嬉野泉氏への追悼文集


「追悼文」 菅原希

 嬉野泉こと菅原豊次の娘です。

 この度は「ボレアス」編集者秋山様が、父の追悼号を出して下さるとの事で、
 父に代わりまして、皆様に御礼・ご挨拶をさせて頂きたく「追悼文」を寄せさせて頂きます。

 父は「本当は天文学者になりたかった。」とよく口にしていました。

 それまで読むだけだったSFを書き始めてからは、それが生きがいだった様です。
 色々な雑誌に投稿したり、SFの会に入会したり、そして「ボレアス」を主宰させて頂いて、SFのお仲間とふれ合う事はとても楽しかった様です。
 気難しい父でしたが、趣味の世界ではとても充実した日々と時間を過ごしていた様で、娘としてもとても嬉しく思っています。

 晩年は月に何度か老健で診察をしつつ、主な時間は本を読み、SF小説を書き、好きなTV(主にクイズ番組や、笑点、何でも鑑定団 etc)を見て過ごしていました。
 未曾有の大災害とは言え、この様な形で元気だった父を失ってしまった事は、本当に残念で悔しく思っています。

 余談ですが、父は医師として一度も誤診はしませんでした。
 人の命を預かる仕事でしたので、父に代わって一つ自慢をしてみましょうか・・・。

 正直私には父の小説は難しい内容でしたが、皆様は面白かったですか?楽しんで頂けましたでしょうか。

 本当に長い間「ボレアス」と父の小説を読んで頂き有難うございました。
 父に代わりまして御礼申し上げます。
 長きに渡り「ボレアス」を刊行頂いた秋山様にも心から御礼申し上げます。


「菅原先生のこと」 青山 智樹

 菅原先生と始めてあった時のことは覚えていない。
 ただ、それが三十年ぐらい近い昔であるのは間違いない。
 菅原先生はぼくがSFのファン活動に最初に首を突っ込んだ小松左京研究会の初期メンバーだったからだ。
 「奇想天外」誌で矢野徹さんがお題を出してそれに読者が応えて作品にする、という企画が立てられその一位に菅原先生が選ばれるのを見て「うわあ。あの人、凄い人だったんだ」と思ったのを覚えているから、その前なのは間違いない。
 大学生になったぼくは「宇宙塵」に参加した。
 このあたりで秋山英時さんとも親交を深くしていった。
 同時に、ここが菅原先生との強い接点になった。
 ちょうどその頃、娘さんが東京の学校に通っている、と言うので娘さんの顔を見がてら毎月のように石巻から自由が丘へおいでになった。大変ですねぇ、というと「いまは新幹線があるから、すぐだ」と答えられた。

 やはりネット応募だかなんだかの作品募集に菅原先生が選ばれたことがあった。当時のこととて、ネットというよりコンピューター通信である。菅原先生の所にワープロはあったが、接続環境がない。郵政省メールで手紙をいただき、プリントアウトしてお送りした。お返しに誇張なしに段ボール一箱ほどのサンマをいただいた。サンマは足が速い。とても嫁さんと二人で食べきれる量ではない。実家や友人にお裾分けして、塩焼きにして食べた。お裾分けしたのを後悔した。新鮮で、脂ののった極上のサンマだった。
 あんな美味しいサンマを食べたことがない。

 医師としての信念からか、菅原先生はプロ作家になろうとはせずにアマチュアに徹した。ぼくはボレアス誌の熱心な読者ではなかったが、「嬉野泉」名義で宇宙塵に発表された作品群は傑作揃いだった。
「天震」「安楽死裁判」「三月来たる」「四月尽」「氷河鉄道」……。
 ぼくなど及びも付かない素晴らしい発想の作品群である。

 娘さんが学校を卒業してしまうと、さすがに東京にやってくる回数は減った。
 だが、当時まだそれほど普及していなかったワープロを駆使して「ボレアス」誌を創刊した。ボレアス誌の新しい号ができると「ほら、買っていけ」と持ってくる。
 お元気だった柴野先生も「菅原先生はほとんど押し売りだよ」と言いながらも笑顔でボレアス誌を受け取っていた。

 あれは第何回目の日本SF大会だったろう? 確か白馬で開かれたやつだ。ぼくと嫁さんは一歳になったかならないかの娘を連れて参加した。宿の都合でどうしても相部屋にならざるを得ない。夫婦別々で見知らぬ人と一緒になっても良いのだが、娘が気にかかる。ほんの赤ん坊なのだ。
 菅原先生に同室をお願いした。
 夜の企画で娘を嫁さんに託し、自分の企画に出て部屋に帰ると、嫁さんの姿はなく菅原先生が娘を寝かしつけているではないか。
「大変だったんだぞう。鼻つまらせて、チアノーゼ起こしたんで鼻管吸入して、心臓マッサージまでしたんだ」
 菅原先生の与太話など気にせず、娘はスースーと寝息を立てている。
 ぼくは礼を告げ、娘をおんぶしてカラオケ部屋に向かうと、嫁さんはアニカラを絶唱していた。

 医師としての菅原先生はどうだったのだろう?
 個人的にはガン告知を受けたことがある(笑)。
 どうも右の脇腹が痛い。菅原先生にそのことを話すと
「ちょっと、そこに横になってみい」
 とおっしゃる。(たまたま)和室だったのだ。
 菅原先生は患部(?)に片手をあて、その上からもう一方の手で軽く叩いた。
「うお」
 と、うめくほどの激痛が走った。
「肝臓ガンだな。まあ、持って三ヶ月って所だ。いまのうちに身の回り整理しとけ」
 あまり真面目に取らなかったが、後に日赤に行ってバリウムで検査してもらったらこちらの答えはすげないものだった。
「胃でも悪いんでしょう」
 菅原先生に
「誤診ですよ」
 と告げても笑っているだけだった。

 いま思えば残念なのが「菅原衛生博覧会」を見逃したことである。
 三十年以上前「ダテコン」と称して菅原先生を中心として地方コンベンションがあったと聴く(ご存じの方がいらしたら是非詳しくお願いします)。ダテコンや、あるいはその他小コンベンションに菅原先生は医学系のスライドを持ち込んで上映したという。その時々のテーマも決まっていて「今回は、遺伝子異常」とか言って、時には食事時に説明付きで上映したという。
「うわぁー」とか「ギャアー」という恐怖の叫びが上がったとも、あるいはみな興味津々で見入っていたとも伝えられるが、真偽のほどは現場にいた方にしか判らないだろう。

 思い出深いのが十年ほど前。
 石巻に石ノ森萬画館ができてしばらくした時、見物に行こうとの話が持ち上がった。

「おう、こい。案内するぞ」
 との、菅原先生の言葉に甘えて十人ほどで石巻に押しかけた。宿まで菅原先生に取ってもらってしまった。
 石ノ森記念館は当然、石巻を一望する公園や、伊達政宗が建造した船のレプリカがある博物館、女川漁港とその資料館のような所に連れていってもらった。寿司まで奢ってもらった。
 驚いたのが行く先々で「先生、お元気ですか」と道行く人たちが挨拶していく所だった。かなりの名士だったのだ。
 中には口さがない人もいて、
「あの人も若い頃は名医だったんだけれどねぇ」
 と言ってくる人もいたが、そう言ってくれるからには名医だったのだろうし、多くの人々が菅原先生のお世話になっていたに違いない。
 もちろん、嫌がる菅原先生を拝み倒し、お宅にも押しかけた。北上川に沿った、医院と自宅が隣接した黄色い建物である。後になってグーグルアースで北上川左岸を見ていくと「あ、ここだ」と目立つ建物だった。
 応接室の書棚にはずらりと古今のSFが並び「あ、××がある。初版だ」などと騒ぐと、さすがに苦い顔をして「だから連れてきたくなかったんだ」とおっしゃる。

 たぶん、最後に姿をお見かけしたのは去年、柴野先生の通夜だったと思う。
 通夜が終わる頃、中折れ帽を被り、マフラーを巻いた方がそそくさと帰ろうとする。菅原先生のいつものスタイルである。
「あれ、菅原先生?」
 後ろ姿にそう思ったが、追いかける所まではしなかった。無論、菅原先生なら柴野先生のこととなれば石巻からやってくるだろう。お身体を壊されて入院されたとか、医院を廃業なさったと聞いて心配していたが、まだ神奈川まで出てくる元気があるんだ、と安心した。
 地震、津波と聞いて北上川沿いの菅原医院の事を真っ先に思い浮かべた。

 被災者の部分にお名前があったが、菅原先生なら、きっと患者ではなく、医師団の方に加わって飛び回っていたに違いない。
 いまでもまだ菅原先生は医師として不眠不休で被災者たちを助け、働きすぎて
「あー、疲れた。おれはもう寝る」
 とか言って、診療室の仮眠用ソファで眠るようになくなったと信じている。


「石巻の夜」 岡本 賢一

 宇宙塵の旅行で石巻におじゃました時は、いろいろとお世話になりました。
 またひとつ、老舗の同人誌が主催者の鬼籍入りと共に消えてしまうことを残念に思います。
 ボレアスに掲載しようと思った僕の作品は、ほぼ完成しているのですが、間に合いませんでした。それも心残りです。
 今回の災害をふまえて先生はどんな小説を書かかれるのでしょうか?
 いずれ読ませていただきたく存じます。それまで、僕はこちらで、もう少しがんばります。
 ご冥福をお祈りいたします。


「追悼 嬉野泉先生」 中沢 学

 私と嬉野先生との接点は少ない。
 SF大会でペガサスの表紙に引かれて「ボレアス15」を先生手ずからを求め、『黄庭狂詩曲』の秀逸な下品さに脱帽し、「ボレアス20」を求めたディラーズルームで、当時は珍しかった秋山氏によるCGの表紙を見て、「CGですね」「CGです」と言葉を交わしただけである。
 その後、「ボレアス」の編集が秋山氏に委譲されるに際し、投稿をさせてもらうこととなった。
 痛快無比の『睡眠魔術』は一気に読まされ、爆笑、喝采ものだった。年齢を考えると、嬉野先生の創作能力は凄まじい。
 そして、「ボレアス」は、SF風味の拙作の発表の場となってくれた。

 ありがとうございました、嬉野先生。
 あちらでは柴野先生や矢野先生とSF談義に花を咲かせてください。


「追悼文」兜木 励悟
 私も一応、SF系の博覧強記(錯乱狂気?)系の物書きに分類されているらしい。アニメの研究本の参考文献に「インド現代政治」「中世の秋」「大予言の嘘」「生き残った帝国ビザンチン」「セーラームーンの秘密」とか列記するのは、確かに我ながら支離滅裂で、錯乱狂気と云われるのも解るのだが。
 SF系で博覧強記系となると、日本だと、小説だったり解説書だったりエッセイだったり様々だが、小松左京、大宮信光、故志水一夫、永瀬唯、故今日泊亜蘭、かんべむさしといった人達が有名所だろうか。そして、菅原豊次さんもその一人であった。
 故柴野拓美さんは「SFファンはSFだけでなく何にでも興味を持ち、一見無駄な知識がとても豊富なのが望ましい。その点に於いて菅原さんは群を抜いている」と評されていた。例えば、柴野さんは神武天皇陛下から百二十五代の天皇陛下を暗記しておられたが(旧制中学の卒業生は基本的に皆、ここまでは出来たそうだが)、菅原さんの場合は日本神話で最初に現れながら特に何もせずに消えてしまう三体の神から全て記憶している有様だった。たぶん、これは、小松左京さんをも超えている。本業の医学が絡むと更に凄く、黄帝、華佗、ヒポクラテス、ガレノス、パレから「背を伸ばす外科手術」「ハンバーガー・バゼドー」「ラスプーチンの呪術医学」まで、もう、何でもござれだった。また、そういう膨大な知識が創作に生かされる事も多かった。瀬名秀明氏の「パラサイト・イヴ」がベストセラーになった時は、菅原さんの旧作「ミトコンドリア・カタストロフィー」を参考にしたのではないかという噂が流れ、私は「ミトコンドリア・カタストロフィー」収録の物を含めて、「ボレアス」「吸血観音」「宇宙塵」を何冊か編集者に貸し出した物であった。
 「氷河鉄道」で、「おしくらまんじゅう」で暖を取るという描写が有ったのを思い出し、東日本大震災の被災者達が寒さに苦しんでいるという報道に、子供達だけでも「おしくらまんじゅう」で暖を取れない物かと思ったりしていたのだが……。「地震」から発想した「天震」という作品も発表していた菅原さんが震災(津波)の犠牲になるとは、皮肉な事だったと云わざるを得まい。
 菅原さんのお誘いで「宇宙塵」の人間を主に、石巻にお邪魔した事も忘れられない。日本でも有数の漁港とは云え、石巻は正直、小さな地方都市だった。そういう土地に於いて、実績の有る開業医と云うのは社会的地位が非常に高いのだろう。すれ違う人達の殆どが挨拶し、それに気軽に応える姿はいかに親しまれ尊敬されているのかが良く分かる物だった。この時は柴野さんは同行できなかったのだが、柴野さんは、そういう社会的地位の高さが小説家になろうとするハングリーさを菅原さんから失わせてしまっていて、そのためにあと一歩の所でセミプロに甘んじさせているのではないかとも分析されていた。が、その柴野さんが理想とする文筆家とは兼業であった事も忘れてはなるまい。松島や鯨の博物館にも案内して戴けたし(岡本賢一さんはクジラのペニスの剥製に抱き付いての写真を撮っていた)、食事は海鮮を主に贅沢三昧。魚市場ではマンボウの肝をタダで食べられた(菅原さんは、鮮度に若干疑問を感じたらしく、少しにしろとのお話であったが。噂に聞くほどの美味ではなかったが、こういった経験は物書きにはとにかく大事なので有り難かった)。最年少参加者のS姉妹(幼稚園ぐらいだったかな?)も菅原さんに懐いていたし、良い想い出である。
 現代中国語こそできない物の漢籍にも詳しい菅原さんには、私の中国や台湾のSF老朋友が来日した際に、時間と金銭に余裕が有れば松島も観光する事にして、その際のアドバイスをお願いしたいとも思っていた。「日本三景全制覇」を目指す華人は、意外にも少なくないので。
 皆で石巻を訪問した時の最大傑作はあるタクシー運転手の発言だろうか。移動のためにタクシー数台に分乗した時、私の乗ったタクシーの運転手が子供の頃に良く菅原医院のお世話になっていたとかで、「ああ、菅原先生のお客さん? 私も子供の頃は良く診てもらって、昔は名医だったんですよ」。別に、今は藪と云う意味ではなく、今は医者いらずの身体なので分からないけれど、というぐらいの意味だったのだが、この「昔は名医」は他のタクシーに乗った人達にも瞬時に広まり、大爆笑となったのであった。菅原さんは苦虫を噛み潰したみたいな顔をしていたけれど。ギャグでSF仲間を次々に難病と診察するという冗談を良くやっていたのとは一寸次元が違いますが(私は甲状腺異常を疑われ、いつもの冗談の時とは目の色が違ったので、今も時々甲状腺検査を受けていますが)、いかなる患者も軽く見なかったのでしょう。
 「菅原医院の地下に有る、人体実験室、を見たい」「菅原医院の入口に、この門をくぐる者全ての希望を捨てよ、と看板出さない?」「診察室に、医は算術、と額を飾ったら」なんてのも有った。そういう冗談が云えるほど皆が菅原さんと親しかったという事だ。
 晩年は体力の限界を感じて自ら医師免許を返上したと聞いている。柴野さんの葬儀や追悼会にも、体力的な問題で出席できなかったとかで、柴野さんの追悼文集にも残念さを滲ませる原稿を寄せられていた。
 「宇宙塵」パロディー版用に、(零落れた)私が主人公の時間SFを書かれていらっしゃったのだが、この原稿やデータは行方不明である。前回の「宇宙塵」パロディー版に収録予定が、見付からなかった事もあって変な出版ゴロの作文が強引に押し込まれるという、編集のシンキロウさんも不本意な事態に陥り、その後、流石ゴロだけあって「宇宙塵」の名を悪用されているらしいが、次の「宇宙塵」パロディー版が出るならば、ゴロ問題に対する公式見解と、菅原さんの作品の両方をきちんと載せて汚名を雪ぎ、「宇宙塵」と菅原さんの名誉回復をして欲しいと願うばかりである。


「サンマは石巻にかぎる」 勝山 海百合

 三月十一日の地震と津波の被害が明らかになって、まっさきに心配したのが石巻の菅原先生こと嬉野泉のことだった。北上川の河口近くにお住まいなのを知っていたので。でも、あまりの被害の大きさに、先生がどうなったか考えるのが怖かった。どこかの避難所で「煙草も貴重品だな」と文句を言っていればいいなと思っていた。四月十一日になって、青山智樹から電話があったが、「あのさ、海百合知ってる?」という声に悪い予感がして、知らない、なんにも知らないと返事をし、それからなにがあったの? と聞き返した。
「菅原先生の遺体が見つかったらしい」
 と言われた。
「昔取った杵柄だっつって、避難所で医療ボランティアでもしてるかと思ったんだが」
 そのとき、自分がなんと答えたか覚えていない。そんなのいやだとか、仕方がないとか、見つかって良かったとか、そんなことを言ったはずだ。そして、二人で「菅原先生にもらったサンマ、美味しかった」と言いあった。青山智樹と私は、菅原先生が参加しないSF大会で『ボレアス』の売り子をしたお礼に、刺身で食べられるほど新鮮なサンマを送ってもらったことがあるのだ。
 津波から二カ月以上経った先日、案内してくれる人があって宮城県の沿岸を見て歩いた。石巻にも行ったが魚市場はまだ水浸し(地盤沈下したので水が引かない)で、海に近い住宅地は基礎だけが並び、路肩に焼け焦げた車が転がっていた。被災した製紙工場の近くは、家や塀、街路樹に溶けた紙がべったりと貼りついて汚れていた。菅原先生の住所があったあたり(たぶんこのあたり?)は何も残っていないように見えた。
 津波の強大さ、情け無用の自然災害には驚きと怖れしか抱けなかった。津波、おっかねえ。

 菅原先生、色々とお世話になりました。ありがとうございます。いただいた明治書院の『世説新語』、大事にします。


「日々、余震の続くなかで慟哭する」 立花 生 

 2011年3月11日の東日本大震災。
 死者、不明者が二万数千人という未曾有の巨大地震、そして津波だった。その中に、菅原豊次(嬉野泉)さんが巻きこまれ、死者の名簿に名を連ねてしまうなどと、地震が起こるまでは思うだにしなかったことである。こんな形でお別れしなければならないなんて、世界は本当に無常だと思う。
 思えば、嬉野さんの発刊されたSF同人誌「ボレアス」に出会ったのは、私が若かりし頃、仙台のとある書店でだった。その書店の片隅に「ボレアス」第2号があった。SFに憧れてはいたが発表の場のなかった当時の私は、すぐにボレアス入会の手続きをとった。
 つたない私の作品を持ち上げて、毎号のように励ましていただいた。私に青春というものがあったとしたら、「ボレアス」抜きには考えられない。それほど重要な季節だった。今は落ちぶれて怠惰になってしまった自分ではあるけれど、そういった輝いていた季節もあったのだ。その場を提供してくれたのが「ボレアス」であり、嬉野さんであった。
 悔しいという思いでいっぱいだ。どうしてもう少し「ボレアス」に貢献できなかったのか? どうして嬉野さんにもっと近づけなかったのか? 嬉野さんのお住まいが石巻という近距離にありながら、一度も訪ねたことはなく、地方コンベンションのダイコンなどで遠くからそのお姿を窺っていた、若き頃のシャイな自分がいた……。
 嬉野さんの医学知識を生かした奇想天外なSF、ご高齢でありながらも毎号の旺盛な執筆力、ただただ感心するばかりだった。今後もボレアスが続き、嬉野さんの健筆が冴えわたることを信じて疑わないでいた自分を、残酷な現実が引き裂いた――。
 心からのご冥福をお祈り申し上げます。そして長い間ありがとうございました。


「菅原(嬉野)氏とのこと」 松宮 静雄

 菅原豊次(嬉野泉)氏はご夫人ともども(のようですが)東日本大震災の際、家ごと津波に流され、後日ご遺体で発見されたとのこと、誠においたわしいかぎりで、謹んで哀悼申し上げます。
 氏はきわめて独創的な優れたSF小説を精力的に量産されてきましたが、今後その新作を読めなくなったのは甚だ残念に思います。
 実は、私が氏に直接お逢いしたのは十年以上前のあるSF関係の記念パーティー(「宇宙塵」四十周年だったかも?)でのわずか一回だけ、それも私が氏の席まで行って挨拶し、二三会話を交わした程度でした。
 でも、それ以前から氏の主宰するSF同人誌「ボレアス」と私の編集発行するSF短歌同人誌「フロンティア」とは、お互いに寄贈し合うという関係を続けてきました。その間氏からは拙作SF短歌についてご感想を頂いたり、アンケート回答をして頂いたりもしました。五年前、私の歌集二冊上梓の時にはお褒めの言葉も頂戴しました。
 ところで(あまり知られていないかもしれませんが)氏は菅原九馬の名で俳句も作っておられました。私は氏から氏の所属する地域俳句グループの年間合同句集を思いもかけず三度も送って頂きました。当方の「フロンティア」が創刊二十周年記念号(号)を出すときには氏に寄稿をお願いし、氏がその時はじめて試作したというSF的な俳句「時のごった煮」十句を掲載することができました。次にそのうちの二句だけを紹介して追悼文の結びといたします。

  エイリアンの唇のごとチューリップ
  瀬戸の夕凪底はナウマン象の墓地


「追悼歌」 鶴田 英之

 余震(なゐ)つづく北風の地に歿したまふ浅き縁の人を弔ふ
 いかばかりしかりけむかつてなき大災害を筆になしえで
 かつてありこれからもあるただ大地(なゐ)のみじろぐのみと故人言へるか


「菅原豊次様への追悼の言葉」 阿部伸義

 石巻で唯一の同人でありました私は、菅原内科医院に何回も足を運び、原稿を直接手渡しできた同人であり、、直接ボレアスの新作を取りに行けた同人でありました。内海橋を二つ渡ると、すぐに菅原先生の自宅病院があり、私は何度菅原医院に通い続けたか分かりません。菅原先生と私の連作、モンスタールンバ、黒い夏などが記憶に新しく、また先生に感謝しなければなりません。また個人的にも先生に五十数通にも及ぶ手紙のやり取りをして、相談にも乗ってもらいました。先生との作風とは違い、先生は私の作品を"ペシシズム"と評し、その都度お褒めの言葉を頂きました。最後に、私は先生に警告した事がありました。いつまで文学を書いているのですか? と。文学を書くと、その文学を書いたカルマが生じるのですよ。先生も分かってはいたでしょうが、小説家はその責任を取らなければならないのですよ、と。私の場合、それで書くのを止めた。私の場合は、ノイローゼや病気などがあったから。でも先生の場合、そのような軽いものではなかった…………。ですが、私は運命を寿命と信じている人間として言わせてもらいました。先生のご冥福と霊生に多くのご多幸がありますように。
 アーメン。


「作家 嬉野泉の悲報に接して」 椎原 悠介

 SF同人誌の火がまたひとつ消えた。
 そして嬉野泉の新作を読む機会も、もはや、なくなった。
 熟年とは思えぬぐらいエネルギーに満ちた作品を多数執筆された嬉野泉という小説家が日本の未曾有の災害を境にこの世から姿を消した。
 生命感にあふれ、苦境をものともせぬ作中の登場人物像を知る読み手としては、避難してどこかでリーダー・シップを発揮っされているのではと、ごく普通に期待していた。力量あふれる作品がそんな幻想を抱かせた。
 もし津波が無ければ、百歳を超えても作品づくりにいそしんでおられたのではないかと今更ながらに残念に思う。
 人は年を経て枯れてゆく。あるいは淡泊になって行く。
 しかし嬉野泉氏はSFのどんな作中世界に暮らしても、生き抜くと言う事にどん欲で、人生の楽しみ方を追求していた。
 本当に惜しい人を失ってしまった。
 はるか年上の希望にあふれた人物の死がこんなに心に冷たく響くとは思ってもみなかった。
 もう二十年、三十年でも導いて頂きたかった。
 多くの事を教えて頂いた事に感謝するとともに、心よりご冥福をお祈り申し上げます。
 ありがとうございました。


「嬉野泉作品よ、永遠なれ!」 秋山 英時

 最初に出遭った嬉野泉さんの作品は遠い記憶の彼方だが、SF同人誌「宇宙塵」(主宰・故柴野拓美氏)第一八五号に掲載された「ミトコンドリアン・カタストロフィー」に感銘を受けなければ、「ボレアス」に参加することはなかっただろう。一九八四年のことだ。核となるアイデアは後に一世を風靡する「パラサイトイブ」(瀬名秀明)の先取りで、しかし話の展開は絶望的な人類終焉の夜明けとでもいったものだった。
 嬉野さんの小説には行間がない。視線は冷徹な医者の目で、好んで書かれたファース(ファルス)の場合でも、それは同じであった。
 通常作家の小説であれば、行間のないことは大きな欠点となる。文章に書き込まれたことだけしか読者に語られないからだ。しかし嬉野さんの場合はそれがプラスに働いて、どう読んでもフィクションとしか思えない内容のお話にノンフィクションの重みを与えた。嬉野さんの小説のリアリティーはそこにある。いまここにある事実、あるいはもう過ぎ去ってしまったが実際に起こった事実として、嬉野さんの小説は描かれている。そこに作家の才気がある。
 さらに指摘すれば、嬉野さんの小説には下品さがない。小説に描かれた内容を要約すれば下劣となってしまうような作品の場合でも、嬉野さんの行間のないカメラアイが、通常作品であれば読者が想起するはずの不快感を見事に拭い去ってしまうからだ。
 一方、そのことによって失われてしまったものも多い。一例を挙げれば情愛のシーンだが、嬉野さんのセックス描写に色気はない。良くも悪くも事実が事実として描かれているからだ。しかし実際にそれを校正されているときの嬉野さんのお気持ちはそうともいえなかったようで、ボレアス第四十一号に掲載された「女人天国」の校正文と同封のお手紙には、「今読んでみると、こっ恥しくなる一文ですな」といった文面も見られた。
 だが幾つかの欠点はあったにせよ、嬉野さんの作品は、その温厚なお人柄とともに多くの読者に長年にわたって愛され続けた。
 全世界を見まわしても、ほとんど類似の作品を感じさせない嬉野泉さんの小説作品よ、永遠なれ! 加えてその作品群を精力的に量産してくださった嬉野泉さんに祝杯を!


「菅原豊次さんのこと」犬街祐司

 今回の大震災で菅原豊次(嬉野泉)さんが亡くなられた事を知り、とても残念でなりません。
 私がボレアスに入会したのは大学3年の頃(26年くらい前)だったと思います。既にボレアスの名前は有名でしたし、何より福島県人(当時)である私にとって東北の有名なSF同人誌に参加することにとても魅力を感じたのです。
 入会と同時にボレアスの既刊数冊と「吸血観音」を購入し、そのあまりの面白さに衝撃を受け、また他の一般のSFファンが知らずにいる傑作群を自分は読んでいるという優越感も味わったのでした。
 自分自身の創作については、当初SFマガジンのリーダーズストーリーに落選した作品を載せる場としてボレアスを利用しようと考えていたのですが、ボレアスのレベルの高さを知ったあとはもっと力を入れた作品を載せたいと自らハードルを高くしてしまい、結果一作掲載していただいただけで終わってしまいました。
 菅原さんからはもっと気楽に書いてみたらどうかとか、リーダーズストーリーの落選作を載せましょうとかいろいろアドバイスをいただいたことを覚えています。
 やがて私が就職して仕事で悩んだり忙しかったりで創作に対する気力を無くし、菅原さんとも連絡をとらないようになってしまいました。最後は「やめるならやめるとせめて返事をください」というはがきでした。しかし私は何も返事を出さず、自然消滅のような形でボレアスを離れることなりました。
 そのことを私はずっと後悔しています。菅原さんに謝りたいと思い続けながら手紙を書く勇気がでなかった。許していただけるとは思いながら、「まだ創作を続けていますか」と問われることが怖かったのです。
 結局、謝罪の機会は永遠に失われてしまいました。
 菅原さん、あの時はあんな形でボレアスをやめて申し訳ありませんでした。そして有難うございました。菅原さんからいただいた葉書は今も大切にしまってあります。
 心からご冥福をお祈り申し上げます。