99/10/28 <記者の目>西村発言が問いかけるもの−−奥武則(編集局)毎日新聞ニュース速報

防衛政務次官の西村真悟氏が、週刊誌で日本の核武装を検討すべきだなどと発言したことで先週、辞任した。当然だと私も思う。だが、これを突出した国家主義者の妄言として片づけてしまえば、「一件落着」なのだろうか。西村発言は私たちに重い問いを突きつけていると私は考える。

今回のような「悪を排除するドラマ」を私たちはあきるほど見てきた。悪を排除して正しい平和国家・日本は安泰。「めでたしめでたし」というわけだ。今回、排除された悪は「日本の国是である非核3原則を踏みにじった許しがたい発言」である。だが、核を悪と言うなら、私たち自身とっくにその悪に染まっているのではないか。

「核兵器を持たず、作らず、持ち込まず」という非核3原則が虚構だったことは、今日明らかである。たしかに日本は核兵器を持つことも作ることもして来なかった。だが、核は持ち込まれていた。最近でも、核兵器の搭載した米艦船の日本への寄港・通過に対して、1963年4月、当時の大平正芳外相が米側に了解したことを記す文書が米国立公文書館で見つかった。

 

だが、非核3原則の虚構の本質は、別のところにある。日本が非核3原則を国是として掲げることが出来たのは、米国の核戦略体制に組み込まれていたからに他ならないのだ。つまり、それは「核」に守られた「非核」だった。

米国の軍事アナリスト3人が冷戦下の米国の核戦略体制を詳細に跡づけた論文を最近、発表した(「ブルティン・オブ・アトミック・サイエンティスツ」9・10月号)。情報公開法によって入手した国防総省の秘密文書によっている。これを読むと、米国の核の傘の存在の重さを改めて痛感する。

米国統治下の沖縄には1954年から72年までの間、19種類の核兵器が配備されていた。日本本土については、どうだったか。少し引用する。

《米国は1965年半ば、最初の配備から10年以上を経て、日本から「核物質抜きの核爆弾」を撤去した。……ペンタゴンは50年代末まで日本人が「核アレルギー」から回復し、領土内への核兵器配備も受け入れるだろうと期待していた。しかし、65年に至ってペンタゴンは「核アレルギー」は回復困難とはっきり決断したのである》

 

「核物質抜きの核爆弾」は「核カプセル」と合体させると完全な核爆弾になる。「核カプセル」はグアム島の基地などで保管し、いったん有事のときには爆撃機で運ぶことになっていた。「核そのもの」を配備しなかったことや65年に撤去したことに日本への配慮はうかがえる。だが、米国の有事即応の核戦略体制に日本全体がどっぷりと浸かっていたことは間違いない。

 

付け加えておけば、この論文は、65年以降も米軍の爆撃機・艦船は核兵器を搭載して日本の基地および港湾施設を使用しており、それは《1960年の日米安保条約の秘密附属文書で許されていた》とも記している。

戦後半世紀以上、日本は戦争に巻き込まれることなく平和な日々を過ごしてきた。さまざまな幸福な要因の結果に違いない。だが、私は冷戦の時代、日本の安全を守ってきたものは何よりも米国の核の傘だったことは否定できないと考える。米国の核戦略体制に組み込まれた地域という意味では、周辺国は日本を「核保有国」とすら認識していただろう。

日本が米国の占領から離脱する際、全面講和か多数講和かをめぐって大きな論争があった。「中立」も主張された。だが、歴史の後知恵になるが「全面講和・中立日本」はあり得ない選択だった。

重ねて言えば、私たちの国の「非核」は「核」に守られてきたものだった。私は「日本の国是である非核3原則」などと無邪気に言う気にはとてもなれない。

西村氏の問題提起は、まことにふさわしからぬ場で、しかもまことに不適切な表現を交えてなされた。だが、それは、「核」に守られてきた戦後日本の現実をどこかに置き忘れたまま、おのれ一人悪と無縁のように「非核」を語る言論の浅薄さをついてもいる。西村氏の問題提起を、そのように受け取り、私としては次のように答えたい。

冷戦が終わり、世界は新しい枠組みの中にある。だから、「核」に守られた「非核」という私たちの国が置かれた状況を変えることができるかもしれない。

私たちは、虚構の「国是」を言いたてることをやめなくてはならない。そして、そのうえで、新しい選択として、いまこそ非核3原則を選び直さなくてはならない。しかも、内向きにではなく、核兵器廃絶に向けた世界の世論をリードするかたちで。

そこで必要なものは、もう「唯一の被爆国」という情緒では、おそらくない。核兵器の無意味さを説く理性こそが求められるはずだ。[1999-10-28-23:59]


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