「心の清い人」 (2001.4.8)
聖 書:詩編第51:12〜14、マタイによる福音書5:8
讃美歌:28.230.300.303.27.88.
招 詞:箴言8:17 交読詩編129編
軽込 昇
1.詩編51編はダビデが人妻と不倫事件を起こした時のことをうたったものです。ダビデは家来の妻バトシェバと通じ、彼女は妊娠します。そのことを知ったダビデは彼女の夫を戦場の最も激しいところに置き去りにし、敵の手によって殺させます。ほとぼりが冷めた頃にバトシェバを宮殿に引き入れます。
この世的にはうまく処理したつもりでした。しかし神はこのことを怒って預言者ナタンを送ってダビデを厳しくとがめました。その時のことは旧約聖書サムエル記下11〜12章に記されています。ナタンに責められ、神に赦しを願ったのが「神よ、わたしを憐れんでください」で始まる詩編51編です。ただただ神の憐れみを求め、神の憐れみに包まれることを願う、神への悔い改めを言いあらわした詩編です。
「わたしを洗ってください」。これは自らの罪の深さを知った者の叫びです。多くの汚れが体に染みついているのです。やりなおしたい。きれいなものになりたい。まことに素朴な願いです。
いや、そんなに悠長なものではないのかも知れません。ダビデは神にとがめられて初めて自分がどんなにいい加減な人間であるかをいやというほど知ったのです。詩編51:19「打ち砕かれ悔いる心」とあるのは、彼の謙虚さがそういわせた、というよりも、文字通り粉々にされ支離滅裂になった心のことです。「神よ、御顔をわたしから隠してください。わたしを御覧にならないでください」、ダビデの呻きにも似た叫びは私たちの心の叫びにも通じます。
不倫を犯したことがダビデの罪のように言われていますが、実はバトシェバの夫ウリヤがいなければ、と願ったことそれが既に彼の罪でした。ダビデは私たちでもあります。あの人がいなければ、と願わなかった人はおりますまい。その時既に私たちは心の中でその人を殺しているのです。主イエスは心の中で兄弟に向かって「ばか」と言う者は殺人を犯している、とおっしゃっていますが、私たちはダビデと同じことをしているのです。

2.このままでよいはずがない、それは分かっているのです。クリスチャンであってもなくても、また教会に来ていなくても、このわたしで良いはずがない、ということは気がついているのです。清い人になりたい、そう願っているはずです。誰もきよい人ではないことを自覚しています。はっきりと気がついていないまでも、私たちが問題を抱えた存在であることは分かっています。しかし、自分の力ではどうしようもないことも事実です。

本日は詩編51編の中から12〜14節を読みました。「神よ、わたしの内に清い心を創造してください」。「創造する」という言葉は旧約聖書の中では特別な重さをもった言葉です。創世記1:1「神は天地を創造された」と記されていますが、この言葉は旧約では神の行為にのみあてられている言葉です。人間が何かを作り出すというような場合には用いられていません。
新共同訳聖書が出たとき、うれしかったことの一つが詩編51編のここがはっきりと「創造する」となっていたことです。
主イエスが「心の清い人々は幸いである」とおっしゃったのもこのことと結びつきます。つまり、心の清い、というのは、その人の性格とか、その人となりが清い人、というのではなく、神によって清くしていただいた者のことです。「心の清い」というのは、この前の「憐れみ深い人々」と同じく、徳目ではありません。
清い心というのは、神が全力を挙げて造ってくださらないなら、実現できないのです。私たちがどれだけ努力しても清くなれるものではありません。

3.お考えになってください。主イエスが私たちの間においでになられ、私たちの間に座って、私たちを見回して、「心の清い人々は幸いだ」とおっしゃったのです。私たちはその主イエスのお言葉をどう受けとめるでしょうか。それがこの第六の祝福を受けとめるときの大切なポイントになります。

ここで主イエスがおっしゃっておられるのは、他の誰かのことではなくて私たちのことです。わたしであり、皆さんです。
私たちは清さにあこがれをもっています。同時にこの私たちは清くなれるはずがない、とかたく思い込んでいます。
教会の歴史の中でも、この「心の清さ」というのは、しばしば禁欲生活と結びついて受け取られてきました。初めの頃の修道院は人間が近づくことができないような岩山につくられました。人里離れた山奥や砂漠に一人こもって瞑想と祈りとに生涯を捧げる、というある意味で純粋な一途な試みがなされてきました。。
これは私たちにもよく分かります。そのような生活に憧れさえ感じることもあるでしょう。清さに憧れるのです。それだけ自分の中にある汚れに絶望しているのかも知れません。

4.しかし主イエスは「心の清い人」というのは、私たちのことだとおっしゃるのです。この清さは神の清さです。神が造ってくださる清さである、という一点をぬかしてしまいますと、この恵みに満ちた主イエスのお言葉もとんでもない言葉になってしまいます。かえって私たちを断罪する言葉になってしまいます。

キリストは私たちを清い者とみなしてくださるだけではありません。汚れているままでいいよ、とおっしゃっておられるのではありません。ありのままの私たちでいい、それは神の恵みそのものですが、私たちはかえって不安になってしまいます。このことが実現するために、キリストの十字架があったのです。私たちを清くしてくださる方、それがキリストです。私たちの汚れを担い、十字架の上にそれを清算してくださったのです。
それがキリストの福音です。
ダビデは、神さまこのわたしを御覧にならないでください、とも祈りました。それに続いて「清い心を創造してください」と祈らざるをえませんでした。神は、神が御覧になれる清い心をお造りくださる方だと信じたのです。
今週は主イエスの苦しみを覚える受難週です。その日曜日、私たちは「心の清い人は幸いである」という主イエスのお言葉を聞いたのです。
主イエスの受難、それは私たちの内に清い心を創造してくださるためでした。
私たちはここに立つのです。
このあと、讃美歌303「丘の上の主の十字架」をご一緒に歌います。
丘の上の主の十字架
苦しみのしるしよ、
人の罪を 主は身に負い
与えたもう いのちを
世の栄え うちすて
十字架にすがりて
ひとすじわれゆかん、
み救いに入るまで、
これは他の誰かのためでなく、わたしのためであり、わたしはこの主イエスにつながって生きることができる、それしか他にない、そのような道がここにあるのです。