「学問」と「お勉強」の違い。
(SF99終了に際して)
「学問」の元では、人はみな平等である。人類が共有できるような知的財産の元では、誰しも対等な存在である。ある学問的事実の元では、先に知ったとか後に知ったとかに関係なく、平等に議論することが可能である。 たとえその学問を最初に唱えた人に対してでも同じことが言える。例えばアインシュタインに対して、相対性原理のここが自分は違うと思うということを、例えば小学生が議論することは別段失礼な行為ではなく、むしろ本人自身喜ぶことである。 なぜならば,同じ学問をするものとして、同じ知的財産を共有するものとして、その情報をより確かなものにすることができる第一歩だからである。 身近な例でいえば,あるタレントのファンがいて、友人が後からファンになったとき、そのことをねたましく思ってファンをやめてしまうのではなく,自分が好きなタレントを好きな人がまた一人増えたということを素直に喜んで、そのタレントのことをいろいろと教えてあげたり、一緒にコンサートに行ったりすることのほうが、自分が支えとしていたそのアーティストの存在をより確かなものとできるのと同じである。 「学問」とはこのように、誰に対しても対等な普遍的なものであると考える。 それに対して、「お勉強」は、自分がいやいやしなくてはならない部分がある。 しかし、いやいやしていて、その結果何も記憶に残らなくても、そこには大切な意味があると考える。それは勉強の中身もさることながら、勉強をしていく過程で、何かを考えたり学習する方法論を身につけることができ、そのことが重要だからである。歴史の年号は忘れても、時間軸に沿って物事を整理することや過去と現在を比較するといった行為が身につけば、先ずは歴史を学んだ価値があるのである。ただ、知識を得たことは自覚できても、行動の原理を得たことは自覚しにくいため、例えば数学を勉強した自分が果たして本当に、何かプラスになったのかどうかといったことは確かめにくい。だが、因数分解ができなくても、物事を順序よく論理的に整理したり、置き換えたりしながら考えを勧めていく習慣が身についていれば、それは数学を学んだ成果といえるかもしれない。 筒井も英語は苦手である。英語で必要なものや好きなものを読むのは好きだが、難しい論文をよまなければならないときは、投げ出したくなる。それでもそれをするのは、その結果自分がやりたいことができるようになるからである。身近な例でいえば、大学入試などはその例であるし、知り合いの外国人とのコミュニケーションがよりスムーズになるというものある。 「お勉強」とはこのように、極めて個人的な行為であると言える。 だから、お勉強が嫌いになるのはわかる。でも勉強を嫌いになるあまり、学問までも嫌いにならないで欲しい。ここで言う学問は別段教科科目的なものだけでなく、芸術であったり、身体能力的スキルであったりもする。ダンスで言えば、基礎練習を嫌いなあまりダンスそのものを嫌いにならないで欲しいということである。 筒井の物理授業はそのようであろうと志していたが成功したかどうかは今はまだ不明である。 ちなみに大学は本来は学問をする場所なのであるが、大学がどこでも学問をする理想的な場所とは限らない。教授と学生の対等な議論が保証されていない場合は決して珍しくない。学問的に本質的なことにではなく、人間関係や学内政治にばかり関心を持っている教授も珍しくない。でもがっかりしないで欲しい。大学の中では、学問的であろうとすることを誰も責めることはないし、それこそが最強の力を持っているのだから。そしてそれは大学に行かない人にとっても、重要なことなのである。 中学生や高校生、主婦や職業人。誰であれ、真理を追究する権利は保障されているし、学問的真理のもとでは、誰しも対等な存在である。 1999/9/24 |