THE HORNBLOWER COMPANION
The Red Wine Fleet Version

第8巻「決戦!バルト海」



§.ホーンブロワーの衣装箱

 ここでホーンブロワーは「艦長1名随伴の戦隊司令官」という役職に就いている。しかし、階級は経験三年以上の勅任艦長であり、軍服もその規定に沿ったものである。すなわち、燕尾型のコートで、地、折り返し襟、立襟、袖口が青または紺。それぞれの縁と折り返し襟のボタン穴に金モールがあしらわれ、袖口の金モールは2本となる。シャツは白、胴着は白またはクリーム色、半ズボンも同色、ストッキングも白。短靴は黒で、バックルは金。このころはお金持ちなので、バックルは模造金ではなくなっているはずである。
 

§.近衛歩兵第1連隊、ウィッチウッド大佐

  ……あれは近衛連隊の軍服に違いない。軍服の着手は近衛兵にしては小造りだったが、儀礼はしかと心得ていて、舷門を通ると同時に、艦尾甲板へ向かって挙手の形をとり、やがて短い足で進んでくると、踵をかちっと合わせて、ホーンブロワーへ近衛兵の粋な敬礼をした。
  「ご挨拶いたします、サー・ホレイショ・ホーンブロワー艦長でいらっしゃいますか?」
  「そうです」
  「自己紹介をさせていただきます。自分は近衛歩兵第1連隊のウィッチウッド大佐です」
 英国陸軍の近衛歩兵第1連隊が「グレナディア・ガーズ」と呼ばれるまで、数年を残している。すなわち、1815年のワーテルローの会戦でナポレオンの近衛擲弾兵を破ったことになるまでは「近衛歩兵第1連隊(First Foot Guards)」なのである。
 ウィッチウッド大佐は椅子に腰掛けるのにも細心の注意を払っている。それもそのはず、当時の陸軍士官ではぴったりしたズボンが流行であった。はくときには霧吹きで湿らせたが、乾燥すると布地が縮んで、更にタイトになるためである。そうなると、下手に動けば破けてしまったようである。
 1812年、ホーンブロワーはこのウィッチウッド大佐がもたらした書状により、まずサンクト・ペテルスブルグへ、次にリガへと赴き、陸上と沿岸で活躍することになる。
 

§.近衛工兵隊、ジュセー少佐(フランス)

  五人の捕虜がせっつかれてハーベイ号の甲板に上がってきた。そのうち一人はピストルの弾丸に腕を貫かれてうめいている。誰かがカンテラをつけて捕虜たちを照らした。ホーンブロワーは指揮官の腕に光る星章がレジオン=ド=ヌール勲章であると判って、ほっと安堵のため息をついた。
  「あなたの階級と氏名をうかがいたいが」と、ホーンブロワーはフランス語で丁寧に言った。
  「皇帝陛下の近衛工兵隊、ジュセー少佐」
 リガに到着早々、ホーンブロワーは工兵少佐を捕虜にする。この少佐は自分の知っていることをぺらぺらと話してしまう困った人で、タルンタム公マクドナルド元帥の麾下である。ドビナ河をはさんでリガの対岸にあるガウガブグリバは海と川にはさまれた三角地帯にある村落で、ここを巡る攻防にホーンブロワーはその名誉と生命を賭けることになる。
 フランス軍はリガ沿岸の制海権を押さえるために、この村落を占領しなければならず、ここが占領されて初めて「リガを包囲した」と言える状態になるのである。マクドナルド元帥はこの村の奇襲に先立って工兵少佐を将校斥候に出していた。ところが彼が英国海軍の手に落ちてしまったために、フランス軍は地理不案内のまま村に奇襲をかけることになる。
 

§.ロシア陸軍の擲弾兵

 ホーンブロワーはつい今朝がた、村の防御ぶりを視察し、その地の利と、そこに駐留しているロシア軍の擲弾兵たちの頼もしい姿を目の当たりに見て、これならば組織だった包囲攻撃以外のどんな攻撃にも安全だという結論を出していた。とはいうものの、総督ほどに自信満々でいられたらと、ホーンブロワーはうらやましく思った。
 ロシア陸軍はプロイセン軍をモデルに編成され、訓練されている。このために、細かい作法が英国陸軍と異なっており、歩兵が着る濃緑色の軍服もプロイセン軍に準じたものである。しかし、リガ近郊においてロシア陸軍はそのプロイセン軍と対峙することになったのである。しかも、プロイセンからの亡命将校、フォン・クラウゼビッツ大佐がロシア軍の顧問となっており、ロシア軍の軍服を着て、ホーンブロワーと言葉を交わしている。歴史の皮肉とでも言えようか。
 マクドナルド元帥は奇襲に先立って工兵隊少佐を将校斥候に出したが、失敗に終わる。そのために地理不案内のまま奇襲をかけることになり、その報を聞いたホーンブロワーが戦場を思い浮かべるシーンが、この引用である。
 結局、この最初の奇襲は大きな犠牲を出しながらも失敗した。偶然ながら、ホーンブロワーがジュセーをとらえたことがこの奇襲を失敗させ、リガの防衛戦に大きな影響を与えることになる。
 

§.スペイン軍(フランス側、後に英国側)

……ホーンブロワーはここにいる部隊編成の数を確かめようと連隊旗を見渡して、危うく頼りない鞍から落ちかけたほど驚いた。あのあたりの旗はみな赤と黄で、スペインの国旗だ――そう気づいたとたんに、そのぼろぼろの軍服は、十年前、彼がフェロルで捕虜生活をしている間に、すっかり憎しみの対象にまでなった、あのブルボン王家の軍隊の白と青の軍服の名残だと思い当たった。
 リガ周辺を巡る激戦の中で、最前線に押し出されたことに気がついたドン・ロス・アルトス公爵麾下のスペイン軍約5000名はロシア側に投降した。スペイン軍の中心となる戦列歩兵は白い地のコートを着用し、連隊によって前襟、立襟、袖口の色が変わっている。このほか、戦列歩兵のスイス人部隊、重騎兵と砲兵が青いコートを着ているので、「白と青」は歩騎が並んで立っている図とも考えられる。ただしこの場合、竜騎兵の黄色と黒の軍服や、軽歩兵、軽騎兵と乗馬猟兵の緑色が入っていないのが不自然である。
 そこでテキストの「白と青」を1着の軍服で構成すると考えると、前襟のような広い面積が青になっていないとならない。地が白で、前襟が青または空色の戦列歩兵連隊はトレド、ムルシア、カンタブリア、アストゥリア、(以上、空色)、そしてコロナ(青)の各連隊である。
 

§.ヨルク将軍(プロイセン軍)

 ヨルクは目をそらし、はるか荒涼たる野面を見渡し、徐々に展開しつつあるロシヤ軍を目におさめてから、口を開いた。
 「どうせよと言われるのかな?」
 ハンス・ダヴィド・ルードヴィヒ・フォン・ヨルク将軍は一部でもっとも保守的な軍人であると考えられがちであったが、軽歩兵指揮官として卓越した技量を持つ人物である。特に1813年から14年(つまり、ホーンブロワーと対戦・講和した後)の対仏戦における活躍はめざましく、ベートーベンの「ヨルク公行進曲」で永遠に讃えられている(交響曲『英雄』といい、戦争交響曲『ウェリントンの勝利』といい、結構きな臭い作曲家である)。
 ヨルクはフリードリヒ大王の軍に所属した若手士官であったが、同僚との諍いから離職している。その後、1787年にフォン・プレスコウ小銃兵大隊の大尉に任命され、その5年後に最年少の少佐となる。その後小銃兵大隊の大隊長を経て、徒歩猟兵連隊の連隊長へと進む。1803年には大佐の辞令を受け、ライフルとマスケット銃の設計委員会に名を連ねた。
 1806年、イエナとアウステルリッツでの敗戦を承けて、ヨルクとその連隊は敗走する味方部隊のエルベ渡河を援護した。その後、ヨルクは麾下連隊から4個中隊を率いてブリュッヒャー軍団に合流、リューベックでフランス軍と戦闘に入った。ヨルクはこの時、後衛の陣頭指揮を執り、負傷して降伏、捕虜となっている。1807年、捕虜交換で帰還したヨルクは少将に昇進してプロイセン全軍の軽歩兵に影響力を持つようになる。さらに1810年には監察総監として軽歩兵戦術の改善に努めた。1812年の時点で、ヨルクはプロイセンにおける軽歩兵の最高権威として名声を得ていたのである。その彼が1812年のロシア遠征で負った任務は、2万名からなる外人部隊の次席指揮官であった。この時、中将に昇進して任務に就いている。
 ヨルクは1812年12月30日にトゥーロゲンで和平協定に調印し、ロシア軍と共に東プロイセンに侵入し、翌年秋には大将に昇進、赤鷲勲章、鉄十字勲章等をうけ、ブリュッヒャー軍で第1軍団を指揮して対仏戦に当たった。そして数多くの会戦を重ねて1814年にパリ入場を果たしている。
 グラン・ダルメ最良の将軍の一人であったヨルクは、むしろ新生プロイセンの陸軍を育てた最大の功労者という面がある。

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