2001/6/18 <社説>考えよう憲法 外国人の権利 一律の公平が通用する  毎日新聞ニュース速報

外国人の増加には、目を見張るものがある。昨年の来日外国人は500万人の大台を突破した。50年前は約1万8000人だったから、けた違いどころでない。約21万人の定住者を含めた外国人登録者も約168万人に達し、総人口の1・2%を占める。国際結婚や経済活動などで生活基盤を日本に置く外国人も増加の一途をたどる。

ところが、外国人の処遇は、長期滞在者に指紋押なつを義務づけるなど治安面を重視した旧態依然のままだ。日本人と寸分たがわぬ生活をしていても活動目的を逸脱すると、退去強制処分の対象ともなる。

法的扱いは昔のまま

憲法は制定時、来日外国人がビジネス街にあふれ、日本人と一緒に仕事をする状況を想定していたとは考えにくい。外国人の権利に関する明文規定がないのもそのせいだろう。

だが、世界人権宣言後の最高裁判例(1951年)は「いやしくも人たることにより当然享有する人権は不法入国者といえどもこれを有する」と述べた。以後、私的領域とされる基本的人権は国民も外国人も自然人として区別なく保障される、とするのが一般的な憲法解釈だ。

これに対し、公的領域である国家の統治に参加する権利は外国人には認められない、とするのが通説だ。ただし、地方自治体レベルの政治参加については「憲法は禁止していない」とする最高裁判決(95年)が下されている。地方自治は住民によって営まれるのが前提なので、地域共同体の一員である外国人は排除すべきではない、とする考え方だ。

ベトナム反戦運動に関係して在留期間の更新を拒否された米国人英語教師の訴えをめぐる最高裁判決(78年)にも通じる。「外国人には、わが国の政治的意思決定に影響を及ぼす活動など認められないものを除いて政治活動の自由の保障が及ぶ」。やはり地方政治への外国人の参加を憲法は拒んではいない、とする判断だ。

もっとも外国人に地方参政権を認めると、ジレンマに突き当たる。地方政治には国政と切り離せない部分がある。それを認めれば、外国人の国政に関する活動を許さない原則に抵触しかねない。とすると、私的領域として保障すべき表現の自由はどうなるのか。

外国人の権利をめぐっては、問い直すべきテーマが少なくない。日本で永住や長期滞在を希望する外国人が、日本国籍を取得するなら、国籍を同じくする者同士で国家を形成する、という従来の考え方も変更せずに済む。

しかし、長年日本に住み、市民として生活していても、国籍を転じることなど念頭にない外国人が少なくない。むしろ遠い異国で、故国の国籍を一つのアイデンティティーとして大切に守り抜こうとしている。

それでも、生活基盤を置く町で日本人と同様に住民の義務を果たし、地域の共同体に参加しようとするなら、住民としての権利は保障されて当然だろう。権利を制限された者同士が肩寄せ合い、特別なコロニーを作って暮らすより、地域に溶け込む方が双方にとって健康的だ。

何よりも少なからぬ日本人が、日本国籍のまま世界各地で生活している。彼らに相応の権利が与えられることを望むのが人情なら、逆も考えねばならない。相互主義の観点からも、外国人の権利を重視するのは自然な発想だろう。

従来、徴兵義務に象徴される国家への忠誠心を欠くことを理由に、外国人の権利は制約されて当然との考え方が支配的だった。だが、外国人が社会の構成員として相当部分を占めるようになれば、権利をどこまで制限するかより、どこまで与えるかという観点でとらえる必要もありそうだ。

望まれる新しい公平観

すると、「公平」とは何か、という問題も改めて検討しなければならないだろう。これまでは「平等分配」や「一律」を人々は目指してきたが、「応分の公平」といった発想で正義のあり方を見直さないと、割り切れなくなるかもしれない。社会への参画の度合い、果たすべき義務の程度に応じて保障される権利の範囲を加減することも求められていいだろう。

外国人を新しい仲間として迎え入れるならば、永住権を持つ外国人の権利も見直さねばならない。終戦後、諸事情で残留した在日朝鮮・台湾人には日本国籍を一方的に取り上げられた経緯がある。旧西ドイツが第二次大戦中の在独オーストリア人に付与したような国籍選択権は与えられなかった。

「特別永住者」としての権利は拡大されてはきたが、今も基本的人権である職業選択や教育の自由などが保障されているとは言いがたい。日本人とは他の外国人よりもずっと緊密な関係であることも考慮されてしかるべきだ。

アイヌの人権問題も、問い直されねばならない。つい4年前まで「北海道旧土人保護法」を存続させ、民族の誇りを踏みにじってきた経緯は消し去りがたい。古くからの「同胞」との清算を抜きにして、新しい共同体を構築することは許されないだろう。

さまざまな外国人を迎え入れると、自分や隣人のルーツについて、現在のように無頓着ではいられなくなるかもしれない。構成員同士がそれぞれの社会的資格や義務の程度を正しく理解しなければならないからだ。異文化を尊重することが不可欠であり、差別や偏見の一掃が大前提となる。

結局、相互理解を深めることから、議論が始まるということだろうか。[2001-06-18-00:05]


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