ショパン:スケルツォ

Frederic Chopin : Scherzos
スケルツォは速い三拍子の曲で、日本語訳すると「諧謔曲」(かいぎゃくきょく)。諧謔と書くとすごく難しそうですが、イタリア語Scherzoの意味は冗談、滑稽、ユーモアというような意味です。音楽においては、ベートーヴェンが交響曲やピアノソナタに取り入れたのが一般的に広まった最初です。とても速いな3拍子(1・2・3、1・2・3、という感じに1小節を1拍としてカウントされるのが通例)のスケルツォは軽快で技巧的な器楽曲として広まったのですが、ショパンはピアノソナタに用いるだけでなく、独立した曲として仕立て上げていきます。
ショパンは4曲のスケルツォを作りましたが、1番〜3番は深刻な曲調で始まるため、本来の「冗談」からはかけ離れていると評されることも多いのです。しかし楽譜を注意深く見ていくと、そうでもなさそうな感じです。確かに曲調は深刻なのですが、ピアノ技巧や作曲法上でさまざまな試みをしています。バラードではピアノ1台による劇的な曲想表現を模索したショパンですが、スケルツォではテクニカルな面での模索をしているのです。一見深刻そうに見せつつ実験作だったりする…という態度は諧謔性そのものではないでしょうか。このあたりにショパンのフランス人的な感性を見ることもできます。ショパンのスケルツォにおいて諧謔性は曲調よりも、むしろコンセプトに表れているのです。そのことを述べている人は非常に少ないので、今回は「ショパンのスケルツォはどこがスケルツァンド(諧謔的)なのか」を書きたいと思います。
<コラム1:ベートーヴェンとスケルツォ>
ベートーヴェン以前は交響曲やソナタにはスケルツォでなく、メヌエット楽章が挿入されるのが主流でした。メヌエット自体は古くから存在していた3拍子の舞曲ですが、古典派時代にはすでに舞曲としての役目を終えて、完全に器楽曲になっていました。そのためか、メヌエットの演奏テンポは時代が進むにつれて遅くなっていったようです(モーツァルトの父レオポルドが残した記録などがある)。ベートーヴェンが足取りの重いメヌエットを嫌ったことが、スケルツォを導入した背景とも考えられます。なお、交響曲第5番(運命)の第三楽章はショパンのスケルツォにも通ずるある種の悲愴さが支配しますが、ショパンはベートーヴェンの影響が非常に少ない作曲家なので直接的な関係はないと思われます。

<コラム2:シューマンのスケルツォ評>
「ショパン氏のスケルツォはとても冗談とは呼べない。冗談がこんなに暗い服を着ているなら、陰鬱はどんな格好をすればよいのか」と評論したのは、もうおなじみのロベルト・シューマンです。シューマンは現在では作曲家として知られていますが、音楽評論家としても精力的に活動していました。シューマンの残した音楽評論は、後世にも多大な影響を残しています。ドイツ語圏および日本において、セバスチャン・バッハやベートーヴェンが神格視されている要因をたどると、たいていシューマンの書いた評論に行き着くのではないでしょうか。ショパンのスケルツォに対する認識も、「ショパンのスケルツォはとても冗談とは呼べない。」があまりにも有名なため、この言葉を頭から信じ込んで思考停止している人が多いようです。(シューマンといえば、ショパンのピアノソナタ2番についての評論も非常に有名ですが、これも相変わらず誤解されている曲です。)150年以上経ってもシューマンの書いたショパン評が既成事実としてまかり通っているのは嘆かわしいことだと思います。
ショパンに関する限り、シューマンの評論は微妙に的外れなことがままあります。理由は単純で、シューマンはショパンの熱狂的なファンでしたから、彼の書いたショパン評は冷静な視点に欠けてしまうのです。

第1番 作品20
ポーランドを離れたショパンが最初に手がけたピアノ独奏の大曲です。革命のエチュードと同時期の作とされており、激しい曲調はショパンの民族意識の表れであると見る人もいます(ロシア軍の侵攻によりワルシャワ陥落)。複合三部形式で、急速な主部が天国的と称される中間部をサンドイッチするようになっていますが、各部分は同じユニットの繰り返しが多いため、若干のしつこさを覚えます。複合三部形式の楽曲において、無神経な繰り返しによって生ずる構成上の冗長性は、この時期のショパンの弱点です。「幻想即興曲」がその端的な例になりますが、ピアノソナタ第2番のスケルツォ(第二楽章)も同じ理由で退屈といえば退屈です。

主部のフレーズは速く、旋律的ではありません。しかも、ところどころに不協和音が含まれており、急速なテンポで演奏されることでくすんだ響きを作り出します。この不協和音を音楽用語では「掛留音」と呼びます。スケルツォ1番の諧謔性は、調性音楽としてどこまで掛留音を使用できるか挑戦、というショパンの野心にあります。掛留音を含めて対位法的にフレーズを発展させようという意図も少し見られますが、上手く処理できなかったようで、フレーズの後半はホモフォニックにまとめています。ちょっと惜しいですね。
トリオ(中間部)はポーランドのクリスマス・キャロルから着想を得たようで、非旋律的な主部との対比効果が見事な「静謐に歌うメロディ」になっています。ただ、con anima指定された前後(320〜335小節)の転調と、最後に主部に戻るときの手法以外取り立てて見るべき点はありません。また、無神経な繰り返しのために冗長になっています。特に、トリオの間ずっと伴奏形が変わらないのは問題だと思います(←ショパンの悪い癖。変なところでガンコなんです)。なお、この曲のトリオの伴奏形は、前奏曲Op.28-24によく似ています。

コーダの最後に両手で連打される密集和音(上の譜例)がすごいです。ドミナント(Fis)の上にGの属七が乗っています。GはHの6度上にあたり、ここからロ短調の和声的音階(G→B→H)の順にフレーズが進んで終止すること自体、かなりの緊張感をもたらします。しかも、EisとGは9度(2度)、またFisとEisは減8度と、不安定な音程が組み合わさった形になっており、さらにfffで連打させることで緊張は頂点に達します。この部分においてショパンがいかに劇的な表現を求めているかが伺えます。なお、このような9度+減8度の音列はノクターン第1番Op.9-1の最後や、もっと離れると「舟歌」の最後に出てくるアルペジョなどでも見られます。スケルツォ4番のトリオの最後にも増8度が出てきますし、調性音楽の基本である「ドミナントから導かれるトニック」に一工夫することで、印象的な和声進行を作り出しています。
ショパンのこういう和声を「ピアノを弾いているうちに発見した即興的な和音」と見なす人もいます。それはおそらく事実ですが、複数の曲に登場することからわかるように、構成や演奏効果などを検討して曲中に使用していることがわかります。即興的なフレーズや和音のアイディアをそのまますぐに使わない、一種の奥ゆかしさがショパンにはあります。
楽譜をじっくり見ていると、ショパンの曲は十分に推敲されていることに気づきます。こと和声に関しては相当にこだわりを持っており、和音を構成する音列はいつも高度に洗練されています。たとえば上記の楽譜の和音は左は増8度、右は9度の広がりを持ちますが、どちらの手もEisとGを親指で同時に打鍵して弾きます。これにより、演奏のしやすさと響きの鋭さを両立させることに成功しています。この和声を弾くのに上記以上に適したポジションは無い上に、その後のロ短調トニカへ無理なく繋がるのです。和音ひとつを取ってみても完璧、フレーズとしても文句なし…これがショパンのすごさです。 

第2番 作品31
非常に有名な曲です。ショパンのスケルツォ2番ということは知らなくても、どこかで耳にしたこともあるでしょう。構成は第1番と同様に複合三部形式ですが、トリオの後半に大々的な展開部を置いているのがポイントです。ここで主部のフレーズを持ち出して展開しているために、ちょうどソナタ形式の展開部のような位置づけとなり、単なる三部形式とは異なる複雑さと深さを感じさせてくれます。平凡な作曲家だと冗長な箇所はカットしてしまうのですが、この曲は新たな展開を加えることでトリオの存在意義そのものを高めました。第1番で問題だった冗長性をこういう形で解消してくるショパンはさすがです。
有名な開始部分は、モーツァルトの交響曲第41番「ジュピター」の引用という指摘もあります。楽譜を見てみましょう。上がジュピター、下がスケルツォ2番の開始部分です。

どちらの曲も「問いかけと応答」のフレーズ構成になっているのですが、強弱関係が逆転しています。また、ジュピターはハ長調を用いて透明な響きを作り上げているのに対し、スケルツォ2番は変ロ短調で和音に9度などを混ぜてくすんだ響きを作っています。すなわち、ショパンは単純な引用ではなく一捻りしているのです。これを諧謔性と言わず何と言うのでしょう。ジュピターとこの曲の関係に気づけば、ショパン一流の洒落っ気が見えてきます。
また、この曲は音域の広い華麗なアルペジョや跳躍など、輝かしい演奏技巧も盛り込まれており、十分すぎるほど快活な曲といえます。最初の懐疑的で深刻なフレーズは、終盤に至って長調で肯定的に弾かれ、華々しい跳躍和音で終わります。「懐疑的な提示→展開部で闘争→最後には大勝利」というわかりやすい流れになっているのもポイントです。技術上も跳躍以外はそれほど難しくなく、演奏効果の高いフレーズが多くてピアノがよく鳴ってくれるので、4曲のスケルツォの中では最も演奏頻度が高いと思われます。

第3番 作品39
ショパンには珍しい両手のオクターブユニゾンの主題や、10度の和音などが出てくる曲です。ショパン自身は手が小さくて、オクターブ以上の和音をいつもアルペジョで弾いていたのに、こんな曲を作ってしまったと。この事実そのものが冗談みたいな話です。実はこの曲はショパンの弟子で、非常に大きな手をしていたアドルフ・グットマン氏に献呈されており、最初からその人を意識して作曲していたのです。「グローブのように大きなあなたの手にぴったりの曲を作ってみましたよ。」と茶目っ気たっぷりに楽譜を渡すショパンの姿が想像できますね。
さて、この曲のフレーズを見ると、バッハ(特にオルガン曲)とベートーヴェン(ピアノソナタ12番の二楽章スケルツォ)を意識したと思われる箇所が多いのが特徴です。両手オクターブの主題から始まる提示部はほとんどトッカータですが、スケルツォ第1番でうまくいかなかった速いフレーズの対位法的処理やポリフォニックな展開や飛び跳ねる左手などはベートーヴェンのスケルツォからの影響です。バッハからの影響は様々な曲で見られますが、ショパンの曲でベートーヴェンの影響がはっきり見られるのはこの曲とピアノソナタ2番だけで、ちょっと珍しいと思います。
構成的には単純なABAB+コーダとは言いがたく、「AB+展開部的なB+AB+コーダ」という変則型です。スケルツォ2番の構成でトリオを省略したイメージになります。同時期にバラード2番が作られているのですが、あちらが明確なABAB+コーダだったのと比較するとやや複雑と言えます。また、B部は都合3回登場しますが、その度に異なる転調が入る凝りようで、この曲にかけるショパンの意気込みをあらわしています。お気に入りの弟子のための曲と言うことで、さぞかし張り切ったのでしょう。ちなみにバラード2番はショパン自身もあまり気に入っておらず、だからそれほど親交があったわけでもないシューマンに献呈しているのでした。ショパンから疎まれる可哀想なシューマン(笑)。シューマンはショパンが大好きで「謝肉祭」の1曲に「ショパン」と表題を付けるほどの熱の入れようだったのですが、完全に片想いだったのです。気に入った相手には良くするけれど、興味のない相手には冷たく素っ気ない態度を取ってしまうショパンらしいエピソードです。

10度の和音の例:よほど手が大きくない限り同時には鳴らせません。

<コラム3:ショパンは野郎系が好きだった?>
グットマンはピアノをぶっ壊さんばかりの勢いでこの曲を弾いていたそうで、「繊細なショパンがなぜあんな男を高く評価するのか、さっぱりわからない」などと他の弟子に陰口を言われています。身体が弱くピアノの音量も小さかったショパンは、グットマンのように粗野だけれども力強さを感じさせる男性に対する憧憬を常に持っており、それがこの曲に反映していると見るのが自然でしょう。ちなみにショパン自身はこの曲の10度和音をアルペジョで弾いていた、という証言があります。作曲者自身がそうやっていたのですから、手の小さな人はアルペジョで弾いても問題ないと思われます。それにしても、コンプレックスの裏返しでこんな曲を作ってしまうショパンの性格は屈折しているというか、複雑ですね。もちろん当人にとっては滑稽なことだったはずで、その意味でこの曲はまさしくスケルツォなのです。
 

第4番 作品54
傑作です。主部の曲調が諧謔性を持っているという点で、本来のスケルツォに立ち戻ったような曲ということができますが、この曲で白眉なのは、むしろトリオです。ポリフォニックに対話する旋律は単なる器楽を超えたファンタジーがあります。また、そのメランコリックな表情はショパンの作ったメロディの中でも特に優れているといえるでしょう。構成は複合三部形式で、非常にきっちりと作られています(構成はきっちりで展開は自由自在、というのが円熟期のショパンです)。
主部はコラール、飛び跳ねまわる和音、速い音階&アルペジョと目まぐるしく変化するフレージングが特徴です。このように次々と異なる形のフレーズが登場する曲はショパンでは珍しく、どのように整理して聞かせるかが演奏上のポイントになります。ショパンはフレーズのニュアンスを示す表記の少ない作曲家で、この曲も急速なフレーズの箇所にleggiero(レジェーロ:軽やかに)とだけしか書かれていません。ですからコラールをどのように弾けばよいのか、特に低音部が加わるときに重みをどの程度に表現するかなどは演奏者によって解釈の差が出ます。フレーズの入れ替わりも頻繁なので、それぞれの対比を出しつつスケルツォらしい速い三拍子の流れをキープするのは大変です。そこに十八番の転調が加わってくるため、調性によるニュアンスの表現なども考慮しなければなりません。こういった複数の要素をまとめあげるのはとても大変で、4曲あるショパンのスケルツォでは最も演奏困難といわれる理由になっています。
トリオは左手のアルペジョに乗って物憂げな旋律が歌われます。嬰ハ短調で始まりますが、途中で嬰ヘ長調を経由してヘ長調になります。無理なく自然に流れているのであまり気づきません。しかし、そこからヘ長調のドミナント(ハ音)をバスにした減七のアルペジョが呟くように歌われときの緊張感たるや、ものすごいものがあります。その後、何事もなかったかのようにもとの嬰ハ短調に戻ってトリオが続きますが長くは安定せず、転調を重ねて左手でH-Cという増8度(普通にシドシド…という半音パッセージにしても何も問題はないのですが、増8度にすることで不安定さが強調されます)のトレモロが連打される中、ホ長調の主部が再現します。再現部は短縮されており、コーダを経て長いスケールが駆け上がり華やかに終わります。

譜例:左手の増八度


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