ショパン:前奏曲集 作品28

Frederic Chopin : Prelude Op.28
この曲集は様々な面で練習曲集(特にOp.25)と兄弟関係にあり、両者を比較することで特徴が明確になると思います。というのは、基本コンセプトが「練習曲集から練習曲的要素を取り去ったもの」にほかならないからなのです。残ったコンセプトは以下のようなものになります。
1.バッハ平均律集へのオマージュ (24の調性すべてを使った曲集)
2.「組曲」を作るという野望 (全曲を連続演奏させるのが前提)

いずれも練習曲集では果たせなかったコンセプトで、今回はなんとしても成し遂げるという強い意志があったものと推測します。なお1と2はセットで実現されており、この曲集を維持する根幹となっています。すなわち、バッハ平均律集はハ長調−ハ短調から始まって半音ずつ上がっていく配列を取っていますが、ショパンの前奏曲集はハ長調−イ短調から始まって5度ずつ上がる配列であり、全曲にわたって関係調−属調関係を保つように設計されているのが最大の特徴です。このため、前後の曲の和声的な関連性が常に高く保たれます。様々な雰囲気の24曲から成り立つこの曲集に存在する不思議な統一感の源泉となっているのが、この調性関係なのです。

5度間隔の配列を取るアイディアはショパンのオリジナルではありません。フンメルが前奏曲集Op.67で、すでに同じ配列を取っています。ショパンはフンメルやモシェレスの曲を参考にしていた時期があり、この曲集もその流れの中で発生したものと見ることができます。フンメルの前奏曲集は1曲が非常に短いフレーズ断片のようなもので成り立っていたため、ショパンの前奏曲集も短い曲が多くなったものと思われます。

以上の要素に加えて、練習曲集でショパンが失敗と感じた反省点を元にした改善が盛り込まれています。もっともわかりやすいのが、演奏上の難易度を大幅に下げていることです。練習曲集は画期的(当時としては突飛)なアイディアがたくさん含まれていた上に難易度が高すぎたため、さまざまな批判を受けました。実際問題「こんなに難しい曲は弾けない」というピアノ愛好者も多かったようです。この曲集は、自身の弟子(あまりピアノの上手くない貴族の子女)に弾かせる曲が少ないという事実に気づいたショパンが、なんとかして平易な曲集を作ろうとした努力の結晶でもあるのです。そのため、初心者でも弾ける魅力的な曲がたくさん収録されており、ピアノレスナーのショパン初体験には適したものになっています。
では、その割にはOp.28-16や28-24など、難易度の高い曲も入っているのはなぜ?という疑問も当然沸いてくると思います。これは推測ですが、もともとは練習曲集op.25用に作った曲ではないかと推測します(Op.28-15もたぶん同時期作−理由:15-16の関係性が非常に高いため)。練習曲集の編纂時に、最終的に選に漏れた15/16/24を核に、1ページ内外で終わる短い曲を多数作って組曲を仕立て上げたのがこの作品と見ることができるのです。

この作品に含まれる曲は提示−展開−再現という3部形式が多いのですが、多くは再現部が短縮されています。またコーダの付いた曲も少ないので終止部が物足りなく、独立した曲と見るには不完全なのです。このように、1曲の後半を思い切って省略することで、自然に次の曲へ繋がる効果が出てきます。一方、先ほど例に上げたOp.28-15/16/24の3曲はその例外にあたり、コーダ付きのきっちりした3部形式で自己完結性が高いのです。そのために単独で演奏しても違和感をもたらすことがありません。裏を返せは、この3曲は特別にこの曲集を意識して書かれたのではない可能性が高いということになるのです。
さらに以下の各曲に対する解説でも述べますが、前奏曲集は和声的に凝ったことをやろうとした明確な意図が伺えます。ショパンが初期のヴィルトゥオジティ満載&サロン向け小品作曲家から脱皮して、晩年の傑作群につながる調性変化の思索を始めたのがこの曲集です。ショパンの転機になった珠玉の24曲を、ぜひ聴いて、弾いて、楽しんでください。

No.1 ハ長調
これは平均律集第一番のプレリュードの影響が出たアルペジョの曲です。出だしの主題が展開された後すぐ終結部となって終わっており、再現部を欠く3部形式と見ることもできます。これにより、いかにも組曲のイントロダクションという雰囲気をかもし出すことに成功しています。
No.2 イ短調
最初からずっと調性が不明瞭です。終結部になってようやくイ短調ということが判明します。ショパンの和声感覚に潜む前衛的要素が濃縮されていて、音楽学的にも分析しがいがありそうです。演奏難度は低いのですが、調性の不明瞭さと音域の低さが相まって非常に重苦しい雰囲気になっています。2曲目からこんな曲を入れてしまって良いのでしょうか?
No.3 ト長調
2曲目で重くなりすぎてしまったので、対照的に軽やかな音型の伴奏と、飛翔するようなメロディを持ってきます。この曲集は、並んだ曲どうしの対比関係が鮮やかな点も聴きどころです。
No.4 ホ短調
ショパンに特徴的な「単純な音型を順次進行で下げていく」メロディが少し感傷的な和声進行に乗った曲。3曲目で速いアルペジョを伴奏に使って落ち着きのない感じだったので、この曲は伴奏を和音連打にして、しっとりとした雰囲気を出しています。なお、ショパンの葬式の際にも演奏されていますし、アントニオ・カルロス・ジョビンが"How Insensitive"というカバー曲を作ったことでも有名です。
No.5 ニ長調
最初から最後まで両手で16分音符を演奏し続けます。練習曲的発想で作られているのですが、曲想が短く凝縮されており明らかにこの曲集のために作っていますので、Op.25よりは後の時期と思われます。
No.6 ロ短調
これもエチュードOp.25-7の姉妹作といってよい曲ですが、実際には28-4(左=和音連打、右=旋律)の左右を逆転させたものです。ショパンが低音部にメロディを担当させるときはほとんどチェロを意識していると思われるのですが、これもそういう曲ですね。
No.7 イ長調
太田胃酸のCM音楽に使われていることから、非常に有名な曲です。3拍目にアクセントがくるマズルカ調のリズムになっています。なおここまで長調=速いテンポ、短調=遅いテンポだったのですが、ここから逆転しているのがポイントとなります。演奏技術的には、最後のほうで非常に大きな和音が出てくるのが要注意で、これはアルペジョで弾くのが一般的です(音楽学的にもマズルカで強調されるべき3拍目にあたるので、アルペジョにして少し停滞させる方がむしろ好ましいのです)。
No.8 嬰ヘ短調
32分音符の細かな動きが大変美しい曲。上がるor下がるの2音動機が元になっており、合間をアルペジョでつないだもの。おや?この作り方は28-1と同じ方法論ですね。作曲技法としては単純なのですが、和声進行が非常に上手いです。最後に一瞬だけ長調へ移行したあとまた短調で終わるのが寂寥感をもたらします。この曲のように最初から最後まで同じ音型が連続するのはエチュード的な発想ですが、それを反映してか演奏技術面でも難しい曲です。
No.9 ホ長調
コラール的な曲の内声を三連符にした曲で、すごく単純な作りになっています。なお、三連符と付点音符は同時に弾くのが正しいとされています(ピアニストでも間違って弾いていますが)。演奏の難易度そのものは高くありません。
 
No.10 嬰ハ短調
急速なフレーズと合間に挿入されるマズルカ風の合いの手が面白い対比を見せる曲。駆け下りてくるフレーズはいかにもショパンという感じですが、低音部で「ジャラン、ジャラン」と鳴っているアルペジオの伴奏もマズルカだったりします。
No.11 ロ長調
何気ない小曲のようですが随所でポリフォニックな書法が効いて密度が濃いです。次の曲が重いので、そのための導入という位置づけです。
No.12 嬰ト短調
タランテラとは違うのですが、それっぽい雰囲気のある舞踏的リズムが特徴です。スラブ的な旋律の情熱的な曲で、演奏難易度はやや高めです。
No.13 嬰ヘ長調
ノクターン風の伴奏に乗ってコラールの旋律が歌われる非常に美しい曲。後期の曲(舟歌など)を先取りするような雰囲気もあります。
No.14 変ホ短調
最初から最後まで両手が三連符を弾きます。やはりNo.5の親戚にあたる曲で、次の曲とのつなぎを重視しています。
No.15 変ニ長調
「雨だれ」としてあまりにも有名な曲。この曲集の中では最も演奏時間が長く、次のNo.16とペアで中盤のポイントと言ってよいでしょう。三部構成で、中間部では連打が変イ音から嬰ト音に変わって嬰ハ短調へ転調します。このようなエンハーモニックを利用した転調はショパンでは珍しいのですが、曲想転換とセットになった調性変化は非常に効果的です。豊かな曲想と充実した構成の割に演奏難易度が低く、ツェルニー30番程度の人でも十分に弾ける名曲です。
No.16 変ロ短調
No.15との対比が非常に素晴らしい激情的な曲。変ニ長調−変ロ短調の組み合わせはショパンのお気に入りです。伴奏のリズム形がピアノソナタ第2番の第一楽章によく似ていますが、あれも変ロ短調でした。気に入った調性だからなのでしょうか、演奏難易度が非常に高く、この曲集の中ではもっとも難しい曲です。
No.17 変イ長調
和音連打の上に美しいメロディが載ってきますが、調性的にすごく微妙なことをやっています。特に24小節〜25小節、およびその前後の転調はショパン自身も苦労したのではないでしょうか。このタイプの転調の完成形はバラード4番と舟歌で聞くことができます。こういう事実からもわかるのですが、前奏曲集は和声的に凝ったことをやろうとした明確な意図が伺えます。ショパンが初期のヴィルトゥオジティ満載&サロン向け小品作曲家から脱皮して、晩年の傑作群につながる調性変化を思索しだしたのがこの曲集と見ることができます。
No.18 ヘ短調
オペラのレチタティーヴォ的な曲です。No.17がアリア的曲想だったので、対比効果も抜群です。二部構成と見なすことができますが、後半のめちゃくちゃな転調がすごいです。16小節目でどこに行ってしまうのかわからなくなり、17小節目でスケルツォ2番と同じアルペジョが駆け下り、18小節目で怒涛の半音進行をしてドミナントに持ってきてしまい、ヘ短調トニカで終止します。この緊張感はすごいと思います。
No.19 変ホ長調
最初から最後まで両手が三連符を弾くパターンの曲です。しかし発想的にはまったくエチュード、それもOp.25-1(エオリアンハープ)の改良版で、姉妹作として考えてよいでしょう。
No.20 ハ短調
内声の動きが美しいコラール。全小節同じリズムパターンになっているところに着目しましょう。3拍目に付点音符を入れることで緊張感ある進行を作り出しています。
No.21 変ロ長調
対位法的なポリフォニーと、それを利用した転調がポイントの曲。ほとんどそのままバラード3番や4番を先取りしていて、ショパンの作曲技法の変遷を考える上で非常に重要な1曲と言えます。ですので、まったりとした曲調の割りに転調と臨時記号の嵐で譜読みは大変です。
No.22 ト短調
左手の動機が推進力になる曲。リズムパターン的には完全にNo.1と親戚関係にあるのですが、曲調が全然違うので気づく人は少ないでしょう(笑)。しかも調性的にとんでもないことになっています。中間部でなぜか変ニ長調になるのですが、これはバラード1番の序奏部に出てくる変イ長調と同じ理屈です。すなわち、印象的な部分にナポリ6度など主調から少し離れた和音を持ってくるという構成なのです。この曲の作曲目的はおそらくここ1点に尽きると思われ、そのため変ニ長調へのアプローチ(13〜16小節、特に15小節目)がかなり強引になってます。なんとかギリギリ許容範囲でおさまりますので、15小節目左手の変態的フレーズを生み出すまでのショパンの苦労を推し測りつつ弾きましょう。
No.23 ヘ長調
エチュードOp.10-8(ヘ長調)と親戚関係にあります。短いのにこちらの方が音楽的に優れていたりするのはご愛嬌。この曲はヘ長調トニカのアルペジョに対して随所に変ホ音を混ぜて変化を付けているのがポイントです。最後くらいトニカで終わらせても良さそうですが、やはり変ホ音を混ぜて(しかもこの音にアクセントが付いている)微妙に不完全な終止にしています。次の終曲へつなげるためのちょっとした工夫です。非常に単純な技法ですが巧妙で、この1音にショパンの繊細なセンスが発揮されています。
No.24 ニ短調
ダイナミックな左手のアルペジョに乗ってスラブ風の切迫感あるメロディが歌われる曲。中間部で例によって転調が出てくるのですが、展開は短くすぐニ短調に戻ります。その後ffからさらにクレシェンドさせてfffへ到達する展開があり(前奏曲集でfffが登場するのはこの曲だけ)、ショパンがいかに情熱的な表現を要求しているかわかります。最後は当時のピアノの最低音に近いニ音を連打して終わります。


→ ショパン 前奏曲集のCD聴き比べへ

→ 音楽図鑑CLASSICのINDEXへ戻る