イラン



(パキスタン2編から)

1.熱風の中で(ミルジャワ→バム、6月28日)

 柵を越えてイラン側のイミグレーションの建物に入ると中がヒンヤリしていた。 冷房がきいているのだ。 建物の中は掃除が行き届いていてゴミが落ちてなかった。 やはり産油国だけあって豊かなのだろう。
 こちらの入国手続きもごく事務的で、税関も温厚そうな中年紳士風の責任者らしい人が笑顔で外を指差していた。

 建物の外に出てバスに乗って緩衝地帯の外に出た。 パキスタン側の国境の町タフタンはいろいろ店があってゴチャゴチャしていたが、イラン側のミルジャワは砂漠が広がるだけだった。 そこでイラン北東部、ホラサン地方にあるシーア派の聖地、マシュハドへ巡礼に向かうパキスタンの家族連れとタクシーをシェアしてイラン側国境の町、ザヘダンへ向かった。

 乗った車は韓国現代の車でエアコンが故障していたのか?付いてなかったのか?窓を開けて走っていた。 すでに気温が高く、外から暑い風が吹き込んできた。
 走っていた車を見ると乗用車は日本、韓国、フランス製かイラン国産でフランスかイタリアの20年くらい前の車をベースにしたであろうPaykanという車が多かった。 トラックはパキスタンのクエッタ→タフタンでも見かけたVolvo、Ivecoが多かった。

 ミニバスでは1時間半かかるそうだが、タクシーは1時間ほどでザヘダンに着いた。 町にはゴミがほとんど落ちてなく、人通りもまばらなのでパキスタンと比べてさっぱりした感じだった。
 11時過ぎにバスターミナルに到着。 12時くらいになるかと思っていたので快調な出だしだ。 ザヘダンからバムへのバスはタクシーの運転手が紹介した会社のものが午後3時発だったので隣りの会社で聞いてみた。 すると午後1時発の便があったのでこちらにした。

 時間になってバスに乗ると、もとはエアコンが付いてはいたらしいが故障か?エアコンを外したのか?座席の上の冷気吹き出し口からなにも出なくて車内は暑かった。
 出発してからバスの助手が1m×15cm×15cmの氷を買って車内に持ち込んでいた。 イランの長距離バスには冷水のサービスがある。 水を冷やすための氷だ。

 バスの車体は昔のベンツのものをベースにした国産車が多い。 窓の面積が広いので視界がいい。 座席は大概2×2の横4人だが、たまに1×2の横3人のものもある。 座席の間隔がパキスタンと違って広めなので前の人が座席を倒しても苦にならない。
 国産車の他に日本の高速バスのようなVolvoのハイデッカー車もある。 そちらはエアコンが効いていそうでうらやましい。

 バスは時たまオアシスのような緑の集落を通ったが、ほとんど砂漠の中を走った。 午後3時ごろになると外気温の方が高いらしく、外から熱風が吹き込んできた。 そこで車内の窓を閉めたので車内は蒸し風呂状態だった。 背中が汗で湿ったので私は前かがみに座って凌いだ。 いろいろ着込んだ女性はもっと大変だろう。

 途中、いくつか検問を通過した。 パスポートの提示を求めた所もあった。 テヘラン時間のPM5:30〜PM6:00の間に放送しているイランの国営放送、IRIBの日本語短波放送によると麻薬撲滅のために去年3,000人の死者が出たらしい。 テレビでも麻薬撲滅キャンペーンのCMを流してた。 恐らく、検問は麻薬の流入を防ぐためだろう。 産地はアフガニスタンやパキスタンといった東に接している国かららしい。 さらにトルコへ抜けて一大消費地のヨーロッパへ流れているのだろう。

 午後5時くらいにヤシの木のプランテーションが見えてきた。 これはナツメヤシらしい。 バムはナツメヤシの産地だそうだ。 さらに進むと北の方角、右手に大きな遺跡が見えてきた。 一地方都市のバムを有名にさせている遺跡、アルゲバムらしい。 さらに進んで市街に入り、途中下車して10分ほど歩いて今夜の宿、Akbar Tourist Guest House(D20,000Rls)に荷物を置いた。 部屋にはエアコンが入っていて、シャワーからお湯が出た。 パキスタンでは味わえなかった贅沢だった。

2.300年前の町(バム、6月29日)

 バムに着いた日は疲れていたので午後10時には早々と寝てしまった。 その時は翌日の事は考えてなかったが、翌朝5時に目が覚めてしまったので6時頃に起きてアルゲバムへ向かう事にした。 丁度、同じ日にバムに来たイギリスの青年も行くとの事だったのでタクシーを割り勘する事にした。

 アルゲバムは300年前まで人が生活していた都市だったが、アフガニスタンが侵攻したのをきっかけに住民が町を放棄してそのまま遺跡になってしまったといういわくつきの遺跡だ。

 まだ早かったのか?中にはほとんど人がいなかった。
 大陸の町らしく、周囲を城壁で囲まれて、中に住居があり、高台に城塞があった。 昨日、バスから見たのは城塞だろう。
 城壁に登ると一緒にいたイギリスの彼は「スターウオーズみたいだ。」と言った。 私から見ると中世の西洋的な感じがする。

 遺跡はきれいに修復されてたり荒れたままだったりしていた。 持参のガイドブック「旅行人ノート5・アジア横断」にイランの遺跡では「修復の域を通り越して、もともとなかったものをどんどん足してます。」というコメントがあったが、エアコン付きの土産物屋に喫茶店と観光地していた。

 高台の城塞に登るとバムの町と周囲が見渡せた。 町の周囲はナツメヤシの農園で覆われて、その外は砂漠だった。 バムには泉が湧いているらしく、水路には透明な水が流れていた。 砂漠での生活は水がかなり制約されるというイメージがあったが、逆に水が豊富でないと大勢の人間の生活が営めないという当然の事を目の当たりにした感じだった。

3.西洋人様々(バム、6月29日)

 アルゲバムで一緒だったイギリスの彼はその日のうちに北東へ200kmほどのケルマンへ行った。 その日の晩、同じ日に宿にチェックインして私同様連泊したオランダのカップルとイタリア人のジョゼッペ達は「今日はあのイギリス人がいないから静かでいいねぇ。」「彼はしゃべりすぎだよ。」と話しているのを聞いた。

 イギリス以外のヨーロッパの大陸にいる彼らから見ると「イギリス人、アメリカ人、オーストラリア人はうるさい。」と思っているらしい。 アメリカが支配しているともいえるテレビや映画では当然、アメリカ人の登場回数が多い。 個人的に賑やかだと思っていたが、「こんなもんだろう。」という程度で特に気にしてなかった。 例のイギリスの彼も同じ程度に思っていたので話しを聞いて意外に感じた。
 イギリス人よりさらに賑やかと思っていたイタリア人から聞いた話しなのも面白かった。 もっともジョゼッペみたいな神経質そうなイタリア人もいるのだろう。

 北パキスタン・カリマバードにいた時に日本人と一緒に沈没していたイギリス人がいた。 又聞きだが、彼が「他のヨーロッパの連中より日本人といた方が楽だ。」と言ったらしい。 ジョゼッペにこの事を話すと「そうだろうね。」と言った。 どうも、イギリス人、アメリカ人、オーストラリア人と他の西洋人社会とは習慣が違うらしい。 そう言えば、インドネシアで一緒だったフレンチ・カナディアンのダニエルもよく彼らの悪口を言っていた。

 私が遺跡を見学した日に出て行ったドイツ人の話しも面白かった。 彼は一見、インドあたりで遊んでいそうな感じだったがジョゼッペ達から見ればとても几帳面な人らしい。 どうも、彼らから見てその几帳面の度が過ぎて滑稽だったらしい。

 ちなみに彼らに「日本人にもうるさい奴はいるよ。」と言うと「え!そんな奴いるの?」と逆に聞かれてしまった。 日本人は一般的に英語が苦手だ。 なかなか話しについて行けないので口数が少ない。 そこで、おとなしい印象を受けるらしい。

4.入場料を取る喫茶店(ケルマン、6月30日〜7月2日)

 バムで2泊して早朝にジョゼッペと一緒にケルマンへ向かった。 砂漠を通過するので移動は午前中か夜に限るらしい。 バスは例によって整備された砂漠の中の道を進んだ。

 3時間後にバスはケルマンのバスターミナルに到着した。 それからジョゼッペが「これからどうするの?」と聞いた。 とりあえず、私は早々に宿を決めて昼寝したかった。 ジョゼッペはその日の夜のフライトでテヘランへ飛ぶそうだがまだ予約してないそうだ。 私は疲れていたのでバスターミナルで別れたかったがジョゼッペは予約してから夕方まで付き合ってもらいたいらしい。 特に彼から意思表示は無かった。
 日本人同士なら事情を言って「お願い!付き合って!」と意思表示するのだがイタリア人の感覚では「言うまでもない」ということなのだろうか? そう言えば前にインドのエローラで一緒だったエクアドルのアンドレイもそんな感じだった。
 仕方ないのでケルマンのバザールにある有名な喫茶店で午後1時に会う約束をした。

 その喫茶店というのはケルマンの観光ポイントの一つで外国人には5,000Rls(約80円)の入場料を取る。 がめついと言われるインド人やベトナム人でさえしないことだ。
 それでも中は落ち着いた雰囲気で良かった。 昔のチャイハネ(喫茶店)を再現した資料館でお茶したとでも思えばいいのだろうか?

 時間になってからジョゼッペが現れた。 テヘランまでの飛行機はあっさり取れたらしい。 料金は約20$。 日本の国内線では最低1万円、80$なので約4分の1という低価格。 産油国のイランではガソリンがリッター当たり約4円と非常に安い。 そこで交通費が安く済むのだ。

 チャイハネにはジョゼッペの知り合いらしいイラン人のおじさんがいた。 彼は角砂糖を口に頬張りながらお茶を飲んだ。 その事を聞くと「歯に悪いけどね。」と言った。 イランの人はミルクと砂糖の入ってない紅茶をこんな風にして飲むらしい。

 夕方になってジョゼッペと別れて町を歩いた。 イランの中では地方都市なのだろうが、パキスタンから来た私には都会に見えてしまった。 ゴミが少ない街路樹が植えてある道、被り物、ヘジャーブをしなければならないものの、オシャレな女性が出歩く姿が目につく。 宿泊している宿(Saddy Guest House、S30,000Rls)ではおばさんが働いていた。 女性が掃除をしている宿は清潔なので安心できる。 パキスタンでは考えられない事だ。 市バスはヨーロッパと同じ車体らしい。 ヨーロッパに近づいているという感じがする。

5.永遠の炎(ヤズド、7月2、3日)

 ケルマンで2泊してさらに西へ300km、バスで5時間のゾロアスター教の寺院があるヤズドへ向かった。
 バスターミナルを出てから低い木の農園が3時間くらい続いた。 イランが産地のピスタチオの農園らしい。 農園が延々と続くのを見ると「砂漠の国」というイメージとは違った印象を受ける。 ちなみにピスタチオナッツはイランでは1Kgで25,000〜40,000Rlsくらいする。 日本円で\400〜\600くらいだが、宿の1泊分なのでイランでは決して安くない。

 ヤズドには昼過ぎに着いた。 宿探しには少し苦労した。 「旅行人ノート5・アジア横断」に載っていた宿を探したが、あるであろうゾロアスター教寺院に近い場所でおばさんに声を掛けられ、「あそこなんだけど今はやってないよ。」らしいことを言われた。 次に外国人利用が多いところに行ってみたが、高めの部屋しか空いてなかった。 結局ジョゼッペが「多分この辺にある。」と言っていた所に行って「Hostel」の看板が出ているのを見つけた。 その宿、Amir Chagmag Hostel(S35,000Rls)に荷物を置く事にした。

 夕方になって、ゾロアスター教寺院を訪れた。 ヤズドは砂漠に囲まれているのか?ピスタチオ農園に囲まれたケルマンよりも暑く感じた。 午後5時過ぎになっても外は暑かった。 後でテレビの天気予報を見るとヤズドが40度とのことだった。 道理で暑いはずだ。
 ガイドブックに書いてあった通り、寺院は特に印象的なものではなかった。 ただ、インドのボンベイでは他の宗教の人には公開されてなかったので貴重なのだろう。
 中には開祖のゾロアスターの肖像画、アラビア文字で書かれた経典らしい本、真中には拝む対象の火がガラスの向こうで燃えていた。
 そこでは参拝していた信者の人はいなかったが、外に出ると青系統の落ち着いた色だがカラフルな柄の生地の服を着たおばさんが何人か歩いていた。 普通イランの女性は黒か紺、濃い緑の落ち着いた色の無地の丈の長い服か若い子は白地に黒か紺の格子模様のハーフコートみたいな服を着ている。 おばさんはゾロアスター教徒なのだろうか?

 ヤズドはむしろ旧市街の迷路のような町並みかバザールを訪れると面白い。 バザールは日が暮れるとたくさんの人達で賑わう。 服の生地、金のアクセサリーを眺める女性、アイスクリームをおいしそうに食べる人達。 楽しそうに談話する店の人。 ドーム状のアーケードにいろんな音が反響していた。

6.鏡張りの聖廟(シラーズ、7月4、5日)

 ヤズドから次の目的地、シラーズまでバスで8時間ほどかかるので夜行バスで移動する事にした。
バスはヤズドの町を出ると例によって砂漠に出た。 エアコン無しでも夜なので十分だった。 イランの長距離バスはあまり休憩を取らないが、さすがに夜行になると深夜に長めの休憩を取った。 何度か寝起きをするうちに路肩に防音壁を張り巡らした日本の高速道路みたいな道になった。 さらに進むと建物が増えて朝5時過ぎにシラーズのバスターミナルに着いた。 バスターミナルの芝生と待合室には夜が明けるのを待っているらしい人達がいた。 私も彼らを見習って7時過ぎまで待合室でテレビを見ていた。

 タクシーに乗って町の中心まで行って、持参のガイドブックLonly Planet「Middle East」に載っていたEsteghlal Hotelに荷物を置いた。 エアコンの吹き出し口とファンがあって、小奇麗な部屋だったのだろう。 言い値が50,000Rlsだったが40,000Rlsにしてもらった。 ベットが3つなので複数なら安く上がっただろう。

 この町は世界的に有名な遺跡、ペルセポリスへの拠点だが、市内にもいくつか見所がある。 ところが、入場料が外国人は大概20,000Rls〜30,000Rls、米ドルにして2.5〜4$くらいするので見る気が失せてしまう。 中国はWTO入りの関係で外国人料金をほぼ撤廃したが、インドやイランなどの国はここ数年で観光地の外国人料金を設定して現地の人の10倍くらいの料金を徴収している。
 インドやカンボジアなど外貨獲得に苦労している国はまだ理解できるが、原油の輸出で膨大な外貨を得ているイランがやるのは理解に苦しむ。

 この町の数少ない無料の観光地の一つにシャー・チェラグ聖廟がある。 外観はイラン・イスラム建築に多い青のタイルを多用した建物だ。 洋梨型の青いドームの建物の中に聖者の棺が安置されている。 入口で履き物を預けて中に入ると小さな鏡をタイルの様に壁一面に貼り付けた部屋に入った。 部屋は男女別に区切られていて、中にはお祈りする人、コーランらしい本を読んでいる人がたくさんいた。
 鏡をたくさん貼り付けた建物はミャンマーの仏教寺院を彷彿させるが、イスラム建築にも使われていたとは思わなかった。
 部屋を出る時に胸に手を当てて棺にお尻を向けない様にしていた人が多かった。 私も同じようにして部屋を出た。

 この聖廟は暑い昼間を避けて夕方に参拝に来る人が多い。 夕方のお祈りの時間になると敷地の屋外に絨毯を敷いて大勢の人がお祈りをしていた。

7.2,500年前の栄華の跡(ペルセポリス、7月6日)

 早起きをしてイラン随一の観光名所で世界遺産の一つ、ペルセポリスを見に行った。
 シラーズのバスターミナルからミニバスで1時間、さらにタクシーで20分位の所だ。 現地に着いたのが9時過ぎだったが既に暑くなっていた。

 ここには2,500年ほど前にアケメネス朝ペルシャの都があったらしいが、今では建物の基壇に石柱が残っている程度だ。 とはいえ、当時の様子を物語る彫刻が残っている。
 入口の門の人面有翼獣身像は中国の廟の入口にある獅子像、日本の神社の狛犬みたいだ。 王様らしい大きな像、その上にはゾロアスター教のシンボルの彫刻があった。 ライオンが牛を襲う彫刻は、当時のイランにライオンがいたのだろうか?

 遺跡を見下ろそうと近くの山に登ってみるとはるか彼方まで広がる麦畑が見えた。 この遺跡には当時の庶民の様子を語るものは無いが、王族や役人だけでなく庶民も大勢生活していたのだろう。 大勢の人口を養うために恵まれた土地に都を置くのは当然だろう。

8.言われ無き差別(シラーズ、7月4〜7日)

 イラン入国前にイランを旅行した事がある日本人旅行者から「イラン人から嫌がらせを受けた事がある。」という話を何度も聞かされていた。

 インドネシア、パキスタンを旅行して思った事だが、イスラム教徒は同性の他人の体を触る事に抵抗を感じないらしい。 また、他人との距離は短いらしく馴れ馴れしいと感じる事がある。 インドも似たようなところがあった。 同性愛が多いらしいのでそれで「男のセクハラ」と取ってしまう事もあるだろう。 他にも相手の事を考えずに大勢から珍しがって挨拶をされるのも疲れるだろう。
 これらは全て悪意の無い事だ。

 イラン人はインドネシアやパキスタンのイスラム教徒と違って大国主義的なプライドがある。 国がマスコミを統制しているので外から情報が入らないからだろう。 「イランは美しい国だ。」と英語の教科書に書いてある事だろうが自分の価値観を押し付けるイラン人の若者がいる。 さらに、アフガニスタン難民を蔑視、差別する傾向がある。 一部の難民が犯罪を犯す事はあるのだろうが、難民全体を敵視しているらしい。 同じくアフガン難民が多かったパキスタンではそんな話しは聞かなかった。
 一般的な日本人はアフガニスタンの人達はインド人に近いイメージを持っているかもしれないが、ウズベク系の人達はモンゴロイドで日本人に近い顔をしている。 そのため、日本人旅行者が一部の心無いイラン人から嫌がらせを受けている。 特にシラーズはアフガン難民が多いので評判が悪い。 私もシラーズで店の人に横柄な態度を取られたりした。
 イランの宿においてある情報ノートにはイラン人の嫌がらせに対する不満がたくさん記述されている。 予定を繰り上げて早々にイランを去る旅行者もいる。

 嫌がらせをするのは大抵、薄汚い格好の10代後半くらいの少年達だ。 20代後半以上の人達は親切で礼儀正しい人が多い。 イランはインドやパキスタンより生活水準が高く、庶民の子供でも家の手伝いをする必要が無いレベルらしい。 また、12年前に終結したイラン・イラク戦争以後の平和な時代に育った彼らは甘やかされて育ったという話しも聞く。 する事が無い彼らがヨーロッパのネオナチみたいに自分達とは違う人種に対していやがらせをするのだ。
 手口は通り掛かりに差別する言葉「チャン チュン チョン」を言ってイヤミな笑いをすることが多い。 抗議すると余計面白がって挑戦的な態度をとる。 バイクに乗って帽子やサングラスを奪う、自転車で旅行している人にバイクから石を投げるということまでする。
イスラム教徒が多い地域にありがちな女性に対するいやがらせももちろんある。
外国人ならなにをしてもいいと思っているらしい。

 差別用語はマスコミが流しているのかもしれない。 事実、東京でイラン映画を見た時に東洋系を差別する表現があった。 小学生低学年くらいの子供にまで差別意識が染み付いているのはテレビのアニメーションに差別表現が使われているらしい。

 10年前、日本にイランやパキスタンからの不法就労が多かった時、彼らは日本人からどのような待遇を受けたのだろうか? そんな事も思いついた。

9.世界の半分(イスファハン、7月7〜14日)

 シラーズの次はイラン観光のハイライトの一つ、17世紀ごろのイランの古都イスファハンへ向かった。
シラーズからイスファハン、テヘランにかけて多くのバス路線があり、選択肢が多い。 今回はちょっと贅沢をしてVolvoのバスに乗ってみた。 値段はシラーズ→イスファハン間、約500km、所要時間7時間が普通のバスで13,000RlsだがVolvoは24,000Rlsだった。

 Volvoのバスは日本の高速バスに近いハイデッカーと呼ばれる車高の高いバスで、エアコンの吹き出し口だけの普通のバスと違ってエアコンが効いている。 飛行機を意識しているのか?ジュースやお菓子のサービスがある。 ビデオでイラン映画を上映している。
 ストーリーが単純なインド映画と違って大人向けのメロドラマが多いので人によっては面白くないだろう。 でも、全体の流れを見ていると30〜40年前の日本の映画に雰囲気が似ているものもある。 その当時の日本映画が好きな人には面白いかもしれない。 イランの社会がその当時の日本同様、高度経済成長期の過程にあるのかもしれない。

 車窓は相変わらず延々と畑が広がるオアシスと砂漠の交互繰り返しだった。 午前10時にシラーズを出て、途中お昼休憩をとって午後5時にイスファハンの南にあるバスターミナルに着いた。 そこから市バスに乗り換えて、外国人旅行者の利用が多いAmir Kabir Hostel(D18,000Rls)にチェックインした。 ドミトリーには日本人旅行者が多く、久しぶりに日本語で会話をした。

 着いた翌日にイスファハ観光のハイライト、イマームの広場にあるインフォメーションで地図をもらって観光を開始した。 17世紀に「世界の半分」と言われただけに市内にはいくつか観光ポイントがあるが、例によって外国人料金が設定され、学割が効かない所が多いのでいくつか絞った。
 やはり最大の見所はイマームの広場に面しているイマームのモスクだろう。 青を基調にした落ち着いた色のタイルに覆われているドームや入口の鍾乳石飾りの天井を持つ門は見る価値がある。 ここも外国人は25,000rls徴収されるが、夜のお祈りの時間には無料で入れる。
 ただ、最近はすれてきたのか?日本語使いの土産物屋の客引きが出現している。 不良少年といい、イラン観光の環境は悪化しているらしい。

 現代のイランはイラン人の他にトルコ系、アラブ系など様々な民族が生活しているが、17世紀のイスファハンもまた、様々な民族が生活していたらしい。 イスファハンの市街地の南部にあるジョルファ地区にはカフカスのアルメニア人が生活していたらしい。 今でもアルメニア教会がいくつか残っている。 そのうちの一つ、カイセリエ・ヴァンクは例によって有料だが、一般に公開されている。 外見は土色の地味な建物だが、ドームの内壁には聖書に基づくだろう壁画で一杯だった。 少しずつヨーロッパに近づいている感じだ。 併設されている博物館にはアルメニア系の職人が作った細かい絵画や聖書が展示されていた。 概して少数派の人達は努力しなければその土地で生きて行けない。 アルメニア人たちもそうなのだろうか?現在のジョルファ地区は高級住宅地の様相を呈している。 ただ、彼らとペルシャ系イラン人との間にはあまり摩擦はないようだ。
 彼らはイランだけでなく、アメリカやヨーロッパなど世界各地に散らばって生活しているらしい。

10.山の手、下町(テヘラン、7月14〜23日)

 1週間ほどイスファハンに滞在してからテヘランへと向かった。 今回もVolvoバスを利用した。 快適さが癖になりそうである。
 朝7時にイスファハンのバスターミナルを出たのでテヘランには昼過ぎに市街に入った。 大概、長距離バスは郊外のバスターミナルで終着になるが幸いなことにこのバスは目的の宿からそれほど離れていないを通って停車した。 そこから立ち並ぶ闇両替屋の勧誘を振り切って目的の宿、Mashad Hotel(S25,000Rls)にたどり着いた。 ここも日本人を始め外国人が多く宿泊していたが、よそから商用で来たイラン人のおじさん達の方が多かった。

 テヘラン市街の南部にある宿の近くは自動車部品の問屋が建ち並んでいた。 昼間は人通りが多く、台車がひっきりなしに行き交っていた。 近くには家電関係の店が建ち並ぶ一画もあり、東京なら山の手線の東側にある下町のような感じがした。

 テヘラン市街地の北にはシリアビザ取得などのために何度か行ったが、こちらは南とは対象的に高級住宅地の山の手と言った感じだった。
 テヘランの町は北にそびえる3,000m級のアルボルズ山系の麓に広がる町で、南から北へはダラダラとした坂を登って行く事になる。

 一般にイランの交通マナーはいいとは言えないが、ここテヘラン南部はイランでも最悪である。 バイクが逆走したり歩道などどこでも走りまわったりとルールが存在しないように思える。 車は強気に前へ進む事しか考えてないみたいだ。 もっともそれは中国やインドも同じだった。 バイクに関してはあの中国やインドでもこんなに乱暴ではなかった。 宿のある地域は狭い道に車、バイク、人がひしめき合っていたのに北へ向かうと高速道路も通っていいて突然、道が広くなりバイクが減って人が疎らになり車ばかり走っているので落ち着いた感じがする。

 イランではファーストフードとしてどこにでもサンドウィッチ屋がある。 フランスパンに魚肉ソーセージや鶏のモツ、ハンバーグなど様々な具を挟んで一つ2,000〜6,000Rlsくらいだ。 これに500〜700Rlsのビン入りのコーラやジュースを付けることが多い。
 北にも似たような店があるのだが、一番安くても7,000Rlsのハンバーガだ。 飲み物は「ビン入りなんて貧乏臭いものは飲まない!」ということなのだろうか?安くて2,000Rlsのペットボトル入りのコーラやジュースしかない。 ハンバーガーは値段に見合っていてそれなりにおいしい。 しかし、ジュースは入れ物が違うだけで中身は変わらない。

 住んでいる人も違うらしい。 北で市バスに乗ると相席になった人から英語でいろいろ話をする機会が多かった。 平均年齢が高いせいもあるが、落ち着いているが好奇心旺盛で人懐っこい人が多かった。 テヘランで差別的な嫌がらせを受ける事は少なかったが北では全く無かった。

 さらに北では街路樹が多く、ヨーロッパや日本の大都市みたいに感じてしまう。 ある日本人が「神戸みたい。」と言っていた。 私もそう思う。

11.休暇で業務停止(テヘラン、7月16〜22日)

 次の目的国シリアへ行くために7月16日の月曜日にテヘランのシリア大使館でビザの申請を行った。 イランとシリアの間にはトルコがあり、イスタンブールやアンカラでもビザの申請はできるのだが、どちらもイラン国境とシリア国境から離れていて遠回りになるし、イランでは現地通貨払いになるので若干得をするのでテヘランで申請することにした。

 テヘランの日本大使館で身元保証のための書類、「レター」を書いてもらってシリア大使館へ向いビザ申請用紙をもらおうとすると英語が話せるビザ申請に来ていたイラン人から「土曜日に来いって。」と言われた。 今まで休日以外にビザ申請に行って追い返されたことがなかったので窓口の役人に問い合わせてみたが、無視されてしまった。 イラン人にはビザ申請を受け付けていた。
 近くのインターフォンで問い合わせてみても相手にされなかった。 建物の反対側にある入口のインターフォンで問い合わせてみたが、「私は領事部でないので良く分らないが、窓口がそういうのならそうなのでしょう。 土曜日に行きなさい。」と言われたので日本大使館へ行って事情を説明して調べてもらった。
 すると、「担当者がいないので土曜日までビザ業務を行ってない。」とシリア大使館が回答したらしい。
 今までの差別的な嫌がらせで頭に来ていたのでかなり感情的になってしまった。 「担当者がいない。」というのは日本の役所が良く使う逃げの手なので理不尽な嫌がらせを受けたと思ってしまった。

 私がシリア大使館へ行った後にビザ申請に行った日本人旅行者は「今は担当者がいないが、日曜日(イスラム教では金曜日が休日)に業務を再開する。」と言われたらしい。 土曜日が日曜日になったのでますます怪しい感じがした。 しかし、事実だったら?という可能性もあったので日曜日まで待つ事にした。

 日曜日にシリア大使館に行ってみるとあっさり外国人用申請用紙を渡してくれた。 用紙の必要事項を記入して窓口に渡すと前回見なかった人からいくつか質問をされた。 しばらく待たされたので近くにいた大使館の人に問い合わせたが、「Yes,Yes」と言うだけだったので質問をした人以外は英会話が出来ないということを覚った。 それからすぐに英会話が出来る人が現れたので問い合わせると「午後1時半にパスポートを受け取りに来て下さい。」と言われた。
 午後1時半に戻ってさらに30分待たされてビザのスタンプが押されたパスポートを受け取った。 彼らの言った事は事実だったのだ。 疑った自分が恥ずかしかった。
 恐らく英会話が出来る人が例の「担当者」なのだろう。 担当者がいれば即日で発給してもらえるということらしい。 即日発給というのはビザ取りではかなり条件がいい方だ。

 最初に大使館で感情的になったのは窓口の人が質問に対してなにも答えなかったからだった。 しかし、英会話ができない窓口の人には理解できなかったのだろう。 私が勝手に「大使館で業務をしている人は英会話ができる。」と思い込んでいたことによる誤解だった。 「言葉の壁」という言葉を思い知らされた。

 しかし、担当者がいないから1週間近く業務ができないというのは日本の民間の常識では考えられない。 誰か代理の人を置くべきだったのではないだろうか?

12.王家の生活(テヘラン、7月15、20日)

 ご存知の方は多いと思われるが、イランの政治体制は「王国」だった。 1979年の革命で国王が逃亡し、「イスラム共和国」になった。
 前国王の生活をうかがえるものがテヘランにはいくつかある。 そのうち、王家の宝石コレクションを展示した宝石博物館と夏の王宮、サーダバードへ行ってみた。

 宝石博物館はイランの大手銀行Bank Melliの本店の地下にある。 手荷物をすべて入口で預けてボディチェックのあとに入場する。 主に展示物は宝石や貴金属で作ったアクセサリーだ。 「これでもか!」というくらい剣を持った獅子の王家の紋章のアクセサリーが多かった。 宝石で作った地球儀にはセンスの悪さを感じてしまった。 とにかく、ダイヤモンドの数が多い。 これだけあると粉々に割れたガラスの破片くらいの印象しかない。

 一般に王族など権力者は秦の始皇帝の兵馬俑や北京の故宮、フランスのベルサイユ、インドのタージマハルのように建築物に異様な執念を持つのだが、サーダバードにはそれを感じさせなかった。
 確かに、部屋を飾るものはすごい! 天井にはチェコ製のシャンデリア、家具はフランス製、絨毯はイラン製の細かい模様入り、中国製の焼き物や屏風まであった。 まるで映画のセットみたいだった。
 しかし、建物は権力者のものにしては小ぶりなのだ。 サーダバードはテヘランの市街地の最北にある森の中にいくつか洋館が点在しているのだ。 分散されているせいか、「王宮」というより「金持ちの家」と言う感じだった。
 国王は建物よりも宝石が好きだったのだろうか?

13.故郷に錦を飾る(テヘラン、7月14〜23日)

 10年前の日本人にとって「イラン」と言う国を思い浮かべる言葉に「不法就労者」というものがあっただろう。 今はイラン人にとって日本入国ということは難しくなったので日本でほとんど見かける事はなくなった。
 そんな彼らにテヘランで会う機会があった。

 ある人はレストラン(といっても大衆食堂)を経営していた。 恐らく日本で稼いだお金を元手にしたのだろう。 今でも彼は日本にいた時の名刺を大事に持っている。 時々日本語の勉強もしているらしい。
 韓国出稼ぎ組だったある人はテヘランの商業地区にて小奇麗な洋菓子店を経営していた。 イランは「隠れたお菓子大国」である。 ちょっとしたお菓子屋でケーキやシュークリーム、アイスクリームを買ってはずれた事が無い。 その中でもこの店のお菓子はおいしかった。
 彼らは成功して「故郷に錦を飾った」のだろう。
 中には日本で薬物の売人をやって儲けた金でビルまで建てた要領のいい、というより悪いやつもいるらしい。

 ある人はタクシーの運転手をしていた。 日本で稼いでもうまく生かせなかった人の方が多いのかもしれない。 ほとんどの人はそうなのだろう。

 ちなみに、イランでは道端でテレフォンカードを売っている人がいる。 皆若いので日本でやっていた人ではないだろうが・・・。

14.開かれた聖地(マシュハド、7月24〜26日)

 イスラム教の聖地で一番に思い浮かべるのはサウジアラビアのメッカだろう。 しかし、メッカはイスラム教徒以外には公開されていない。 サウジアラビア自体、観光目的の「ツーリスト・ビザ」の発給を行っていない。

 ここ、イランにイスラム教徒以外でも公開している聖地がある。 イラン北東部、ホラサン地方の中心、マシュハドにあるイマーム・レザー廟だ。 持参のガイドブック「旅行人ノート5・アジア横断」でもお勧めの地だ。

 テヘランからマシュハドは約900km離れている。 快適なエアコンバスが運行されているのだが900kmはさすがに辛い。 そこで鉄道を利用する事にした。 イランの鉄道も快適さでは定評がある。
 テヘラン駅でダメモトで行ってみると当日の夜行の1等寝台が取れてしまった。 出発時間の1時間ほど前に駅に戻って待ってみる。
 イランは鉄道の需要がバスほどでないせいか、大都市の駅にしては小ぶりで人も少なかった。 中国の省都レベルの駅よりも静かで清潔な感じがした。 搭乗開始の合図がでたので乗車すると4人コンパートメントに案内された。 ふかふかのクッションに折り畳みテーブル、氷入りの水差しと中国の1等寝台、軟臥よりもゴージャスな感じがした。 これで900kmの距離で運賃が39,800Rls、約5US$だ。 中国では2等寝台、硬臥が同じ距離で約200元、約25US$だ。

 相席に若い青年がいた。 強気で堂々としているイラン人が多いが、彼はおどおどして落ち着きが無かった。 後で英語が話せる人に聞くと彼は兵役を終えたばかりで故郷のマシュハドに帰るところらしい。 もともと洋服の仕立て職人だったらしく、繊細でいつも私の事に気を遣っていた。
 英語が話せる青年は大学院に通い情報工学を学びながら2〜3の企業とのプロジェクトをやっているらしい。 休暇を取って故郷マシュハドへ帰省に行くらしい。 彼は将来海外へ留学するために英語の勉強をしてるがなかなか会話の勉強ができないらしい。 彼も繊細でシャイな人だった。
 今まで心無い若者たちから嫌がらせを受けていたが、こんな若者もいたのだ。 彼らのお陰でさらに快適な旅ができた。

 翌朝、車窓はイランでは初めての草原だった。 時々遊牧民が羊の群れを連れている。 例の大学院生と話しをしているうちにマシュハドに着いた。 マシュハドに着いてから早速、大学院生にイマームレザー廟を案内してもらった。

 イマーム・レザー廟はモスク、学校、図書館、博物館がある円形の複合宗教施設だ。 アラーの前では全ての人は平等なのだろうか?博物館には外国人料金が設定されてなかった。
 真中に黄金のドームがあり、その下にイマーム・レザーの棺がある。 今までいくつか宗教施設を訪れたがこれほど大規模なものは初めてだった。 大学院生は敬謙なイスラム教徒だった。 施設に入る時は手足を洗って、お祈りをした。
 彼が建物の中に私を案内しようとした時、彼にイスラム教徒以外入場できるかどうかを聞いた。 彼は「イマーム・レザーは寛大な方ですから。」と言って私に中に入る様勧めた。
 建物の中にはシラーズで見た聖廟のようにガラス張りだった。 床は絨毯敷きで人々が座ってコーランを読んだり、友人や家族と話したり様々だった。

 色々彼と話しがしたかったが、疲れていたので切り上げて宿探しに向かった。 聖地なので近くに宿がたくさんあった。 しかし、安そうな所は「外国人お断り」か満室だった。 ここにはキッチン付きのきれいな宿が多い。 巡礼の人達みたいに複数で訪れた方がお得らしい。
 それでもなんとか手頃な値段(W20,000Rls)の部屋を見つけた。 宿には看板がなく、一見普通のアパートみたいだった。 ひょっとしたら無許可の宿かもしれない。

 この町には3日ほど滞在したが、毎日イマーム・レザー廟を訪れた。 棺の前で涙を流す人を見た。 私にとってはここは通過点に過ぎないのだが、巡礼者には感慨深いものがあるのだろう。
 しかし、夜の礼拝は迫力があった。 コーラン朗読に従って数え切れない巡礼者達が一斉に土下座したり立ちあがったりするのだ。 言葉では表現できない何かを感じた。

 ここに来てみてメッカが公開されない理由が思い付いた。 ある日の夜の礼拝で中に入れないほど人が集まった。 ここはシーア派の聖地で、イランだけでなくパキスタンやアラブ諸国からも巡礼に来る。 メッカは全イスラム教徒共通の聖地だ。 ここよりも人が世界各地から巡礼に来るのだろう。 これでイスラム教徒以外の公開を認めたら管理が難しくなるのだろう。

15.ゆっくり歩こう(ハマダン、7月28、29日)

 バスでマシュハドからテヘランに戻って1泊し、次の訪問国トルコへ向かうためテヘランの南西にあるハマダンへ向かった。
 テヘランには長距離バスのターミナルがいくつかある。 そのうちハマダンへのバスは西バスターミナルから出ている。 ここからはトルコのイスタンブール、アンカラ、他にシリア、アルメニア、アゼルバイジャンへも国際バスが出ている。
 マシュハドからテヘランへ戻る時にちゃんとバス会社を選択しなかったために、エアコンだが常に作動しなかったので暑く、シート間隔が短いので窮屈なバスに乗ってしまった。 今回は快適さで定評があるSeiro-Safar社とPeyma社の切符売り場を探した。 Peymaはハマダンへの路線が無かったのでSeiro-Safar社で発券してもらった。
 時間になって乗車するとVolvoではないものの、シート間隔が短くない快適なバスだった。

 テヘランという大消費地を控えてか?ハマダンまでの道のりは畑が多かった。 見た所、麦やトマトが多かった。 また、イラン北部は草原が多いのか?遊牧民が羊の群れを連れている姿も見た。 発車から5時間ほどでバスはハマダンのバスターミナルに着いた。
 ハマダンはあまり大きな町ではないらしく、バスターミナルから町の中心まで歩いて行けた。 宿は町の中心近くに英語のノボリを上げていたAsre Gadid Guest House(S24,000Rls)にした。 イラン北部ではシャワー代が別途請求されることが多いらしい。 シャワー代金は4,000Rlsだった。 ハマダンは冬場はかなり冷え込むらしく、部屋にはガスストーブが置いてあって、エアコンダクトやファンは置いてなかった。 朝方、結構冷え込んだので朝食のための外出時にはTシャツの上に長袖シャツを着た。

 イランの他の町同様、この町も夕方に人で賑わう。 ある通りが特に賑わっていた。 大都会テヘランから来たせいもあっただろうが、この通りを歩く人はとてもゆっくり歩いていた。 最初は日本の感覚でイライラしていたが、そういうものだということがわかると気にならなくなった。
 また、この町の人には外国人がよほど珍しいらしく、彼らの視線を感じた。 ある子連れのお母さんは「中国人かしら?」らしい事を言って呆然と立ち尽くしていた。 それでも悪意のあるいたずらは無かった。 アフガン難民を見かけなかったので彼らはこの町にいないのかもしれない。 ここはのんびりとした普通のイスラム教徒の町らしい。

16.理不尽な入場料(アリサドル洞窟、7月29日)

 イランと言うと古代遺跡に砂漠というイメージがある。 しかし、北部には5,600mのダマバンド山を含むアルボルズ山脈があり、自然を楽しむ事も出来る。 ハマダンの北西75kmのアリサドルに観光用に公開、整備された洞窟がある。 ハマダン自体、世界有数の古い町らしいが、遺跡の出土品はテヘランに移されてこの町には大した物がないらしい。 ハマダンの人には申し訳ないが、私としては洞窟へのゲートウェイにさせてもらった。

 アリサドルへの道は遠かった。 持参のガイドブック「旅行人ノート5、アジア横断」には長距離バスターミナルの北にあるミニバスターミナルからアリサドル行きが出ているとのことだったが、長距離バスターミナルの南東に移転していた。 こういうことはよくあることなのだが、土地の人に「アリサドルへ行きたい!」ということが通じなかった。 ミニバスターミナルの人にイランの地図を見せてやっと通じた。 土地の人の発音は「アリサード」らしい。

 なんとかバスを見つけるとすぐに満員になったので出発は早かった。 乗客は顔見知りが多い田舎のバスの感じだった。 やはり外国人が珍しいのか?「どこから来たの?」と聞かれたりした。 ここでも悪意のあるいたずらはされなかった。
 車窓はヨーロッパかインドのデカン高原を彷彿させる麦畑が広がっていた。 ここでも遊牧民と羊の群れを見掛けた。 2時間後に数台の観光バスや遊園地みたいなところを通ってアリサドルの村に着いた。 洞窟の入口には食堂や土産物屋が建ち並ぶ普通の観光地だった。 テント村らしいものまであったが、日が出ている間は暑いだろう。

 ここは悪名高い外国人料金が特に高く、50,000Rlsもする。 学割が効くらしいが、窓口で国際学生証を見せても理解されなかった。 事務所でお偉いさんに学生証を見せて学割で入場させてもらった。 それでも30,000Rlsと、恐らくイラン人の10倍だろう。

 洞窟内はほとんど水没しているらしく、係員が漕ぐボートに引かれたボートに乗って観光する。 日本でも観光用に公開、整備された洞窟はいくつかあるが、ボートに乗って観光というのは無いかもしれない。
 夏休みだったからか?ボートに乗るのに列ができていた。 ほとんどが家族連れで、時々新婚さんか?カップルがいた。 待っている間、子供達がウロチョロしたのは気になったが、マナーは悪くなかった。 イラン人にとって旅行する事自体お金がかかる事らしく、身なりのいい人が多かった。

 さて、いよいよボートに乗る事になったが、一人だったためか?係員の隣りで一緒に漕ぐ事になった。 「高い金を払って何で?」と理不尽な感じがしてふくれていたが、係員は少し英語が話せる好青年で、いろいろ案内してもらったので逆にラッキーだった。
 洞窟は40年ほど前に発見されたらしく、総延長11kmのうち2kmを観光用に公開、整備したらしい。 動物は全くいないらしく、日本ならいがちなコウモリがいないので静かだ。
 比較的新しい洞窟なのか?地中の成分が違うのか?石筍という天井からぶらさがったものは少なく、黄色の結晶が多かった。 洞窟自体水深5mくらいに水没しているので地面から伸びる石筍もほとんど無かった。 それでも、日本の観光洞窟の様に石筍に「ペルセポリス」とか「2頭のライオン」とか名前を付けてあった。

 しばらくすると水没してない所に出て、そこで一旦ボートを降りて観光する。 階段が多いので年配の人には難儀だろう。 ここで新婚さんの新婦らしい女性が黒いベールを取って着ていた白地に花柄の派手な服を見せた状態で撮影していた。 イランは公共の場での女性の服装は法律で規制されているので初めて見た。
 帰りは別の場所からボートに乗って戻ることになる。 次も係員の隣りで漕がされた。 その時の係員はやる気が無さそうな青年だったのでペダルは重く感じた。

17.イランの中のトルコ(タブリーズ、7月30日〜8月1日)

 トルコへ向かうべく、イラン北西部の中心、タブリーズへ向かった。

 ハマダンから600km離れていて往来が少ないらしく、バスは日に2本でエアコンの無いバスらしい。 砂漠の中を走るわけではないので十分だろう。 ところが、夜中になって足がかゆくなった。 最初は靴下にでもかぶれたのかと思ったが、靴下を履いていた部分だけでなく、お尻までかゆくなった。 後で調べると虫に刺された跡が足やお尻にいくつかあった。 恐らく座席にダニがいたのだろう。

 バスは翌朝6時にタブリーズのバスターミナルに着いた。 ここから市内までは市バスで向かって、持参のガイドブック「旅行人ノート5・アジア横断」に書いてあった宿の多い通りを歩くと日本語で「ようこそタブリーズへ」と壁に書いたあった宿があった。 最初は少し考えてしまったが、どう見ても日本人が書いたらしいので旅行者の誰かに頼んで書かせたのだろう。
 レシェプションに行くと温厚そうなおじさんがいた。 部屋を見せてもらったがまずまずだったのでここに荷物を置いた。(Darya Hotel、S20,000Rls、シャワー4,000Rls) ここの御主人は典型的な人のいいイスラム教徒のおじさんだった。 レシェプションに情報ノートがあるのでイランからトルコへ向かう人、その逆の人にも便利だろう。
 ここのお客さんの国籍は様々らしい。 レセプションで情報ノートを見ていると何人かお客さんがやって来た。 国籍はトルコとアゼルバイジャン。 私は皆イランの人かと思った。

 タブリーズは拠点都市だけに大きな町だったが、観光については特に見所はない。 ただ、市場好きな人にはここのバザールは面白いかもしれない。
 イランに多いアーケードの天井がいくつものドームで繋がっている。 どのドームの天井にも天窓が付いていて昼間は照明代わりになる。 店は雑貨や青果を扱うところも多いが、絨毯の店も多い。 絨毯の工房も多かった。 日本のテレビでは女性が織っている映像が多いが、ここでは男性ばかりだった。

 そんな町の様子を写真で撮影していると一人の青年に声を掛けられた。 彼は民芸店を経営していて、要するに営業のために声をかけたのだった。 それでも話しを聞くと面白い。
 イラン北西部、アゼルバイジャン地方の人達はほとんどがトルコ系で、ペルシャ語を話す事もできるが普段はトルコ語を使っている事。 この地域には様々な遊牧民が住んでいて、部族ごとに織物の模様が違うこと。
 ハマダンから感じた事なのだが、肌の白い背の高い人が増えた様な気がする。 徐々にヨーロッパに近づいているのだろう。
 この町にもアフガン難民は見掛けなかった。 この町でも人種差別的な嫌がらせは感じられなかった。 彼らがいる地域では人種差別があるのだろうか? トルコ系ということでペルシャ系の大国意識が無いのかもしれない。

18.表現の自由(タブリーズ→バザルガン(イラン、トルコ国境)、8月1日)

 いよいよイランを発つ日が来た。
 タブリーズから国境までバスやタクシーを乗り継いで約5時間かかる。 まず、バスで4時間のマクーという町まで行く事になる。 タブリーズに着いた日にバスターミナルで朝6時半と朝7時半があると聞いたが、町の人は朝9時にもあるという事を言っていた。 同じ宿にいた2人の日本人と一緒に朝9時のバスでマクーへ向かう事にした。 ところが、バスターミナルに行くと午後1時までないとの事。 多分、時刻が変わったのだろう。 仕方ないのでそのまま5時間待った。

 1時前に乗り場に行くとバスの周りに既に人がいた。 その中のおじさんが珍しがってのことだろうが、声を掛けたので「ペルシャ語はわからない」という事を伝えると何やら不満そうな顔をした。 そのうち、おじさんが暇つぶしに広げた新聞を見るとトルコ語らしいラテン文字が印字されていたので「トルコですか?」と聞くと「わかってくれたか、お若いの」という感じの笑顔をした。
 おじさんの持っていた新聞は日本のスポーツ新聞に当たるものらしく、女性の水着姿や女性の泥んこプロレスのカラー写真があった。 もちろん、イランでは発禁だろう。 ふと後ろを見るとイラン人の男達が群がってきたのでおじさんは慌てて新聞を片づけた。

 バスの車窓は木の無い山に畑というイラン北部によくあるものだった。 イランも国土が広いので地域差がかなりあるだろう。 北部は農業、南部は油田地帯ということで意識もかなり違う事が想像できる。
 4時間後にマクーの外れに到着。 そこからは乗合タクシーで国境の町、バザルガンへ向かう。 途中、溶岩流の跡があった。 さらに進むとノアの箱船が漂着したと言われるアララット山が見えた。 この山は火山なのだ。
 闇両替の男達が出迎えたバザルガンに着いた時はテヘラン時間で6時をまわっていたがまだ国境は開いるらしい。 さらにミニバスに乗り換えて国境へ。 あたりには通関待ちのトラックが列を作っていた。

 イミグレーションは新築中らしく、ガイドブックとは様子が違っていた。 新しい建物で出国手続きを済ませてトルコへ向かった。

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