杉田久(1890-1946)
明治23年5月30日ー昭和21年1月21日 55歳  (無憂院釋久欣妙恒大姉)
愛知県豊田市小原町松名・杉田家墓所


花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ

紫陽花に秋冷いたる信濃かな
谺して山ほととぎすほしいまま
足袋つぐやノラともならず教師妻
白妙の菊の枕をぬひ上げし
鶴舞ふや日は金色の雲を得て
風に落つ楊貴妃桜房のまま
朝顔や濁り初めたる市の空
ぬかづけばわれも善女や仏生会

 久女のあまりにも熱情的な行動は、やがて虚子の勘気にふれ、「ホトトギス」昭和11年10月号に出された公告「従来の同人のうち、日野草城、吉岡禅寺洞、杉田久女を削除し…云々」によって、久女の作句活動は完全に行き場を失ってしまった。「鳥雲にわれは明日たつ筑紫かな」、「杉田久女句集」の棹尾に収まったこの句をもって久女の作句人生は自ら終止符を打ったのだが、生きる希望もなく精神を病み、抜け殻のようになった久女の歩みゆく先に見えているものは死しかなかった。昭和21年1月21日午前1時30分、太宰府・筑紫保養院、肉親の誰に看取られることもなく逝った久女の亡骸に悔恨を残して酷寒の朝は明けたのだった。

  小倉から夫杉田宇内が久女の遺骨を抱いて還ったのは40年ぶりの故郷であった。三百年も続いた旧家とはいえ、山深い僻村の杉田家に久女の安息する住処はなかったはずであろうに。長屋門をくぐり抜け、蒼々と人気を失った屋敷跡、隅に建てられた観音像が一身に陽を浴びている。傍らに並びて「灌沐の浄法身を拝しける」の句碑。落ち葉を踏みしめ裏山の竹林道を登っていくと、ひときわ気の鎮まった広がりがあった。大小様々な数十基の一族の墓々、手前のほうに「西信院釈慈光照宇居士/無憂院釈久欣妙恒大姉」墓、苦悶と怨念、口惜しさを宿してしじまの中にある。