セーラー服のできるまで

セーラー服はいつ頃できたのか。

セーラーはsailor。水兵または水夫と言う意味である。その服だから、本来は水兵さんが着る。どの時点でセーラー服が完成したといえるか解らないが、とにかく服飾史と海軍の歴史を追ってみよう。

水兵にお揃いの服を支給したのは英国海軍である。これは18世紀後半のことで、強制徴募されて海軍に入った人たちに制服が支給されていた。戸籍の無かった英国では徴兵ができず、偶然、徴募隊が押し掛けた居酒屋などにいた運の悪い人が海軍に引っ張られたのである。
この制服はだいたいは似通っていたものの、よく見ると艦ごとにデザインが違っていた。これはその艦の艦長がどれだけ水兵の軍服に予算を弾むか、そしてそれを受け取った主計長がどれだけピンハネしなかったかが関わっている。本来、水兵の服は水兵の給料から天引きされて支給されていたが、艦長が裕福だと、私費を投じて水兵を着飾らせて自分の成功を世間に知らせたのである。そして主計長たちはそのどちらからもピンハネした。

そういうイレギュラーな水兵のシャツの1つに、カッターシャツがある。現在は珍しくなったが、当時のワイシャツはカラー(襟)が取り外し式のものが主流であった。ある裕福な艦長が自分の端艇(カッター)の要員に着せるためにカラー付きのワイシャツをあつらえたのがカッターシャツの起源だという説がある(これは未確認)。

この当時の軍服はすべてハンドメイドである。そのため、士官が仕立屋に注文するダブルの燕尾服は一着一着、入念に作られる。服地などの素材には規定が無かったが、形については規定があったため、派遣先の気候や着る者の好み、そして懐具合によってずいぶんと変化があった。また、ダブルになっているの前のあわせかたで個性を競っていた。

一方、水兵に支給されるものは主計長の属員や縫帆兵(帆を修繕したり作ったりする水兵)が作った。大まかな縫製のためもあって、水兵たちは自分で縫い直していた。そのときに自分の好みの形や雰囲気を出すことが古参兵(Old Saltという)の粋であった。

さて、この当時の英国海軍の水兵服の特徴が、ネッカチーフである。これは後にネッカチーフと背後に垂れる大きな襟に分化して、後のセーラー服に受け継がれる。

このネッカチーフには機能が二つあった。

一つは背後に垂れて1年に1度洗えば上等という髪の毛の汚れから衣服を守るということである。当時の水兵は弁髪(つまり1本の三つ編みのお下げ)を垂らしているのが流行であった。そして、清水が貴重品であったために、髪はおろか身体を洗うことも、ほとんどなかったのである。しかし、衣服だけは伝染病を防ぐ意味もあって洗濯されていたので、汚れればテキメンに目立ったのである。

もう一つのネッカチーフの機能は、戦闘時に耳を覆って騒音から鼓膜を守る、と言うものである。何しろ当時の平均的な戦艦は1隻で74門もの大砲を積んでいたのである。狭い艦内には3〜4メートル置きに大砲がずらりと並び、それが一斉に咆吼する。敵艦が砲撃を返してくれば当然、砲丸(中に火薬は詰まっておらず、ただの鉄の玉である)が木製の舷側をぶち破ってくる。木の破片と血しぶき、そして悲鳴が飛び散って、ただごとではない。そこで戦闘配置が命令されると、乗組員全員に真綿が耳栓用に支給された。水兵たちはその真綿を耳に押し込んだ上からネッカチーフでしっかり覆っていたのである。

また服飾史のほうへ針路へ戻そう。 19世紀半ばに、水兵服を単なる軍服の一デザインからさらに広げる事件が起きている。
この時代、写真は発明・実用化されたばかりであったが、すぐに『ロンドン絵入り新聞』などのジャーナリズムに取り入れられていた。そして1846年、初めて紙面を飾った王室一家(ヴィクトリア女王と御一行)の写真で、アルバート王子が着せられていたのが、たまたま水兵服だったのである。

それまでの子供服というのは、大人の服の縮小版に過ぎなかった。それが、初めて目にした「王子様」は水兵服という、陸上ではお目にかかることができない特殊な服を着ている。これを見た経済的に余裕のある家はこぞって新調の子供服のデザインを水兵服にして……こうして、西欧史上初めて「子供服」の概念が生まれ、セーラー服はその代名詞的存在になったのである。

一方、海軍に所属する水兵全員に共通の軍服を支給したのはナポレオン1世とその海軍である。それまで、フランス海軍の水兵は厳密には民間人で、私服を着た水夫であった。ところが1805年以来、すべての港を英国海軍に封鎖されて、フランス海軍は開店休業になってしまっていた。水夫たちは民間人でありながら統制と命令の下に行動することに慣れている上、大砲も扱えた。そこで水夫たちを軍に編入し、歩兵や砲兵にしてしまおうというのがナポレオンの考えであった。1808年の勅令でフランス海軍の水夫は水兵として編入・再編され、歩兵の装備一式を支給された。軍服はその一環であるため、そのデザインはどちらかと言えば陸軍のものである。

英国海軍が正式に水兵の軍服を制定するのは1857年1月まで待たなければならない。このころには蒸気機関が導入され、清水は以前ほど貴重品ではないため、水兵の髪も身体も、そこそこ清潔になっていた。そして、このころまでにネッカチーフと大きな襟が水兵服の特長になっていたのである。

この時代、英国は産業革命に成功した「世界の工場」として超大国になっていた。また、ナポレオン戦争以後も数々の戦争に勝利して海の女王として世界に君臨していた。英国海軍はその原動力であると共に象徴でもあり、世界中の国々の模範になると同時に仮想敵でもあった。なにしろ、どの国の海軍も領海を一歩出れば英国海軍の軍艦旗に出会う羽目になっていたのである。英国式の軍艦設計、英語の海事用語、そして多くの海上での習慣などとともに、水兵服も世界中の海軍に広がっていった。

そして、開国したばかりの日本に英国海軍と「世界の工場」の製品がやってくる。

生まれたばかりの日本海軍は英国海軍にすべてを学び、共に戦い、勝利を重ね、やがて独立して敵対し、半ば自壊するように滅んだ。

一方、子供服として日本に入ってきたセーラー服はまず、女子学生の体操用の服として公教育に取り入れられた。これは1920年代のことで、当時は和服が中心であったため、膝下のスカートでも動きやすかったのである。


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