中国江南



(中国華南編から)

1.ガイドブックは程々に(温州、6月18〜19日)

 道が悪くなったのか?バスが揺れて何回か目が覚めてしまった。 恐らく浙江省に入ったのだろう。 自治体が変わると道路状況が変わるのは良くある事だ。 振動にもかかわらず、眠気の方が勝ってしまい寝たり起きたりを繰り返していたが明るくなってバスは体が浮くくらいジャンプして温州の新南バスターミナルに着いた。

 あたりは東京の多摩センターみたいな新しい町で招待所の看板を見掛けたものの、食事など不便そうだったのでLonly Planetに載っていた宿のある港へ向かった。
 ところが載っていた宿、望江飯店に行くと「外国人お断り」と言われてしまった。 受付の人の気分次第で外国人でも宿泊できるのだろうか? 続いて、近くの宿で訪ねると最初は「お断り」と言っていたのに私が疲れ切った表情をしたからだろうか?大雨だったからだろうか?「1泊ならいいよ」になってしまった。 温州にはそれほどいる積もりはなかったのでこの宿にした。 1泊30元と安いのだが、部屋には裸電球一つと暗かったのでここでなくても良かったのだが疲れていたのと宿の人のせっかくの御好意なので宿泊する事にした。

 天気図でご存知だろうが、日本の梅雨前線は中国大陸の上海から南岸の広東省あたりまで伸びている。 従って、 日本が梅雨だとこちらも雨ばかりとなる。 香港から泉州まで晴天の暑い日が続いたが、福州あたりから本格的に梅雨になったらしい。 暑くないので夏ばて気味だった体は元に戻ったが、洗濯物が乾かない、荷物が湿るということになる。 大雨だと靴が濡れてしまうので、その日は観光しないで宿でゴロゴロすることにした。

 昼に食事ついでにバスターミナルまで行って次の目的地候補の杭州と寧波の所要時間と発車時刻を調べる事にした。 Lonly Planetには汽車西站から出ている事になっていたので行ってみると移転したらしい。 案内所の人に聞くと今朝着いた新南站に移転したらしい事を言ったので、行ってみるとまた別のバスターミナル新城站になるらしい。 「シン〜」と言ったので新南站かと思ったが、こちらの聞き違いだったらしい。 紙に書いてもらうべきだった。 Lonly Planetは一応最新版だが、98年出版で恐らく2000年にバージョンアップするのだろう。 タイでも感じた事だが、鉄道駅と違ってバスターミナルは建てやすいので市街地のターミナルが手狭になるとすぐ郊外に移転してしまう。 やはりガイドブックはあくまでも「参考程度に」だ。
 新城站こそ本物だった。 時刻、所要時間を聞く時は普段なら無愛想なおばさんに紙に書いて質問して、おばさんは回答を書いてこちらに放り投げることになる。 券売所のお姉さんは暇だったのか?笑顔で丁寧に所要時間を教えてくれた。
 宿の人に聞くのも手かもしれないが、後で宿に人に聞いても知らないらしかった。 やはりバスターミナルで聞くのが一番だろう。

 杭州行きは昼便は7:00発だけで夕方に着くらしい。 あとはすべて夜行になる。 寧波行きは昼便が多くて、105元と高いバスだと4時間で着くとのことだったので寧波に行ってから杭州方面に行く事にした。

 夕方に雨が上がったので食事がてらに宿の近くを散歩した。 宿のある一帯はまだ再開発されてないので中国の町にしては楽しそうな話し声が聞こえて生活感漂ういい下町だった。 そのせいか?夜が早く、食事に入った店では今日の仕事が終わっておばさん達が片付けを始めそうな雰囲気だった。 メニューを指差してワンタンとそばを注文すると「どこの人?」と聞かれた。 日本人である事を告げると近くにいたおばさん達と「ザイパン」と言い合った。 こちらの方言で日本人ということだろう。 それからおばさんたちの質問攻めに会った。
 この町は外国人が珍しいらしいことで、晩の余興にされたといったところだろう。

 逆にこちらもおばさんたちの方言の事を聞いた。 温州語とのことだった。 中国語にしてはトーンのアップダウンが少なく、ブツブツ棒読みしているようにも聞こえる。 広東語や福建語とは全く発音が違う。 また違う世界に来たようだ。 後で気が付いたのだが、釜山の韓国語の発音に似ている気がする。

 ワンタンに入っていた黒い海草は海苔らしい。 おばさんに聞くと「紫菜」(zicai、ツーツァイと聞こえる)というらしい。 この旅を始める前は「中国人は海草食べないのかなあ?」と思っていたが、さすがに海沿いだと見かける。 よその食堂では日本から輸入したのだろうか?昆布みたいな海草が油で炒めたものがあった。

2.1泊だけよ(寧波、6月19〜21日)

 翌朝、新城站の切符売場で切符を買うとお姉さん達は私の事を憶えていて「9時50分の寧波行きでしょう?」と言った。 それから「どこの人なの?」と聞いてきた。 やはり外国人は珍しいのだ。

 バスは寝台だったが、「豪華」と書かれていただけあった。 靴は出入口で脱いで車掌のお姉さんに渡すとコンビニ袋に入れてくれた。 内装はハイデッカータイプと変わり無く、トイレまで付いていた。 揺れるのを我慢できれば上段でビデオが見れる。 今までのぼろくて汚くて遅い寝台バスの概念を変えるものだった。 運転手もレベルが上で、段差があるところでは揺れを抑えるためにゆっくり走った。

 車窓は山がちで、温州が昔は福建みたいに陸の孤島だったらしい事がわかる。 現在、高速道路を建設中で一部完成した区間をバスは走った。 日本の高速道路をモデルにしたらしく、トンネルが多い路線だった。 費用は相当なものだろう。 多分、日本かどこかの援助だろうが・・・。

 沿線の大きな町では工場が目に付いた。 浙江省は上海に隣接している。 広東省ほどの経済の拠点なのだろうか? 寧波の郊外にも工場が多かった。 繊維が強いのだろうか? 繊維関係の建物が多かった。
 日本の日本海側は繊維工業が盛んだったが、倒産したりして母方の親戚がいる富山県黒部市近くの入善の繊維工場は半導体工場になっていたり金沢駅に近い繊維工場は大きなビアホールになったりしてなくなる反面、人件費の安い中国などで新しい工場ができるという国際経済の現実を実感してしまう。

 寧波には5時間後の午後3時に着いた。 言い値プラス1時間で着くと思っていたので正確な部類だろう。

 Lonly Planetは無視して宿探しを始めた。 火車站に近いバスターミナル周辺は例の「外国人お断り」だったが離れると大丈夫だった。 でも翌日になると「うちは本来外国人は泊められないから出ていってくれ。」と言われる。 彼らにしてはこれが精一杯なのだろう。 こちらも迷惑をかけたくないのでおとなしく出た。 しかし、前夜の洗濯物が乾いてなかったので近くの宿に行くとあっさり部屋がとれた。 やはりそこも1泊だけだが・・・。

 この国では外国人が宿泊できる施設は限られていて、1泊100元以上のところが多い。 例によって「外国人は金持ちだから安いところに宿泊させるのは失礼。」というおせっかいと「取りやすい所から取る。」という役人根性からだろう。 一方華僑の出身地の福建や広東では外国籍の人間の出入りが多いので招待所や旅社といったクラスの宿にも宿泊できるのだろう。

3.どこに宿泊するか?(紹興、6月21〜26日)

 福州から寧波までは特に観光地ではなく移動ばかりだった。 予定では上海までに紹興、杭州という観光地を訪れる事にしていた。

 寧波から100kmほどの紹興には1時間おきに高速バスが出ていてタイなみに便利だ。 浙江省の中心、杭州には1時間に数本出ていた。 こちらもハイデッカーで女の子の車掌が添乗していた。 中国の高速バスではよくあるパターンらしい。

 バスは低い山があるものの、ベトナムのメコンデルタを彷彿させる低地の中農村を通る高速道路を走った。 昔は船で行き来していたのか?集落には川に降りる階段があって、洗濯をする女性の姿があった。 現在でも船が川を行き来していた。 耕地は主に田んぼだったが、時々濃い緑の背の高い草が栽培されていた。 以前、寧波周辺で日本の畳の井草が栽培しているという話を聞いたがこれが井草なのか? 中国南部と浙江省では宿のベットにゴザのような敷物が敷いてあって快適だった。 畳は中国の敷物の応用なのだろうか?
 バスは1時間ほどで紹興の町の北にあるバスターミナルに止まった。 紹興もバスターミナルが移転したらしい。

 ミニバスで市街にあったバスターミナルまで行って、近くの蘭都旅館(S35元)にチェックインした。 こちらは気の済むまでいてもいいらしい。
 大きなホテルの賓館、飯店と中規模の旅館は外国人にも解放されているらしい。 そういう所ではトイレの大の方にドアがあって、ドアをきちんと閉めれば使用中は外から見えない。 「1泊だけよ」の所はドアの無い高さ1mくらいの仕切りがある所で、深さ50cmくらいの溝に排泄物を落とすようになっている。 大抵、掃除以外流せないので他の人の物が残っている。 そんな所でも外国人が宿泊できるか見分けられそうだ。

4.水郷の町(紹興、6月21〜26日)

 時代劇などでご存知だろうが自動車が普及する前の日本の平野部の町には縦横に堀や運河が張り巡らされて、小船が行き来して輸送を担っていた。 自動車の普及と防災の面からほとんどの町の堀や運河は埋め立てられ、今では北海道の小樽、福岡県の柳川に観光用として残されているに過ぎない。

 ここ、紹興は全ての堀ではないが、現在でも小船が行き来して農産物や建材などを運んでいる。 船の中に雑貨がある水上雑貨屋まである。
 堀の周囲に住んでいる人達は堀で洗濯をしたり食器などを洗っている。 堀とともに生きているという感じだ。

 しかし、これが見られるのもあと数年だろう。
 この町も他の中国の町同様、都市の再開発が進められている。 紹興市は古い建物を保存の対象にして保護をしている。 ただ、日本の建設省の町並み保存の地域のような形で観光の対象として残しているので再生された町並みには生活臭が無い無機質な感じがする。
 とはいえこれは一外国人の勝手なたわ言であって、そこで生活している人達は今いる昔ながらの家からプライバシーが確保されたエアコン付きの郊外の高層アパートで生活したいのかもしれない。

5.灼熱の中の宿探し(杭州、6月26日)

 週明けの26日月曜日に紹興の町を出た。 前日から梅雨前線が山東省に北上してしまい、急に熱くなった。 北京や西安と違って日本同様、湿度が高い浙江省では夜も蒸し暑い。
 26日は朝から晴天で暑く、がっかりしてしまった。 全く、私は勝手な人間で雨が降ると荷物が濡れて洗濯物が乾かないからいやだと言い、晴れると暑いと言って観光しないで昼間はウダウダしている。

 そんな私にこの日は辛かった。
 紹興→杭州間は予想される灼熱の中の宿探しを考慮して体力の温存をするためにエアコンのきいたハイデッカーの中型高速バスに乗った。 紹興→杭州間約60kmをバスは1時間もかからない10時過ぎに杭州東バスターミナルに到着した。 予想はしていたが、ガイドブックLonly Planetには一言も触れてないバスターミナルだったが真新しいわけではなかった。 杭州を訪れる外国人は少ないのだろうか?あるいはバスを利用しないのだろうか?。 だから情報があまり更新されない。

 また、バスターミナルに市内各地へのバスの案内は図が一つあればわかる事だろうが中国ではほとんど無いらしい。 ここでも案内所で聞く事になっていた。 ここで私も悪かったのだが、暑いので早く宿が集中しているかもしれない杭州火車站に向かいたかったから彼女の指差す方角だけ見て歩いてしまった。 バス停には杭州火車站行きが無く、近くにあるらしいもう一つの鉄道駅、杭州東火車站行きならあった。 ここでも人に聞けば良かったのだがあせっていたので杭州東火車站行きバスに乗った。
 東火車站で杭州火車站行きバスに乗ると東バスターミナルに戻ってしまった。 バス停は陸橋がある大通りの向こうで人に聞かないとわからない所にあった。

 杭州火車站に近づくと今日の宿探しが困難な事を悟った。 再開発で火車站の建物ばかりだけでなく周辺まで整地され、高層ビルと木が少ない幅広い道になっていた。 1軒宿を見つけたが、そこは以前寧波で最初に入って断った宿に雰囲気が似ていてまだ安くていい部屋があるだろうと思った。 周囲を見ても外国人お断りらしい招待所の他は高層ビルの高級ホテルだけだったのでここから一番近いバスターミナル、南バスターミナルに市バスで向かったが、もともと近距離用だったらしく宿らしいものは無かった。
 同じ路線のバスでこの町随一の観光地、西湖の湖畔に向かったがここでも福州同様再開発済みで高級ホテルばかりだった。

 結局、南バスターミナルに向かう途中に見つけた「対外解放」と書かれた招待所に入った。 ところが、「対外解放」とは招待所が経営している企業以外の中国籍の人なら可能だが、外国人に解放されたわけではなかった。 しかし、宿の人は「宿泊できるよ」と言ったのでここにした。 決まったのは午後2時半、約4時間かかってしまった。 宿から少し歩くと夜市が出る、下町の商店街があり夕涼みには最高だった。 場所が良かったので苦労した甲斐があった。
 東バスターミナルでは結構安そうな宿を見かけたので最初から東バスターミナル周辺で宿探しした方が効率が良かったかもしれない。 また、無理せずに多少高くても環境のいい宿にすれば良かったのかもしれない。
 よその町なら招待所でエアコン無し、シャワー・トイレ共同シングルは30元だがこの町は物価が高いのか?50元だった。 近くの招待所は45元だったのでやはり物価が高い町なのだろう。 それを物語るように町はかなり再開発が進んでいたし、宿の近所にコンビニがあった。 あのモダンな港町、大連や廈門でも見なかったのに。 ここからそう遠くない上海は相当近代化されているのだろう。

6.久々の大観光地(杭州、6月27日)

 杭州に着いた日の晩に宿で町の地図を眺めていると観光のポイントは市街地の西にある西湖の周辺に集中しているらしい。
 中国の火車站やバスターミナルなどで売られている地図にはバス路線が書かれている。 さらに地図にはバスの路線ごとの主要停車場まで書いてあるので助かる。

 「せっかくだから西湖をバスで1周したい。」と思っていたら507路のバスが湖を1周する事を発見した。 観光するなら願ったりかなったりの路線だ。 翌日にこのバスに乗って観光する事にした。

 西湖の湖浜バス停からが乗りやすそうだったので湖浜まで行ったが507路のバス停は見つからなかった。 ここも有名な観光ポイントらしく、観光ガイドらしい女性が声をかけてきたりどこかから日本語が聞こえたりと久々に大観光地に来た事を実感させられた。 やはりここでもバス停の案内図など存在しないし、客引きばかりなので人に聞く気がしなかった。 そこでバス停を捜すため歩いた。 西湖の西側は低い山が多くて緑に覆われていた。 貸しボートがあって、なんとなく富士五湖の山中湖に来た感じがした。 そうこうしている間に隣のバス停近くまで来てしまった。
 中国のバス停の間隔は日本に比べて疎らなので結構歩いたことになる。 この日も暑かったので疲れてしまい、507路のバス停を探す事を諦めて代わりのバスを探すため地図を見ると27路が湖の北を走るらしい。 バス停を探すと案外簡単に見つかった。 ところが、そこには507路のバスのバス停もあった。 とりあえずバスに乗って西湖を1周する事にした。

 杭州の町にはよその町よりエアコン付きの市バスが多く走っていた。 507路もエアコンが入っていたので乗車するととても快適だった。 そのうちバスは西湖を離れて山の中を走って意外な事に杭州の大観光ポイントの霊隠寺に着いた。 この寺は西湖から離れていたので立ち寄るとは思わなかった。 せっかくなのでここで観光する事にした。

 大観光ポイントらしく、たくさんの観光客で賑わっていた。 中国人ばかりでなく、西洋人や香港人、韓国人の団体客までいた。 寺院の建物の他、修験者が修行をしていたと思われる山を歩く事もポイントだが、暑かったので洞窟観光に止めた。
 韓国人のおばさんの団体に付いて行くとある洞窟の壁に何かあるのか?おばさん達はガイドの説明を聞いて納得していたが、私にはわからなかった。 そのうちおばさん達が気が付いて「こっちこっち」とある所に立たせて教えようとしたがそれでもわからなかった。 そのうち、おばさん達は去り人が少なくなったので警備のおじさんに筆談で何が見えるか聞いてみた。 するとおじさんは「可以看一線天」と紙に書いた。 首をかしげているとおじさんはさっき韓国のおばさん達が立たせた所に行って上を指差した。 そこには洞窟の小さな外につながっている穴があって緑の光が見えた。 確かに神秘的な所だった。

 既に12時を過ぎていたので再び507路のバスに乗って食事をしやすい市街地の湖浜向かった。 西湖にはにはたくさんの小島が浮かんでいた。 権力者が作ったものだろうか?西湖の西側と北側には細長い島があって橋で結ばれていた。 昼食後に日が当たらなくて快適な浙江省博物館を訪れた。

 展示の仕方や説明がお国自慢的だったのが印象的だった。 浙江省の北部には7,000年前の遺跡が発見されているので西安と変りない。 特に杭州が南宋の都だったころが一番栄えていたことがうかがえる。 展示物は芸術性が高いものが多く、歴史に興味が無い人でも楽しめるだろう。

8.香港以来の大都会(杭州→上海、6月28日)

 杭州から沿岸部の旅の最終目的地の上海へ向かう事にした。 杭州から上海まで高速バスで3時間だが、宿探しを考慮して涼しくて動きやすい午前中に上海に着くように7時前に宿を出た。

 町の地図から、杭州火車站前から東バスターミナルまで行くエアコンバスが出ている事がわかっていたので火車站に向かうと簡単に見つかった。 東バスターミナルから火車站に向かう時は汚くて人や荷物で混み合ったミニバスに乗った。 一人1.5元の運賃だが、他の荷物の多い人民同様、荷物代として倍額請求された。 ところがエアコンバスは2元の運賃で人を詰め込むわけでなく、1元安いのに快適だった。
 ミニバスは白バスなのか?乗合タクシーのような独立採算なのか? 大抵のバスには市の証明書らしいものが車内に貼ってあるのだが、このミニバスには見当たらなかった。 エアコンバスは市営なのでせこい金もうけを考えないで済むのだろう。

 上海への高速バスは座席の間隔が狭かったものの、今まで通り快適だった。 車窓は杭州市内を抜けると田園風景が広がっていた。 杭州の物価の高さに比例しているのだろうか?沿道の農家は新しい鉄筋3階建ての豪華なものが結構多かった。
 紹興、杭州では見なかった雲が現れたと思ったら雨になった。 涼しいのはいいのだが、わがままな旅行者は雨の中を歩く事を憂鬱に思った。

 上海市に入ると田んぼの中に工場が見え始めた。 広東省の広州市近郊ほどではないが、それに次ぐ規模ではないかと思われる。 次第に建物が増えて交通量も増えてきた。 市街地に入ると香港以来の大都会を思わせるほど建て込んでいた。 昼前に火車站の北西にある長距離バスターミナルに到着した。
 案の定、宿までのバス探しに苦労したが外国人旅行者が集まる浦江飯店(D55元)にあっさりチェックインできた。

9.油断できない大都会(上海、6月28日〜7月4日)

 チェックインして落ち着いてからこの町にある観光地の一つ、外灘を訪れた。
ここは横浜の山下公園に感じが似ている港の公園で、黄浦江の川岸にある。 目の前は船が行き交い、川の向こう岸は上海の新都心、浦東の高層ビル群とテレビ塔の東方明珠塔が見える。
 昼間は外国人を含むよそから来た人で、夜は上海っ子が涼みに来る意外と庶民的な面もあるので一人で訪れても気にならない。

 外灘に面した大通り、中山東路の向こうは戦前はアジア一の金融街だった所で今でも当時の建物が建っていて銀行が多い。 中山東路だけでなく、上海の市街地のほとんどに1920年代や1930年代の落ち着いた石作りの建物が残っていた。 戦前はかなり大きな町だった事が伺える。 ちなみに宿泊していた浦江飯店は19世紀の末建築の格調ある建物だった。 古い建物だが、エアコンや水洗トイレと設備は整っていた。

 金融街を歩いていると反対側を歩いていた一人の女性と目が合った。 それくらいはよくあることだが、しばらく進むと目的地を通り過ぎてしまった事に気が付いて戻ろうとした。 すると、さっき目が合った女性が後ろにいた。
 何か中国語で聞いてきたが、通じないので「分からない。」と言うと時計を指差した。 時間におおらかな中国人が時間を聞くとは?不自然な感じがした。 一応、時計を見せたがなかなかその場を動かなかった。 普通、時間を聞いて現在の時間がわかったらすぐ立ち去るのに。 やはりおかしい。
 「いいですか?」と中国語で言って立ち去ろうとすると英語で「日本人ですか?」と言った。
これは係わらない方がいいと思い中国語で「わかりません。」と言って立ち去った。

 彼女は30代くらいで、チェックのワンピースを着ていた。 外見は地味で怪しい感じがしなかった。 肌は白くてきめが細かく、顔立ちは整っている典型的な江南地方の美人だった。
 江南地方は美人が多い事で有名で、清朝時代は皇帝が「女漁り」に定期的に訪れたそうだ。 事実、肌が白くてきれいな女性が多く日差しが強い日は手袋や肩掛けをして外出をして日に焼けないようにしている。 肌がボロボロになるまで日焼けさせる西洋人とは大違いだ。 また、北方の中国人みたいに背が高くスタイルのいい女性が少なくない。 日本の芸能人では藤原紀香や鈴木蘭々あたりが似ている。

 以前、中国に詳しい人から上海の観光地で美人が何か理由を付けて外国人観光客に近づいてヤクザが待っている所に誘い出してそこで有り金を巻き上げるという話を聞いていた。
 恐らく彼女は外灘を歩いて適当なカモを見つけると後を付けて、カモが立ち止まると時間を聞くことをきっかけに口を聞いて誘い出す手口だったのだろう。 彼女は地味な格好だったので事情を知らない人なら引っかかるだろう。
 それにしてもターゲットにされた事自体、随分見くびられたものだ。

 他にも、同じ宿に宿泊していた日本人の学生が300元ほどの鉄道の切符を通り掛かりの男に任せたために代理店の手数料30元(これは正当)の他に男の「手数料」70元で合計400元取られてしまった。
全く、油断ならない町だ。

10.予定変更は旅の常(上海、6月29日)

 北京でひいた風邪がもとの肺炎はまだ完治してないのか?気温が高くなると息苦しくなった。 そこで、上海にある保険会社が提携している日本人向けの診療所で様子を見てもらう事にした。

 診療所があるのは上海の新都心、浦東の高層ビルの中らしい。 宿からは少し歩くが、地下鉄で行った方が便利らしい。 地下鉄は今年になって開通した新しい2番目の路線で、北京の路線と違って日本のテレフォンカードのような切符を使うものだ。 まだ利用者が少ないからか?站の階段には涼みに来た人達が座っていた。 地下鉄に乗る事自体、田舎から来た人には珍しいのか?人民の旅行者がちらほらいた。 テナントが集まらないのか?車内に広告はほとんど無く、危険防止やマナー向上のポスターくらいだった。

 站を降りると中国の再開発された土地にありがちな日陰が少ないとても暑い所だった。 お偉いさんはドアトゥドアで車を使うので何とも感じないだろうが、庶民はたまったものじゃないだろう。
 宿に置いてあった日本人向けのタウン誌にこの再開発のことがでていた。 浦東にある大きな公園の再開発前と後の比較ができる2枚の写真が掲載されていた。
再開発前の写真ではそこは住宅が密集していた下町だったが、再開発後は住宅どころか学校まで無くなっていて公園にされていた。 原爆投下前の広島市の爆心地と戦後の平和公園の比較の写真を見ているようだった。
 中国政府は浦東を戦前の外灘みたいに一大金融センターにしようとしているが、どの程度テナントが埋まっているか疑問だ。

 診療所が入っているビルは日本の不動産会社の系列らしく、テナントは日系企業が多かった。 日本の本が置いてある書店もあった。
 診療所は日本人と中国人スタッフがいて日系企業の駐在員とその家族が主なユーザーらしい。 待合室のテレビにはNHKの衛星放送が入っていた。 世界各地の駐在員が多い所にはこうした施設が必ずあるらしい。

 受付で状況を説明してから診察となった。 肺のレントゲンと血液検査をしてもらったが異常は見られなかった。 診察した先生によると一度肺炎になると完治してから肺の機能が回復するまで3ヶ月かかるとのことだった。 チベットに行く事を考えていたので先生に標高の高い所に行けるか聞いてみると「肺の機能が回復するまで控えた方がいいでしょう。 高山病では死亡することがありますから。」

 こうなると一般に高山病の影響が出る標高2,500m以上の高地には行けないだろう。 チベットは平均4,000mの高原なので9月になると自然条件が厳しい冬山みたいになるだろう。 チベット行きは諦めるしかない様だ。 体が第一なので仕方ないだろう。
 行けない所が出るとその分、予定に余裕が出てくる。 その分、雲南省や新疆でのんびりできるだろう。

11.ケチるだけが能じゃない(上海、6月30日)

 上海に着いた翌日に15あった部屋のベットがほとんど埋まっていた。 日本の神戸から来た定期船、新鑑真号が着いた日だった。
 2泊3日の航海なので同じ船室になると仲良くなるらしい。 彼らのほとんどは2〜3日上海に滞在してそれぞれの目的地に去っていくので翌日の昼にお別れ会を兼ねて上海随一の目抜き通り、南京街で昼食をすることになったので仲間に入れてもらう事になった。

 入った店は横浜の中華街のレストランに負けないくらいの立派な所で、リーダー以外皆お金のことが心配になった。 メニューは幸い、オージーの彼氏と一緒だったオーストラリアで留学していた蘇州出身の女の子がいたので彼女に見てもらった。

 蘇州の彼女に料理を選んでもらって大正解だった。 出てくる料理に皆、大満足だった。 特にプリプリしたえびは大好評で、なんとも言えない表情をして食べていた人がいた。
 一般的に江南地方の大衆食堂の料理は油っこくてしょっぱいが、ここではマイルドな味付けだった。

 結局、お代は1人あたり60元。 浦江飯店の宿代より少し高く、大衆食堂なら10食分の金額だ。
 でもこの満足感は大衆食堂では味わえない。

 普段、私のような旅行者は食事は大衆食堂か屋台で済ませて節約をするが、たまにはこんなこともしてみるものである。 確か、ある旅行作家が「期間にこだわらないで旅先では好きなものを食べて、予算がなくなったら帰る。」というコメントを雑誌に載せていたがわかるような気がする。 「何日旅行した。」というより「何をしたか。」ということである。

全く「ケチるだけが能じゃない。」である。

12.上海人はどんな人?(上海、6月28日〜7月4日)

 上海人は他の中国人から「偉そうにしている。」とか「なかなか心を開いてくれない。」 香港人からは「上海人にはかなわない。」など評価がイマイチ良くない。

 宿の近くの大衆食堂に通っていたが、レジのお姉さんは一見さんの私には無表情でぶっきらぼうな態度だった。 ところが、おなじみらしい人と話しをするときは明るい笑顔になった。
 よそ者と身内を区別しているのだろう。 まあこれは日本の出入りが少ない田舎でもあることだ。

 上海人は香港人よりもせっかちなのか?教育が足りないのか?交通マナーがかなり悪い。 田舎だったら問題ないのだが交通量の多い都会では色々問題があるだろう。
事実、上海に着いた日に乗った市バスの前を走っていたタクシーが突然横から飛び出してきたタクシーに驚いて急ブレーキをかけたのでバスが追突してしまった。 幸い、渋滞していたのでノロノロ運転で車体にかすり傷程度で運転手同士で言い合いになった程度だった。

 朝のラッシュアワーには道を横断するのは一苦労だ。 信号が少ないし、どこから何が来るかわからないので常に四方に注意しなければならない。 それで立ち止まっていると車やバイクにクラクションを鳴らされたり、自転車に乗った人に「どけ!」らしい事を言われたりする。
 信号があっても注意する人がいないと守らない、と秩序が無いに等しい。

 そんなせわしない上海人だが、夜になると家の外に椅子を出してくつろいでいる。 ベトナムみたいに女の人は涼しそうなパジャマ姿でくつろいでいる。 暇なときは他の中国人同様、のんびりしているのだろう。

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