9.ふしぎな後味


 アーノンクール指揮/チューリッヒ歌劇場の「フィガロ」。「コジ」「ドン・ジョヴァンニ」に続く第3弾である。が、前の2作がARTHAUSからの発売だったのに対し、これはTDKからの発売。どうしたんだろう。

 予め書いておく。これはご紹介したいDVDではあるが、手放しで推薦したいディスクではない

 なんだか暗い、のだ。まず演出が暗い。照明の当たる範囲があまり広くない、という物理的な暗さもあるし、セットが醸し出す雰囲気の暗さもある。フィガロとスザンナの部屋、どうしてあんなに荒れ果てているのだろうか? 床板が捲れ上がっていたりして、とても貴族の館の一室、それも当主と奥方の次の間には見えない。

 それから、アーノンクールの指揮がなんだか攻撃的なのである。流麗というには程遠く、聴き慣れない休止や内声部の強調があちこちにある。テンポが遅め(ただしリズミックではあるので鈍くは感じられない)なので、聞き手はそのキツい響きをじっくり味わうことになる。明るい曲調までが、「冬ものがたり」での“Heart dances, but not for joy.”という感じ。

 率直なところ、初めてこのオペラを観るひとには、あまりお勧めしたくない。コンサヴァティヴな演出で典雅な演奏のモーツァルトが好きな人には、グラインドボーン音楽祭のライブDVDが出ているので、そちらをお奨めしたい。

 ただ、僕はこのディスクを、自分の好きなタイプと違うとは感じながら、魅きつけられるものがあって、結局最後まで観てしまった。暗さの中で失われた快活さの代償として得られるものは、言葉に込められたニュアンスの明瞭さである。この点、歌手たちが大健闘している。

 アルマヴィーヴァ伯爵のギルフリー。何だかやけに妖しい魅力があると思っていたら、こいつドン・ジョヴァンニじゃないか。例の、評判になったDVD(これもアーノンクール/チューリッヒ歌劇場)でも歌っていた。普段イメージする伯爵役に、ドンGのカリスマ性を付け加えると、このディスクでのアルマヴィーヴァ伯になる。

 他の役は、みな彼の影響の範囲内でしか生きられない(そうは言っても、そう見えるのは演出の力で、個々の歌は見事に自立している。先にも書いたように、一つ一つの言葉の意味を大事に歌い上げていて、アンサンブルもアリアもレチタティーヴォも、傾聴に値するものがあると思う)。

 メイの伯爵夫人は、夫の心が離れたのを嘆くよりも嫉妬心の方が露に出るし、レイのスザンナも分かっていながら伯爵の方を向いてしまうようである。シャウソンのフィガロとて、伯爵をやり込めるというよりも、叶わないと知りつつ一矢報いようとしているようである。フィガロがマルチェリーナの息子であることまで、実は伯爵は知っていたかにすら見える。フィナーレの大団円の後、皆伯爵にひれ伏し、彼の思い通りに事は進んでしまうのではなかろうか、と思えてならない。

 あまりハッピー・エンドに見えない不思議な「フィガロ」。最初に書いたように手放しで推奨は出来ないが、妙に惹かれる、ふしぎな後味を与えてくれるディスクである。このオペラを何度も観たという方には、ぜひ一度お試し戴きたい。PAL版だし日本では未発売だが、発売元がTDKだからいずれ店頭に出ると思うし、明日1/3(金)の深夜にはBS2での放映があるはずである。

2003.1.2

モーツァルト
歌劇「フィガロの結婚」全曲

TDK OPRNDF (DVD/輸入盤)
ロドニー・ギルフリー(アルマヴィーヴァ伯爵)
エヴァ・メイ(伯爵夫人)
イザベラ・レイ(スザンナ)
カルロス・シャウソン(フィガロ)
リリアナ・ニキテアヌ(ケルビーノ)、他
ニコラウス・アーノンクール指揮
チューリッヒ歌劇場合唱団&管弦楽団
(1996年ライブ収録)

───────(ご参考;オーソドックスな「フィガロ」がお好みの方へ)────────

モーツァルト
歌劇「フィガロの結婚」全曲

Waner Music Vision WPBS90082(DVD/国内盤)
アンドレアス・シュミット(アルマヴィーヴァ伯爵)
ルネ・フレミング(伯爵夫人)
アリソン・ハグリー(スザンナ)
ジェラルド・フィンリー(フィガロ)
マリー=アンジェ・トドロヴィチ(ケルビーノ)、他
ベルナルド・ハイティンク指揮
ロンドン・フィルハーモニック管弦楽団
(1994年グラインドボーン音楽祭でのライブ収録)