中 勘助(1885-1965)
明治18年5月22日ー昭和40年5月3日 80歳 (慈恩院明恵勘真居士)
青山霊園

ある晩かなりふけてから私は後の山から月のあがるのを見ながら花壇のなかに立っていた。幾千の虫たちは小さな鈴をふり、潮風は畑をこえて海の香と浪の音をはこぶ。離れの円窓にはまだ火影がさして、そのまえの蓮瓶にはすぎた夕だちの涼しさを玉にしてる幾枚の棄とほの白くつぼんだ花がみえる。私はあらゆる思いのうちでもっとも深い名のない思いに沈んでひと夜ひと夜に不具になってゆく月を我を忘れて眺めていた。……そんなにしてるうちにふと気がついたらいつのまにかおなじ花壇のなかに姉様が立っていた。月も花もなくなってしまった。絵のように影をうつした池の面にさっと水鳥がおりるときにすべての影はいちどに消えてさりげなく浮かんだ白い姿ばかりになるように。私はあたふたとして
「月が……」
といいかけたがあいにくそのとき姉様は気をきかせてむこうへ行きかけてたのではっとして耳まで赤くなった。そんな些細なこと、ちょっとした言葉のまちがいやばつのわるさなどのためにひどく恥かしい思いをするたちであった。姉様はそのまましずかに足をはこび花のまわりを小さくまわってもとのところへもどりながら
「ほんとうにようございますこと」
と巧みにつくろってくれたのを私は心から嬉しくもありがたくも思った。
(銀の匙)
中勘助の日記体随筆を読むことは、私にとって非常な苦痛を伴うものであった。彼の生涯は「銀の匙」とそれぞれの随筆によって彼自身の愛の偽善を、自己肯定として飾っていくのである。この作家にとって他者は、自分を写す鏡の限られた面の中にしか存在しない都合のよい対象であったのだろうか。勘助の結婚は57歳の時であったが、脳溢血の後遺症によって数十年にわたって、彼を悩まし続けた兄の死の日でもあった。重りをとかれた以後の淡々とした生き方の後、昭和40年5月の嵐の夜、日本医科大学病院にて脳出血のため死去した。
小説家というよりも詩人でありたいと意識した作家の墓が目の前にあった。幾度かのプラトニックな愛を経た、ナルシストの作家、文壇的には「孤高の作家」とよばれた人の墓である。塋域にある「中家之墓」と刻された、碑文字も判然としないほど黒ずんだ墓石には樹葉が覆い被さり、並んだ二基の墓の間には木の根っこが異様に這い出していた。