3.日本の英語教育

日本における英語教育に問題があることが指摘されて久しい。つまり、中学3年間高校3年間とさらに大学2年間の合計8年間も英語教育を受けてきたにも関わらず、英語圏に行って彼等と挨拶すら理解できない現状をどう考えればいいのだろうか。

私自身が昭和40年に満31歳でメキシコに派遣され、現地の工場で技術指導をすることになったとき、彼等が話す片言の英語すら、半分も理解できない状況に唖然とするばかりでなく、これには何か重大な間違いがあると感じた次第である。そこで現地語であるスペイン語を習得するに当たり、基本的に文法的な勉強をいっさいせず、その場その場で聞いた言葉をそのまま覚え、片言の英語での説明を聞いてその意味を類推すると言った毎日であった。それでも一年も経つと日常的なコミュニケーションはそこそこ出来るようになっていた。これは語学教育についての大事な指針を含んでいるように思う。これには後日談があって、30年後退職して、改めて町の教室へスペイン語会話を習いに行っているが、言葉の持っている流れとか、イントネーションについては未だに体の中に残っている事に逆な意味で驚いている。つまりガチガチの知識として言葉を覚えてこなかったことが、つまり左脳で覚えた言葉ではないので、その状況に応じてやや自然派生的に言葉の反応が起こっているようである。つまり言葉を文法を中心に、なにが正しいとか間違っているとかを中心に学習してくると、言葉の持っているリズムが全く壊されて、結局その言葉を理解できないばかりでなく、理解する事自身を妨げているように思う。

最近ふとしたことから思いついたのであるが、日本の英語教育は丁度「漢文」の勉強と共通するところがあるように思う。つまり漢文は中国の文章を読んで理解するものであるが、中国で実際に話されている発音とは全く無関係に勝手に日本流の読み方でこれを読み、その文章の意味を理解することだけを目的としている。しかしこれを中国語と思う人は誰も居ないし、事実漢文が分かっても中国で会話を交わすことは全く出来ない。一方英語の教育も勝手に日本流の発音で読み、例えば関係代名詞で後ろからの文章で修飾するような解釈を教えているようでは、漢文における「返り点」と大同小異であり、全くほんとの英語からはほど遠いもので、まさに漢文を勉強して中国語が分からないのと同じ論理である。

従って、日本における英語教育はすべからく現地で通用する英語を習得することを第一義として、特にヒヤリングとスピーキングを中心に役に立つ英語を教えるべきである。

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