←戻る

「すくーる  ふたば  通信   30号」2000年3月5日発行・小西 稔子 より

■ こどもの居場所を考える ■

筒井愛知(つついよしとも)さんへインタビュー

 先月、「こどもの居場所を考える集い」へ参加したことがきっかけで、筒井さんと初めてお会いしました。物理と教育学の非常勤講師を4つの学校でされながら、天体観測会を企画したり、こどもの遊び場の調査をされたりと、さまざまな活動をされています。少しお話をしただけだったのですが、子どもたちのこと、これからの教育のことをとても真剣に考え、行動されている様子がうかがわれ、すぐにインタビューをお願いしてしまいました。

□天文学者になりたい!

 小さい頃から自然に興味があったのですが、小学校3〜4年のころからは、特に星に興味を持つようになりました。関つとむさんの『星の狩人』や、野尻抱影さんに影響を受け、「天文学者になりたい」とも思っていました。
 これは、両親の影響も大きかったと思います。近所を散歩しては、花や虫、草などをいっしょに見たり、山登りに連れて行ってくれたり、星の話をしてくれたりすることが、日常の習慣になっていましたから。「あれは何?」「これは何?」としつこく聞く私に、わかることは教えてくれたり、わからないことはいっしょに調べてくれたりしました。父は普通のサラリーマンですが、繊維の研究をする仕事をしていて、母は主婦ですが、家庭文庫をもう25年もやっているような人です。二人とも、純粋に自然が好きなので、例え街中でも無意識のうちに、いつも自然と共にいたように思います。
 でも、ある部分では「この子に少しでも楽しいことを体験させたい。」という思いもあったようです。というのは、私は生まれつき体が弱く、生後15日目に肺炎にかかり、死にかけ、物心ついたときには喘息と共にすごし、それからも「6歳くらいまでしか生きられない」と言われたりしていたからです。そんな私のことを考えての両親の子育てだったのかもしれません。

□教育のことが気になって、物理学から教育学へ

 天文学が学びたかったのですが、大学は物理学科へ進みました。そして、大学院まで行ったのですが、「教育」にも興味があったので、物理学を学んでいるときも、教育学のゼミにもぐりこんだり、学童保育のアルバイトをしたり、美星町などでの天体観測のイベントの企画に参加したりしていました。そして、とうとう教育学の大学院にも進むことを決めました。
 教育が気になったのは、高校3年のときに亡くなった祖父の影響もあるかもしれません。我が家では、いつも食事の後,家族5人で1時間くらいは話をしていました。禅宗の在家の師家でもあり、哲学も研究していた祖父は話をするのも聞くのも好きで、いっしょに話をすると、いつも自然と本質的なことを考えていたものでした。そして、いつも話題に上っていたテーマのひとつが、「教育問題」でした。
 自分自身の体験からも、学校の矛盾に気づいてしまいました。ひとつは小学校4年のとき、友達ととっくみあいの決闘をしたときのこと。先生から「筒井君とあろうものが、そんなことをするなんて」と言われたとき、この人は僕の気持ちもわかっていないし,本質的なことを言おうとしていないから、結局はよくわかっていなくてダメだな」と思いました。そのあたりのことにまじめに向き合わずに、ただけんかをしたことを注意することだけに必死になっていたような気がしました。また、いいことはいい,悪いことは悪いといえばいいものを、「ともあろうものが」という言い方をしたのも,本質を避けているようで,気にいりませんでした。
 そして、小5のとき、児童会長の選挙に立候補したときのこと。一人の友人が「僕が応援演説をしてあげるよ」と言ってくれたとき、先生に「あの子がすると筒井君のイメージが悪くなる」と言われ、とりあえずその友人が書いたものを、別の友人に読んでもらうことになったのです。当時は先生の言うことは絶対だ、と思っていたので先生の言うとおりにしてしまったのですが、そのことがずっと引っかかっていました。
 とにかく、先生は一生懸命なのだけど、学校というところでは、こんな奇妙なこと、ちぐはぐなことが起こってしまう場なのだと感じていました。それがなぜなのかを研究するためにも教育学が学びたかったのだと思います。

□学校でできること・できないこと

 そして、教育については自分なりに明確にすることができました。今の学校というのは、まっとうな人間、常識的な人間、社会人として行動できる人を効率よく量産するシステムなのです。それは、国を維持していくために、そのような人間をたくさん社会に送り出したかったからなのです。そして、それはある意味では成功を収めました。
 ということは、そのような人間を量産するのに効率の悪い少数の人、特異な能力を持つ人は無視される、ということなのです。そのような少数の人を伸ばすための手間はかけられない、たとえその人はつぶれてしまっても、全体を効率よく伸ばしたい、それにあまりとっぴなことをやる人が出ても困る、ということだったと思うのです。 つまり、「学校」は「ある一人の子どものため」にあるのではなく「社会のため」のシステムなのです。だから学校の問題の多くは、だれか個人が悪いというより、むしろ学校というシステムに本質的に内在している場合が多いのではないかと思います。
 私自身も大学に入ってから、昔自分が通っていた学校というものに、多少の恨みを感じるようになりました。学校は私の能力をつぶす場所だったと思い至ったからです。それでも、私は体が弱かったので、1週間学校に行っては2週間休む、というような生活をしていましたから、学校に染まりきらずにすんだのかもしれません。そういう意味では体が弱くて良かった、と思っています。
 でも、小中高時代には,病気の合間にいく学校はとても楽しいところでした。学校には,家庭では決しておぎなえないこともあったのだと思います。たとえば,世の中にはいろんな人がいること,思い通りに行く場合と行かない場合があること、人とはコミュニケーションをしながら物事を進めていかなければならないということ,などです。また、必要最低限の知識を得ることもできます。読み、書き,計算もそうですし、地理では物事を空間的に考える訓練が、歴史では時間的に考える訓練が、算数では理論的に考える訓練が、理科では観察しながら考えを進めていく訓練がそれそれできるのです。表面的には知識を得ているだけのようでも、実はこういったいろいろなタイプの考える能力が身についていっているということが、学校での基礎学力の意味だと思います。そして、そういったことは僕の知的好奇心を十分に満足させないものの、適度に刺激するものではあったのだと思います。

□「教えない教育」はあたりまえ

 私は「教育」とは、その人の成長を促し、生きる喜びを充実させたり、この世の不思議を感じるきっかけではないかと思っています。そのようなことは教えられるものではありません。かってに真似をしてみたり、面白そうにやっている人から伝染されたり、そういうことでしか伝わらないのだと思います。そして、そういうことが教育だと思っていました。人間は生まれたときから「教えない教育」によって、育ってきているのだと感じます。

□五感を使っての体験が不足している

 今の子どもたちを見ていて思うのは、発達に必要な体験が不足している、ということです。たとえばテレビやテレビゲームにかなりの時間を費やしている。これは指先と視覚と聴覚のみの単純な体験で、情報量も少ないし、コミュニケーションもほとんどあるとは思えません。これらをすべて排除しろ、とは言いませんが、それにバランスの取れるだけの生の体験の場を意識して提供していかないと、子どもたちの身体性はどんどん変容していくのではないでしょうか。「身の処し方」「自分の体の使い方」がわからずに、ナイフで人を傷つけたりしてしまうのかもしれません。ナイフの事件も、たまたまコミュニケーションの仕方、身の処し方がわからなかっただけなのではないでしょうか。

□子どもの居場所を考える

 今、私は自分自身の多様性を保つためにも複数の学校の非常勤講師をしたり、学校以外の場で生徒と付き合ったり(いっしょにゲームセンターに行ったり、好きな音楽をかけてダンスを踊ったり、生徒に悩みを相談したり…)、出前の天体観測会を開いたり、自分のできることから始めようと思っています。また、「子どもの居場所を考える集い」に関わったり、社会教育の研究などにも取り組んでいます。居場所の問題で重要なのは「確かに自分が存在している」という実感を持てるかどうかです。そのためには物理的な空間が重要なのではなく、人間とのコミュニケーションが重要なのです。これは何も、子どもにとっての問題というだけではなく,大人にとっても重要な問題です。多くの人が,存在することの心地よさを実感できるように願っています。


 ―2時間あまりのインタビューでしたが、私自身も「教育とは何か」ということをもう一度整理しながら、お話しを聞いていました。また、筒井さんの中で「基礎学力とは何か」「生きる力につながる本当の学力とは何か」ということが、とても明確なことを感じ、興味深いものがありました。最後の「存在することの心地よさ」という言葉が、胸に響きます。
 そして、仕事に熱が入るとついおろそかになってしまう3人の我が子のことも考えていました。忙しいとついゲームをしたりテレビを見たりしているのを「しょうがない」と思って見過ごしていたことも多かったと思います。「2時間」と決めていたテレビとゲームの時間もつい長くなっていたり…でも、それ以上に楽しいことを意識して提案することもしていませんでした。
 「子どもの居場所を考える」ということに関わるようになって、私自身、我が家の子どもたちのことをもう一度きちんと知ろう、という気持ちになり、いろいろと子どもに話しを聞くことも多くなりました。

「いつもどんなところで遊んでるの?」
「学校しかあそぶとこないなぁ。サッカーしたり…。そのあとは友達のところに行ってゲームしている。」
「えー。それなのに帰ってまたゲームやってるの? ほかにおもしろいことってないの?」
「うーん。あんまり遊ぶとこないし…」

 今まで、適当に元気に遊んでいるのだろうと思っていたのですが、あまり多様な体験をしているようでもありません。やはり意識して大人が場を提供しないといけないのでしょうか。遊ぶところなんて、子どもはどこにでも見つけると思っていたのに…
 とりあえず、「テレビとゲームの時間を減らさない?」と提案したところ、最初は絶対無理!といっていたものの、次の日は意外にゲームを止めて、自分なりに工夫をして遊んでいました。兄弟のかかわりも増えたように思います。私もできる範囲で子どもたちを野外に連れ出すと、ゲームをしているときとはまた違った表情を見せてくれます。私自身も思わぬ楽しいひと時でした。少なくなったとはいえ、地域にもけっこう遊べる場所がありそうです。「子どもたちの体験の場」ということを、これからはもう少し真剣に考えたいと思いました。
 ただ、「体験の場」は外に出かけなくても、ちょっと意識することで家の中にも、家の周りにもたくさんあるようです。料理、掃除、買い物、日曜大工、動物の世話…など、子どもと一緒にいろいろな体験をしてみたい、と思うようになりました。それにはまず、大人が面白がってやっていることでしょうか?

 筒井さんの「出前天体観測会」も4月10日(月)午後7時からに決まりました(雨天の場合の予備日として4月11日)。場所は,岡山市出石町の旭川の土手のあたりです(詳しくは別チラシをご覧ください)。春の空にはどんな月や星が見えるでしょうか? 筒井さんのご好意で参加費無料で行います。できればこれからも季節ごとに企画していきたいと思っています。親子での参加大歓迎です!

←戻る