§.近衛旅団



 現在、英国陸軍の王室師団(Household Division)は2個の近衛騎兵連隊(Horse Guards)と5個の近衛歩兵連隊(Foot Guards)からなっている。しかし、19世紀初頭には騎兵連隊2個、歩兵連隊3個からなっていた。
 

近衛騎兵(ライフガーズ)第1/第2連隊 (1st and 2nd Life Guards)

 ライフ・ガーズの創設は清教徒革命(17世紀半ば)にまでさかのぼる。この革命のために、チャールズ皇太子(後のチャールズ2世)はオランダに亡命していた。多くの王党派が皇太子に付き従っていたが、この中から80名がライフ・ガーズとして編成され、このうち20名が常時、皇太子の身辺や王宮の警護にあたっていた。
 1660年、名誉革命による王政復古で英王位についたチャールズ2世はライフ・ガーズを600名に増員し、これを3個中隊に分割して、それぞれ国王直属中隊、ヨーク公直属中隊、アルブマール公直属中隊とし、後にスコットランドで第4中隊が編成されている。この時代のライフ・ガーズは近衛騎兵隊(Horse Guards)またはライフ・ガーズ騎兵隊(Life Guard of Horse)と呼ばれていた。このとき、まだブルーズ(ロイヤル・ホース・ガーズ、後掲)は正式の近衛連隊にはなっておらず、ライフ・ガーズのみが近衛の騎兵部隊だったのである。
 1678年に近衛擲弾騎兵隊と擲弾騎兵隊が創設され、1702年には第2擲弾騎兵隊が創設される。そして1746年に近衛騎兵隊が2個中隊に削減される。1788年に第1近衛騎兵中隊と第1擲弾騎兵中隊を合併してライフガーズ第1連隊、第2近衛騎兵中隊と第2擲弾騎兵中隊が合併してライフガーズ第2連隊が編成された。近衛騎兵はこの編成でナポレオン戦争を乗り切ることになる。
 興味深いのは、ナポレオンの時代には、正式な近衛ではないにしてもブルーズの給料のほうがライフガーズの給料より高かったことである。たとえば連隊長で比較すると、ライフ・ガーズが週給1ポンド7シリング、ブルーズが週給2ポンド7シリングであった。
 ロイヤル・ホース・ガーズの王室師団編入後も、ライフ・ガーズは2個連隊の編成を保っていたが、1922年に1個連隊に再編されている。


ロイヤル・ホース・ガーズ (Royal Horse Guards)

 ロイヤル・ホース・ガーズ(字義訳は王立近衛騎兵連隊)はナポレオン戦争当時、その名前に反して正式な近衛ではなかった。
 ロイヤル・ホース・ガーズはその母胎を1650年に護国卿クロムウェルによって編成された。名誉革命を経た1661年、チャールズ2世は議会派の軍を解散して国王の軍隊へと再編した。ロイヤル・ホース・ガーズはオックスフォード伯オーブリー・ド・ヴェールの指揮下に国王直属の騎兵隊として再編され、オックスフォード伯の色である青を軍服の色に採用した。 17世紀末、オランダのオレンジ公ウィレムがウィリアム3世として英王位につくと、彼が連れてきたオランダ人近衛騎兵隊と区別して「オックスフォード・ブルーズ」と呼ばれる。 そして18世紀半ばには「ロイヤル・ホース・ガーズ・ブルー」と呼ばれるようになり、1819年に「ロイヤル・ホース・ガーズ」または「ブルーズ」という名称になった。
 ワーテルローで英国陸軍を指揮したウェリントン将軍はこの会戦での功績に対し、1820年にロイヤル・ホース・ガーズを正式の王室旅団の連隊とし、これ以後、王室旅団の騎兵部隊はライフ・ガーズとロイヤル・ホース・ガーズで構成されることになった。
 そして1969年には、ブルーズとロイヤルズ(近衛竜騎兵第1連隊)が統合されてブルーズ・アンド・ロイヤルズ(Blues and Royals 近衛騎兵第2連隊)となって現代に至っている。


近衛歩兵第1連隊(グレナディア・ガーズ Grenadier Guards)

 1656年、チャールズ2世は亡命先のブリュージュにおいてRoyal Regiment of Guardsを創設した。この連隊はウェントワース卿に率いられ、兵員はチャールズ2世の支持者で構成された。これが近衛歩兵第1連隊の端緒である。
 この連隊の別名、「グレナディア・ガーズ」は1815年のワーテルローの会戦でナポレオン軍最後の組織的抵抗となった近衛擲弾兵部隊を殲滅した功により認められ、正式にはThe First or Grenagier Regiment of Foot Guardsとされる。
 1815年、ワーテルロー会戦の最終局面。予備兵力を使い果たした皇帝ナポレオン1世は、これもまた消耗し尽くした「鉄の公爵」ウェリントン将軍の本営に向けて近衛擲弾兵部隊と近衛猟歩兵部隊で大小2列の縦陣を形成して前進させた。これを見て取ったウェリントン将軍は近衛歩兵第1連隊のメイトランド将軍に「さぁメイトランド、君の番だ」と声をかける。
 押し寄せる青い軍服の波に対して、横隊展開して伏せていた緋色の軍服が身を起こし斉射した。フランス軍をイベリア半島から叩き出した、ブラウン・ベス(比較的大口径のマスケット銃で、英国陸軍の制式小銃)の一斉射撃である。さらにイベリア半島で苦楽をともにした軽歩兵連隊、歩兵第52連隊が擲弾兵連隊の側面に突入する。そして公爵にとっての奇跡、皇帝にとっての悪夢がおきた。「不滅部隊」と謳われたフランス帝国の近衛部隊が前進を止め、後退し始めたのである。
 ウェリントン将軍は直ちにライフル銃兵連隊(歩兵第95連隊)を突撃させ、「後退」を「潰走」に変える。この直後にブリュッヒャー将軍率いるプロイセン軍が英軍の援軍として到着し、ここに大勢が決した。そして英国陸軍の近衛歩兵第1連隊は「不滅部隊」を倒した立役者とされたのである。
 近衛部隊を指揮したカーンブローヌ将軍は降伏を促す使者に対して「近衛は死すとも降らず」とさけんだ、とフランスの歴史は語っている。しかし英国の歴史は、彼が口走ったのはただ一言、「Merde!(くそをくらえ)」であったとしている。
 英国の歴史にも、同じような「伝説」がある。ワーテルローの会戦の最終局面で近衛歩兵第1連隊が打ち破ったのは「小さい方の縦列」であった。これを構成していたのは近衛擲弾兵部隊ではなく、実は近衛猟歩兵部隊だったのである。これは両者の軍服が似通っていたために起きた誤認であった。しかし英国の歴史家たちがそれに気づいたときには既に遅く、伝説が定着してしまっていた。そのために現在も、近衛歩兵第1連隊は「グレナディア・ガーズ」のままである。


近衛歩兵第2連隊(コールドストリーム・ガーズ Coldstream Guards)

 コールドストリーム・ガーズの名称はその最初の駐屯地の地名に由来する。
 1650年、護国卿オリヴァー・クロムウェルはモンク大佐の指揮下に歩兵連隊を編成した。このモンク連隊は英国初の常備軍である新式軍の一部で、イングランドとスコットランドの国境近くのコールドストリーム村に駐屯した。1660年、クロムウェルが亡くなると混乱が生じ、モンク大佐とコールドストリーム連隊はロンドンに進軍して秩序を取り戻し、選挙を行った。この議会が後にチャールズ2世を呼び戻すことになる。
 議会派の新式軍は全て解体されることになったが、チャールズ2世はモンク大佐の歩兵連隊と騎兵部隊を例外として存続させ、コールドストリーム・ガーズとした。この儀式は1661年2月14日、連隊がタワーヒルに行軍していき、そこで新式軍としての兵器と装備を地面に起き、国王の軍隊の武器と装備としてそれを取り上げるというものであった。なお、騎兵部隊については後にライフガーズに編入されている。


近衛歩兵第3連隊(スコッツ・ガーズ Schots Guards)

 スコッツ・ガーズは近衛歩兵連隊中、もっとも古く複雑な歴史を誇っている。
 この連隊の創設は1642年3月、時の英王チャールズ1世が自身の護衛隊を編成するようアーガイル侯アーチボルトに命令したことによる。編成された連隊は直ちにアイルランドの警備に派遣されたが、国王も連隊長のアーガイル候も同行せず、アーガイル侯爵夫人の従兄弟が実戦指揮官として派遣された。これが元で、現在もスコッツガーズは中佐(ふつう、連隊長は大佐)が全連隊の指揮を執る習慣が残っている。
 清教徒革命が起こると、この連隊は1649年にチャールズ2世の軍としてスコットランドに戻った。しかし、1651年にウォースターの戦いに敗れたチャールズ2世が大陸に亡命すると、護国卿クロムウェルによって、この連隊は解散させられる。
 1660年、名誉革命で英国に迎えられたチャールズ2世はこの連隊を「近衛歩兵スコットランド連隊(Scottish Regiment of Foot Guards)」として復活させる。近衛歩兵連隊では、1642年以来の歴史を考えれば、この連隊が最も古いはずである。しかし、1660年までの断絶があるために、第3位に甘んじることとなった。
 1772年、「近衛歩兵第3連隊」と改称されるが、1831年にウィリアム3世が「近衛スコッツ・ヒュージリア連隊」という非公式の名称を与え、1877年にヴィクトリア女王によって現在の「スコッツ・ガーズ」の名称が与えられた。

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