想いのかけら

 今宵は月のない闇夜。
 小さな星々だけが夜空にかすかに瞬く。
 マ−ファ城の西にある小さな森も静まり返っていた。
 こんな夜は獣も静かに寝静まっているのか、気配がない。
 時折吹く風は大きく木々の枝を揺らし、葉ずれの音が妙に大きく聞こえ、無気味さを漂わせている。
 そんな森の中を暗闇にまぎれて、3つの影が素早く移動する。
 先頭を行く道案内に続いて二人。
 高く生い茂り、密集する木々の合間をぬって進んでいく。
 慣れた様子で先頭を行く者は、確実に人目につかない道を選んでいた。しかし、その分、無造作に生い茂る木の根がはり巡らされている。慣れた具合に進むのに対し、後ろの2人はおぼつかない足取りであった。足下を気にしつつ、はぐれないように着いていく。
「あっ!」
 視界の悪い中での逃走。まん中の白い長衣の人物が木の根に足を取られて転びかける。
「大丈夫か、エーディン」
 小さな叫び声に振り返り、とっさに手を差し伸べ、細い身体を抱きとめる。
「ええ、大丈夫です。ありがとうございます、ジャムカ王子」
 逞しい腕に支えられながら、エーディンは立ち上がる。
 ふわりと金色の髪が揺れ、かすかに甘い香りがジャムカの鼻をくすぐった。
 エーディンはローブと呼ばれる白い長衣の裾にについた土を手で払う。しかし、上等な絹で織られた綺麗なローブに付いた汚れは、簡単には取れなかった。
 白い指先が汚れていく。それを見て、ジャムカは一言告げた。
「……行くぞ」
 そして再び道案内へと徹する。
 本当はこんな状況でなければ、何かもっと別の言葉をかけたかった。あるいは自分がその汚れを払うか。
 とはいえ、そんな余裕は今はない。
 しかしローブはともかく、これ以上エーディンの指先が汚れるのを見たくはなかった。
 先を急がせることで、ジャムカはエーディンの手を止めたのであった。 
 再び3人は先を急いだ。
 立ち並ぶ木々の向こう、視界が少し広がったところで、ジャムカは立ち止まった。
「俺が案内できるのはここまでだ。現在のエバンス城はシグルドとかいうグランベルの公子が治めている。それを頼りに行けばいいだろう。後は2人で行け」
「ジャムカ王子、あなたは一緒に来てくださらないの?」
 見つめる金色の瞳が何かを訴えている。
「このまま一緒に行くことはできない。兄貴達のきたないやり方にはもう我慢できないし、グランベル側に非がないのもわかっている。だが、親父を裏切ることはできない。だから俺はこのままヴェルダン城へ行って、親父を説得してみようと思う」
「バトゥ王が兵を引くことを承諾していただければ、シグルド様は深追いなさらないはず。こんな争いは一日も早く終わるべきことです。ジャムカ王子、あなただけが頼りです。どうか、バトゥ王に戦争をやめるよう説得してください」
 争いを好まない彼女は戦う武器を持たない。しかし話し合える場さえあれば、戦いを止める方法はいくらでもあると思ってる。今バトゥ王を説得しに行けるのは、王の末息子ジャムカしかいない。彼に頼るほかはなかった。
「必ず説得してみせる。エーディン、君の……」
「エーディンさん、早く行こうよ! そろそろマジにやばいって。オイラ、今度捕まったらガンドルフに舌を抜かれちまうよ」
 今まで無言でついてきた14、5歳の細みの少年が、たどってきた道を振り返り、心配そうな顔をしながら出発を急かす。
 そのせいで、ジャムカはエーディンへの言葉を最後まで紡ぐことができなかった。
 『君のために』
 その一言は暗闇に飲み込まれてしまった。
「デュー、おまえが捕まったのは盗みを働いたからで、いわば自業自得というやつだ。エーディンがどうしてもと言うから一緒に逃がしてやったんだ。もしもまた盗みをするようなら……」
 会話を邪魔された腹いせではないけれど、ジャムカはデュ−の耳たぶをぐぃっと引っ張る。
「痛っ。わ、わかってるよ! エーディンさんとも約束したんだ。今度こそ、盗賊から足をあらうよ」
 両手を胸の上で組み、膝を地につけて祈りの姿勢を取る。
「そうか、それなら何も言わん。だが本当に次はないからな。心しておけ」
 やっと耳たぶから手を放したジャムカに鋭い目つきで睨まれたデューは、自分の耳たぶを撫でつつ、身震いしながら何度も頷いた。
「この森を抜けつつ北へ向かえば、エバンス城への近道だ。さあ、行け!」
「ありがとうございます、ジャムカ王子。わたくしはこの御恩を決して忘れません」
 ジャムカの大きな手を両手でしっかりと握りしめ、エーディンは頭を下げる。
「礼はいいから、早く行くんだ!」
「行こう、エーディンさん」
 デューに引っ張られるように、エーディンは小走りに進み出した。
 急ごうと思いつつも、一度だけ、ジャムカが気になって振り返った。
 ジャムカは別れた場所にまだ立ち止まっていた。暗くて表情は見えないが、じっとこちらを見ているようだった。
 ありがとう、ジャムカ王子。本当に感謝します。
 エーディンは心の中でそうつぶやくと、先を行くデューの後を急いで追った。

 ジャムカはエーディンの後ろ姿を目で追っていた。
 一度振り返られた時、心臓が高鳴った。息が詰まるほどの動悸に自分でも驚く。
 どうして彼女を助けようと思ったのだろうか。
 長兄に無理矢理に連れてこられたのを哀れと思ったからだろうか。
 それとも長兄のやることが我慢できず、ただ邪魔をしたかっただけだろうか。
 いろいろと思い巡らせてはいるけれど、どれも違うことを彼自身わかっていた。
 初めて彼女を見たのは、長兄に引きづられるように連れて来られた時だった。色白の肌、波打つように流れる豊かな金色の髪、ほんの少しでも力を込めて握ってしまえば折れそうなくらいの細い肢体。
 そして、心細げに怯えた瞳。
 その瞳が忘れられなくて、彼女が閉じ込められた地下牢へと足が向いた。
 その後の行動は自分でも信じられないほどに素早かった。とにかくここから逃がしたい、そして長兄にだけは渡したくはないと思ったのだった。
「エーディン、君とはもう一度逢いたい。もしもその時が来たら、俺は……」
 胸をしめつけられるような思い。こんな気持ちになったのは初めてである。
 ジャムカは自分の右手をじっと見つめる。
 その手に触れた細い彼女の指、そして彼女のぬくもりが忘れられない。かすかに届いた甘い香りをもう一度かいでみたいと思う。
 もう一度逢いたい。
 ジャムカは、生まれたばかりのその想いのかけらを胸に抱いて、エーディンを見送る。
 やがて彼女の着ていた長衣の白色が見えなくなったのを確認し、彼は一人ヴェルダン本城へ向かっていった。
 

◇ ◇ ◇ 

 その頃、マーファ城ではジャムカがエーディンとデューを逃がしたことが、ガンドルフの耳に届いていた。
 すぐさま追っ手を差し向ける。
 エーディンには、仮にも他国の公女である以上、丁重に扱えとの父王からの指示があった。しかし、こう不様にも逃げられたとあっては、ガンドルフも我慢ができなっかった。
 追っ手には、抵抗すれば殺しても構わないという条件をつけたのだった
 そのことを、ジャムカはまだ知らなかった。 



 

         Fin

ちょっとフリートーク

エーディンのマーファ城からの逃走シーンです。
というか、ジャムカの心情の方がメインかな。
エーディンに一目惚れした彼が助けるわけですが、エーディンはその気持ちには気づかず、
感謝の気持ちしかありません。
今の時点、ジャムカの瞳には、弱々しいエーディンが映っています。
でも弱々しいだけがエーディンではないので、その後彼の気持ちはどうなることやら……。
それよりも、五体満足で無事に再びエーディンと出会えるのでしょうか?(笑)