学会質疑応答

発表後の5分の質問タイム
DDRプレイヤーと岡山組の包含関係は?
 県内には多くのゲームセンターがあり、多くの人がDDRを数人で連れ立って、あるいは個人でプレーしている。ネットワークでつながっていない者は、知り合い同志で来てそのまま帰ることが多いが、従来のゲームと違い、比較的声をかけやすいゲームのため、新たな人間関係が生まれやすい。ゲームセンターで知り合って、ネット上に誘うというケースもある。
 岡山組のメンバーはざっと50名ほどだが、全DDRプレーヤーの何割になるのかは不明。岡山組のメンバーでDDRを全くプレーしないものは0名。
DDRにおいて、現実にしていることが「ダンス」だと言うが、単に脚元のスイッチを踏んでいるのにすぎないのではないのか?
 大会の優勝者のビデオ映像に見られるように、DDRにおいてはスイッチを「単に踏めば」よいわけではない。「どう踏むか」「どう見られるか」を意識するゲームである。従来のゲームではスイッチの押し方を深く意識するゲームはほとんどなく、「単にあるタイミングで押し」さえすれば、戦闘機から弾が出たり、キャラクターが移動したりしていた。
 DDRにおいても、単にタイミングよく踏みさえすればそれで納得するプレーヤーもいるが(このようなプレースタイルはスコアラーとかクリアラーと呼ばれる)、多くのDDRプレーヤーはよりカッコよく踊りたいと考えている。
 通常のダンスにおいても、単にステップを教科書通りに真似できれば、とりあえずは満足するが、そのような人の踊りは大抵の場合、手足の先は動いていても、体全体が躍動している感じからは程遠い。単にステップを真似できた段階から、踊りこむことによって、体の内側からほとばしるパワーを外に出すことができるのである。その段階へステップアップするためには、他人に見られているということを意識することが重要になる。
 DDRもこれと同様で、「単にタイミングよく踏む」ことができるようになった段階の次に、「どう踏むか」があるのである。
総括質疑で割り当てられた10分の質問タイム
なぜ匿名性を好むのか?
 ケータイの「メル友」などもそうだが、軽い関係を求めているからだとかんがえている。
なぜ軽い関係を求めると思うか?
 深い関係を持つことになれていなくて苦手なため、最初は単に雑談をしようとする。この場合その人の背景を知ってしまうと、軽い雑談ができないので、HN(ハンドルネーム)での関係になるのだと思う。
 しかしOFFで何度か会うと次第に気心が知れてきて、お互いのことを話すようになったりお互いの家に行ったりするようになる。一緒に飲みに行ったりもする。
 ケータイのメールについて「これは本当のコミュニケーションではない」と感じている高校生は意外に多い。最初は軽いコミュニケーションが入りやすいが、次第に深いコミュニケーションへとモードが移行していくという、DDR岡山組における現象も、これと同様だと思う。
 その意味で、ネットワークコミュニティは対面しての深いコミュニケーションへと導入するトレーニング手段として注目されるが、このとき重要なのは、相手が同じ町に住んでいるなど、その気になればすぐに会えるということである。
DDRはドラムマニアなど一連のゲームと同様単にブームに過ぎないのではないかと思うのだが、集団が今後どのように変化していくと思うか?
 ゲームセンターにおける各ゲーム機の趨勢を見ると、現時点(2000年6月)ではすでにDDRは一頃のブームを過ぎている。岡山組のメンバーもいつもDDRをプレイするわけではなく、時には飲み会、時には別のゲーム、時には遊園地、とさまざまな形のOFF会を開催している。したがって、ブームが好き去っても、団体としての岡山組がなくなることはない。それほどまでに、会って一緒に居ることが心地よいといえる。
自分はあるテレビ番組のファンが集う掲示板に参加しているが、ハンドルネームを使うことや、OFF会に参加すると盛りあがるさまなど、今聞いた話と同様のことが、その掲示板でもおきている。DDRの掲示板はそれとどう違うのか?
 計画的に開催されるOFF会がなくても、とりあえずゲームセンターに行けば、メンバーの誰かに会える可能性が高い。現に新しいゲームが出た直後は、毎日が自然発生的なOFF会である。このため、掲示板でのやり取り→OFF会→掲示板でのフォロー→OFF会のサイクルが極めて短く、重ねる回数も多い。この点が最大の違いである。
 住んでいる地域が広範囲にまたがる人が参加している掲示板ではこうはいかないし、例え狭い範囲であっても、「仲間のたまり場」がなくてはこうはいかない。
総括質疑で残りの時間で
集まるネタそのものではなく、集まること自体が目的となっているという点では、公民館活動に集まる女性グループと同様では?
 .同様だと思うが、青少年向けのそうした仕組みは現代の社会には用意されていない。今後はそのような仕組みを用意する必要があるというのが、主張したい最大のポイントである。
ゲーセンでなくてもOK?
 いつでも誰でも行くことのできる開かれた場所であればOK。
DDRがポイント?
 DDRでなくても、そこに行かなくてはできないことで体を使い人との関わりが必要な何らかの仕組みがあればOK。
学校にはそういう仕組みは用意できない?
 子どもの活動場所が何もかも学校だと、息切れする。学校でも家庭でもない場所がよい。学校は現時点では「いつでも誰でも行くことのできる開かれた場所」ではない。
人気漫画「GTO」においては教師鬼塚が、学校という場で、いろいろと子どもを惹きつけることをやっているが、これを見ると学校でもそういうことは可能だと思うか?
 「GTO」では、学校の授業を描いたストーリーはほとんどなく、舞台もしばしば学校外であるので、あれば学園ドラマの形をとりながらも、脱学校化ドラマである。