§.海兵隊(海軍歩兵隊・海軍砲兵隊)

海兵隊員は1808年以前の水兵とは異なり、フルタイムの軍人である。制度や呼称は変わっても、海兵隊員の任務は特に変化が無く、入港時には要所警備、特殊砲弾(散弾、葡萄弾、棒つき弾)の作成、武器弾薬各種および大砲関連の備品の積み卸しと保管などに当たり、航海中は艦内の要所警備に当たるほか、戦闘中は大砲の操作に当たった。

このため、歩兵としての訓練と水兵としての訓練を受け、砲兵用のマスケット銃を支給されていた。

王立砲手水兵隊 (Corps royal des canonners-matelots)
砲術の他、小銃の扱いと水夫としての訓練を受け、砲10門につき7名の割合で各艦艇に配属されたフランス版の海兵隊。当時の海軍の編成である9個戦隊に合わせて9個師団が編成されている。それぞれの戦隊色が師団色に採用され、砲手水兵達の紺の軍服を飾った。1個師団は9個中隊からなり、1個中隊は将兵併せて873人に達した。士官は王立植民地砲兵軍団の士官と海軍の低級士官で編成された。

海軍砲兵隊 (Artillerie de la Marine)
1792年6月14日、王立砲手水兵軍団が解体され、同日をもって海軍歩兵隊4個連隊と海軍砲兵隊2個連隊が編成された。砲手水兵と植民地砲兵隊の人員がこれに編入されている。各連隊は8個中隊からなる2個大隊で構成され、将兵併せて2880名に達した(1個中隊は士官3名、兵員87名)。しかし、この時点で海軍砲兵隊の人員が定員に達することはなかった。

1795年10月25日、政府は海軍砲兵隊を7個の半旅団に再編し、この事態に対処しようとしている。この改正で完全に「海軍歩兵隊」は姿を消している。しかし、「砲兵隊」の名は冠しながら、英国海軍の海兵隊と同じような任務に就き、またエジプト遠征、イタリア遠征など、陸上の任務にも就いている。

1803年5月5日、海軍砲兵隊は4個連隊に再編され、さらに1804年には帝国海軍砲兵隊(Corps Imperial de l'Artellerie de la Marine)と改称している。ロシア遠征の失敗後、海軍砲兵隊も損失の穴を埋めるべく陸上に進する。1813年には20個大隊がマルモン将軍の第6軍に参加し、その中核をなしている。このため、第6軍は「海軍師団」と呼ばれていた

1814年の王政復古によって海軍砲兵隊は王立海軍砲手隊(Corps royal descanonniers de la Marine)と改称して3個大隊に再編された。

海軍部隊 (Legion Nautique)
ナポレオンは1799年にエジプトに進出した。このとき伴っていた艦隊はアブキールの海戦で敗れ、海岸にはい上がった水夫と海軍砲兵隊の兵士約2500人は海軍部隊に再編され、主にナポレオンの親衛隊や砲兵隊として重用された。

近衛水兵隊 (Battaillon des matelots de la Guarde)
エジプト出兵で活躍した海軍部隊の経験者の多くは1803年に編成された近衛水兵大隊に編入されている。この水兵大隊は「近衛古参兵」と呼ばれ、近衛の中でも特に一目置かれる存在であった。当初はドージエ海軍大佐の下、737名の船乗りで構成され、兵士としての訓練も受けている。しかし、群を抜いて自由で陽気な雰囲気は、近衛兵の中にあって、独特の地位を得ていた。1804年には818人に増員されている。

4号室・フランス海軍資料室赤色葡萄酒艦隊