楽譜の選定

Frederic Chopin : Etude Op.10-3
 

クラシックの曲を弾くときは楽譜を使いますよね。しかし、楽譜を吟味して選ぶ人は意外に少ないのではないでしょうか。
「楽譜なんてどれを選んでも同じでしょ」と思っていると、酷い目にあうことがあります。ショパンの曲を弾くときには、楽譜の選択には特に慎重になる必要がありますが、以下にその理由を書きましょう。

ショパンは、出版後といえども自分の作品に小さな変更を加えたり、修正を施しました。そして、楽譜が再版されるときにそのような変更を取り入れていったのです。通常「原典版(オリジナル版)」というと最終稿や初版譜を示すのですが、ショパンの場合は初版譜=最終譜でないことになります。しかも、ショパンは存命当時から人気のあった作曲家でしたので、いろいろな国で楽譜が出版されました。主としてフランスとドイツで出版されたのですが、フランスはショパンが住んでいたこともあって細かな改訂などがなされています。しかし、ショパンの目の届かない国では適当な内容で出版されていました。さらに、過去に出版された楽譜は手書きの写譜を元にしているため、間違いや抜けも多く信頼性が低いことは容易に想像ができます。
さて、そうなると、現代においてショパンの楽譜を編集しようとした場合、いったいどの版(エディション)をオリジナル決定稿と見なしたら良いのか判断が付きません。原典が2つとか3つ、酷いときはそれ以上もの異なるバージョンで存在することになってしまうのです。ショパンは非常に細かい点に気を配って楽譜を書いていましたので、些細な間違いや抜けが演奏上の重大な問題に直結する可能性が高く、できる限り信頼性の高い楽譜を使いたいのです。しかし現実的にはどのバージョンを選択したらよいのかわからないのです。

・・・というようなことを100年ほど前からいろいろな人が考えていたようで、様々な人が「ショパンの楽譜の決定版」を作ろうと尽力しています。有名なのがドビュッシーとパデレフスキによる編纂ですが、演奏することを前提に作られたパデレフスキ版は世界的に普及し、多くのピアニストに利用されました。しかし、20世紀末をむかえ、さまざまな見地からショパン研究が進むにつれパデレフスキ版の問題点も明らかになり、新たな原典版を出版しようという動きが起こります。これがエキエル編ナショナル・エディションとウィーン原典版ということになります。

現在では過去の版を含め、さまざまなエディションの楽譜が入手できます。以下にかくエディションの特徴などをまとめましたので参考にしてください。

エキエル編
ナショナル・エディション

ヤン・エキエル氏の編集によるナショナル・エディションは日本語版もありますが、たいへん高価です。中学生レベルの英語が読める方は輸入版にしましょう。
ナショナル・エディションはパデレフスキ版から50年が経過した20世紀終盤に最新のショパン研究が反映された原典版を作ろうとして編纂されている楽譜です(現在も刊行中)。なお、2005年のショパンコンクール案内において「ナショナル・エディションを使いなさい」と公式に表明されましたので、現在もっとも信頼性の高い楽譜と言うことができると思います。
運指はショパン指示(太字)のものと、エキエル氏の指示(斜体)が区別できるように掲載されています。弾きにくいところなどは、すかさず斜体文字でエキエル氏の運指が出てくるあたりがすごい。ショパンの曲の運指で悩んでいる方は、ぜひエキエル版を見ていただきたいと思います。エチュード以外の曲でも随所で的確な指示が見られます。
異稿については、エチュードはそれほどでもないのですが、ノクターンやポロネーズでは様々なヴァリアンテ(ショパンがレッスン時に弟子の楽譜に書き込んだフレーズ)が載っており、大変参考になります。

ウィーン原典版

日本語版あり。パウル・バドゥーラ=スコダ編集・校訂・運指。過去のエディションの問題点など、この版を編集するに至った理由を記述した前書から素晴らしいです。またエキエル版と同様に、運指はショパンのものとバドゥーラ=スコダ氏によるものが併記されています。このため、演奏する人は様々な可能性を検討することができます。
この版の最大の特徴は、通常は最後の方に追いやられる注釈や異稿をすべて楽譜内に盛り込んで、異稿の比較検討ができるところにあります。フランス・ドイツ初版や自筆譜はもとより、弟子の楽譜に書き込んだショパンの記述や、コルトー版、エキエル版といった20世紀の楽譜まで比較検討してあり、資料的な価値は他の追随を許しません。よくぞここまで調べたと思います。
このように、たくさんの情報が得られる楽譜ですが、譜面そのもののレイアウトや印刷も秀逸で、見やすく、弾きやすく作られているところも良いと思います。これで値段が安ければ言うことなしなのですが・・・(苦笑)。Op.10と25がそれぞれ1800円、2200円ですからねー。

パデレフスキ版

 

日本語版あり(リプリントなので、ちょっと読みにくい)。
20世紀前半のポーランドの名ピアニスト・パデレフスキの「我が国の生んだ偉大な作曲家ショパンの楽譜、それも決定版とも言える楽譜を作ろう」という発案が元になって編纂されました。ウィーン原典版とエキエル版が出るまでは、これとヘンレ版が2大巨頭でした。
ショパンは異稿の多い作曲家ですから、どの原稿を採用するかが楽譜編纂のポイントになります。パデレフスキおよび編集者の考えは、正確な原典版を作成することを目的としつつも、実際に演奏したときに良い印象を与えるものを優先しました。そのため、強弱記号や運指などもかなり補完されており、演奏しやすい楽譜ができあがったのです。このため、ほとんどのピアニストはこの楽譜で録音をしています。巻末に装飾音の奏法なども記されており、「理想的なショパン演奏のために」という使命に燃えていた当時の人々の努力と熱意を感じることができます。
この版の問題点は、フランス初版、ドイツ初版、イギリス初版、自筆譜などから最もおいしい部分を抽出して楽譜を作ってしまったところにあります。各エディションをつぎはぎ編集をしたことで、演奏効果は優れているけれども、本来この世に存在しないエディションがでっち上げられてしまったのです。演奏者が複数のエディションをつぎはぎして弾くのは構わないと思うのですが(それが良い演奏に繋がるなら)、資料として残る楽譜上で行われるのは好ましくないと思います。

コルトー版

日本語版あり。これは原典版ではなく、アルフレッド・コルトーによる独自の解釈版です。
まず、1曲ごとに2〜4ページにわたる詳細な解説と練習方法が書かれているのが特徴です。内容的に充実しており、「コルトーの考えるショパン像」が反映されているので、解説を読むだけでも勉強になります。
運指はコルトーのオリジナルで、かなり個性的。脱力しやすい運指なのですが、弾きやすいという人と、そうでない人が分かれてしまうようで、注意が必要です。ペダリングもコルトーによって補充されています。「別れの曲」を始め、原典版では必要最小限のペダル指示しかなく、初心者はどのように踏んでいいのかわからずに苦労するようですが、コルトー版を見れば一目瞭然です。ペダル使用について細かに言及している楽譜は非常に少なく、その点では貴重です。
以上のような理由でコルトー版の楽譜が好きなピアノの先生が多いようですが、ここまで微視的に解説の付けられたものを使ってしまっては、逆に自由な発想を阻害しそうに思うので、私はあまり推奨できません。このような解釈版を利用する場合は、他のエディションや原典版を持っていることが大前提で、必ず比較検討しながら利用すべきだと思います。

ヘンレ版

日本語版なし。
校訂報告が無いので、どのエディションが元になっているのかよくわからないのですが、主にショパンの自筆譜をもとに編集されているようです。従って、他の原典版とは異なる記述が随所に見られます。
当然、運指指示も少ないため自分で指つかいを考えなくてはいけない場面が多く、かなりの負担を強いられます。資料的な価値はあるのですが、実際に弾くための楽譜としてはおすすめできません。

全音版

古くからある全音の青帯バージョンはおそらくPeters版をもとにされています。エキエル版やウィーン原典版が入手できる現在では特に利用価値は見あたらないと思います。同じ理由で、全音ピアノピースの使用も否定的見解を持っています。
なお、ジム・サムソンという音楽学者がPetersから「新・原典版」の刊行を予定しているようで、要注目です。

−今回のポイント−

  • エキエル版かウィーン原典版がおすすめです。
  • 複数のエディションを比較検討するのは勉強になります。
  • 輸入楽譜がこんなに高価なのはなんでだろう〜♪
  • これだけたくさんの楽譜を持っているのだから「別れの曲」以外も練習したいものですね、BUNさん(汗)。 

2003.03.23

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