速度への挑戦



 私は造船や流体力学の専門家ではないし、まして造船史に通じているわけではない。200年前の英国が高速船の建造において立ち後れていたことは知っていても、その理由を克明に記した史書や研究書には、残念ながら、ふれたことがない。しかし、推論することは難しくないと思う。以下はその推論である。

 帆船の設計、というよりデザインは膨大な経験と大変な努力、さらに霊感が必要である。
 たとえばアメリカス・カップ艇などのヨット界では、ブルース・ファーのような1人の偉大なデザイナーが生まれ、一世を風靡することがある。彼のデザインはすべての初期の国際アメリカス・カップ級ボートに影響を与えている。しかし、このような存在は1国に1人というような存在ではない。1時代に1人か2人。いないこともある。現に今、彼に匹敵するボート・デザイナーの名を聞くことはない。そのため、平賀譲中将以下ぞろぞろ(失礼)と、というのは「本当にみんな天才なのかね?」という疑問がもたれるが、それはそれで別のお話。
 ところが、そんな天才デザイナーの船をコピーするのは、ある程度の設計者ならできる。コピーした艇でアメリカス・カップを狙ったチームもある。こうしたコピー艇は、そこそこの成績は出る。しかし、優勝はできない。技術的に後追いでしかなく、新しい発見が加わることがないからである。たとえ名デザイナーの手によらなくとも、優勝する、あるいは決勝に進む艇には新しい「何か」があるものである。いち早く取り入れた新型セールと他を圧倒する経験、戦術でその名の通り魔術的な強さを発揮したブラック・マジック号、そして「セーリングは科学である」とMITなど全米の頭脳を結集したアメリカ・キューブ号……。
 200年前のアメリカとフランスにはこうした発見をできる人材があったのであろう。アメリカの場合、歴史はないにしても、英国式の造船技術にフランスの造船思想(しかも、盗んだものではなく、提供されたもの)が加わり、より高速な船の建造ができるようになっていた。しかし、英国にはこうした人材が、少なくもこの時代には、生まれていなかった。現在の(正確に言えば、前回までの)アメリカス・カップにおける日本の立場に、当時の英国があったのだと考える。
 アメリカの造船技術はナポレオン戦争後もさらに高まっていき、フライング・クラウド号のドナルド・マッケイ等、天才を輩出した。これに英国の造船界が追いつくのは19世紀も後半、ティー・クリッパーの登場を待たなくてはならない。しかも、ヤンキー・クリッパーがティー・クリッパーに敗れたのは前者(順風で特に速い)が後者(逆風・弱風でも速い)の航路に乗り込んで、不利な戦いをしたためである。ティー・クリッパーとヤンキー・クリッパーを敗者の地位に追いやったのは、むしろスエズ運河と蒸気機関である。

 もちろん、ナポレオン時代の英国海軍が制海権を握っていたために、英国海軍が切実に高速船を必要としなかったという面があることは否めない。それに対して、フランス海軍や大陸(アメリカ合衆国)海軍の軍艦は高速をもって優勢な英国海軍を何とかしなければならなかった。より大型の艦からは逃げ、より小型の艦は追うための高速である。しかしながら、多少の有速の差はクルーの経験や戦術で覆すことができるというのも、アメリカス・カップで繰り広げられるレースが示している。


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