旭 略 誌

鳥羽義廣 編

一 旭の地勢と風土

1 位置と面積

 旭地区(旧中郡旭村、昭和二九年七月一五日平塚市と合併)の位置は平塚市の西部にあり、北緯三五度一九分より三五度二0分四七秒と東経一三九度一七分三0秒より一三九度一九分四0秒との間にある。面積は六・五二平方キロメートル。

2 地形

 淘稜(ゆるぎ)地塊の東部丘陵である大磯丘陵が、南から西へ連なり、東は沖積地の平野部で金目川(花水川)が地区の最東を流れていて、北は丘陵の一部と沖積地とからなっている。

 丘陵の地域は高根、万田、出縄、根坂間、公所の大字地域の一部または大部分がこれに属し、高根の浅間山(一八一米)、万田の湘南平(一七九米)を除くと七0〜一五0米内外の平坦を持つ丘陵で、第三紀層に属する硅質の凝灰質頁岩または角礫岩を主体とする高麗山層がほとんどの基盤となっている。これを黄褐色のローム層が約一0米内外の厚さに堆積し、また一部砂礫層がおおっている。

 平野の地域は纏、徳延、河内、山下、万田、出縄、根坂間、公所の大字区域の一部または大部分がこれに属する。地質は沖積層でこれは地質時代に陥没し、海が丘陵、台地の下まで侵入したのち、陸地の隆起と相模川、金目川(花水川)両河川の運ぶ土砂の堆積により平地がつくられたものと考えられる。また表層は垣土または埴壌土である。

3 気候

 気候としては表日本式気候で、湘南地方の気候区として特長ある気候をつくっており、冬暖かく夏は他の地方と比べて涼しい。

 気温は最近一0年間の平均気温をみると、最高一九・二度、最低マイナス七・五度が記録されている。降水量は総量平均一三三三・二粍。最大日量は一二一・六粍である。しかし丘陵をへだつ大磯と比較すると気温は低いが、これは相模湾の気候的影響を丘陵がさえぎるための現象であり、桜の開花を見ても大磯の方が一週間ほど早い。

 

二 旭のあゆみ

1 縄文時代(BC三00〜BC 七三00前後)の旭

 この時代の旭は平野部が沖積地であるので、内海すなわち古相模湾と考えられ、旭ではとくに南側が高麗山 浅間山、湘南平等の丘陵で外海の荒海を防いでいたので、魚貝類のせい息に適し、また、これに面する丘陵は淘陵地塊に属し鳥獣類の繁殖地でもあった。したがって人々は丘陵、台地が海岸に迫った所、すなわち現在の洪積層台地が沖積層平野に移ろうとする地点に居住し、生活を営んでいた。

(1)万田貝殻坂遺跡(万田貝塚)

 下万田の字熊野台の一角で、万田から出縄に通ずる道路に沿ひ、古くから貝殻坂と呼ばれていた。当時の人々が狩猟や漁労をいとなみ、かれらが貝殻その他の廃物を捨てた場所が貝塚であり、平塚市ではこの万田貝塚が明治期のころからすでに知られていた。

 第一回の発掘は明治の中頃、東京帝国大学教授坪井正五郎博士によって発掘が行なわれ、貝殻、鳥獣骨、石器、土器、土偶などが採集され、「万田貝塚」の名は一躍全国に知られるようになった。第二回の発掘は大正一四年(一九二三)三月、道路改修のさいはからずも発見され、旭の郷土史研究家沢野永太郎氏により貝塚の確認と東京帝国大学人類学教室への通報により、発掘が行われた。

 出土品は県下でも数少くない土偶、貝類は蛤、牡蠣、忘れ貝、蜆(はい)、赤貝、板屋(谷?)貝、きさご等。獣骨は鹿、猪、犬類のものらしき下顎骨等。魚骨はマダイ、スズキ、サメ、クロダイ等、石器は打製石斧、石棒、石錘、黒曜石の石鏃、等。 土器は厚手にして隆起線紋を有するものと、薄手にして、沈刻線紋を有するものの二種類である。 出土した人骨については、頭骨破片、下顎骨、大腿骨であり、推定四千年前のものと推定されている。

 (2) 万田貝塚の出土品から見た縄文時代の旭の人々の生活

 竪穴住居に住み、食糧として石鏃、石斧を使って鹿、猪、穴熊、野兎、鴨、鶴、などを捕え、皮ははいで身にまとった。丸木船でイルカ、クジラを湾内に追い込み、また石錘を使った網で魚類を獲り、干潟で貝類を採集した。 磨石、叩き石を利用して動物の骨を砕き、種子を割った。果実や球根の採集をし食糧とした。装身具として貝を磨いて作り、土器は食物の煮沸や貯蔵用に用いた。 なお石斧、石鏃、貫頭石などは狩猟用に使用したことは言うまでもない。

 (3)日向岡遺跡

 根坂間から公所にかけての丘陵上の平坦地と袖部の畑地に、遺物が散布している。遺物は縄文中期および後期の弥生式土器、土師器が認められる。またこの日向岡の高台に円墳が散在し、かっては中央の大塚と称する前方後円墳に類する古墳の周囲に各々約四・三0米間隔で七基の円墳があったが、削り取られたりして現在はその数に満たない。 しかし遺物の散布状況から見て市内で縄文時代から古墳時代後期に至る大規模の遺跡と考えられる。

2 弥生時代(BC三00〜AD三00頃)の旭

 弥生時代の基盤をなす農耕と金属器の文化は、まずBC三00年頃、水田耕作がひろがり関東に伝播されたのはBC二00からBC一00年前後と推定される。したがって平塚市に於いても海水の後退と相まって広がりゆく沖積平野に、人々は生活の本拠を丘陵や台地の縁から離れて移してゆくが、旭に於いての弥生時代の遺物の散布を見ると、山下、高根、根坂間、公所などの丘陵地帯に土器片が採集されているのでこの時代に於いても、旭の人達は沖積平野に進出していないことが考えられる。

 弥生時代の旭の人々の生活を推定するに、水田は金目川、渋田川の氾濫痕跡である湿地帯の水溜りを利用して、直播きなどによる粗放な稲作であり、したがって住居は縄文時代よりの丘陵上や台地の環境の良い場所に引続いて住んでいたものと思われる。

 3 古墳時代(AD三00〜AD七00)の旭

 古墳時代の後期になると族長的性格の濃厚であった国造や氏族長の治下から、初めて中央集権国家の地方行政区画が整えられ、国、郡、里の制が定められ、また班田制が布かれた(大化二年〜六四六〜)。 この時代の旭は、大住ノ郡片岡ノ郷 [ 公所、坂間、片岡(金目)、広川(金目)] 川相郷 [ 徳延、河内、纏、寺田縄(金田)、入野(金田)、長持(金田)] と高来ノ郷 [ 高根、山下、万田、高麗、(大磯)]に属していたものと考えられる。

片岡は丘陵に沿った所川相(かわい)ノ郷は川合のあて字で、金目川、鈴川、玉川(現在渋田川)の合流するところを指しており、高来(たかく)ノ郷は現大磯町高麗地区及び付近に高句麗の帰化人が配置されたゆえの名であり三郷に分割されたのは地形上によるものであろう。しかしこの郷名は平安時代承平中(九三一〜九三七)に編輯された「和名類聚抄」に記載されてある郷名であるが、天平七年(七三三)の相模国封戸租交易帳には「大住郡埼取郷・中島郷などの記録があるので、実際に使われたのは奈良時代に入ってからと思われる。したがって当時の郷名には差異があるが、参考までに掲出する。

 (1)根坂間・日向岡八ツ塚古墳

 日向岡遺跡の項で述べたように、氏族の長の墳墓と思われる主墳の周囲に陪塚らしき円墳が七基ばかり、かつては存在していたが、中央の主墳(俗称大塚)は形状が前方後円墳であったが、農地の拡張のため削り取られ、昭和一六年(一九四一)頃の計測で、長さ約九米、幅約四米であったといい、陪塚も五基ほど確認されている。またこの日向岡は眺望きわめて良く先住の人々の生活環境としては申し分ない居住地であったかも知れない。

 (2)出縄・木塚(丸山)

 円丘で正面は東南を指し、三成の段となっている。周囲は太平洋戦争前まで約三一0米ほどあったが、それでも附近は農耕のため開墾されており、壮大な円丘であったであろう。木塚は里人たちは「丸山」と呼び貴人の墓と云う。この木塚は”木の宮伝説”にゆかりあるものと云われているが、”木の宮伝説”は平安朝なので後代になる。 また万田井戸窪に”みはか道”なるものあって貴人の墓に通ずるとあるが、この木塚を指しているものかも知れず。 なお木塚の下を流れる木塚川の川名は、この木塚より起こったものである。

 4 奈良時代(七00〜八00)の旭

 古墳時代の地方分権的国造や氏の上の豪族による氏族制度は、大化の改新によっても旧氏族の勢力は一朝にして崩壊できなかったことはその現在残るところの大小の古墳によって察せられる。 古墳時代末期から奈良時代に入ると中央集権的国家の強力化により、文化の後進地域である関東地方はその開発に、朝鮮から帰化した人々を東国に送りこんできた。

 その最初の入植は相模国であると云われ、高来郷の高麗は新羅に滅ぼされた高句麗の王族若光一族が移住して来た地とされ、のち朝廷より、王(こしき)の姓を賜り、大磯、平塚附近一円を領したとある。 この遺名として「もろこし河原」「もろこしの里」などがあり、当時の入植を物語るものがある。 またこれらの人々により農耕技術などは急速に進歩し、池が掘られ水田が作られ、沼地、ドブ地帯の水田には田舟等が使用され、直播きより苗が植えられるようになり収穫量も増大した。この時代に造られた旭の横穴墓群の出土品を見ても朝鮮文化の影響が認められる。霊亀二年(七一六)相模国に散在する帰化人は再び武蔵国に移住を命ぜられて去って行った。

 (1)根坂間横穴墓群

 根坂間宝珠院大日堂の裏山にあり、昭和七年(一九三二)一二月、根坂間より日向岡を経て吉沢に抜ける林道工事が行われ、翌八年一月一五日発見されたもので、石野瑛氏の調査が行われた。(当時石野氏は横浜第二中学校教諭)墓群は八基であるが現在は五基が保存されている。 さらにこの八基のほかに南に隣接する所にも八基の墓群が、後に確認されている。 宝珠院裏の墓群の形状は第一号横穴を例にとると、羨門の幅七八糎奥行五米三糎、奥壁の幅二米九三糎で袋状をなし、高さは奥壁で一米七五糎である。 出土品は、人骨、(二体以上の合葬)。須恵器、土師器。玉類として瑪瑙、出雲、琥珀、水晶の丸玉、管玉、勾玉。鉄鏃。直刀。金環(青銅鍍金)。轡の一部等の馬具などが出土した。 なお四号横穴からは県下でも類例のきわめて少ない銅製の鈴釧を出土している。 これは祭祀用であると云われているが、百済の王族の墳墓からも、この鈴釧(鈴は六個)と同じものが馬具として出土しているので、比較して研究する余地があろう。 七世紀前半のものと推定される。

 (2)万田八重久保横穴墓群

 万田八重久保は北、西、南の三方は五0米から百米に至る丘陵に囲まれ、東方のみわずかに開けて漸次低下して平地となっている。この横穴墓群の所は古来より山林であって槙山であった。 横穴墓群の発見は同地の吉川直次郎が、同志の真壁氏よりこれを購入し、槙を伐採して栗林を造成しようと計画し、開墾中突然穴の中に転落して初めて横穴のあることを発見したのである。 その後墓群の発掘を行い二0基の存在を認めた。 出土品は土器、勾玉、直刀等を多数出土した。 明治三一年(一八九八)東京帝国大学人類学教室坪井正五郎氏、八木奘三郎氏、水谷乙次郎氏が出張し、大小三八基の横穴を確認した。 出土品は人類学教室に持ち帰えったほか、吉川家に保管されていた出土品は人類学教室と当時、大磯南本町に別邸を持っていた岩崎稲之助男爵に寄贈された。現在は一七基の存在が確認され他は再び埋没したものと思われる。 この横穴墓群の中で一番大きいのは第一0号横穴で、深さ四・八米、入口の幅一・八米、高さ一・九米奥壁の幅三・0米、高さ二・一米である。七世紀末頃のものと推定される。

 (3)高根横穴墓群(奈良時代をくだるもの)

 高根の殿の上、即わち大磯丘陵の東端より北東に伸びる裾の東向き斜面にあり、標高は二四米〜四0米の間にある。 現在の川口氏宅の裏山である。調査は昭和九年(一九三四)石野瑛氏によって行なわれるが、この時はすでに八基が開口していたので開口の時代は早いものと思われる。 石野氏の調査によれば羨門(えんもん)が東方に開き、大体団扇型をなし奥壁には棺座や造付石棺を施設し、棺座には礫石が床面に敷かれていたと云われ、深さは三・一米から四・二米、入口の幅は一・一米、入口の高さ一・0五米から一・七五米、奥壁の幅二米から二・七米、奥壁の高さ一・五米から一・八米と八基について計測があり、出土品としては須恵器、玉類、馬具、直刀、金環、そして銅鏡が出土している。のち昭和三九年(一九六四)と五0年三月に日野一郎氏が調査を行ない現在、北群一三基、南群一二基の計二五基が確認されている。その時の出土置物は須恵器、馬具(雲珠と杏葉)、鉄鏃、金属のかざり、耳環、玉類、ガラス小玉が採集されている。天井のアーチ形、舟底形、須恵器杯などからして年代は奈良朝期にくだるものと考えられるが、横穴墓群の紹介上、奈良時代の項に入れたものである。

 このように貴人、豪族に類する横穴墓が存在することは、大化の改新以後の新制施行にも旧氏族と妥協的手心が加えられ、郡司には国造、氏の上などが任用され、その他官吏に氏族が登用されて変質的氏族制度の延長であることを物語っているものと思われる。

 (4)万田高村遺跡

 昭和四七年(一九七二)日本住宅公団買収用地内に於いて発掘が実施された。この遺跡は万田貝塚、根坂間遺跡、五領が台貝塚(広川)の遺跡に囲まれた。現在標高八米〜九・五米の沖積低地にある。遺物の出土量はきわめて微量で、しかもその中心地が明確でない。層位は二〜三層の褐色土層に限られ、各時代の遺物が混在していた。遺物は縄文土器(万田貝塚出土の縄文土器と類似)土師器、須恵器、石器(石錘)などであるが、これらの遺物は摩耗度が著しく、かつ土層状態もプライマリーなものでなく付近の流土か、田畑開墾時の客土と考えられる。万田の文禄三年(一五九四)の水帳を見るに、小字が四一ほど記載されており、水田域に「高くら」なる小字名がある。この「高くら」は現在の小字「高村」およびその付近を指している。地名から考慮すると「高くら」は、大きな一族の意と弥生式時代以降の稲の貯蔵庫を意味しているが、この地名と低湿地の客土、そして客土内に包含されていた遺物から類推して旭地区でいち早く粗放的な稲作から脱皮して、水稲耕作を行った所と考えられるものであるが今後の課題とすべきであろう。またこの高村遺跡は奈良朝期をくだるものかも知れないが、一応この時代に記載するものである。なお日本住宅公団の高村団地の団地名は、この小字「高村」にちなみ、繁栄を期待して名付けられたものである。ちなみに「高村の地名を推奨したのは著者であることを付記する。

 5 平安時代(八00〜一一九二)の旭

 大化の改新の新制度も着実にその歩を進めている感があるが、実際は多くの矛盾と不満が内蔵し、平安朝期に入ると崩れ出し荘園時代を現出する。その一つの表れとして郡司は地方の豪族が任用されることが多いため、必然的に傘下の農民との間に主従的情誼が発生し、農民と国司の間には深い溝が作られた。承和七年(八四一)大住郡の郡司である壬生直広主(みぶのあたえひろぬし)は租税、借稲に苦しむ農民のために、私稲一万六千束を出して代納し窮民を救ったかどにより朝廷より位階を上げられている。

 また国郡制の崩壊の序曲として、班田制は延喜(九0一〜九二二)以後廃絶し、氏族の部曲に代わる公民の兵役による軍団(郡単位)はすでに奈良時代末延暦一一年(七九二)に廃止されている。国郡制の支配権が弱まるにつれ、不輸租田の増加、買得、寄進行為開墾地の私有化などによる私領化が現われ、領主権が発生する。領主権の発達に伴い、その私領を国家の介入など防ぐため、名義上の支配者をいただき、私領権利の保存を図るなど複雑な組織が構成された。荘園も不在地主たる領主の統制が弱まるに従い、在地地主名主(みょうしゅ)が現われ、これら地主が武力を蓄えるに及び領主は統制上荘官(荘司)に任じ、のち荘司・名主は武士となり武家体制を築き上げていく。旭における名主の私有地である名田の遺名として、徳延、松延、朝氏、久松などがあるが、これらの名田は鎌倉期末から室町期初めの頃のものと思われるが、参考として載せるものである。

 この時代の旭は、前出の大住ノ郡片岡ノ郷・川相ノ郷・高来ノ郷に分割されているが、藤原冬嗣五世の孫、如丘(ゆきたか)が相模守として下向。その後帰京せず任地に在留して私領を増し荘園を経営するに至った「粕屋(糟屋)荘」に属した。のちこの粕屋荘も荘園維持のため名義上皇室御領荘園である安楽寿院領となり、如丘の孫盛季は荘司となり粕屋ノ荘司と称した。末期になると名主である武士団の台頭により、高来ノ郡は消滅し「山下郷(高根・山下・万田・出縄)」ができ、北には片岡ノ郷より新たに「坂間郷(根坂間・公所・河内)」が発生した。山下の郷名は高麗山の下の意、坂間の郷名はこの他に一町半ばかりなる坂があり、この坂の附近に古来より集落があったので名付けられたものであるので、「栄区(さかま)」の表現形態であるという説があるがうなずけない。いずれも地形名である。

 (1)国府の余綾遷府と旭の古道

 相模国府(高座国府)は最初、国分寺と共に海老名市国分に置かれたが、元慶二年(八七八)の大地震で倒壊したのを期に大住郡に遷された。この大住国府も、交通の重心が南え下るに従い。平安時代末の治承二〜三年(一一七八〜七九)頃、余綾郡に移転した。現在の大磯町国府本郷である。従って全綾国府に通ずる道として坂本駅(南足柄市関本)から小総駅(小田原市小竹)から川匂(二宮町)から国府 また国府から月京(大磯町)から寺坂(大磯町)から吉沢(平塚市)があり、吉沢から金目え抜ける道と、吉沢から出縄、根坂間、公所を経て北東と東南の花水川下流へ向かう道が既にあったと考えられ、もっと古い道として「三ノ宮道」は旭の西部丘陵の高所を北から南に向かう道で、旧大住国府から余綾国府え通ずる道であったであろう。下ってこの道は三ノ宮比々多神社の神輿が国府祭のとき通過するのに用いられ現在は農道となっている。なおこの古道は古淘綾郡と大住郡との境界線をなしているものと考えられ、一考を要するものである。

 (2)寺院と集落

 この時代に創建された寺院に根坂間の宝珠院 [ 天台宗、朝光山大門寺、開山は慶順、建久の頃(一一四五〜五0)開創 ]、と同じく根坂間に青柳院 [天台宗、滝見山観音寺、高根荘厳寺末、開山 安詳。 天慶二年(九三九)開創 ]、の二寺が当時の坂間郷にあり、また高根(山下郷)に荘厳寺[ 天台宗、剣光山宝蔵寺、開基慈覚大師 仁寿三年(八五四)開創] がある。いずれも天台宗派であり、各寺院の縁起によれば立派な堂塔を持っていることが知れ、豪族の後援がなければ、かかる伽藍は創建されえぬ事が判ることと、必然的に中世農村の初期名主層の拠点と集落があったことを物語るものであろう。また平ノ将門平定以後の関東地方の開発は、武士団の興起と人口の増加を来している。

 2 鎌倉時代(一一九二〜一三三三)の旭

 平安時代末になると荘司、名主は開墾その他非合法手段により私有地を増し勢力を伸長する。そして他よりの侵略を防ぐため武器を持ち武士となり。武力と経済を背景にし武家統治えと移行。源頼朝が鎌倉に幕府を開くに及んで武家統制が確立され、武士は源氏の家人となり地頭職を安堵もしくは、新たに公領荘園に配された。 これにより荘園は本来の形である「本家-領主」の系列以外に「幕府-地頭」の別系統が新たに並立したため、変形的な二重支配の構成になってしまうが、これが荘園の崩壊の起因の一つとなり、封建制度へ移る起点ともなるのである。

 (1)坂間郷

 鎌倉時代に入ると旭地区が南は山下郷(高根、出縄、徳延、纏)と北は坂間郷(根坂間、公所、河内)に分かれて、各々武士田が地頭となり幕府の荘園である二郷を掌握するのである。坂間郷に於いては、平安時代末期 寿永三年(一一八四)六月三日、鶴岡若宮相模字新三郎家真に対し、源頼朝は新三郎家家真が中坂間郷にある給田一町、給田一町、在家一宇の公事課役を免除する旨の令書を出している(鎌倉鶴岡社人金子氏所蔵文書)。 この文書を見ても鎌倉武士が来り住居する邸宅が既にあり、以後鎌倉武士団が坂間郷に移住して来たのである。またこの証左として、鎌倉武士が信仰する八幡神がこの地に勧誘されたことは、公所堀内の西に八幡山と称する山があり、古伝に八幡社を祀る故名づくとある。また公所には矢倉(羨道のない横穴の墓)が二基ほど認められている。のち在地武士坂間氏を生じている。

 a 八剣神社と馬場

 八剣神社は坂間郷の総鎮守で祭神は日本武尊。鎌倉時代には根坂間と公所の中間(鳥居戸)にあり、のち坂間郷が分村したるときまた神社も分れ、根坂間の字小宮に移ったため「胡宮明神」と唱えたが、宝永四年(一七0七)に至り旧に復し八剣神社となった。当時は坂間郷の住民の尊崇ある社として、祭時には物品交換などの市が開かれたであろうし、祭、または調練のための馬場があったと伝えられ、馬場の終点が今なお「馬場先」なる遺名を残している。

 b 和田ノ乱と大門寺の焼失

 建暦三年(一二一四)五月、和田義盛は北条義時に怨むことあって兵を挙げ、幕府を囲んだ。この時、和田方に大住ノ郡の武士団があまた参加し遂に和田氏とともに戦死をした。即わち土屋次郎義清(土屋)、岡崎余一実忠父子(岡崎、真田)、豊田平太(豊田)、四宮三郎(四之宮)がそれである。しかしこの他に坂間郷の武士団もいずれかに参加したことは史書に載ってはいないが、宝珠院の縁起によればこの戦乱の局地戦が坂間郷に及び、民家は勿論、大門寺の三重宝塔を含む堂舎が兵火のため焼失したとあるので、その存在を知ることができる。

 c 鎌倉古道

 大野地区南原より旭地区の北方え通ずる道路を鎌倉古往還と云う。現在平塚市内鎌倉道と称する古道が幾条かあるが、ただ断片を残すのみで、旭地区のこの鎌倉道は市内で最も著名であり、鎌倉大縄と昔から伝えている。またこの鎌倉大縄に沿って源頼朝の「見返り富士」の名勝そして鎌倉期初め創建と伝えられる浄土宗薬王寺がある。この鎌倉大縄から分岐して根坂間の横穴墓群に至る道に「御通道(おとおりどう)」の名のある坂道がある。いずれも鎌倉武士団とつながりを持つ伝承として好事例である。

 (2)山下郷

 旭地区のほぼ北の部分である坂間郷が在地武士および鎌倉より移り来る武士により占められているが、南の山下郷は今なお鎌倉時代初期の館形式を存する「山下長者屋敷」があり、従って豪族が住んで居たことがわかる。また八條女院の荘園二宮荘(川匂荘)の荘司である中村ノ太郎宗平の四男友平が私領を拡大し、のち地頭職になるに及び余綾郡内に勢力を伸長したので、山下郷もその接点にあり、その範囲下にあったものと考えられるが、のち山下氏の武士団を発生している。

 a 山下長者屋敷

山下の字根岸、北屋敷添(通称堀ノ内)に宅地をめぐって屋敷の遺構である空掘、土塁があって空掘外側より東西(一一0米、南北一一0米の方形単郭の址がある。地形としては大磯丘陵の微高段丘式の東にあり、鎌倉時代初期の館である。この屋敷は初め、名主層の一拠点で経済、政治的勢力を振ったところで、のち防禦のための構築を行なう半士半農の初期武士団の生活の場所と考えられる。また上山下の鎮守八幡神社は長者屋敷の鬼門鎮護のため勧請すという。

 b 山下長者屋敷と虎御前の伝承

 建久四年(一一九三)五月、富士裾野に於いて仇討の本懐を遂げた曾我兄弟は有名である。兄の十郎祐成の愛妾、大磯の「虎御前」は山下の長者屋敷にて育ったという。虎女は寅の年、寅の月、寅の時刻に生まれたので「三寅」といい、のち「虎」と変ったのである。虎女の父は流布本曾我物語では伏見大納言実基とし、重須本曾我物語は宮内判官家長であるとし、母は平塚の夜叉王である。長じて大磯の長者に養女となり十郎祐成と馴染んだ。曾我兄弟の死後、虎女は故郷の山下の里に帰り尼となり、兄弟の菩提のため庵を結び弔うたとある。これが長者屋敷裏にある「住庵の址」であり、また虎女が十郎祐成の文を焼いた文塚(現在の白藤明神の所)伏見大納言ならびに木ノ宮伝説を秘める万田愛宕神社など真実はいずれかにして、当時の武士との交流を物語る伝承がある。

 (3)交通の要地出縄

 山下郷にも坂間郷にも属しない集落として出縄の地がある。これは両郷の中間に位置し交通の要衝であったためらしく、のちに出縄ノ砦が築かれる基因ともなっている。山下郷より分離独立したのは永禄九年(一五六六)であるが、当時、すでに根坂間の字叶屋と共に一集落を成していたと考えられる。また出縄の字叶屋と共に一集落を成していたと考えられる。また出縄の字叶屋より山王山に至る道路を建設中五輪塔が出土した。

 3 南北朝時代(一三三四〜一三九二)の旭

 鎌倉時代の変型的二重支配の構造は国領の荘園化に拍車をかけ、地頭職の相剋も起こり、幕府の執権北条氏と朝廷との反目、元の来襲後の恩賞の不満などの問題が起ってくる。和田ノ乱(建暦三年)、承久ノ乱(承久三年)、宝治ノ乱(宝治元年)が続き元弘ノ乱に至り北条氏は滅亡し建武中興の新政を迎える。しかしこの新政の眼目である荘園整理政策も失敗に帰し、荘園は武家領に変じてゆき荘園の崩壊が始まる。足利尊氏が征夷大将軍となり幕府を開くも、正平七年(一三五二)二月一五日、新田義貞の子義宗、義興、義治兄弟鎌倉に討入らんと兵を挙げるが、その挙兵に参加した中に旭地区の武士団である「坂間、山下」の名が列なっている。そして足利氏と臣従する武士団の武家領に旭地区は塗り替えられてゆき、また私領を経営する名主(みょうしゅ)の名田遺名として、「徳延」「松延」「朝氏」がある。

 (1)坂間郷と山下郷

 元弘、建武、正平ノ乱に至り足利氏に反する者、味方する者によって旭地区もその領知する武士の変動があり、それにより領域の変更と分割が行われた。 建武元年(一三三四)三浦介時継法師が足利尊氏より勲功として与えられた領地のうち「相模国河内郷」とあり、翌二年には時継の子高継に尊氏が与えた領地として、大磯郷、東坂間、三橋、住吉とある(葦名家文書、宇都宮文書)。東坂間とあるのは河内を指し、三橋は徳延、住吉は高根山下万田出縄を含んでいたと思われ、いずれも足利氏に背いた山下郷の武士山下氏と考えられ、領有は没収され三浦父子に与えられたものである。新田義貞遺児三兄弟に組した坂間太郎左衛門尉は、その領地を収められ、東坂間(河内)は三浦時継に、西坂間(公所)は、至徳四年(一三八七)西方寺領に寄進された。残る中坂間(根坂間)は翌嘉慶二年(一三八八)金目観音堂境内の聖天尊供料所に寄進した(新編相模国風土記・南金目光明寺文書)

 4 室町時代(一三九二〜一五七三)の旭

 関東管領足利持氏と執事上杉禅秀と不和になり、禅秀が乱を起こすに及んでこれが関東動乱の糸口となった。応永二四年(一四一七)上杉禅秀の乱後、持氏は相模以西の土地を大森氏に与えるが、永享ノ乱、山内上杉と扇谷上杉の争乱等、旭の地も戦乱の地と化したことは云うまでもない。この武士団の行動はつきつめると荘園の利権をめぐるもので、のち北条早雲が伊豆より起り関東を制圧しその家臣を各地に封ずるに及び荘園は崩れ、封建制を現出するのである。

(1)戦乱の地、旭

 a 永享ノ乱と旭

永享一二年(一四四0)足利持氏の遺児を奉じ、将軍足利義教および上杉憲実を討たんとして挙兵した結城氏朝に呼応して小田原城に兵を起した大森伊豆守氏頼をけん制するため、今川範忠は平塚城に、蒲原播摩守は国府津に、上杉修理亮持朝は相模高麗寺山の下徳宣(徳延)に布陣した(鎌倉大草紙)。 この徳宣(徳延)に陣取るとあるは、山下長者屋敷の北方に接続する昔、住吉神社のあった所、古伝に「住吉長者屋敷址」の古要害と思われるが一考を要するものである。しかし、「とくのぶ」の地名が記された最初である。

 b 出縄城の攻略

山内上杉顕定は許をもって扇谷上杉定正をして太田道灌を殺害させ、のちこの事あらわれて両家は戦端を開くに至った。明応二年(一四九三)九月、上杉定正は上杉顕定の家臣矢野某(矢野安芸入道範泰が一族)が守る手縄城(出縄城)を攻略す・・・とある。この出縄城については、古来より「デナワノトリデ」があったと云われるもので、現在の「かねほり台」と呼ばれるところであり、当時としては東西の交通の要衝であった出縄に城を築いたものである。また出縄の鎮守粟津(粟須)神社は城主矢野氏の勧請するところの「淡洲大明神」であると云う。

 (2)小田原北条氏(後北条)の統治

 明応四年(一四九五)二月一六日、北条早雲は小田原城を攻略し城主大森藤頼は真田城へ逃れる。六年真田城を落城させ大森氏を駆逐し、この時旭地区は北条早雲の領有するところとなる。文亀二年(一五0二)布施三河守康貞をして吉沢に配し、永正七年(一五一0)北条早雲は高麗寺城に拠り、高根に砦を築き(字殿ノ上)吉沢の砦と共に、三浦氏の岡崎城攻略の前進基地とした。この準備成るや早雲は岡崎城を攻め、同九年これを攻略し関東制圧の足がかりを固めた。小田原北条氏は関東を掌中にするや荘園制を打破し、領主-農民の一円知行制を施行し、家臣を各地に封じたのである。また民政に力を用い租税は四公六民の年貢のほか軍事力増強のため附加税を課したが、長年の戦乱にあえぎ塗炭の苦しみを味わった庶民には平和の曙光を見出したかに思われたが、後北条氏の末期にもなると武田、上杉等の外敵に備えるため「増段銭」など臨時課税を行なった為、窮乏する民も増え、兵力強化のため農兵として戦争に徴兵された者も数多かったかも知れない。行政区割としては相模国を大別して、東郡、中郡、西郡とした。中郡は淘綾、大住、愛甲の三郡を包括し、また中郡を大小に分け、北の方を「大中郡」南の方を「小中郡」と唱えた。

 (3)小田原北条氏分封における旭

  a 坂間郷の分割

 永禄二年(一五五九)二月一二日と明記されている小田原衆所領役帳によれば、坂間郷は小田原衆の大藤源七郎信方、伊豆衆の成瀬某、高麗寺領(社領)に分割され、大藤源七郎の所領は西坂間(公所)であり、西坂間には代官所があったので、「公所」とも云った。成瀬某の所領で「大文字」とあるのは「大門寺」で中坂間(根坂間)を指し、高麗寺領は東坂間(河内)と三分割されるが地域は錯雑していた。のち公所坂間、根坂間、河内坂間の唱を生んだ。坂間郷の所領貫高合計は百二十五貫七百八十二文である。

  b 山下郷の分割と出縄

 役帳によると北条氏御家門の大和氏の所領と高麗寺領の山下(山下・高根)と、職人衆筆頭の須藤惣左衛門盛良に与えられた万田、出縄に分割された。 この頃より山下より万田が分かれ、山下郷と坂間郷の接点である出縄が独立した。万田は真田、出縄は手縄から転訛した地名で、真田、手縄はそれぞれ信仰形態から発生したものと一応考えられるが・・・。山下郷と出縄の所領貫高合計は二百七十一貫三百五十八文である。

  c 名田の領有化

 建武中興前後の名主(みょうしゅ)の私領であった名田の徳延、朝氏(友牛)、松延(元は徳延の内)、久松は小田原北条氏の家臣団に分割されるまでは、徳延、河井、徳延の飛地、のちに松延の内となる松延と朝氏久松の二集落を形成していたものと思われるが、いずれも山下郷または坂間郷に属していたか一考を要するものである。役帳によると江戸衆の太田大膳亮が松延、同じく江戸衆の平川左衛門が友牛(朝氏)、津久井衆の矢部修理亮が久松、徳延が伊豆山領(社領)となった。徳延が伊豆山領となっているのは、永正一七年(一五二0)北条氏網が当所を走湯山神領に寄附したためである。これらの所領の貫高を合わせると百二十六貫七百十文となり、坂間郷の生産力とほぼ同じであり、名田(私領)の経営規模が知れるものである。

 5 安土桃山時代(一五七三〜一六0三)の旭

 小田原北条氏の末期、永禄年間になると小田原城攻撃のため、長尾景虎の越後勢や、武田信玄の甲州勢の通過するところとなり、再び戦乱の地と化すのである。わけても永禄四年(一五六一)三月、上杉憲政を奉じた長尾景虎は小田原攻めのさい、山下および高麗山の両側平野部に及ぶ地点に布陣している。天正十八年(一五九0)豊臣秀吉は小田原城を囲むと、その支隊は北条氏の関東の軍事拠点を攻撃した。旭地区も川口但馬守の守備の「殿ノ上」の砦が攻略され、高根の荘厳寺がこの時焼失した。 この余波は記録に残る荘厳寺の兵火のみならず、旭地区一帯は上方勢の侵略するところとなり目をおおうような惨状を繰広げたにちがいない。 この時、坂間の北方である片岡龍源寺に籠もった布施の支族と農兵及びその家族が攻撃を受けて全滅したと伝えられているので、旭地区の状勢を推察できるものである。小田原落城後、徳川家康は関東に入国し、関東の主となり小田原北条氏の旧地の経営に努力するのである。そして旭地区は徳川氏の直轄地となり江戸時代に入る。

 6 江戸時代(一六0三〜一八六七)の旭

 徳川家康は関ヶ原合戦の勝利後、慶長六年(一六0一)東海道の宿駅を指定し幕府自体の施設である伝馬体制を整えるが、のち諸藩、公卿の使用を認め各駅に百人百疋の人馬を常備することとなり交通課役である助郷役を生んだ。旭地区の助郷役を勤める宿駅は大磯宿であった。この助郷役の一番大きな悩みは諸大名の参勤交代であったと思われる。大体参勤交代時は初夏、秋の気候の良い時に行なわれるので、農民にとっては農繁期であるので相当の苦痛であった。のちにはこの課役も他え請負せるようになったが村方からの支出を、これを捻出するに頭を痛めかつ宿と助郷村の問題、助郷役を他村え転嫁する争いなどあり、助郷役は重圧であった知行形態は初め幕府の直轄領(幕領)であったが、追々幕府の行政組織が固まるにつれ、大名えの除封、加封、旗本の増加と加増、そして蔵米取り旗本を知行持旗本えの移行化によって幕領はこれらに替わり、分割されて行くのである。旭の村々もこれに従い行政区画も整理され、大住郡、淘綾郡の旧名も復活して、郡、庄、郷、村名を用いた。

 淘綾郡二宮庄山下郷に属するのは、山下村、高根村、万田村、出縄村、(郷名なし)。 大住郡粕屋庄坂間郷に属するは、根坂間村、公所村、河内村、で郷名のない村は徳延村、松延村、久松村、朝氏村。

 しかし一村内における地頭(旗本)領主(大名)の領地の分割化は相給(二人)もしくは多給(三人以上)の支配となり、これに従う知行付百姓の複雑化と知行地内にある他の知行地(越石)を生み、年貢米やその他賦課金について問題を起すのである。また旭地区内の村々の水田は一部の天水灌漑、溜池灌漑を除いて大部分が金目川の水利を利用していたので、金目川の水利工事や堤防工事には多額の費用がかさみ、その上旭の各村は下流に位置していたので、上流の村々、または隣村と用水について「水争い」を生じた。江戸幕府の立脚する幕藩体制による封建制は諸種の歪を生じ、社会階層も崩れ明治維新を迎えるのである。

 (1)各村の所領形態

  (a) 山下村

 初め全地は幕領であったが、寛永一一年(一六三四)頃、小姓組頭保々石見守貞広に、残余の幕領は享保七年(一七二二)大番の高木又右衛門一忠に分けられ、更に見永七年(一七七八)御書院番組頭日向次郎八郎正英の領地替えに際し分割し明治に至るまで三給の支配形態となる。

  (b) 高根村

 江戸時代の初めは山下村に属していたが、寛永一一年頃、保々石見守貞広の知行地美濃国之内を相模国に替えられる時、高根村が与えられ明治に至る。

  (c) 万田村

 初め幕領であったが、慶安年中(一六四八〜一六五二)松平備前守の領地となるが、のち再び幕領となり元禄一0年(一六九七)書替奉行榊原孫右衛門政茂の知行地と幕領となる。宝永四年(一七0七)榊原主馬政勝の二男政勝分家して万田村之内に知行地を与えられ幕領と二給地となるが、安永七年(一七七八)御書院番組頭日向次郎八郎正英に幕領が割かれ、更に残余の幕領は文化八年(一八一一)旗本白須甲斐守正擁(手扁無しの字)(まさちか)与えられ四給地となり明治に至る。

  (d) 出縄(いでなわ)村

 初め幕領、寛文三年(一六三三)小田原城主稲葉美濃守正則、加思により、一万石を加えられ出縄村を藩領の内とする。元和三年(一六一七)正則の子丹後守正征の時、封地を替えられる際出縄村を幕領に復す。元禄一0年(一六九七)蔵米取知行地替えの時、旗本倉内匠助久富に与えられ明治に至る。

  (e) 根坂間村

 江戸時代に入り初めは元坂間村と唱えていたが、のち根坂間村と称した。根は本〜元の意味である。元禄一二年(一六九0)米倉丹後守昌伊(にんべん無し)(まさただ)五千石加増され、根坂間村を加える以後幕領たりし地、皆川藩領となりのち米倉家武州金沢に移るに及び六浦藩の支配となり明治に至る。

  (f) 河内村

 初め河内坂間村、のち河内村となる。享保一八年(一七三三)幕領なりし河内村を割いて旗本奥村市正矩政(のりまさ)に知行地を与え、延享二年(一七四五)更に残余の幕領は、御側衆高井但馬守信房の知行とするところとなり二給地のまま明治に至る。

  (g) 公所(ぐぞ)村

 初め公所坂間村と唱えしが、のち公所村となる寛文二年(一六六三)幕領より稲葉家(小田原藩)の領地となり、十二年間小田原藩領となりのち再び幕領となる。天禄一0年(一六九七)幕領を分けて奥医師高麗法眼高演(たかのぶ)と御小納戸役加藤肥前守正岑の知行地となる。残る幕領は享保一八年(一七三三)小姓番田沼左衛門意行(田沼意次の父)、及び元文二年(一七三七)御勘定奉行大久保下野守忠位(ただたか)に分給される。天明七年(一七八七)田沼意次の領地没収せられるにつき、田沼氏の知行地分は再び幕領となるも再び、享和三年(一八0三)旗本飯田鉄五郎の知行地となり、合わせて四給となり明治に至る。

  (h) 徳延村

 初め幕領であったが、文化八年(一八二五)御小姓組番頭白須甲斐守政鉄の知行するところとなり明治に至る。

  (i) 松延村

初め幕領、宝暦一二年(一七六二)旗本岡部小左衛門忠政の知行地高座郡内より大住郡内え領地替えのとき、加えられ、明治に至る。

  (j) 久松村

 初め幕領、元禄一0年(一六九七)蔵米取知行地替えの時、御小納戸役石原勘左衛門安種と旗本田中左平太抄房に分割し、残余の幕領はのち松平大和守矩典が領するところとなるが、文化八年(一八一一)旗本白須甲斐守政擁(手扁無し)に与えられ三給地となり、明治に至る。

  (k) 朝氏村

 友牛村と称したが享和三年(一八0三)頃、村名を旧の朝氏に改める。初め幕領たりしが元禄一0年(一六九七)旗本堀喜内直元の知行地となり明治に至る。

 7. 明治時代(一八六七〜一九一二)の旭

 明治維新の動乱を迎え維新政府の樹立により近代国家の道を歩むが、その過程に於いては種々な障害もありまた社会不安もあったことは事実である。地方三治制から十一年の郡区町村編成法施行をして二十二年の市町村制の実施などの行政面の変更。 長年の苦しみであった宿駅伝馬制度の廃止(五年)。 学制制定による小学校の開設(五年)。土地丈量と地券の発行(十年)。平塚停車場開業にともなう産業開発(二十年)。国会開設運動と国会開設(二十三年)等。改革を経て旭地区も大正の時代え移るのである。

 (1)地方制度の改革

 明治元年(一八六八)旧幕府の幕領と旗本の知行地は一旦韮山県の所管となり(旭地区の大部分、一部は六浦県)、其の年の一二月神奈川県の所管に移る。 四年(一八七一)廃藩置県により小田原藩は小田原県となり、大住郡は小田原県の管轄下に入る。 同年一一月小田原県廃止され足柄県が置かれ、県下各郡村を三大区三十一小区に分割、淘綾郡大住郡は第二大区一小区より一一小区に分けられ、旭地区は出縄、万田山下、高根が第二大区小区に属し根坂間、公所、河内、徳延、松延、久松、朝氏が第二大区五小区に配された。 九年(一八七六)足柄県が神奈川県に編入され旭地区は神奈川県第二十二大区に入る。

この年松延、朝氏、久松三村が合併して纏村となる。

一一年(一八七八)一二月万田、出縄、山下、高根四ヶ村の戸長役場を万田村に置き、公所、根坂間、河内、徳延、纏の五ヶ村戸長役場を根坂間に置く。

越えて一七年(一八八四)万田ほか三カ村は生沢ほか六ヶ村と合し、計十一カ村の戸長役場を生沢に置き、根坂間ほか四カ村は広川村ほか四カ村と合流して、計十カ村の戸長役場を広川に置いた。

二十二年(一八八九)市町村制施行により戸長制度と大区小区廃され、新たに町長、村長が任命された。この時、山下、高根、万田、出縄四カ村が合併して山背(やましろ)村が誕生した。 山背村の名称は高麗山-千畳敷の背後にある村の意味である。また根坂間、公所、河内、徳延、纏五カ村も合体して小中(こなか)村となった。 この小中村の名称は小田原北条氏(後北条氏)のころに用いた小中郡の名称復活である。 二九年(一八九六)大住郡と淘綾郡は合併して中郡となり、平安朝の中期以後よりの郡名もこの年消え失せたのである。 四二年(一九0九)四月一日、山背、小中の両村は合併して「旭村」となり河内に役場を置いた。ちなみに四0年の調査による旭の戸数は四0三戸、人口三,三五四人(男一,六九八人、女一,六五六人)である。

 (2)学制制定と小学校開設

 明治四年(一八七一)初めて文部省が設立され、五年八月学制が公布された。先ず全国を八大学区に分け翌六年四月七大学区に変更し各大学区を三十二中学区に分ち、各中学を更に二百十小学区に分割した。一小学区は人口約六百人を目標とし、一中学区は人口約十三万人を標準として発足し、のち数度の学制改革が行われたのである。旭地区では南部に万田小学校、北部に公所小学校が設立され変遷を経て旭小学校に至る。

  (a) 万田小学校

 明治六年(一八七三)高根、山下、万田、出縄四カ村の学区で、万田の大泉寺を仮校舎として開校した。(八カ年制)。一四年校舎を新築して大泉寺より移転す。同年の改正令により六カ年制となり、二五年(一八0二)四カ年義務教育制が実施され尋常山背小学校と改称する。 三0年(一八九七)九月一0日台風により校舎倒壊のため再び大泉寺を仮校舎とする。 三四年二月二一日小中村、山背村組合成立し、尋常山背小学校、尋常小中小学校、高等公所小学校を併合し尋常高等旭小学校となり現在(河内三0七番地)に開校した。 山背、小中村合併の四二年に先だつこと八年前のことである。

  (b) 公所小学校

 明治六年(一八七三)の旭地区北部(大住郡)の就学区域は、根坂間、公所、河内、徳延、纏、広川、片岡、千須谷、吉沢の九カ村であったので、広川村善福寺を仮校舎とし広川小学校温知館が開校した。一二年(一八七九)校舎を公所に建て旭地区の児童を収容する。二五年(一八0二)尋常小中小学校と改称。翌年小中、山背村組合立高等公所小学校を創設し、三四年(一九0一)尋常山背小学校と合併し尋常高等旭小学校となる。

 (2)平塚停車場開業に伴う産業開発

 明治二0年(一八八七)七月一一日平塚停車場が開業すると以後、旅客貨物の輸送が活発となり相模川の砂利と、京浜地区への農産物の出荷が便利となり、旭地区の胡瓜、大野地区の甘藷、平塚町の桃などの共同出荷が行なわれた。

  (a) 旭地区の早出し蔬菜胡瓜

 嘉永の頃(一八四八〜一八五四)山下村の久保田辰五郎氏が、高座郡より胡瓜の種子を入手して試作したのが始めとされている。鉄道開通後、三0年(一八九七)ごろになると山下村でも十二、三人の胡瓜栽培者がみられ、四0年ごろになると高根の木島才次郎氏が胡瓜の生産を始め、他の生産者と共同で京浜地区え出荷するようになり四三年には「朝陽社」を創立し、共同出荷と早期熟成化を図った。 氏は早出し蔬菜としての胡瓜、茄子の早期栽培に力を注ぎ、作物の消毒にボルドー液をこの地方で最初に使用した人である。 この結果胡瓜栽培はそののち全村に普及し、品質も向上し現在も平塚市の名産となっている。

 8. 大正時代(一九一二〜一九二六)から現代までの旭

 平塚市に於いては大正に入ると、紡績工場の進出による工業資本の導入が目立ち、そして日本爆発物製造会社が海軍省に移管され、海軍火薬廠となりのち軍需工場都市えと変ぼうして行く平塚市の核となるのである。大正一二年(一九二三)九月一日の関東大震災は震源地に近い旭地区に於いても被害を出したことは云うまでもない。 そして大正も過ぎ昭和に入り、日中戦争から太平洋戦争の終結まで軍国時代を経るが、戦後の復興により平塚市は発展し、昭和二九年(一九五四)七月一五日旭村は平塚市と合併し、のちの平塚市と大野町ほか六カ村合併の起因を作ったのである。

 (1)関東大震災の被害

 大正一二年(一九二三)九月一日(土曜日)午前一一時五八分発震。震源地は相模湾北西隅でM七・九を記録した。平塚地方の被害は激甚を極め、至る所の道路は亀裂陥没し、橋梁または橋台は河川に崩落。ことに馬入川と花水川に挟まれた地域は殆んど全滅の惨状であった。旭村もこの被害をうけ全壊二一0戸、半壊一三七戸、破損一00戸であり、死者は二三名、負傷者は三名を数えた。(大正一0年調査の旭村戸数四五九戸。人口三、四0六人)。また山崩れ、地割れがおこり田地の荒廃も著しく、特に主要な産業であった養蚕の被害も大きく、養蚕に使う蚕室の破損は蚕室戸数一三五戸の内、全壊七0戸、半壊四八戸の打撃を受け、蔬菜畑の被害も多大であった。公共施設である尋常高等旭小学校の校舎も大破した。

 (2)軍国時代の旭

 昭和六年(一九三一)九月一八日夜、奉天の柳条溝から端を発した満州事変、それに続く支那事変、そして十六年(一九四一)に始まり二0年八月一五日に終結した太平洋戦に、数多くの若者、壮丁が戦場え赴いた。 戦後これらの人々は故国に復員して来たが遂に帰らぬ人々の内、旭地区の戦死者は満州事変一人、支那事変一一人、太平洋戦争一0八人、その他三人の計一二三名を数えたのである。 太平洋戦争に突入する頃になると物資は窮乏し、国民の生活は最低限まで圧迫され、戦争も末期の二0年(一九四五)七月一六日午後一0時三0分、平塚市が米空軍のB29爆撃機により空襲をうけ、旧市域の七割を焼失し旭地区も被災した。 この前後、旭地区も空母から発進した戦闘機の機銃掃射による被害もあった。 またこの太平洋戦争、万田の千畳敷山(現在の湘南平)に海軍の高射砲陣地が構築され終戦まで活躍した。 なお現在湘南平に至るバス道路の母体は、陣地構築のため附近の人々の勤労奉仕で開通したものである。

 (3)平塚市と合併

 昭和二八年(一九五三)町村合併促進法が施行された。これは明治二二年市町村制施行当初の形のままの町村が、約七0年間の社会経済、文化の諸条件の近代化により機能的にも規模的にも貧弱すぎるという事情によるものである。

 旭村はこの合併促進法に基づき、他町村より一早く平塚市と合併したのが、昭和二九年七月一五日である。合併当時の戸数は六00戸、人口三、六三三人であり、業態生産の割合は都市的業態一三六人、その他の業態(農業を含む)四六四人である。また合併時の旭村の前年度決算額は才入一0、一一八、四九七円で、才出は九、七八二、五八一円であることが報告されている。

 以後、旭村は平塚市に編入され大字名(旧村名)により区分されるが、昭和五二年から入居が始まった「高村団地」は小字の高村が団地の地区名になるなど、旭の歴史を通じて画期的なものであり、また云い換えれば急速なる都市化が進んだ一つの証例でもある。なおこの高村団地の出現により、勝原小学校(勝原は小字)山城中学校(山城は山背の佳字)が新設された。高村団地の建設後は、根坂間から公所にかかる「日向岡」が住宅地となる予定であり、旭地区の太古よりの環境の良好、居住に適することが立証されるもので今後の変ぼうは計り知れないものがある。

 

参考文献

 平塚市文化財調査報告書。平塚市郷土誌事典。平塚小誌。礎柱録。平塚市略年表(一九七二年版)。中郡勢誌、旭村郷土誌稿。新平塚風土記稿。新編相模国風土記。吾妻鏡。出縄氏文書。永享記。大野誌。小田原衆所領役帳。快元僧都記。金子氏所蔵文書。鎌倉大草紙。皇国地誌。伊豆山走湯山文書。徳川実紀。箱(たけかんむりに呂)根山縁起。早川久翁寺文書。平塚市遺跡分布調査報告書。平塚市史教育篇資料明治編。平塚市図録。平塚繁昌記。ふるさとの歩み。北条記。北条五代記。正木文書。倭名類聚抄。

 

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