鎌足ふるさとかるた

鎌足ふるさとかるたのご紹介
鎌足地域は、緑と水と太陽に恵まれた自然の豊かな地域です。そして数多くの民話、遺跡、伝説、神社仏閣当の名所が残されている地域でもあります。
 今、鎌足地域は多くの開発プロジェクトをかかえ、大きく変貌をしようとしております。
このような鎌足地域に、より親しんで頂く手がかりとして、また子供たちに地域を伝えていく手段としてこの「鎌足ふるさとかるた」を、鎌足やまびこ学級かるた部会の皆様により平成2年に作成されました。

















【読み札説明】
いざなみ祀る熊野様
字『瀧の沢』と『高倉台』にあり、伊邪那美命他八柱を祀ってある神社である。
社伝によれば、孝徳天皇御宇紀州能野様を祀ったとされている。
昔から『高倉まち』と呼ばれている八月十八日(旧暦九月二十九日)の祭りには参詣者で境内は賑やかである。
ろくろを回して鎌足焼き
鎌足焼きは、鎌足地区の土である『赤のっぼ』と『ねんど』及び『信楽上』を混ぜて焼く焼き物であり、鎌足公民館の陶芸教室では鎌足地区特有の焼き物を造り出そうと精力的に取り組んでいる。
はるはると登りて拝む高倉や
高蔵寺を詠んだ『はるばるとのぼりて拝坂東三十三番中、三十番目の札所、高む高倉や富士に写ろうあさばなるらん』という御詠歌が残っている。
日露戦の忠魂碑
日露戦争において犠牲となった、鎌足地域出身者四名の戦没者を祀ってある石碑で、高蔵寺境内にあり、明治三十九年五月十五日、鎌足地区の有志により建立された。表面の篆額は乃木希典、碑文及ぴ書は大野道一の手による。
鎌足地区には他に各戦争による犠牲者の忠魂碑が数多く残されている。
掘つたりや花山遺跡
鎌足中学校の移転に伴い、昭和五十七年度から五十九年度まで三ヵ年にわたり調査された。その結果、縄支時代から平安時代までの竪穴住居址が二百ヵ所以上発見された他、当地方では発見例の少ない先土器時代の石器群も四ヵ所あることが明らかになるなど貴重な遣跡である。
へその緒を鎌で切つたは鎌足公
猪台の豪族、猪野長官が子供に恵まれず高倉観音・間暗観音様へそれぞれ二十一日間願かけをした所、腹の中に藤の大木ができ、そこへ白狐が鎌をくわえてきたという夫婦同じ夢を見た。そしてお産の時狐が鎌を持って立ち臨み、生まれた子が男の子だったから『鎌子』と名づけたという藤原鎌足公の生誕に関する伝説。
土砂加持の徳蔵寺
土砂加持とは密教の修法の一つ。
光明真言で、仏法の大聖者が多くの人々に、病気や災難を取り除くため、土と砂を掛けて祈蒔することである。
土砂加持は、昭和初期(十年)まで、徳蔵寺の檀徒や近隣の同宗の人々が中心になり、飲んだり食べたり歌ったりで夜を徹して二日三晩にわたり行われていた。
珍種の桜鎌足桜
矢那『山下』の進藤家に古くがらある桜の木である。藤原鎌足が高倉観音にお参りした時に『杖』をさしたところ桜の木になったという伝説から鎌足桜と言われている。
また、この桜はめしべの先が鎌の形に曲がっている珍しい八重桜であり現在進藤家の他に太田山公園と鎌足公民館、小中学校にも植えられている。
立派な数珠は菩提樹の実
上金谷の石井家宅地にある大きな古木である。
葉の裏に数珠となる実をつける珍しい木で大木となって繁っている。
この菩提樹は大昔、弘法大師が一夜の宿のお礼にと一粒の種を蒔いていったのが、後に成長し今日に及んだとの言い伝えがある。
布目瓦の登り窯
矢那『名主ケ谷』に築かれていた、地下式登り窯である。
平安時代に操業されたと想定され、ここでは瓦類が多く焼かれた。
木更津の大寺や君津市の九十九坊等の互が窯造されたと言われている。
現在、県の調査により五基が確認されている。
るしやな仏の大仏師
伝統に輝く鎌倉文化の一大象徴としての鎌倉大仏の鋳造に、上総国望陀郡矢那村の大野五郎右衛門が尽刀したと『吾妻鏡』などに記録されている。
大仏は阿弥陀如来像の座像で、三丈五尺、建長四年の鋳工である。
大野邸近くには、『金谷』の宇があり、昭和四十年、市の文化財に指定された。
乙女のあこがれ花嫁鞍
この鞍は『名、王ケ谷』の屋号『與右衛門』さんに伝わる物で木更津市『田面』の浦部さんという鞍職人が『與右衛門』宅に一力月余りも拍まり込み、慶応二年(一八六六年)十月に作られたという。
この鞍に三代の花嫁さんが綿帽子をかぶりお嫁入りしたという。金糸、銀糸を織りこんた実に見事な文化財である。
和上で偉大な海如様
鎌足出身の高僧、光雲海如和上様。
七才で徳蔵寺に出家入道し、その後、大和の長谷寺に上り修行したが、師の遷化により帰国、生涯一般民衆の教化と、宗教界刷新に尽くし高僧として仰がれたが、明治六年七十一才で入寂した。
鐘が沈んだ大鐘堰
大野五郎石衛門の工房が高蔵寺に頼まれた大梵鐘を運搬中、この地において車の車輪が泥にはまってしまい、大梵鐘もろとも土の中に潜ってしまった。
大勢の人夫の手を借り掘り上げたが、その跡に水が湧き出て堰となった。その後、田の用水として使用した里人が『大鐘堰』と名付けたと言い伝えられている。
吉野神社は権現様
矢那の字『名王ケ谷』にある。祭神は天之水分神で境内二百二坪、社地は高台にあり、『権現様』と言う。
祭典は九月二十九日である。
高床式の高蔵寺
坂東三十番の札所で、本尊は天平年聞(七二九〜四八)に行基が造った観音像である。
大本堂は高床式(床下一・九m)。
十上八面取りの八十四本の柱の上に組み立てられた重層入母屋造りの格調高い名建築物である。昭和五十一年、市支化財に指定された。
蓮華寺の大火に残つた丹波壷
蓮華寺は、日運宗の尼寺であったと伝えられている。
天正年間に焼失し、再建不可能となった。この壺は焼け跡付近より出土した物品で、この寺の遺物と推定される。
『骨波秋草文壺』の名で、平安末期の作とされ、種子物や、飲み物入れに使用されたと思われる。
そばは祈願のげげらそぱ
昔、高蔵寺への巡礼街道の途中に宿場があった。
その宿場の中に屋号を『げげら』と言う有名なそば屋さんがあり、『げげらそば』と呼ばれ親しまれていた。
そして、ここのそばを食べると高倉観音への祈願がかなうと言われていた。
月見に良いのは若草団地
鎌足地区随一の高台にあり、とても見晴らしのよいところである。
昭和四十五年に調整区域から市街化区域になり、住宅が建つようになった。
鎌足地区には、他に『あけぼの団地』『桜団地』がある。
念仏を今も唱える文殊堂
矢那『雁原』三九七一番地にある。
お堂の中に文殊善薩、不明動王と版木があり、毎月二回くらい、老人たちが会会し念仏を唱えている。
情けは深い久野原の狐
昔、久野原で草敷村の大変人情深い人が、娘に化けた狐にさんざんな目にあったが、正体がわかった時、狐があまりにも謝る姿を見て可愛そうになり許したという民話である。
らんらんとにらむはお寺の仁王様
鎌足地区では、仁王様は徳蔵寺と高蔵寺の山門に鎮座している。
阿形(日を開いた像)叫形(口を閉じた像)があり左右一対に置かれている。
激しい動勢を示し誇張的表現をとるものが多く、仏敵を撃破するため、手に金剛杵を執るところから金剛力士とも言われる。
昔をしのぶ鎌倉街道
頼朝は有力な御家人を『守護』・『地頭』として全国各地に配した。
鎌倉街道はこれらの御家人が中央の鎌倉と連絡をとる道であり、また鎌倉幕府の大事には『いざ鎌倉』と馳せ参じた道であった。
うまい話はかもさの話
寛政年間の話。
下矢那の『鴨が作』という所に偉い鉄砲の名人がいた。
ある日、鴨を撃ちに出掛けたら次から次へと全ての事が予想もつかぬ程うまくいった、という様な様々な話し(『かもさ話』)があり、県下でも有名な民話となっている。
井戸水使う矢那の里
矢那には日本の名氷として紹介されている、高倉の加藤家宅の井戸水がある。
平成の今日でも矢那地区各所では井戸氷が湧いており、飲料水として多くの家家で使っている。
能満寺の弁天様は雨乞い様
日昭り続きで困った時、『全谷』、『下金谷』の青年たちが、矢那川の『大清氷』と言う水が湧いている所に弁天様を浸して雨乞いをした。
この習慣は昭和の初期まで行われていた。
御嶽神社は日本武
御嶽神社はその名にふさわしく、鎌足地区で一番高い深山に祀られ鎌足地区内を見守っている。
祭神は日本武尊他七神が祀られている。
草敷は頼朝公の昼食場
源頼朝が従者を連れて安房から鎌倉に向かう途中に、大松の下で昼食をとり体息をした。
土地の人が大勢出て草を刈り、敷いて座らせた事から後に、ここを『草敷』と言うようになったと言い伝えられている。
屋敷の広い安西家
安西家は矢那『草敷』にある旧家である。
もとの建物は、昭和五十六年木更津市から文化財に指定され、太田山公園内にそのまま移築され、一般に公開されている。
間日十三間、奥行き五間と屋敷の広さを思わせる大型民家である。
間暗寺は高倉の姉の寺
昔、高蔵寺には姉妹が住んでいて、跡継ぎをすべき姉が妹より働き者ではなかった事から、姉の方を間暗寺に分家させ妹が高蔵寺を継いたと言い伝えられている。
鶏頭寺は尼の寺
里見氏の重臣、大坪城主の妻が夫の死後、供養のため建立した。
その後三回も火災に見まわれ天正時代から再建不能となったが、当時は大きな寺であったと推定される。
境内跡には塚や五輪塔などが残っている。
振袖地蔵は悲劇の地蔵
明和年間、村の娘が『横田』ヘ嫁ぎ、お彼岸に生家に帰った帰途、久野原地先で暴漢に襲われ殺害されてしまった。
その後、疫病がはやり子供が病死する等が続いた為、村人たちは安永三年に地蔵尊を建立、法名『春華恵心信女』の菩提をとむらった。以来三月二十四日に祭礼を行い甘酒を振る舞って供養している。
五輪塔と板碑の加藤家
鎌足の旧家で、完祖の『加藤義清』は新田氏の家臣で、足利時代初期に現在地に定住するようになったと言われる。
邸内には江戸中期建造と推走される母屋や通用門があり、貞和二年の刻銘のある板碑や五輪塔などが残っている。
板碑は昭相四十五年六月に、市文化財に措定されている。
縁起に出てくる藤原鎌足
寺の緑起によれば、鎌足の親は字『緒台』の豪族で猪野長官(イノオサノリ)と言った。
三十四、五才になっても子供が授からず、高蔵寺と間暗寺に参り、男の子を授かった。
お産の時、白狐が鎌を授けたと言われその子がのちの藤原鎌足である。
鉄砲の弾に変わつた寺の鐘
戦争中、軍部の全属供出時に、鎌足地区にある主だった寺の釣り鏡も例外にもれずに供出されてしまった。
終戦後、再建された鏡もあるが、そのまま放置されでいる寺も数多く残っでいる。
安全を教える道標馬頭様
海上山『千葉寺』(第二十九番)から平野山『高蔵寺』(第三十番)ヘの巡礼衝道の道標で小字『田高』にある。
霊場が開かれたのは、鎌倉暮府の意向とされ、三代将軍、実朝の時に制定された。
巡礼衛道沿いに馬頭観音を祀る碑がある。
斉藤豊前は里見の家来
矢那『駒原』の斉藤家の祖先である斉藤重吉は里見義実の家臣であった。
四代日の斉藤重信の時代、里見義尭の命を受け、南下する北条氏に備え、天文十年(一五四三年)大坪城を築き、その城主となったとされる。
清き流れは矢那川の水
世に、流れも清き矢那川と言われるがまさにその通りである。
矢那川は木更津市の中央を流れ、氾濫も少なく、流域は肥沃で幾つもの集落を形成してきたご現在、下流では鯉が放流され川の浄化に役立っでいる。
勇後の松は馬つなぎの松
昔、源頼朝が安房から鎌合倉に向かう途中、大字『草敷』で松に馬をつないたので、その松を『勇後の松』と呼ぶようになったと言われでいる。
松は嘉永年間に枯損してしまったが、株跡の滂らに由緒を録した碑が建てられでいる。
目の神様は薬師様
すでに大災のため薬師様は残っていないが、お堂たけ残っている。
お堂は信仰、話し合い、娯楽の場であったが、現在は公民館や公会堂が建てられ、その役割をついでいる。
道真公を祀る北野神社
字『鎌足中郷』では天神様と言われている。
学問の神様、菅原道真公をお祀りしてあるので、受験生の析願が多い。
四方神に囲まれた大坪城
大坪城は『説訪神社』、『音羽神社』『八幡神社』、『鹿島神社』に四方を囲まれており、天文八年(一五四一年)安房の里見氏が南下する北条に備えて造った城であるが、里見民は小田原攻めに参加するのが遅れたため、のちに上総を没収され廃城となった。
円覚寺派の栖安寺
臨済宗円覚寺派に属し、本尊は十一面観世観音薩である。
開創時不詳、元緑十三年(一七○○年)字『用長田』(ヨウサダ)より現地(字下中郷三四九七番地)に移転、その後天保十二年(一八四一年)現堂を建立する。
ひと味ちがう矢那の栗
昭和三十九年、栗の苗木が鎌足地区に植えられ、昭和四十年、木更津市果生産出荷組合が結成された。
当時の組合買は二十二名であった。
散年前より郵便局か、づ宅配も出末るようになった。
矢那の上壌に栗は大変適している。
最も古いキササゲの木
『草敷』にある安西家の長岸前に樹齢二百年〜三百年という干葉県内でもまれな『キササゲ』の巨木がある。
高さ十メートル・六、七月ごろ白い花をつけ、夏の終わりから秋にかけて細長い実をむすぶ。
木更津市の天然記念物に指定されでいる。
千騎坂は頼朝の道
『源頼朝』が『石橋山の戦い』に敗れ海路を房州勝山に上陸、期を見て『干葉常胤』を頼り房総半島を北上する折りに、小糸を通り高倉にさしかかった時には各地から頼朝をしたって馬に乗った武者が一千騎もその衛道筋に並んたという伝説がある。
炭焼台で焼いたアサバの枝
その昔、『アサバ』の木と呼ばれるとても大きな木が高倉観音にあり、その木は切り倒したら木更津まで屈きそうな大木であったという伝説がある。
その木一本たけで高倉観音の本堂全部の柱を建てかえ、アサパの校は炭焼きをするのに三年かかったと言われ、字『炭焼台』と言う地名で今でも残っでいる。
木の葉の形の鎌足の里
鎌足地区は明治二十二年、草敷村と矢那村が合併して鎌足村となり、昭和二十九年より木更津市となった。
鎌足地区の真ん中を走る木更津末告線(県道)を中心として枝状に広がる市道は、まるでかしわの葉の葉脈の心棒様であり、鎌足地区そのものがかしわの葉の形をしている。


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