三好十郎(1902-1958)
明治35年4月21日ー昭和33年12月16日 57歳
多磨霊園
テオよ、こちらでは、毎日良い日が続く。と言つても天気の事ではない。天気は、アルルでは風のない静かな一日に対して風の日が三日つづく。この風を土地の人はミストブルと言う。恐ろしくイライラと神経をかき立てる風だ。だが、花の咲きそろつた果樹園は早く描かないと、待つてくれない。だから俺は地面にくいを差して、それにイーゼルを縛りつけて、風の中でも仕事をしている。俺はドンドン、ドンドン描いて行く。ライラック色の耕地、赤い色の葦の垣根、かがやかしい青と白の空に伸びている二本のローズ色の李の樹。これは恐らく、俺の描いた一番良い風景だ。…ちようどこの絵を描きあげて、黄色い家に持ち帰つたら、モーヴが死んだことを知らせる妹からの手紙が来ていた。モーヴは最後には俺を突き離した。しかし親切な良い人間だつた。何か---それは何だか俺にはわからないが---俺を捕えたものがあつて、俺のノドの奥に塊のようなものが、こみあげて来た。俺はこの絵に描き入れた。「モーヴの想い出のために。ヴィンセントとテオ」。もし君が賛成ならば、これを俺たち二人からモーヴ夫人に贈ろう。俺にはモーヴの想い出についてのすべての事は、直ちに和やかな明るいものにならなければならぬ。そして一枚の習作でも墓場の暗い感じを持たせてはならぬと思う。
死者を死せりと思うなかれ、
人々の生ある限り、その中に
死者は生きむ、死者は生きむ。
(炎の人)
「静かな夕かたの深い味わいが、しみじみとわかるようになったのは、病気にたおれて、寝たきりになってからだと言える。」と病中日記に書いてから3年を経ようとしていた。昭和33年12月16日夕刻、世田谷・赤堤の自宅書斎には肺結核に病む三好が静かに横臥している。人間性を追求し、孤高を貫いた劇作家、作者自身の投影ともいわれる「炎の人」は息絶えた。
長女まりの設計になる「三好十郎」の碑は自署を刻し、低い石塀を巡らせた塋域に立っている。霊域の虚無感はない。「人間の中でも一番人間くさい弱さと缺點を持ち/それらを全部ひきずりながら/けだかく戦い/戦い抜いた。」ゴッホに惹かれ、ゴッホに対峙し、花束を捧げた三好十郎に、「いつも新らしい/美と新らしい命への目を開いてくれ、/貧しく素朴なる人々に/けなげに生きる勇気を与える。」--その絵を愛する「貧しい心を持った日本人」から拍手を送る。
