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建興7年秋7月。司馬懿が珍しく蜀へ攻撃をかけた時のこと。 対する諸葛亮は「畢星が太陰の軌道に入ったので必ず今月は大雨」と予測し、 40万の軍勢を、千の兵で守れと指示する場面があります。
畢星は今でいう、おうし座の顔の部分のヒアデス星団を指しまして、 畢星と雨の関係は古くは孔子の論語に記述があります。晋書天文史によれば、やはり「畢星が太陰の軌道に入れば多雨」と記述があります。 まあ時期的に、そのように月の軌道と畢星が出会うのは5.6月の梅雨の時期にあたる からと言う解釈が、まあ普通だと思われます。
また昴と畢には国を守備する意味合いがあります。
そこで、底意地悪く、見てみましょう(^^;)
建興7年秋7月はっと。あに?ちっくとややこしいですね。7月1日はっと西暦229年8月8日。魏でも同じ、呉は8月7日じゃね。
まあ、ここから一ヶ月。なに・・・夏なのに冬の星座を見るわけ?
うぬ・・・星図を見るか・計算するかなどしないと見えないですもんね。
月の通り道(太陰の軌道)である白道は、黄道(太陽の通り道)に対して約5.9度の傾きを もっていますが、ステラでは白道は表示できないので、黄道で代用します。
にゃにゃ!確かに・・・・畢星が太陰の軌道にある・・・
ぐう。 合っていれば合っているで憎たらしい(^^;)
他に話す事ないじゃないのさ(--;)
白道と黄道と交点は傾斜角約5.9度の傾きを保ったまま、黄道上を西に移動し、約18.6年で 黄道を一周します。交点のうち白道が南から北に抜ける点を昇交点。北から南に抜ける点を 降交点と呼びます。