人歌の内容は「端的にいって羈旅歌群、つまり別れることや別れてあることを悲しむ非別歌の集合で、質の上では、巻十二の第二部旅の部(三一二七〜三二二〇)や巻十五の歌群に通じ、それらよりもっと切実な悲哀感の溢れる歌群である」(伊藤博『万葉集釋注』集英社 一九九八年)というものでした。つまり、ほとんどが別れの悲しみを歌った歌なのです。その悲しみの歌には、防人として赴くものたちの歌と、防人にとられる男と別れざるを得ない両親や妻の側の歌があります。別れの悲しみを歌うことは当然と言えば当然ですが、ただし、そういう悲しみの歌ばかりではなく、戦争という非日常の世界へと入っていくのですから、数は少ないが、その興奮を国家を讃えることで言葉にする歌もありますし、あるいは、まったく逆に何故自分が行かなくてはならないのだと疑問を投げかける歌もあります。
 主な防人歌を抜き出してみます。

 畏きや命被り明日ゆりや草がむた寝む妹なしにして    四三二一
 わが妻はいたく恋ひらし飲む水に影さへ見えて世に忘らへず   四三二二
 父母も花にもがもや草枕旅は行くとも捧ごて行かむ 四三二五
 橘の美袁利の里に父を置きて道の長手は行きかてぬかも 四三四一
 父母が頭かき撫で幸くあれていひし言葉ぜ忘れかねつる 四三四六
 たらちねの母を別れてまことわれ旅の仮廬に安く寝むかも  四三四八
 大君の命かしこみ出で来れば吾の取り著きて言ひし子なはも 四三五八
 防人に発たむ騒きに家の妹がなるべき事を言はず来ぬかも 四三六四
 霰降り鹿島の神を祈りつつ皇御軍にわれは来にしを 四三七〇
 今日よりは顧みなくて大君の醜の御楯に出で立つわれは 四三七三
 難波門を漕ぎ出て見れば神さぶる生駒高嶺に雲そたなびく 四三八〇
 国々の防人つどひ船乗りて別るを見ればいともすべ無し 四三八一
 ふたほがみ悪しき人なりあた病わがする時に防人にさす 四三八二
 ひなくもり碓氷の坂を越えしだに妹が恋しく忘らえぬかも    四四〇七 
 防人に行くは誰が背と問ふ人を見るが羨しさ物思もせず  四四二五
 障へなへぬ命にあれば愛し妹が手枕離れあやに悲しも    四四三二

 四三七三と四三八〇は、別れの悲しみではなく、「皇御軍」「大君の醜の御楯」という言い方からわかるように、防人という任務それ自体に、天皇を抱く律令国家の軍隊というイメージを重ねようとしています。ただ仕方なく徴用されるのではなく、少なくとも、防人に赴くことは、近代の戦争時の言いかたでいえば「お国のため」といったような何らかの意義を見いだす回路のあることがわかります。歌としては、四三七三は鹿島の神に祈るのは無事に帰ることを祈願する歌でしょうが、やはり防人に赴くことを「皇御軍」と呼ぶことは「大君の醜の御楯」と同じように注目していいと思います。
 四三八二は、病人である自分を防人として徴用するとは「ふたほがみ」はひどい奴だと、防人に徴用されたことを恨む歌です。「ふたほがみ」とは、「布多に住んでいるお上」で、この歌の左注に「右の一首は那須群の上丁大伴部広成のなり」とあるので、このお上とは下野国の国守であろうと解釈されています。いずれにしろ、防人への批判めいた歌であることは確かで、あからさまの批判はこの一首なのですが、このような歌が防人歌にあるということ、このような歌が公的な歌の中に採集されたということを含めて、やはり注目する必要があるでしょう。
 「皇御軍」「大君の醜の御楯」と「ふたほがみ悪しき人なり」は、前者が天皇もしくは国家への良くも悪しくもアイデンティティの表明だとしますと、後者は、さすがに国家への悪口ではないにしても、兵役を負担と感じる不満は表明されていて、その意味では個が歌われているのだと言ってもよいかも知れません。
 これらの歌が象徴するのは、法や税とともにやって来た国家と、その国家によってどうしようもなく翻弄されるようにあらわれる個の存在です。八世紀は、その意味では、律令国家と民としての個の距離が、違和としてあらわれた時代だったとも言えます。その違和を抱えた個がその違和にどう対処したか、これらの歌が象徴的に表現しているのではないでしょうか。一方は、国家そのものと重なるようにあらわれる王(神)としての「天皇」への一体化を通して違和を克服し、一方は、不満として悪口を言うわけです。
 その対処は両極端であるにしろ、その両極端の歌が、防人歌として並べられ、少なくとも拙劣歌として落とされなかったということは、どうしてでしょうか。特に、「ふたほがみ悪しき人なり」のようなお上を批判する歌を選ぶことに不都合はなかったのでしょうか。一見してわかるように、この歌は悲しみを抒情的に歌ってはいませんが、悪口歌であり、歌としての面白さがあります。おそらくは、そういった面白さが選択された理由なのかも知れません。さらに、推測を述べるとすれば、これらの歌の防人歌群における意味とは、防人たちの心の世界をより完全なものとして構成するということだったのではないでしょうか。
 防人歌のほとんどは別れの悲しみの歌であり、「皇御軍」や「大君の醜の御楯」と歌う歌も「ふたほがみ悪しき人なり」という悪口歌も、数は少なく、その意味では例外的な歌とも言えます。防人歌に圧倒的に別れの悲しみを歌った歌が多いのは当然ですが、防人や防人を見送る人たちの心の動きは、そのような表現ばかりではすくい取ったことにはなりません。中には、いさんで大君を讃えるものもいたでしょうし、徴兵に不満を述べるものもいたでしょう。そういった様々な心の動きを揃えることで防人歌群はより完全なものになるということだったのではないでしょうか。
 「皇御軍」「大君の醜の御楯」や「ふたほがみ」の歌も、歌として優れた歌の基準には当てはまらなかったかも知れませんが、防人歌群の構成にとっては、必要とされる歌であったのです。

悲しみの情
 防人歌とは、悲痛な別れの感情を抒情的な表現として歌うべきものでした。歌い手もその歌を選りすぐる選者もそう意識したと考えてよいように思われます。例えば、家持自身、防人歌を創作しています。
 防人歌群の中に、家持作の長歌と短歌の歌群が四組あります(四三三一〜四三三三・四三六〇〜四三六二・四三九八〜四四〇〇・四四〇八〜四四一二)。
 それぞれの歌群の題詞は次のようなものです。
 「追ひて、防人の別れを悲しぶる心を痛みて作れる歌一首併せて短歌(四三三一)」
 「私に拙き懐ひ陳べたる一首併せて短歌(四三六〇)」
 「防人の情と為りて思を陳べて作れる歌一首併せて短歌(四三九八)」
 「防人の別を悲しぶる情を陳べたる歌一首併せて短歌(四四〇八)」。
 これらの題詞を見ればわかるように、家持の防人歌に対する認識がよくあらわれていると言えます。それはまさにこの題詞に繰り返されているように、防人歌とは「悲しみ情」でなければならなかったということです。とすれば、その「悲しみ情」こそが、優れた防人歌を選抜する判断基準であったということになるでしよう。
 それにしても、防人歌とは、国家の戦争という見えない世界へ強制的に徴兵される当事者の歌であったはずです。注目していいのは、家持がその当事者の「情」になりきって歌うと陳べている(四三九八)ことです。考えて見れば、別れの悲しみを作り出す側に属す家持が、その悲しみの当事者になりきって「悲しみ」を歌おうとしているわけです。おかしな話ですが、このことは、「悲しみの情」が、すでに一つの優れた表現のスタイルとして、つまり美的あるいは文芸的な意識とも言える抒情表現として意識されていたことを示しています。家持の歌は、四三六〇の題詞に「追ひて」とあるように、防人歌に追和したものと思われますが、そこには、「悲しみの情」はこう歌うべきだという家持による防人歌の理想が歌われているのだと言っていいでしょう。その理想を家持は次のように歌います。
   
  大君の 命畏み 妻別れ 悲しくはあれど 丈夫の 情ふり起こし とり装ひ 門  出をすれば たらちねの 母かき撫で 若草の 妻は取り付き 平けく われは斎は  む 好去くて 早還り来と 真袖持ち 涙をのごひ むせひつつ 言問ひすれば   群鳥の 出で立ちかてに 滞り 顧みしつつ いや遠に 国を来離れ いや高に   山を越え過ぎ 蘆が散る 難波に来居て 夕潮に 船を受け据ゑ 朝凪に 舳向け漕  がむと さもらふと わが居る時に 春霞島廻に立ちて 鶴が音の 悲しく鳴けば   遙々に 家を思ひ出 負征矢の そよと鳴るまで 嘆きつるかも(四三九八) 
                               
  海原に霞たなびき鶴が音の悲しき宵は国辺し思ほゆ (四三九九)
  家おもふと寝を寝ず居れば鶴が鳴く蘆辺も見えず春の霞に(四四〇〇)

 この長歌には、防人歌の殆どの要素が入っています。「大君の命」を畏れつつしんで、防人に行こうとする私に母は私の頭を撫で、妻は取りすがって泣く。そういう辛い別れを経て旅に出て難波に着くと、いよいよ船で防人の地に出発である。いっそう故郷が思い起こされる、といった内容ですが、整理すると、@出立時の別れ、A旅(陸路)の途中での故郷への思慕、B難波での船出とその悲しみ、といった要素に分けられます。これら@〜Bは、防人歌群の「悲しみの情」の歌のだいたいの類型です。出立時、旅(移動)の途中、難波の津での船出、それらはおそらくは防人たちが作歌した所か、あるいは、作歌の場所として決まっていた所だったのでしょう。先に引用した歌で言えば、@は四三二一〜から四三六四で、防人歌群の中でも最も多い歌になっています。Aは四四二五、Bは四三八〇・四三八一です。
 家持の歌には、そういった「悲しみの情」のポイントがきちんと押さえられています。防人歌群に目を通した家持が防人歌のポイントを整理したか、あるいは、どの時点でどのように歌うかという防人歌の決まりのようなものがすでにあり、家持はその決まりに沿って、理想的な防人歌を作ったということなのでしょう。言い換えれば、このような歌に、防人歌のあるべき姿があらわれていると言ってよく、そのあるべき姿とは洗練され様式化された「悲しみの情」であるということです。
 この「悲しみの情」を生み出しているのは、国家と民としての個との距離だと思われます。それは冒頭の「大君の 命畏み 妻別れ 悲しくはあれど 丈夫の 情ふり起こし」といった表現によくあらわれています。「大君の命畏み」という国家の側に立つ立場と、その国家には逆らえない個の位置との距離が、この場合は「妻別れ悲しくはあれど」という、違和としてあらわれています。その違和を「丈夫の情ふり起こし」と克服しようとするのですが、「負征矢のそよと鳴るまで嘆きつるかも」と、どうしても「悲しみの情」を抑えることは出来ないと、結局は吐露していくのです。こういった展開が、防人歌のスタイルであり、家持の歌は、この防人歌のスタイルを見事になぞったかもしくは完成させたということなのです。
 例えば「大君の命かしこみ出で来れば吾の取り著きて言ひし子なはも」(四三五八)は、大君(天皇)の命令を畏んで出征する私に取りすがってあれこれ言ったあの子はといった意味で、おそらくは「子」は行かないでくれとか別れの辛さを訴えたのでしょうが、この歌には、国家と個との距離もしくは違和というものが鮮やかに出ていると言えるでしょう。とりようによっては、「大君の命かしこみ」という公的な立場は、下句の個の「悲しみの情」を鮮やかに引き立てる敵役のような意義すら帯びてしまっています。つまり国家に批判的であるようにも読めてしまうほど、「悲しみの情」を前面に出しているのです。こういう歌が防人歌そのものであったのであり、この「悲しみの情」を鮮やかに歌うことが優れた歌であることは、家持作歌の防人歌を重ねれば確認できます。そのように歌えなかったものが拙劣歌として落選したのでしょう。
 
新しい「別れ」 
 短歌(和歌)という様式の成立と、七世紀から八世紀にかけて成立した律令国家との関係がパラレルであることは、すでに説明してきました。ここで繰り返せば、それは移動という問題として説明できると思います。
 律令国家の成立が人々に何をもたらしたかと言えば、それは、移動です。律令という法制度を基盤にした中央集権国家は、天皇という権威だけでは機能しません。法制度は、言語化され地方に伝達されなければならず、あるいは国家というシステムを支える役人もまた国家の隅々にまで行き渡らなければなれません。そこに現象するのは、貨幣、モノ、人の移動です。その移動は、国家が存続する限り絶えず繰り返されなければなりません。だから、道が整備されてモノや人の移動を効率化し、また文字化への意欲によって言語の流通を積極的に効率化したのです。
 そういった律令国家を抱いた当時の日本が、歌を必要としたのは、天皇という王(あるいは神)を必要とした事情と重なるでしょう。歌が持つ古代的な(呪術的)な力を、社会的な力として必要としたということです。その社会的な力としての歌を、天皇や貴族や官人たちが、自らのアイデンティティを確かめる文化として実体化していったのが「万葉集」であり、短歌(和歌)という様式であったと言えます。
 貴族という世界は、神の言葉を共有する共同体意識(王に連なる共同体)によって支えられていますが、古代的な歌が律令国家の成立に見られる社会構造の変化によって失われていくときに、そのような貴族的世界を、短歌(和歌)という様式によって確保しようとしたということです。このことはすでに述べてきました。律令という制度そのものは天皇や歌を必要としませんが、律令国家として自らを装った日本の社会自体は、古代性としての天皇や歌を必要としたのでした。
 短歌は歌である限り古代性(呪術性)を持ちますが、実は、成立したその様式自体は新しいのです。それは文字化と対応し、移動の時代における人々の新しい生き方すなわち内面を表出するものでした。つまり、その新しく生まれた短歌という様式は、ただ、神や天皇を賛美するような、それこそ、共同体の中で共同体の起源を歌っていたような古代的なものの繰り返しであっては成り立たない性格を最初から与えられていたのです。短歌は、その成立時から、新しい時代における人々の新しい生き方を反映するものでした。何故か。そうでなければ、短歌もまた移動しなかったからです。
 国家が歌を必要としたのは、ただたんにその古代(伝統)性を必要としたということだけではないはずです。歌の持つ社会的なパワーを、国家自体が自らの中に組み込むことを必要としたということです。組み込むということは、国家の隅々に短歌(和歌)が移動(流通)するということです。短歌が国家の隅々に移動するためには、短歌の担い手でありその移動の中心であった、官人たちの心を表出するものでなければならず、感動させるものでなければならなかったでしょう。その意味では、短歌(和歌)は、伝統的なものであったにしろ、新しい時代の中で揺れ動く人々の生き方を表出する優れた文芸性(ある意味では近代性)を必要としたということなのです。
 こう考えていったとき、「万葉集」の歌の多くが、独りでいることの悲しみを歌った抒情歌である理由が見えてきます。相聞歌にしても、歌垣の歌のように相手を目の前にして恋の駆け引きを歌うものではなく、相手が眼前にいないことを前提にその辛さを歌うものになっています。いわゆる独詠歌ともいえるような歌い方になっていますが、これは、移動の時代において、独りで居るときの「悲しみ」という心のあり方が、表現すべき価値として浮かび上がってきたことと連動しているからです。
 例えば、「万葉集」の旅の歌などは、妻は旅に出た夫を思い、旅に出た夫は故郷に残した妻を思うという内容の「悲しみ」を中心としましたが、それは当時の新しい時代の新しい生き方の悲しみでもあったのです。旅という移動は、律令国家によって生まれた新しい生活のスタイルであって、短歌はその旅の当事者の心を「悲しみ」という表現ですくいとったのです。そのようにすくいとることが歌を社会化する力になり、また歌を国家の隅々に移動させることになったのです。
 防人歌の表現が表象する「悲しみの情」も、また、新しい時代における新しい「悲しみ」でした。その「悲しみ」は引用歌を見ればわかるように、多くは旅の歌のスタイルをとっています。それは防人に選ばれることが、実態としては故郷を離れ旅に出ることを意味したからですが、ただし、旅の歌とはやはり違っています。
 妻か恋人が自分に取りすがるような別れは防人歌独特のものですし、特に「防人に行くは誰が背と問ふ人を見るが羨しさ物思もせず」(四四二五)の歌などは、旅の歌にはあり得ない心の動きを歌ったものです。この歌で、防人に徴集された夫を持つ妻は、徴集されなかった夫を持つ妻たちが、防人の男たちを見てあれは誰の夫だとささやきあっているのを聞いて、羨ましくまた辛く悲しい気持ちになっています。こういう複雑な心の動きは、旅の一般的な類型化された「悲しみ」の表現ではとてもすくい取れないでしょう。こういった歌には、「悲しみ」の心の内実をリアルに再現しようとする表出への意欲すら感じられ、防人歌が、新しい時代におけるそれまでにはない人の心の動きをすくいっていることがわかります。
 その意味では防人歌は実験的な歌ですらある、と言ってもいいのではないでしょうか。例えば、別れを歌うについても、類型的な別れとして多く歌われるのは、相聞歌における別れであり、旅における別れですが、それらが主に男女という関係を前提にした別れであるのに対し、防人歌では、その別れの場面を家族の別れとして積極的に描いています。
 例えば四三二一は「わが妻はいたく恋ひらし」とありますが、「妹」ではなく「妻」と歌います。万葉においては、相聞歌の場合女性を妹と呼ぶのが普通です。防人歌でも妹という呼び方は多出しますが、妻と歌う例が四首ほどあります。この場合の「妻」は、男女という関係の中で対象化される女性ではなく、家を構成する夫婦としての「妻」ということでしょう。
 また、防人歌で目立つ別れは親との別れです。巻二十の防人歌群には、父母の出てくる歌が七首、母父が三首、母もしくは母刀自が十首、父が一首あります。「父母が頭かき撫で幸くあれていひし言葉ぜ忘れかねつる」(四三四六)の歌などがそうですが、実は、このように、親との別れを歌うということ自体が、「万葉集」では防人歌以外にはないのです。
 防人歌群以外に、離別という状況を前提にして父母への思いを歌うのは、巻五・八八六〜八九一、巻九・一八〇〇です。前者は山上憶良の歌。肥後の国の大伴熊凝は都に行く途中病を得て亡くなりました。臨終の際、父母の思いを語ります。その熊凝の歌が二首あり、その歌に追和して歌った歌が六首あります。「出でて行きし日を数えつつ今日今日と吾を待たすらむ父母らはも」(八九〇)はその中の一首です。
 巻九・一八〇〇は「足柄の坂を過ぎて、死れる人を見て作れる歌一首」と題詞のある長歌です。

  ……父母も 妻をも見むと 思ひつつ 行きけむ君は 鳥が鳴く 東の国の 恐きや 神の御坂に 和霊の 衣寒らに ぬばたまの 髪は乱れて 国問へど 国をも告らず  家問へど 家をも言はず ますらをの 行き進みに ここに臥せる(一八〇〇)

 こう見ていくと、これらの歌はいずれも父母と子が別れている場合を前提にしていて、しかも、子の方が死んでしまっていて、その死んだ子の立場から、その子に成り替わって「父母」への思いを歌うというものになっています。
 八九〇の歌は、防人歌の中に入れればそのまま防人歌として通用するでしょう。一八〇〇は、「足柄の坂」での行路死人を鎮魂した歌ですが、この死者は防人である可能性もあります。とすれば、この死者は父母への思いを自ら歌っていた可能性があるのです。両者とも、両親との別れの場面を歌っているわけではありませんが、離れている父母への思いそのものは防人歌と共通するでしょう。
 これらの用例では、離れている「父母」への思いを述べることが、すでに父母へのもとには戻れない、つまり子の「死」という状況が前提になっていることがわかります。男女の別れではないこのような父母との別れとは、それだけ不吉なものとしてあったということでしょう。とすれば、防人歌における「父母」との別れは、子である防人の死を前提にはしていないにしても、少なくとも、そういう可能性を秘めた歌い方だったのかも知れません。
 防人として徴集される時に起こる別れは、それまでにはない新しい「別れ」でした。別な言い方をすれば、それはまさに歌として新しく表現されるべき価値を帯びた「別れ」だったと思われます。しかし、歌の表現の伝統はそのような「別れ」の表現を持っていません。男女の別れのような表現では、防人の「別れ」をうまく表現出来ません。とすれば、「別れ」のシチュエーションを新たに作り上げる必要があります。その一つが家族との「別れ」であったのだと思われます。
 このように見ていくと、防人歌は、防人として徴集される際の「別れ」の場面での様々な「情」の動きをとらえようとしていることがわかります。おそらく、そこに、新しい歌の可能性があったからに違いありません。その可能性を国家も大伴家持も、また防人に徴集される人々も必要としたということでしょう。が、ここで注目しておきたいことは、やはりそれが「悲しみ」の場面であったということなのです。
 「万葉集」は「悲しみ」の歌集です。相聞における独り寝の悲しみ、挽歌における残された者の悲しみ、旅に出たものの悲しみ、そして防人の悲しみ。見えない神の世界との繋がりにおいて捉えられていた歌の力(呪性)は、時代の変化に応じて、不在の対象を求める心の働きである「悲しみ」に、その力の発露を求めたのです。その背景には、短歌という様式の成立が、共同体的な感情のベースの上に、共同体的な感情ではすくいとれない個の感情もしくは意識を表現するようになったこととかかわっています。その個は「悲しみ」という「情」の様式を与えられることで、律令国家における個の内面を象徴的に表現し得たのです。だからこそ、短歌は律令国家の隅々に広がった(移動)のでした。防人歌の「悲しみ」は、そういった悲しみの様式の中でも、最も新しくリアリティのあるものだったに違いありません。
 防人歌群には悲しみのリアリズムとも呼ぶべき優れた歌が多いのですが、やはり当事者が歌う歌には表現としての普遍性があらわれるものです。が、それは同時に当事者の様々な思いが「悲しみ」の類型に閉じられたこと(「悲しみ」の様式化)をも意味します。だがこの様式化があったからこそ、短歌は人々に共有され広がりを持ち得たのです。つまり社会化したわけです。と同時に、この様式化されたいわゆる文化的感情に日本人は縛られることにもなったと言っていいでしょう。この、短歌(和歌)というものの性格は現代にまで変わることなく続いています。
   
昭和万葉集
 
 さがし物ありと誘ひ夜の蔵に明日征く夫は吾を抱きしむ (成島やす子)
 目の前に海と島とをうかべてみれどわが子はいづこに在りとも知らず (土岐善麿)
 帰りくる子とぞとおもひてうたがはず老ひづくことを妻も忘れつ (同)   
 吾は吾一人行きつきし解釈この戦ひの中に死ぬべし (近藤芳美)
 妻の写真持ちて行かむをためらへり奉公袋ととのへ終へし夜半 (同)
 貼られ来るかそかなる青き切手さへ何にたとへて愛しと言はむ (同)

 これらの歌は、いずれも『昭和万葉集』から選んだもので、戦時中に歌われた歌です。前三首は、兵隊に赴く夫や戦場にいる子を想う痛切な歌です。近藤芳美の「吾は吾一人」の歌は、この戦争に赴く合理的な理由をつきめようとする思いを自分の胸に潜めようとする歌で、たぶん、その理由は、戦争という状況を観念的に把握し合理的にその理由を導き出すというよりは、戦争を自分ではどうにもならない理不尽な時代の運命として受け入れ、その当事者としての覚悟を、例えば家族のために死ぬというように何とか見いだそうとする、そういう心の動きを歌ったものでしょう。さすがに、冷静に自分を客観視しようとしていますが、その冷静さの帰結が、運命を引き受けるような覚悟であるところに、この歌の悲しさ(情)があります。次の二首は、戦地に赴く自分の家族への想いを歌ったもの。いずれも、戦争という非日常下における心の揺れ(悲しみ)が主題になっています。
 戦争は、一人一人の生活者に、否応なく死や別れを強いる非日常の事態です。その原因は、神の側にはなく人為的なものなのだとしても、戦争が個を超越した国家の側に属する事態である限り、その国家に対峙し得る観念を持たない者にとって、あるいは、権力としてあらわれる国家の力に抗えないものにとって、その異常な事態は、あたかも神の所為のような事態としてやってきます。
 そういった戦争という事態に対して、私的なレベルでは様々な表現があったに違いありませんが、それが短歌という様式化されたスタイルをくぐると、その表現は、固定化してきます。これらの歌は、その意味で、戦争下における人々の情の発露を様式化したものですが、その様式化はすでに見てきたように「万葉集」から始まり、特にこういう戦争の歌の「悲しみ」は、防人歌において完成されていたことは見てきた通りです。
 こういう様式にわれわれの表現がある意味で縛られていることのこれは証左でもあるのですが、だがそうであっても、これらの歌に表現された心の動きは、やはり今読んでも心を打つ力があります。その力とは、この様式化された表現から抽出された心の動きを、普遍的なわたしたちの心の動きとして感受し得るからではないでしょうか。

 『昭和万葉集』の戦時下の歌が、防人歌と似るのは別に不思議なことではありません。近代以降、アララギ派によって「万葉集」が評価され、品田悦一の言い方で言えば近代になって「万葉集」は国民歌集として発明された状態になっていたからです。従って、アララギ派のもしくはその影響を受けた人たちが、戦争へ赴く自分のあるいは家族の心情を、防人歌の如くに歌っていくのはある意味で当然でした。いままで見てきたように、防人歌は、国家の命令によって徴集される個の揺れ動く「悲しみの情」をリアルにかつ象徴的に表現していたからで、その「悲しみ」という象徴性によって、日本人は自分たちの心情を共有化できたとも言えるのです。
 だが『昭和万葉集』にあって防人歌にないものは、実は、戦闘の場面の歌や死に直面する内容の歌です。防人の任務は、戦争の可能性のある北九州の防衛であって、実際には戦争そのものはしていません。しかし、近代の戦争は、大量の死を伴う戦闘行為です。当然、短歌もそのような場面を歌わざるを得なくなります。

まどろめば胸など熱く迫り来て面影二つ父母よさらば
 たたかひの最中静もる時ありて庭鳥啼けりおそろしく寂し  
 おそらくは知らるるなむけ一兵の生きの有様をまつぶさに見む
 戦を苦しかりきと言はねどもおもひに入れば涙溜るを
 ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくずほれて伏す
 死すればやすき生命と友は言ふわれもしかおもふ兵はやすしも
 胸元に銃剣うけし捕虜二人青深峪に姿を呑まる
 
 これらの歌はいずれも『昭和万葉集』(六巻)からとった宮柊二の歌(『山西省』所収)です。冒頭は、防人歌そのもので、父母との別れが歌われています。後半三首は、戦闘場面や死に直面した戦場の生を歌っていて、それこそ読む側が息を呑むような歌になっています。こういう「悲しみの情」を超えてしまった歌はさすがに防人歌にはありません。八世紀の防人たちが実際に戦闘場面を体験し死に直面したとき、こういう歌が歌えたかどうかそれはわかりません。挽歌での悲しみの表現、あるいは相聞での「恋ひ死ぬ」といった比喩的な歌い方でしか万葉集は死を表現していないからです。むろん、防人歌が新しい「別れ」を歌っていたという意味では、死に対する新たな「悲しみ」を歌ったかも知れません。だが、宮柊二のように歌うためには、一人の人間にとって、死の事実というものが、個の内面や国家や天皇の超越性を凌駕するほどのすさまじい重さを持っていなければならないでしょう。そこまでの重さを認識するには、一方で個という存在のかけがえのなさや普遍性への認識が必要だと思われます。そういう意味では、防人歌から千二百年たたなければ、このような歌は歌えなかったとも言えます。

6 恋の障害・母

  駿河の海磯辺に生ふる浜つづら汝をたのみ母に違ひぬ    巻十四・ 三三五九 
  筑波嶺の彼面此面に守部据ゑ母い守れども魂そ逢ひにける     三三九三
  汝が母に嘖られ吾は行く青雲のいで来吾妹子あひ見て行かむ   三五一九
  等夜の野に兎狙はりをさをさも寝なへ児ゆゑに母に嘖はえ    三五二九
  妹をこそあひ見に来しか眉引の横山辺ろの鹿猪なす思へる   三五三〇
 
 東歌には、このように母が出てくる歌が結構あります。これらの歌に出てくる母はみな同じです。どの母も娘の恋を妨害する存在として歌われています。つまり、恋の障害として母は歌われているのです。
 最初の歌は、娘が、通ってくる恋人の男に心を許しその結果として母を裏切ってしまったと歌っています。次の歌は、母が娘を番人に見張らせておくように守っていたが魂はいとしい人と逢ってしまったと歌っています。次の三五一九は、なかなか面白い歌で、通う男の側の歌ですが、娘のところへ逢いに言ったが母親に怒られて逢うことができず、娘に青空の雲のように自由に出てこいよ、一目会ってから帰りたいと歌っています。最後の歌はも、男の歌で、やはり娘に逢いに北のに母親に邪魔された歌ですが、面白いのは、母親が男のことを「鹿猪」のように思っている、というところです。
 母にとっては娘は鹿や猪に荒らされたくない大事な田のようなもので、男は、その田を荒らす動物なのです。ここに母親と娘とその娘に通う男との関係が見えてきますね。どうやら、万葉の歌において、母親は、娘のもとに通う男を田を荒らす害獣のように警戒していたことがわかります。
 母を恋の障害として歌う歌は他にも結構あります。特に作者未詳歌の巻十一・十二に集中しています。

巻十一
  玉垂れの小簾の隙に入り通ひ来ね たらちねの母が問はさば風と申さむ 二三六四
  たらちねの母が手放れかくばかりすべなき事はいまだ為なくに 二三六八
  百尺の船隠り入る八占さし母は問ふともその名は告らじ 二四〇七
  たらちねの母が養ふ蚕の繭隠り隠れる妹を見むよしもがも 二四九五
  たらちねの母に障らばいたづらに汝もわれも事は成るべし 二五一七
  誰そこのわが屋戸に来喚ぶたらちねの母に嘖はえ物思ふわれを 二五二七  たらちねの母に知らえずわが持てる心はよしゑ君がまにまに 二五三七
  たらちねの母に申さば君もわも逢ふとは無しに年は経ぬべし 二五五七
  かくのみし恋ひば死ぬべみたらちねの母にも告げつ止まず通はせ 二五七〇
  桜麻の苧原の下草露しあれば明かしてい行け母は知るとも 二六八七
  あしひきの山沢恵具を採みに行かむ日だにも逢はせ母は責むとも 二七六〇

巻十二
  たらちねの母が養ふ蚕の繭隠りいぶせくもあるか妹に逢はずして 二九九一
  魂合はば相寝むものを小山田の鹿猪田禁る如母し守らすも 三〇〇〇
  みさご居る荒磯に生ふる莫告藻のよし名は告らじ父母は知るとも 三〇七七  紫は灰指すものそ海石榴市の八十の衢に逢へる児や誰  三一〇一
  たらちねの母が呼ぶ名を申さめど路行く人を誰と知りてか       三一〇二

 これらの歌を理解するには二つのことが明らかになる必要があります。

 1 何故母が恋の障害となるのか? 歌に歌われた母の役割をどう理解出来るか?
 2 恋歌において特に母を恋の障害として歌うことは歌にどんな意味を与えるか?

 まず1についてですが、これらの歌の背景となった8世紀頃の母親とはどのような存在だったのか見ていきましょう。防人歌には母親について歌った次のような歌があります。

 難波津に装ひ装ひて今日の日や出でて罷らむ見る母なしに 巻二〇・ 四三三〇
  母刀自も玉にもがもや戴きて角髪のなかにあへ纏かまくも  四三七七

 一首目は、津(現在の大阪)から北九州に向けて出発するさい、見送る母親が居ないことを嘆く歌であり、二首目は、防人として赴任する息子が母親を珠にして髪につけて出かけられたら、と歌っています。旅の問答についてはすでにやりましたが、ここでは、まさに、妻ではなく母親が、防人という兵役にとられる息子の無事を祈る存在であることがよくわかります。
 古事記の出雲神話で、八十神の迫害によって命を落としたオオクニヌシは、「母の乳汁」を塗られることで蘇生します。「母の乳汁」は母乳のことかと考えられますが、母親が子どもにとって、大きな力を持つ存在であることがこれらの歌や神話からもわかるでしょう。これらの歌の背景となる8世紀では、婚姻の形態は、男が女の家に通い、結婚の合意がなされても男は通い続けます。子が生まれると、子は母方で育て、子どもが大きくなってから、母とともに夫方に同居したようです。こういうのを通い婚といいます。
 この時代日本の社会は父系制ですが、もともと古くは母系制ではなかったかとも言われています。この通い婚のあり方も、母系制の名残ではないかとも思われます。例えば、中国の少数民族でナシ族の一部やモソ族は、いまだに母系制を持っていて通い婚の制度があります。モソ族の例をいいますと、モソ族には、父親という概念がありません。男は女のもとに通い、子が生まれても、子は母方で育てられます。男には養育義務はありません。ですから、子にとって、男は父ではなく、母親の夫でしかありません。父親の役割は、母の男兄弟が果たします。家族の長は女性であり、家長権も女から女へと継承されます。
 このような制度の利点は、誰もが生まれた家で一生を暮らすという点にあります。女は当然ですが、男も母親のもとで一生をすごすわけです。分家がないので、財産の分割もなく、経済的に有利ですし、また労働力も確保できるというわけです。また男は複数の女性のもとに通うことができます。女に対して男の数が出稼ぎに出たりなどして少ない社会では、これは合理的なシステムでもあるのです。
 さて、最初は男が女の家に通う通い婚であって、子ができればやがて母子とも夫(父)方に移るという日本の古代の通い婚の形態は、このような母系的制度のくずれたものと言うことができるでしょう。つまり、恋の障害において、父親でなく母親が主に登場するのは、娘を育てているのは母親であるからです。むろん、娘はすでに父方にいるとも考えられますが、やはり、子にとっては母親の役割が決定的に重要なのです。母親はまさに子の監視者なのです。
 それでは何故母は娘の恋を邪魔するのでしょう。理由はいろいろ考えられます。親の普遍的な気持ちとして、大事な娘を嫁にほしいと言ってくる男に最初から簡単に許すことはないでしょう。古事記の出雲神話に、根の国に逃れたオオクニヌシはスサノオの娘スセリビメを妻としますが、父親は簡単には許しません。そこでオオクニヌシに様々な試練を与えます。これは、少年オオクニヌシが成人するための通過儀礼とも言われていますが、このように、娘の親は婿に対して試練を与える、というような心理は当然考えられます。そう簡単には赤の他人には娘は渡せない、ということでしょうか。
 一方、親にとって娘は貴重な労働力です。父系制では娘の親にとって結婚は貴重な労働力を失うことになるわけですから、そう簡単に結婚を認めないということも考えられます。「常陸国風土記」の歌垣の記事の中に、「筑波嶺の会に娉の財を得ざれば児女とせずといへり」とありますが、娘の結婚はある意味で「娉の財」を得るための貴重な機会でもあるわけです。従って、親が娘の結婚相手を吟味するということは当然あり得ます。親にとってどこの馬の骨か分からない男は田を荒らす害獣と同じなのです。
 おそらくは以上のような理由で母は娘の恋を邪魔していたのでしょう。ところが、先に挙げた歌の例の中で、次のような歌があります。

  かくのみし恋ひば死ぬべみたらちねの母にも告げつ止まず通はせ 二五七〇
 
 この歌は他の歌と違います。娘は恋に苦しむあまり母親に男のことを告げます。母親は別れろとは言わなかったようです。それで男に今まで通り通って来てほしいと言っている歌です。この歌は一見母に結婚の許しをもらった歌だと思えますが、そうでしょうか。ポイントは「恋死ぬ」にあります。「たらちねの母が手放れかくばかりすべなき事はいまだ為なくに ( 二三六八)とあるように、恋は苦しく危険なものであったようです。それは「恋死ぬ」という言い方で象徴的に表現されました。この歌では娘は恋にかなり苦しんでいたのですから、母に告げたのはその苦しみから逃れるためであったでしょう。むろん、それは結果的に結婚の許しを得ることだったとしても、恋の苦しさから逃れるために母に告げた、ということがこの歌を理解するポイントだと思います。
 つまりこの歌からわかるのは、もう一つの母の役割です。母は娘の魂を守る存在だということです。この歌では、母は、恋という危険な病に罹った娘を治したわけです。このような役割の側で理解すれば、娘に言い寄る男を「鹿猪」のような害獣にたとえるのも、親の気に入らない男を寄せ付けないということではなく、恋という危険から娘を守るという意味合いが強いのだ、というようにも言えます。母と娘の関係は「たらちねの母が養ふ蚕の繭隠り」とよく表現されますが、この言い方でわかるように、母が大事に大事に娘を保護している様子が窺えます。
 母は、娘の恋を邪魔することにおいて時には娘に敵対する存在です。だが、この歌のように娘を救う存在でもあるわけです。ここに母親の両義的な役割が窺えます。考えて見れば、母親は娘の恋そのものを排除することはできません。どんなに禁止しても恋はしてしまうものでしょう。それに、娘の恋を禁止すれば娘は男を見つけ結婚することができません。まだ親が家の維持のために娘の結婚相手を探すような時代の話ではありません。通い婚がそれなりに機能していた社会の話ですから、通う男との恋を禁止すれば娘は結婚できず、それは親にとっては避けなければならないことです。そこに親の抱えたジレンマがあると言えます。
 娘のもとに通う男を簡単には認めない理由には、確かに男を吟味したり、娘を手放したくないといった世俗的とも言える理由もあるでしょうが、実は、恋という危険な状態から娘を守るという母親の役割が、そのような恋の障害として母親像を作り出しているのだ、ということではないでしょうか。
 とすれば、何故、恋の障害としての母を恋の歌にうたうのでしょうか。実際に恋の障害だからでは答えではありません。恋の障害は現実的にはいろいろあるはずですから、特に何故母親が歌われなければならないのでしょう。
 これは、なかなか難しい問いなのですが、あえて答えるなら、母親が登場するとき、その恋は、娘をかなり危険な状態、つまり「恋死ぬ」ところまで追い込んでいるということです。それは同時に、見破られてはならない恋の禁忌性が、母親に見破られたことを意味し、恋の禁忌性が際だってしまったことを意味します。つまり男女はのっぴきならないところへ追い込まれる可能性を抱えたということです。
 その意味で、恋の障害として母親が登場したとき、二人の恋はそれほどせっぱ詰まったものになっているということでしょう。恋は特別なものになるということです。だからこそ、つまり、自分たちの恋がすでに普通ではないということを強調する、そういう効果を持つからこそ、母を歌うのだということです。
 これは、同じ恋の障害として人目・人言を歌うのと同じことだと思われます。

7 恋の障害・噂

  うつせみの八十言の上は繁くとも争ひかねて吾を言なすな   巻十四・三四五六
人言の繁きによりてまを薦の同じ枕を吾は纏かじやも         三四六四
  梓弓末は寄り寝む現在こそ人目を多み汝を間に置けれ   三四九〇

 東歌から噂を歌った歌をいくつか抜き出してみました。正確には「人言」が噂ですが、「人目」も噂に直接かかわっていく表現として同じ範疇にいれました。一首目の「八十言」は人言のオーバーな表現です。世間の噂に負けて私のことを口に出すな、と歌っています。二首目は、噂がうるさいからといってお前と共寝をしないことがあろうか、と噂に負けないぞ、と宣言している歌です。三首目は、いつかお前と共寝をしよう今は人の目がうるさいので中途半端な状態にしているけど、といった意味ですが、いずれの歌も噂が恋の障害として歌われていることがわかります。
 恋の歌で「人目・人事」はよく題材になります。ちなみに、巻十一・巻十二から「人目・人言」の歌を抜き出してみます。

巻十一
  人言は暫し吾妹子縄手引く海ゆ益りて深くしそ思ふ    二四三八
  淡海の海沖つ島山奥まけてわが思ふ妹が言の繁けく   二四三九
  思ふにし余りにしかば鳰鳥のなづさひ来しを人見けむかも   二四九二
  わが背子に直に逢はばこそ名は立ため言の通に何そ其ゆゑ   二五二四
  おほろかの行とは思はじわがゆゑに人に言痛く言はれしものを   二五三五
  人言のしげき間守りて逢ふともやさらにわが上に言の繁けむ    二五六一
  里人の言縁妻を荒垣の外にやあが見む憎くあらなくに 二五六二
  人眼守る君がまにまにわれさへに早く起きつつ裳の裾濡れぬ 二五六三
  人言を繁みと君に玉梓の使も遣らず忘ると思ふな 二五八六
  人言の繁き間守ると逢はずあらば終にや子らが面忘れなむ 二五九一
  人目多み常かくのみし候はばいづれの時かわが恋ひあらむ 二六〇六
  月しあれば明くらむ別も知らずして寝てわが来しを人見むかも 二六六五
  淡海の海奥つ島山奥まへてわが思ふ妹が言の繁けく 二七二八
  人言を繁みと君を鶉鳴く人の古家に語らひて遣りつ 二七九九

巻十二
  直に逢はずあるは諾なり夢にだに何しか人の言の繁けむ 二八四八
  人言の讒すを聞きて玉桙の道にも逢はじと言へりし吾妹 二八七一
  逢はなくも憂しと思へばいや益しに人言繁く聞え来るかも 二八七二
  里人も語り継ぐがねよしゑやし恋ひても死なむ誰が名ならむ 二八七三
  里近く家や居るべきこのわが目人目をしつつ恋の繁けく 二八七六
  人言はまこと言痛くなりぬとも彼処に障らむわれにあらなくに 二八八六
  人言を繁み言痛み吾妹子に去にし月よりいまだ逢はぬかも 二八九五
  心には千重に百重に思へれど人目多み妹に逢はぬかも 二九一〇
  人目多み眼こそ忍べれ少なくも心のうちにわが思はなくに 二九一一
  人の見て言咎めせぬ夢にわれ今夜至らむ屋戸閉すなゆめ 二九一二
  直今日も君には逢はめど人言を繁み逢はずて恋ひ渡るかも 二九二三
  心には燃えて思へどうつせみの人目を繁み妹に逢はぬかも 二九三二
  人言を繁みこちたみわが背子を目には見れども逢ふよしも無し 二九三八
  人言を繁みと妹に逢はずして心のうちに恋ふるこの頃 二九四四
     問答の歌
  うつせみの人目を繁み逢はずして年の経ぬれば生けりとも無し 三一〇七
  うつせみの人目繁けばぬばたまの夜の夢にを継ぎて見えこそ 三一〇八
  ねもころに思ふを吾妹を人言の繁きによりてよどむ頃かも 三一〇九
  人言の繁くしあらば君もわれも絶えむといひて逢ひしものかも 三一一〇

 人目・人言の歌はたくさんありますね。噂とは、恋にとってそれだけついてまわるということなのでしょう。それにしても万葉の歌い手は噂をいろんな風に歌い込んでいます。最初の歌は、噂はほんのひとときに過ぎない、私の思いは海よりも深いのだ妹よ、と歌っています。なかなかの歌です。二五六一では、噂の隙間をぬって逢ったのにさらに噂がひどく立ってしまった、と嘆いています。噂は増殖していくことがよくわかります。二五六二では、私の妻だと噂されている妹を、私は荒垣のそとからしか見ることができない、憎く思っているわけではないのに、という意味ですが、「言縁妻」というのがなかなか面白い表現です。噂の上での妻という意味でしょうか。つまり、噂を立てられてしまったために、好きなのだけれど逢うことができなくなってしまった、というわけです。噂によって二人は結びつけられますが、同時に噂によって逢うことができないというジレンマがよく出ています。
 噂が何故歌に歌われるのか、そのことについて次のような解説があります。

  したがって恋も、「人みな知りぬ」といった人の目や口に晒されることを禁忌としな がら、同時に〈ひとごと〉を必要とする矛盾した構造を持つ。恋が深まっていくことと、 恋が人の噂になっていくこととの間にはある主の因果関係があったことが『万葉集』の 歌から見えてくるのである。 略  恋というものが相手と自分だけの二人の関係で成 り立ちながら、その恋が、第三者である「人」の口に噂されることで逆に、二人の恋が より深いものとして確認されていく在り方である。恋は男と女との対の関係で成立する が、二人の対称的な関係の内部では恋の成就が認識できず、二人の関係の外の世界であ る〈ひとごと〉といったものを媒介とすることで初めてそれが確認できる構造である。〈ひとごと〉は恋の妨げでありつつ同時にそれによって恋を深めていくといった、まさに 両価的な力を持っていたといってもよい。
                 『古代語誌 古代後を読むU』(桜楓社 一九八九) 
 噂が何故歌われるのか、つまり、噂を通して恋の成就が実は確認されるのだ、という説明はなるほどと思います。この説明にある通り、恋愛は当事者としての二人だけの行為ですが、しかし、恋愛は二人だけでは成立しません。第三者が必要なのです。例えば、もし無人島に男女二人だけ残されたとした場合、恋愛は成立するでしょうか。成立しないはずです。
 恋愛の感情というものを思い起こして下さい。そこには恥ずかしさというものが伴っているはずです。何故恥ずかしいのか、恋愛が秘められたものであるからです。何に対して秘められるのか、それは世の中の人々に対してです。つまり、その人々というものがいない無人島では、秘められるという状況が成立しないのですから、恥ずかしさもなく、従って、恋愛という感情は成立しないのです。
 世間の目があるから恋愛は成立する、ということは、恋愛は秘められているものであるのに、世間の目に晒されるというものである、ということになります。そこに恋愛のジレンマがあると言っていいのかも知れませんが、別の言い方をすればそれは噂の持つ両価的な力ということになります。噂は、恋を妨害しまた恋を成就させる、というわけです。
 確かに、秘められた恋愛をしているのに、誰も噂してくれなかったら、がっかりしますよね。それだけ自分たちの恋愛が秘められるべきほどの禁忌性を持っていないということになるからです。禁忌性を持っていないということは、恋の程度が低いということになってしまうでしょう。要するに世間にとってつまらない恋になってしまうわけで、それは当事者にとってはつらいことです。禁忌の恋愛をしているからこそ、燃えるのに、誰も相手にしない恋愛だったら、すぐに醒めてしまいそうです。
 それなら、どうしたら自分たちの恋を秘められたすばらしい恋にできるのでしょう。それは噂になる、ということなのです。噂になることで、初めて自分たちの恋愛が秘められた特別なものなのだという認識が成立するのです。そこに噂の力があるというわけです。
 何故恋の歌に噂が歌われるのか。噂こそが恋の成就にとって不可避であるから、ということがおわかりいただけたでしょうか。これは恋の障害として母が歌われるのと似ています。ただ、噂には危険が伴います。噂は恋をする当事者にとって喜ぶべきことではないのです。母もそうでしたが、母の場合は、二人の中を引き裂く存在として意識されていたということ(むろんそれは娘を守るという意味があったにせよ)でした。それなら噂を何故恐れたのでしょうか。
 
8 物語としての恋愛 
 何故噂を恐れるのか、それは「恥」という感情から解けるでしょう。「恥」とは、内と外との境界が破られたときの、内にある心の反応を言います。家の中で裸同然の格好をしてくつろいでいたとき、突然お客が訪ねてきてその姿を見られてしまった、なんてことがよくありますね。そういう時はとても恥ずかしいですね。内の姿を外から覗かれたからです。神話の語りでもこの「恥」は、やはり内と外との境界が破られた時にに使われます。
 古事記の神話で、イザナキが黄泉国のイザナミを訪問する場面。もう一度この世に戻ろうと訪ねてきたイザナキにイザナミは黄泉大神に相談してくるが私のことを決して見てはならないといいます。いわゆる「見るなの禁」ですが、イザナキは火を灯して見てしまいます。するとイザナミの姿は「うじたかれころろきて」という姿、それは腐敗している死体の姿でした。驚いたイザナキは逃げ出しますが、見られたイザナミは「恥を見せつ」と言って追いかけます。同じような場面は、山幸彦のホオリノ命と海神の娘であるトヨタマヒメが結婚し、トヨタマヒメがウガヤフキアヘズを出産する時にあります。トヨタマヒメは地上で出産するために浜辺に産小屋を鵜の羽を葺いて造ります。がまだ作り終えないうちに産気づき、ホオリノ命に産小屋の中を決して覗かないでくださいと言って産小屋に籠もりますが、ホオリは覗いてしまいます。するとトヨタマヒメはワニ(鮫)の姿で子どもでのたうちまわっていました。ホオリは驚き、見られたトヨタマヒメはやはりここで「恥を見せつ」と言って、産んだ子供(ウガヤフキアヘズ)を残して故郷である海神の国へ帰ってしまいます。
 いずれもシチュエーションは同じです。イザナミやトヨタマヒメが見てはならないと言ったのは、彼女たちが「異界」の側の存在であり、この世の存在である男たちに「異界」の姿を晒さなくてはならなかったからです。つまり、覗かれた時点で、内と外との境界が破られ、彼女たちは、内のあられもない姿を外側に晒してしまったわけです。それはまさに「恥」なのです。そうすると、異界の側の女と子の世の男とはもう一緒に過ごすことはできません。だから別れなければなりません。異類婚の昔話にもこのような「見るなの禁」のモティーフは、話型として出てきます。有名なのは「鶴女房」いわゆる「鶴の恩返し」ですね。機織りをしている姿を覗かれた鶴はもうこの世にはいられません。「見るなの禁」とは、異界の側の存在とこの世の存在が、婚姻という形であれ一緒にいることが不可能になったことのサインなのです。
 異類婚というモティーフは神話から昔話にいたるまで実にたくさんの物語を生み出していますが、この物語の構造は極めてわかりやすいものです。異界の存在である異類(神)とこの世の存在である人間が婚姻という関係を持ちますが、その関係は長続きはしません。異類の正体が見破られたとき、その関係は解消されます。その時の解消の仕方として例えば「見るなの禁」があるというわけです。異類女房は多くは「見るなの禁」によって異類と人間の関係が解消され別れる、というパターンですが、三輪山型神話のような「蛇婿入」の昔話の場合には、異類の正体がばれますと異類は人間によって殺されるというような残酷な終わり方の場合もあります。
 このような構造を言い換えますと、異類と人間との婚姻とは、異界(神の世)とこの世とが重なったことを意味します。これはこの世の秩序にとって異常な事態ですから、その異常な事態を正常な事態に戻さなければなりません。つまり、異界のこの世への顕現という異常な事態を正常に戻すプロセスが、多く語られている物語の構造なのだということができるでしょう。例えば宮崎駿の『千と千尋の神隠し』というアニメ映画がありましたが、千尋が異界とこの世との境界であるトンネルをくぐって異界に入り込んだとき、異界とこの世の重なるという異常が生じ、それを正常な状態に戻す、つまり、ふたたび千尋がトンネルを潜ってこの世に戻る、そこまでのプロセスがこの映画の物語の構造になっているわけです。
 われわれの住むこの世はそこいら中で異界を抱え込んでいてその異界が時々顕在化します。だから、物語の種は尽きることはありません。異界が顕在化することは異常な事態の発生ですから、当然この世の社会はその異常な事態を正常な事態へ戻そうとします。実は「恥」とは、このときに起こる反応の一つなのです。イザナミやトヨタマヒメの正体の露見は、異常性そのものの露見を意味します。そのとき、その場にはいられないいたたまれなさが正体を知られた当事者を襲います。それが「恥」ですが、それはある意味では異常を正常へ戻そうとする反応だと言えるのです。
 それなら、恋の当事者が噂の対象となり「恥」るのも同じことなのでしょうか。まったく同じことです。
 恋もまた異界とこの世が重なり合うような異常な事態なのです。恋が禁忌である理由はいろいろ説明できますが、簡単に言えばそれが非日常の行為だからということでしょう。恋愛の当事者は日常的な存在ではないから、日常の生活の中で恋愛の顕現を人々は嫌うのです。当たり前のことで、仕事をしている隣で男女にいちゃいちゃされたら頭に来ますね。つまり、恋が秘め事で無ければならないのは、それが非日常の行為だからですが、だからこそ、この世に恋が顕現することは異常な事態ということになります。
 この異常は、この世の側に異界とも言うべき非日常としての恋が顕現したことを意味しますが、実は、その異常は「噂」という形で露見されるのが、恋の特徴と言っていいでしょう。つまり、噂とは、この世に潜んでいる「恋」という秘められた異界的行為の一種の検知器なのです。噂が立てば、恋が露見します。すると、恋の当事者は「恥」という反応を起こします。それは、異常を正常へ戻そうとするこの世の社会の力学が働き始めたことを意味するのです。
 それでは何故恋の当事者は噂を恐れるのでしょうか。それは、「恥」という反応を引き起こすからだということになります。でも「うれし恥ずかし」なんて言い方があるように「恥」だってそんなに悪くないではないか、という意見もあるかも知れません。確かに、恋が露見して恥ずかしく思っても、噂は両価的な力を持つとあったように、「恥」もまた両価的であるでしょう。すでに述べたように、「噂」によって自分たちの恋が世間に認知されるということでもあるのですから。「恥」自体必ずしも忌むべきものではなないのではないか、という考え方もあるでしょう。
 が、それは「噂」や「恥」を甘く見た考えだと言わざるを得ません。「恥」という反応は、萎縮であり、一種の引きこもりです。恥ずかしいと思うときは、恋の相手と会うことが出来ません。だから恋の障害になるのですが、何故萎縮するのでしょう。それは噂が引き起こす世間の力への防御的反応だからです。恋の発生は、異常な事態の発生であり、世間は噂を通して異常を検知し、その異常を正常に戻そうと働き始めます。それは恋の当事者をこの世から排除する力として作用します。それが噂の持つ怖さなのです。
 歌垣のところで引用しましたが、常陸国風土記に「童女松原の伝承」の物語があります。

 古、年少き僮子ありき(俗、加味乃乎止古、加味乃乎止売といふ)。男を那賀の寒田 の郎子といひ、女を海上の安是の嬢子となづく。ともに、形容端正しく、郷里に光華け り。名聲を相聞きて、望念を同存くし、自愛む心滅ぬ。月を経、日を累ねて 歌の會 (俗、宇太我岐といひ、又、加我毘といふ)邂逅に相遇へり。時に、郎子歌ひけらく  (略) 嬢子、報へ歌ひけらく (略) 便ち、相語らまく欲ひ、人の知らむことを 恐りて、遊の場より避け、松の下に隠りて、手携はり、憤りを吐く、 (略) 偏へ に語らひの甘き味に沈れ、頗に夜の開けむことを忘る。俄かにして、鶏鳴き、狗吠え て、天暁け日明かなり。ここに、僮子等、為むすべを知らず、遂に人の見むことを愧ぢ て、松の樹と化成れり。郎子を奈美松と謂ひ、嬢子を古津松と称ふ。

 那賀の寒田の郎子と、海上の安是の嬢子はそれぞれの共同体で評判の男女でした。二人はそれぞれに相手の噂を聞き、それだけで情愛を抱いてしまうのですが、ただすばらしい人が近隣にいるというだけでは、ここまでの関係にはならないはずです。この風土記の文には、二人の関係を直接結びつけるような噂は出てきませんが、二人を「かみのをとこ」「かみのをとめ」として近隣の特別な男女とする風聞はあったはずで、そのことは、二人を理想のカップルとして、恋愛という関係に押し上げる噂のあったことを十分に推測させます。二人がまだ見ぬ相手に情愛を抱いたのは、そこに、二人の関係を恋愛の関係であるかのようにみなす噂があったからでしょう。つまり、二人の理想の男女を聖なる恋愛の当事者であるかのように噂する地域の人々の恋愛幻想に、まだ会ってもいないはずの二人はとらわれ、相手に情愛を抱いてしまった、ということだと思われます。
 そうして二人はついに歌垣の場で出会います。歌垣は祭りの場ですから、恋愛の禁忌は解放されています。従って、二人はそこで思いのたけを述あうのですが、歌垣の場所をつい離れてしまい、さらに、彼等はどうも、歌ったのでなく語らったようです。声は公開性を持っています。歌を歌えばそこには歌垣的な空間が現出し、人々は彼等の恋を受け入れます。しかしひそひそ語らったのでは、その恋は禁忌そのものであり、異常な事態として世間は対処せざるをえなくなります。
 夜が明けても二人は恋愛を終わらせません。つまり恋の許される非日常の時間が終わってしまったのです。そのことに気づかない二人は松になったとあります。心中したという解釈もあるようですが、要するに、この世に戻れず二人は永遠にあの世の存在になってしまったということです。その理由は、「人の見むことを愧ぢて」とあるように、彼等の恋が、異常なものとしてこの世にさらけ出されてしまったからです。
 この物語は、噂の持つ恐ろしさをよく伝えています。彼等が恥じたのは噂になることを恐れたからでしょう。問題はそこからで、恥じたとき、彼等はこの世に戻れなくなってしまったのです。別な見方をすれば、これが噂の持つ力と言っていいかもしれません。彼等を結びつけたのは噂の力ですが、実は、彼等をこの世に戻さず、あの世の存在(松の木)にしてしまったのも噂の力なのです。
 恋が露見し(噂を立てられ)たとき、「恥」という反応が生じますが、その後どうするのか。おそらく選択肢は二つです。この世に戻るか、あの世の存在になるかです。この世に戻るとは、別れるかそれとも正式に世間に認められて結婚するかです。つまりいずれにしても恋の終焉です。あの世の存在になるとは、もともと恋はあの世の側に属す行為と幻想されていますから、非日常としての恋を貫くなら二人はあの世で恋を続ければいいわけです。ある意味で、それは理想的な恋愛であり、それを実現するとしたら「心中」ということになるでしょう。
 噂を立てられたら、いずれこのような判断を強いられるということになるわけです。恋という異常な事態をそのまま維持する事が出来なくなるのです。「恥」のままずっといられないということとそれは同じです。
 二人を恋愛の当事者にしたてていくのも噂であり、一方、恋愛の禁忌を犯した者として心中に追い込むのも、まだ噂のはたらきであるとすれば、この二つの噂は恋愛の物語をまさに構成していると言えないでしょうか。その物語とは、二人が、特別な男女として恋愛の当事者となるが、その恋愛は次第に過剰なものとなり、歌垣のような禁忌の解放されている空間にとどまることができず、いつのまにか社会の中に露出してしまう。その結果、禁忌に触れた二人を社会はあの世へと排除する、というものです。噂は、二人を理想のカップルとしてはやし立てたその時から、二人が禁忌に触れ犠牲となる瞬間を願望していたのだと言えるかも知れません。噂は、いつも、そうやって一つの恋愛の物語を完成させるように機能するものなのかも知れないのです。その意味で、噂は、恋愛の物語を作るきっかけであり、恋愛の当事者は、そのことに憧れつつも一方では恐れなければならないのです。
 人言の歌に次のようなのがありました。

  里人も語り継ぐがねよしゑやし恋ひても死なむ誰が名ならむ 二八七三
  
 里の人々が物語として語り継いでいくように、いっそのこと恋に死んでしまおう。その時浮き名が立つのはあなたの名前なのですよ。といった意味の歌ですが、「語り継ぐ」恋とは、恋の当事者があの世へと排除される恋なのだということが、これまでの説明でよくおわかりいただけるでしょう。恋愛が物語化するのは、恋の露見した二人が、この世に戻れず、あの世の存在へと化してしまうからです。この世に戻ったら物語にはなりません。噂が怖ろしいのは、恋を感知したとき、同時に、その恋を物語としての恋に仕立てようとする意志のようなものが噂に潜むからです。社会はいつもそのような過剰な恋の物語を必要としているのです。まさに、「語り継ぐ」べき誰かの死を待っていると言っていいでしょう。那賀の寒田の郎子と、海上の安是の嬢子は、そのような過剰な恋の物語を必要とする社会の要請によって作られた物語だったのです。何故、噂を恐れるのか、その理由がおわかりいただけたでしょうか。
 
 今まで恋の障害について歌った歌について講義をしてきたのですが、それでは、このような歌の力とは何なのでしょう。
 恋をすれば噂を恐れる、しかし噂が無ければ恋は成就しそうにもない、この背景には、第三者である世間があってこそ恋が成立するという構造があるのだ、という話をしました。
この構造とは、あの世である彼岸と世間のこの世である此岸という対立的でありながら重なり合う世界観に依拠しています。恋愛とはこの対立しあい重なり合う構造の中で成立するものですが、歌もまたそうなのです。恋は、そのような複雑な構造の中で当事者を翻弄します。いわばコントロールのきかない車に乗っているようなものです。だが、歌は違います。歌は、歌うことを通して、彼岸と此岸との対立と重なり合いをバランス良く調整します。歌を通して人は神を迎え、神の言葉を聞き、神を送ります。シャーマンの言葉も歌であったことはすでに述べました。恋についても同じです。歌で恋愛をすることで、人は、恋をコントロールできるのです。いわば、恋が駆動エンジンであるとすれば、歌はブレーキとアクセスとハンドルの着いた制御装置であると言えるでしょうか。
 寒田の郎子と安是の嬢子は歌を歌わなかったから、コントロールできず、あの世の存在になってしまったのです。つまり、歌の力を利用しなかったのです。そういう歌の力が、恋の障害を通して見えてきたということです。
 歌は心を相手に伝えます。それが歌の力であることには違いありません。が、一方で、その心は、なかなか複雑で、伝わったり伝わらなかったりするものです。しかし、歌いさえすれば、伝わろうと伝わるまいと、恋愛という彼岸と此岸との交錯する世界を安全に共有出来るのです。歌の力とはそういう働きを持つのだということも強調しておきたいと思います。

 ついでですが、ここで、樋口一葉の『たけくらべ』についてちょっと触れてみましょう。というのも、この小説は、噂の力が実にうまく利用されているのです。
 『たけくらべ』は寺の坊主の息子信如と遊郭に住む美登利とのほのかな恋愛を描いたものですが、この二人が互いを意識しあうきっかけは噂によるものです。
 信如が赤土の道に手をつきそれを見ていた美登利が紅の絹のハンカチを差し出すということがあり、そばにいた友達は「藤本は坊主のくせに女と話をして、嬉しそうに礼を言ったは可笑しいではないか。大方美登利さんは藤本の女房さんになるのであろう、お寺の女房なら大黒さまと言うのだ」と取り沙汰をします。二人が出会う舞台は、育英舎という学校であり、二人のことを噂するのも同じ学校の生徒です。二人のことがすぐに噂として学校中に広まったことは容易に推測できます。一葉は、美登利との噂を立てられた信如の心理について次のように描写しています。

  信如元来かかることを人の上に聞くにも嫌いにて、苦き顔して横を向く質なれば、我 がこととして我慢のなるべきや。それよりは美登利という名を聞くごとに恐ろしく、ま たあのことを言い出すかと胸の中もやもやして、何とも言われぬ厭な気持なり。さりな がらことごとに怒りつけるわけにもゆかねば、なるだけは知らぬ躰をして、平気をつく りて、むずかしき顔をしてやり過ぎる心なれど、さし向いてものなどを問われたる時の 当惑さ、大方は「知りませぬ」の一ト言で済ませど、苦しき汗の身のうちに流れて心ぼ そき思いなり。

 信如は、噂が信如と美登利との恋愛を勝手に作り上げてしまったことに恐怖を覚えています。まさに噂にびくついていると言っていいでしょう。噂に対しては、美登利よりも信如の方がはるかに敏感です。つまりそれだけ「恥」の感覚を信如は強く持っているということです。
 噂は、二人をとらえ簡単には逃れさせません。当然、噂の両価的な力は、信如を恐れさすと同時に美登利を強く意識させます。美登利は遊郭という非日常の場所にいますからこのような噂をあまり気にしません。むしろ、信如との噂が二人の恋を成就させるのではないかと期待しています。信如の方は、恋愛を忌む世間の秩序にどっぷりはまっていますから、噂を恐れ、美登利に近づくことを避けます。その態度に美登利は腹を立てますが、しかし、噂によって意識されてしまった「恋」は二人を次第に、恋愛の物語の方向に追い込んでいきます。
 恋愛を禁忌と意識すれば、結局、その禁忌性が一方で用意する、恋愛の至上性とでも言うべき至福の世界に近づいてしまいます。禁忌であるということは、社会の規範から逸脱する強い契機を併せ持つということです。そういった非日常性に飛び込む願望は誰でも持っているでしょう。特に、禁忌をかたくなに守ろうとする人間ほど、この逸脱への願望を強く持つのではないでしょうか。信如もまた逸脱への願望を抱え込んでいたに違いありません。だからこそ、信如は、噂を通して顕現したそういう禁忌としての恋愛を拒絶せざるを得ませんでした。強く惹かれるがために距離を取らねばならなかったのです。
 禁忌を意識すればするほど、逆に恋愛幻想に深くとらわれてしまうのです。信如は美登利と口をきくことを嫌がりますが、その当惑の中では、美登利との恋愛幻想が用意する至福の世界がどこかで意識されていたはずなのです。おそらく、歌垣のような、禁忌が解放されるまつりの空間があれば、信如は、その至福としての恋愛幻想に身をゆだねたでしょう。だが、そのような空間は、二人の属する社会にはありませんでした。子どもたちが噂によって作り上げた恋愛の物語にも、二人を、幻想の力だけで至福の世界に押し出すほどの力を持っていませんでした。
 美登利の方はどうだったのでしょうか。美登利は、信如と違って、この噂としての恋愛幻想に対してそれほど縛られずに自由にふるまうことができました。これは、美登利にとって、恋愛の禁忌とは、信如ほど深刻な意味を帯びないからです。というのも、美登利が属す遊郭は、この禁忌性があらかじめ解放されている特殊な世界だからです。言い換えれば、日常的に歌垣を演じているような場所であるからなのです。美登利が普通の家庭のお嬢さんだったら、信如と同様に噂に脅え、脅えることでその噂に深くとらわれていったでしょう。その結果、結末に悲劇的な物語が用意されていたかもしれません。
 噂によって互いを意識した二人でしたが、結局彼等は世間の噂が用意した物語にのらずに、別れていきます。
 二人の別れの場面はとても美しく描かれます。
 子供の世界から大人へと退場しなければならない二人は、美登利のいる大黒屋の格子門をはさんで出会ってしまいます。信如が美登利のいる大黒屋の格子門を通りかかったとき、下駄の鼻緒が切れてしまいます。それに気づいた美登利は紅入り友禅の布を投げてよこします。
 この場面が読み手に緊張を与えるのは、美登利が格子門を出て、下駄の鼻緒が切れて困っている信如に直接紅入れ友仙の布を渡しかねないからです。もし、直接手ずから渡してしまったらどうなったでしょうか。その想像がこの最後の場面に緊張を与えます。美登利が格子門を越えるとはどういうことか、それは、寒田の郎子と安是の嬢子とが歌垣の場所とまつりの時間を逸脱して、二人の恋愛を世間にさらしてしまった、そのことを意味するからです。もし二人が直接会ったら、それまで封印されていた恋が溢れるほど現れ、二人はあの世の存在になってしまう、そういう想像が働くのです。
 確かに、格子門を境界に対峙した二人は、すでにその瞬間、そのねじれた心の中で恋愛の禁忌性を解放させていたでしょう。だが、歌垣というまつりの空間はここにはありません。美登利の後ろには母親がいますし、それ以外にも、誰が彼らの恋愛を監視しているかわかりません。が、美登利の眼の前で信如が鼻緒を切ったそのわずかな時間、歌垣は二人の心の中で成立したのだと思います。しかし、ちょっとでも油断をしてお互いの心情を言葉にして思いを交わせば、たちまちに、その恋は世間にさらされて二人は排除されてしまう、ここは、そういう危うい場面なのです。
 ここでの格子門は、二人の秘められた恋を世間の目にさらすことを防ぐ役割、つまり噂になることを防ぐ役割を果たしています。この格子門を越えて二人が直接出会わないことによって、世間の用意した恋愛のおきまりの物語、つまり、二人はあの世の側にいってしまうというような物語を回避できたのでした。
 二人は、恋愛という秘められた幻想から解き放たれて、それぞれ、興奮気味に演じていたそれぞれの世界を退場していきます。信如は、退場する際に、水仙の作り花を格子門の外から中にさし入れます。この水仙が象徴する美しい世界は、信如が実は当惑していた恋愛の至福の世界だったはずなのですが、その至福の世界を実現することはありませんでした。そんなに簡単に恋愛物語の罠にかかることは出来ないのです。その罠を回避した信如は代わりに水仙を格子門にくぐらせたのです。至福の世界をはかない夢として記憶にとどめておこうとする行為だったように思います。
 美登利も事情は同じでした。

 美登利は何ゆえとなく懐かしき思いにて、違い棚の一輪ざしに入れて、淋しく清き姿を めでけるが、聞くともなしに伝え聞く、その明けの日は、信如が何がしの学林に袖の色 をかえぬべき当日なりしとぞ。

と最後に語られるとき、美登利もまた、実現しなかった至福の世界を水仙を通して記憶にとどめたのでした。そしてその美登利もまた、定められた大人の世界へと退場していくのです。この終わり方は見事としか言いようがありません。

 もし信如と美登利が歌垣で出会っていたら、きっと素晴らしい歌の掛け合いをしたのではないでしょうか。あるいは、万葉の時代を生きていたら、噂をこわがりながら、歌の贈答をしていたのではないか…、いろいろな想像が沸いてきます。『たけくらべ』の二人は歌を歌いませんでしたが、恋愛は、潜められたまま見事にコントロールされました。歌の力は何処かで働いていたのだ、と言えないでしょうか。
 
9 ローポジションとハイテンション

 歌の力とは何でしょうか。万葉の歌について論じてきて、結局、最後にこの問いに帰ります。万葉集の歌をわれわれは歌といいますが、定型詩ともいいます。歌というと、どうしても声で歌われるという意味合いを抱え込みます。が、声でなくても文字の詩であってもそれを「歌」と言うのは、それが声で歌われることもあるということだけでなく、その詩そのものに、詩ではない何かがあるからだと思います。言葉の意味を超える力、といったもの、一般的には人を感動させる力なのかも知れませんが、その感動を、言葉という存在(声であり文字である)そのものの発現がもたらすものとして、うまく掴めないかと思ってます。 
 それを、ここでは歌の力と呼びたいのですが、そのような歌の力を短歌という詩形は持っているのではないか、というのが、このテキストの問題意識でした。私はそのような歌の力は、歌がローポジションでハイテンションの詩形であることによって生じると考えています。それを述べて、この講義を閉じることにします。

 短歌という詩形は、地上に歌い手を据えてしまう、そういっていいのではないかと思います。むろん、短歌であっても高みに立つような歌がないわけではありません。現代の短歌も、古典の短歌も、地上から離脱して虚構の世界を自由に歌う歌はいくらでもあるでしょう。しかし、短歌というものの本質をつきつめていくと、そこには、歌い手を地上に拘束させる力がみなぎっているように思われてなりません。七七という、俳句にしてみれば余分な言葉によって短歌は抒情性を発揮しますが、この抒情性そのものが、歌い手を地上につなぎとめるのです。七七は歌い手を情において高めていきます。情にとらわれた言葉は飛翔できません。いわば閉じられます。だが、この閉じられながら情において高められていく、というところに、短歌という詩形の可能性があると考えるべきでしょう。
 私はそのような短歌の機能をローポジションとハイテンションと呼んでいます。地上に据えられた位置に閉じられるためにローポジションなのであり、閉じられるがゆえにハイテンションになる、ということです。
 「歌」が「うった(訴)ふ」からくるとは折口信夫の説ですが、うたうことの起源が、かなりなハイテンションの状態にあったことは間違いないでしょう。古く、うたうことが死者への鎮魂であったり、神への讚歌や祈願であったり、また、相聞歌であることは、そのことを説明します。ハイテンションを神に近づく状態とでも言い換えれば、より古代的な歌の様相ということになるでしょうか。
 が、ここで考えたいことは、そのハイテンションを生み出すこちら側の条件です。つまり、ハイテンションが何故生まれるのか、うたう側の問題として考えるとどうなるか。それは、ローポジションだからではないかと思うのです。
 ローポジションであるということは、そのうたう位置から超越的な視線があらかじめ奪われているということです。つまり、歌い手は情にとらわれる位置に居るのであって、自分の位置を客観的に見つめたりするような位置には立てないのです。それがローポジションということです。ローポジションに位置すれば、歌い手の感情はたかまりハイテンションになる、というのが、恐らく短歌という詩形を貫く基本的な性格だと言えるでしょう。
 このような、ハイテンションとローポジションという性格は、万葉の頃に、五七五七七という音数律の後半の七七に心情をうたい込む様式が成立したことによって明確なものになったと思われます。
 例えば、高市古人の旧都(近江の都)を感傷して作った歌を例にあげてみましょう。

  古の人にわれあれやささなみの故き京を見れば悲しき  巻一・

 前半の「古の人にわれあれや」は、「古の人」と「われ」を重ねる超越的(叙述的)な視点がありますが、最後の「見れば悲しき」での「われ」は、「悲しい」という状態にとらわれてしまっている「われ」でしかありません。「悲しみ」にとらわれた「われ」は、かつて京のあった近江の地に閉じられてしまっている「われ」であり、その閉じられている状態に立つことが、この短歌を成立させています。従って、超越的(叙述的)な視点をもつ前半のハイポジションの「われ」からローポジションの「われ」への移動が、結局、ハイテンションになることによってしか位置しえない状態を喚起させ、ハイテンションのまま歌そのものを固定するのだと思われます。
 むろん、短歌そのものの性格をこれで説明できるわけではありませんが、少なくとも、短歌という様式の持続の一つの説明にはなるでしょう。地上の位置に情にとらわれる状況にさえあれば、このローポジションでハイテンションの性格は、そこで何度でも繰り返される条件を得ます。それは恋でもいいし、死者への思いでもいいし、自然(神)へ対することでもいいのです。超越性(叙述性)は、社会(世界)を認識する力が必要ですが、短歌は、その肝心な部分では、ハイテンションの状態を生み出す対手との関係(ローポジション)さえ確保できればいいのです。
 俳句が五七五であることは、当然ハイテンションではなく、ローポジションでもないことを意味します。「おくの細道」で芭蕉は、たまたま旅先で遊女の気の毒な身の上話を聞くことになりますが、その時の句。

  一家に遊女もねたり萩と月

 「遊女」と「萩」と「月」が、俯瞰されていると言ったらいいでしょうか。このような俯瞰の位置はハイポジションであり、その位置からは心情は生み出されず、従ってこのような俳句はローテンションと言えます。これを短歌にするなら、七七の句を

  一家に遊女もねたり萩と月見えぬ心の哀れなりけり

とでもつければいいでしょう。哀れな遊女とだけのローポジションの位置にとらわれる句をつなげば、それは短歌になります。つまりハイテンションの表現になるわけです。
 
 歌の力とは、地上にはいつくばるように位置して生きているわれわれのあり方そのものに根ざす言葉の力だということです。わかりやすく言えば、高いところに位置する観念的な世界から発せられる言葉ではなく、地上の生活世界、言葉でうまく説明できない異界や無意識といった幻想や心の奥底の世界、あるいは深い悲しみや情愛の世界、自然や神への信仰の世界、そういった、地上の低い位置にある人間の存在から発せられる心の揺れ動きあるいは幻想に根ざした言葉、ということです。そういった言葉の持つ力の事をいいます。そういった言葉が人の心をとらえ、普遍性を持った言葉として人々に共有されるには、それこそ、意味の優位性を捨てて、言葉の重力とも呼べるような、心に直接手を押し当てて揺さぶるような力を支えにしなくてはなりません。だから言葉はハイテンションになっていきます。いったん意味として共有される言葉のありようではなく、言葉という存在そのもののありようあるいはその迫力によって、言葉が普遍性を持っていくということです。
 かつてそういう言葉のあり方は、「呪性」とも言えるような古代的な様相において具体化されました。そういう古代的な様相の言葉は、今でも「祈り」のような言葉として時には詩の表現を覆います。またそのような古代性は、新しい時代の言葉と融合し、抒情的な表現として継承されていく、というのがこのテキストの大まかな内容になります。
 そのような歌の言葉の、地上性やハイテンションとしてのありかたは、恋の表現において威力を発揮しました。歌は、彼岸と此岸とをつなぐものというその本来のあり方が、恋の持つ危うさを演出しながらそれを回避していくというバランスを、恋の当事者達に与えました。それもまた歌の力と言えるでしょう。
 日本の詩の伝統には、このローポジションでハイテンションという言葉のあり方が、短歌という詩形を通して継承されています。それは私たちの存在の仕方そのものに根ざしているからだ、ということを最後に言っておきます。これで講義を終わります。
 
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