三国志概略
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三国時代

●三国時代
 今から1800年ほど昔の中国の歴史です。漢字は中国の「漢」という国で使っていた「字」と いう意味がありますが、その「漢」の末期から次の「晋」という国が出来るまでの間の 戦乱の時代を言いまして、中国大陸を(ぎ)(ご) (しょく)と 三つの勢力が覇権をかけて争っていた時代を言います。
●教科書
230年頃勢力図  歴史の教科書は主に三国志演義をもとに書かれているものも見かけますが、ここでは 三国志演義と三国正史とをごちゃ混ぜにしてありますので、受験生はご注意を(^^;)

 もっとも教科書では、ほんの数行でおしまいですが・・・大雑把に 演義は小説・正史は国家編纂の歴史書と思っていただいてOKです。


概略

●黄巾の乱
 どんな王朝も末期には退廃するもの。漢の国も退廃し、 十常侍(じゅうじょうじ)と呼ばれる宦官(かんがん)がはびこり、 各地で張角(ちょうかく)を教祖とする一揆が起きました。 かれらは頭に黄色い布を巻いていたことから黄巾の乱とよばれます。

 漢王朝は討伐軍を派遣しましたが、鎮圧する事が出来ず、各地の諸侯に加勢を求めました。 これにより黄巾の乱は収束しましたが、漢王朝にはもはや乱を収拾する力が無い事も 諸侯にわかってしまいました。

●董卓(とうたく)の専横
 さて乱は一応の収束をみたところで、皇帝をないがしろにする十常侍を亡き者にしようと、 皇后の兄の何進(かしん)が諸侯に加勢を求めました。これで漢王朝の内部もすでにおかしくなっている 事を世間に知らしめてしまい、同時に、 諸侯が勝手に軍を動かす事のできる口実を持たせてしまいまいた。

 ここで都の洛陽(らくよう)の西の西涼(せいりょう)というところから、董卓(とうたく)が都に 軍を引き連れてきて、漢王朝をのっとり、皇帝を変えて、略奪など好き勝手な事を始めました。

 許昌(きょしょう)にいた曹操(そうそう)は、逆賊董卓を打てと皇帝から詔勅があったといつわり、 各地の諸侯に呼びかけて董卓を打とうと、袁紹(えんしょう)を総大将とした連合軍を結成しました。

 しかし連合軍はしょせん寄せ集まりの軍。互いに足を引っ張るうえに、董卓には万夫不当の 呂布(りょふ)将軍がいるため打ち破る事ができきず、うやむやのうちに連合軍は解散して しまいます([シ巳]水関の戦い・虎牢関の戦い)。

●魏の曹操の台頭
曹操孟徳  地元に引き上げた曹操は、そこで軍を募り、都へ攻め上ります。 都では董卓が養子の呂布に暗殺され、その配下がいましたが、 結局曹操が勝利し、皇帝(献帝:けんてい)は曹操の庇護に入り、荒廃した洛陽や長安を離れ 許昌を都とする遷都を行いました。

 こうして曹操は、自分の命令はすべて勅令である名分を得たわけです。

●官渡(かんと)の戦い
 次に曹操は連合軍の総大将をした袁紹討伐にのりだします。相手は数倍の国力をもっています。 曹操は袁紹陣営が内部分裂を起すのを見越して、戦いをいどみ、勝利して、中国中央北部と 北部を支配下におさめます。
●荊州(けいしゅう)攻略
 曹操は大陸支配を確実にするため。中国の中部・中南部を支配する荊州(けいしゅう) 攻略に動き出します。 ちょうど荊州の主劉表(りゅうひょう)が亡くなった所へ攻め込み、荊州を引き継いだばかりの 劉j(りゅうそう)は曹操に降伏しました。
●呉の孫権(そんけん)
孫権仲謀  さて一方の呉のお話。董卓討伐に加わった孫子の子孫である孫堅(そんけん)は、 隣国の袁術のたくらみにより味方から兵糧攻めされたため、怒って都から撤退するときに 井戸から皇帝の証である玉璽(ぎょくじ)を発見します。

 孫堅は連合軍を脱退し根拠地江東に引き返しますが、ある作戦中落石により落命します。 その子孫策(そんさく)は袁術(えんじゅつ)のもとで養われていましたが、 袁術に玉璽を預けるかわりに兵を借りて、 呉郡を攻略します。が、その孫策も短命に終わり、弟の孫権(そんけん)が後を継ぎました。


●蜀の劉備(りゅうび)
劉備玄徳  黄巾の乱の討伐で功績がありましたが、認められず、各地を転々とし、 一時徐州(じょしゅう)の統治をまかせられ、玉璽を得た事から皇帝を勝手に宣言した袁術を討伐 したこともありましたが、曹操に目の敵にされ、放浪の日々を送ります。 官渡の戦いでは袁紹軍に属しておりました。

 途中で散り散りになった配下と共に 荊州の劉表(りゅうひょう)のもとに行き居候していましたが、曹操の荊州攻略時に逃げ(長坂の戦い)、 軍師の諸葛亮(しょかつりょう)を呉に派遣し、曹操に対し共に戦うよう説得に向かわせました。


●赤壁の戦い
 さて荊州を手に入れた曹操は呉攻略に乗り出し、荊州軍もあわせ百万と号する大軍で 呉に押し寄せました。この戦いに勝利すれば曹操の大陸支配は決定的なものになります。

 呉では主戦論と降伏論に真っ二つになり論戦が行われていましたが、諸葛亮の説得と 周瑜(しゅうゆ)提督の決断により開戦と決しました。呉はかき集めても7万の兵力です。

 周瑜提督は長江を利用した火計により曹操を打ち破り、この地の呉の支配を確立しました。

 呉は余勢を買い荊州をとろうとしましたが、先回りした劉備軍に荊州を押さえられて しまい、曹操を破ったのは我々なのだからと、劉備に荊州の返還を要求しました。

●入蜀
 呉から荊州の返還を要求された劉備は、行く所が無いので、蜀(中国西南部)を攻略するまで しばし荊州を借りる約束をしました。

 劉備は義弟の関羽(かんう)に荊州を守らせ蜀の劉璋(りゅうしょう)を追放し、 その後北上し、漢中まで支配を伸ばしました。

●赤壁の戦い
 呉は約束どおり荊州の返還を求めますが、関羽は返還に応じませんでした。 魏と呉はともに関羽を攻撃し、荊州は呉の支配下となります。

  暫く後、魏の曹操は病没し曹丕(そうひ)があとを継ぎます。

 義弟関羽を殺された劉備は怒り、呉に総攻撃をかけます(夷陵の戦い)。 開戦当初は圧倒的な勝利でしたが 遠大な陸遜(りくそん)の火攻めにより、大敗北を帰し、落ち延び先の白帝城で生涯を閉じます。 このとき軍師諸葛亮は後を頼むと後事を託されます。

●北伐
 蜀の丞相(じょうしょう)となった諸葛亮は、五度魏に決戦を挑みますが、 志半ば五丈原(ごじょうげん)にて病で陣没します。
●晋(しん)
 魏はその後の君主が短命で、良将も数少なくなった今、 唯一諸葛亮の戦略に対抗できる司馬懿(しばい)という人物にたよりきっていました。

 幾度とない戦いの後、やがては蜀は魏に降伏し併合されます。 しかし肝心な魏は司馬懿の孫の司馬炎(しばえん)にのっとられ晋という国になります。

 その晋に呉は降伏し、ここに統一国家「晋」ができることで三国時代は終焉します。

・・・が、しかし、その晋も直ぐに崩壊し、また戦乱の時代が訪れる事になります。

●蛇足
 高校などでは、あと「九品官(人)制度」と「屯田制」が出てくるようですね。

 九品官制度はその後の中国王朝でも採用されたためだと思います。この制度を作ったのは 陳羣(ちんぐん)という人で、最初徐州の頃の劉備配下でしたが、自分の意見が採用されない ので曹操の下に行った人で、曹操から司馬懿らと伴に後事を託された一人です。 その他刑罰の適用法などでも功績があった人物です。

 屯田制は韓浩(かんこう)と言う人が具体化しました。三国時代は結局は土地の開発で 国力が決まり、それで持てる兵力が決してしまったので、重要といえば重要。 また、例えば・・・曹操軍でも最精鋭の青州兵はもとは農民出身の黄巾賊であったためです。 韓玄の弟に韓浩がいます(黄忠に討ち取られた)が別人です。

●日本との関係
 魏呉蜀の三国で争い、諸葛亮が五丈原で陣没した後、遼東(りょうとう)で、 公孫淵(こうそんえん)が魏に対し従わなくなりました。

 司馬懿は軍を従え公孫淵を討伐(238)しました。日本から見れば遼東を通り中国大陸に渡っていたので 公孫淵が勢力を張っている間、大陸との国交が絶えてしまったのです。

 ようやく遼東の道が空いたので、倭国から使者を送った(239)のが女王「卑弥呼(ひみこ)」でした。 魏皇帝は返礼として卑弥呼に「親魏倭王」の金印や銅鏡100枚などを送っています。

 親魏倭王の称号は大月氏(だいげっし)などと同じ破格の待遇です。


年表

184:張角の黄巾の乱起きる(倭国乱る:卑弥呼即位?)
189:霊帝没・小帝即位・何皇后臨朝・董卓小帝を廃す・董卓献帝擁立
190:董卓長安に遷都
192:呂布が董卓を殺す
196:曹操が献帝を向かえ許昌を都とする。
200:鄭玄没
204:公孫康が楽浪南に帯方郡をおく
208:赤壁の戦い
213:曹操が魏公となる
214:劉備が益州の牧となる
216:曹操が魏王となる
220:曹操没・二代目曹丕が魏を建国・九品官人法
221:劉備が蜀漢を建国・諸葛亮丞相になる。
222:呉王孫権が黄武と改元し呉を建国・三王朝鼎立
223:劉備没
229:呉王孫権が皇帝と称す。呉は建業(南京)に遷都
234:後漢献帝没:諸葛亮没
238:司馬懿が遼東の公孫淵を滅ぼす
239:卑弥呼の使者
244:高句麗が魏の攻撃により壊滅的打撃
238:卑弥呼没・司馬懿魏の実権を掌握
251:司馬懿没
263:魏が蜀を滅ぼす。
265:司馬炎が魏にかわり西晋建国・呉、武都に遷都
266:呉が建業に遷都
280:西晋が呉を滅ぼす。(三国時代の終焉)

291:八王の乱始まる

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