西国三十三所巡り
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第二十二番 総持寺  おしなべて 高きいやしき 総持寺の 仏のちかい頼まぬはなし
総持寺は、町の中にあった。
カーナビがなければ、なかなか見つけられなかっただろう。西国三十三所 第二十二番 総持寺
狭い道を行くと、正面に大きな門が見えた。

駐車場に車を入れ正面に回った。境内はそれほど広くない。左手にエレベーター会社の高い塔が見える。
なにかなじめない雰囲気のお寺である。これは都会の真ん中にあるからやむを得ない。
周辺に植林をしたら幾分景色がよくなるように思う。

ここは、山陰中納言高房が発願し、その子政朝が建立したのがはじまりという。
勅命を受けて筑紫に着任した藤原高房は、観音像を作るため香木を唐人に依頼した。唐人は国に帰って香木を山で見つけたが、積み出しを許可されず、やむなく香木に銘文を刻み海中に投じたという。

高房の没後政朝が香木を得て観音像を造りお堂を建設、さらに政朝の子供たちが寛平4年(892年)七堂伽藍を建立したという。
ここもやはり織田信長によって焼失したが、本尊の千手観音は下半身のみ焼けたが姿が残り、「火除け観音」として信仰されるようになったという。
お寺は、門を入った左手に小さな池があり、亀がいた。西国三十三所 第二十二番 総持寺
総持寺の縁起には、
「平安時代、山蔭中納言高房がまだ越前守だったころ、大宰府に赴任の途中、淀川の畔で猟師たちにとらえられ殺されようとしている亀を、自分の着物と交換し、大亀を河に放してあげた。
翌日、船出と言うとき、愛児の政朝が継母と乳母の策略によって川に突き落とされてしまった。
悲しんだ高房が日頃信仰する観音様に祈願したところ、先に助けてやった亀が政朝を載せて浮上し、事なきを得た」という。

千手観音様を御本尊としており、ほかに薬師如来、地蔵菩薩、不動明王、弘法大師、稲荷大明神、如来荒神などが祀られている。
本堂は、慶長8年(1603年)豊臣秀頼の命で再建された。
また、ここの創始者である山蔭中納言政朝は、観音堂像の千日間、毎日違った料理を提供して、「中納言の千日料理」と呼ばれるほど料理の名手でもあったという。
境内には、包丁塚がある。

境内にはいろんなお堂に混じって、「ペット諸霊納骨供養塔」がある。
スタイルが近代的で、すこしなじめない。
西国三十三所 第二十二番 総持寺ここに納骨して、いつまでも思い出として残すのもまたいいのかもしれないが、やはり動物は、人間もそうであるが、こうしたものに詰め込まれるより土や水に帰るのが一番いいように思う。

でも今の世の中そうはいかなくなってきている。
やむを得ない供養の方法ではある。
ちなみに私は、黒潮と熊野川とメコン川にその骨を流してほしいと思う。

黒潮は言うまでもなく命の源だし、熊野川は生まれ故郷、そしてメコン川は、遠い祖先の出たところのような気がするからである。
こんなのって許されるのかな。 
西国三十三所 第二十二番 総持寺 西国三十三所 第二十二番 総持寺 西国三十三所 第二十二番 総持寺 西国三十三所 第二十二番 総持寺

(ぼけ封じの普悲観音)
西国三十三所 第二十二番 総持寺
西国三十三所 第二十二番 総持寺
(包丁塚。レシピがほしい)

(大黒天、弁財天、青面金剛を祀る)

(あの塔は見えにくくなるかな)
西国三十三所 第二十二番 総持寺

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