THE HORNBLOWER COMPANION
The Red Wine Fleet Version

第1巻「海軍士官候補生」



§.ホーンブロワーの衣装箱

 ホーンブロワーは士官候補生なので、その軍服を着ている。折り返し襟と袖口の折り返しがない燕尾型のコートで、色は青か紺。シングルあわせの金ボタンは9個で、平らな表面には絡み錨の紋章が浮き出している。シャツと胴着は白。正装の場合、白い半ズボンとストッキングを着用したが、普段着には白い緩やかな(つまり、水兵用の)長ズボンを着用していたようである。
 

§.フランス人部隊

  「カエルどもには統制がない。敵のも、味方のも」とエドリントンが言った。
 『海軍士官補生(Mr. Midshipman Hornblower)』第6章「蛙と海老(The Frogs and the Lobsters)」には、キブロン上陸作戦を側面から援護する、フランス人部隊が登場する。この部隊と協同する英国陸軍歩兵第43連隊の半個大隊がインディファティガブル号を中心とする護送船団でプリマスを出帆し、キブロンから約100キロのムジラックという村に上陸する。この作戦にはインディファティガブル号からもボールトン海尉麾下の小部隊が砲兵隊兼工兵隊の役割で参加している。ホーンブロワーはフランス語が出来たためにフランス人部隊と第43連隊の連絡任務に就いた。
 この外人部隊と思われるのが、英国陸軍の指揮下にあった外国人部隊で唯一、青い上着を着ている歩兵、ダマス部隊の猟歩兵である。キブロン上陸作戦は1795年に外人部隊を中心とする勢力で行われて失敗に終わり、このために英国陸軍の外人部隊は壊滅的打撃を受けている。約5000名の主隊はポーツマスを出港し、キブロンに上陸しているが、ダマス部隊は300名ほどがプリマスから出港し、7月17日にキブロンに上陸した。この2点から、ホーンブロワーが同行させられたフランス人部隊のモデルはダマス部隊と考えられるのである。ただし、原典ではムジラックに上陸する部隊を1100名としているが、うち500名を歩兵第43連隊とすると300名ほど足りない計算になる。
 ダマス部隊は猟騎兵2個中隊、猟歩兵2個中隊、小銃兵4個中隊で構成され、歩騎あわせて総員660名。そのほとんどが亡命フランス人である。1793年5月のオランダで組織された部隊で、オランダからハノーヴァーへ撤退後、歩兵隊のみ英国に移送されている。ダマス部隊歩兵隊は7月21日におきた戦闘で壊滅し、生き残った14名がロイヤル・イミグラント(王党派亡命者)部隊に編入されている。
 ダマス部隊の騎兵隊はダマス軽騎兵隊(Damas' Hussars)と名を変えてハノーヴァーに駐留し続けた。1796年3月に370名の兵力でコンデ公の軍隊に編入され、ラインラント地方でおきたモロー将軍率いるフランス軍との衝突では、勇敢に戦っている。
 コンデ公の軍は1797年にロシア軍に編入され、このときダマス軽騎兵隊は解体された。
 

§.スペイン王立砲兵隊 砲兵

 ホーンブロワーは岬の上に一人ぼっちではなかった。彼から数ヤードのところで、見張り番に立つスペイン陸軍の砲兵一人、涙ぐんだ目で望遠鏡をじっとのぞき、絶えず沖の水平線ぞいに望遠鏡を動かしていた。
 サン・ビサンテ沖の海戦に出撃するスペイン艦隊によって、ホーンブロワーの指揮する連絡艇ル・レブ号は拿捕され、ホーンブロワーも捕虜となってしまう。ここに掲げたのはエル・フェロル要塞での22ヶ月間の捕虜生活に変化が訪れるきっかけの部分である。
 この時ホーンブロワーと共に岬の上に立っていた砲兵隊員は折り返し襟のない紺のコートを着ている。立襟は赤く、金モールの縁取りがしてあり、袖の折り返しも赤。ウェストコート(胴衣)は赤。半ズボンは紺。白い長ゲートルを着用している。黒い二角帽も金または黄色の縁取りがしてあり、スペイン国籍を示す花形帽章(コケード)は赤である。
 スペイン砲兵隊は1710年に設立され、本土のみならず様々な植民地に派遣されていた。本土に限ると5個大隊が設立されていたが、1793年に6個大隊に増強されている。

戻る