星界の報告 ▲宇宙観■ホームへ
- ガリレオの「星界の報告」をシュミレートする -

著書「星界の報告」

●ガリレオ
 ピサの斜塔からの落下試験などで有名なガリレオ・ガリレイ(1564〜1642)に、 「星界の報告」という著書があります。「星界の報告」は前書きに始まり、 自作望遠鏡の説明から、良く見える木星の四つの衛星(ガリレオ衛星)の発見そして、 その観測が述べられ、後半に太陽黒点の観測が述べられております。

●1610年2月12日が合わない
 ある方(以下Aさんとします)が「星界の報告」に書かれている 木星の衛星の位置を計算したところ、 「1610年2月12日」を除いて大体合ったそうです。私も追認してみましたが やはり「1610年2月12日」だけ何故か合いませんでした。 どのように合わないのかは次の項目でご説明致します。

計算にあたって

●時間
 ガリレオの時代のイタリアの時間表記は「日の出」「日没」を起点としていたようです。 従って「星界の報告」で「一時」と書いてある場合は「日没」から「日の出」までの 時間を十二等分した最初の1単位を表すよう(A1)ですが、ここが今一つはっきり 書いてある本が見つかりませんでした。

14世紀半ばのルネッサンス期のイタリアでは、日没を起点とした24時通算制の定時法を 使っており(B1)、この方法がドイツで改良されて現在の時間制に近い「真太陽時の正午を0時」に する12時制の原型になったと言う本もありました。

 ここでは後者を採用しまして日没後の時間に置き換えます。もう少し正確に言いますと 「日没時間+星界の報告に記載してある時間」を 「世界標準時+一時間(イタリアの地方標準時)」で表記することに致します。

●場所
 当時ガリレオはヴェネチア共和国のパドバ大学の数学の教授をしておりましたので、 場所はイタリアのパドバ(東経11度55分・北緯45度25分)で計算致します。 標高は手元に細かな地図帳が無いので仮に50mとします。
●ガリレオ衛星の表記
 ガリレオ衛星には、軌道の内側から順に番号が付されております。以降、この番号で 表記する場合があります。
I イオ
II エウロパ
IIIガニメデ
IV カリスト

1610年1月7日

●観測第1日目
 一六一〇年、つまり、今年の一月七日の翌夜の一時に、筒眼鏡で天体観測中、わたしはたまたま木星をとらえた。 わたしはたいへんすぐれた筒眼鏡を用意していたから、木 星が従えている小さいけれどもきわめて明るい三つの小さな星をみつけた (それまでは、ほかの劣った筒眼鏡を使っていたので、発見できなかったのである)。 当初、わたしは恒星だと信じていたが、黄道に平行な直線にそって並んでおり、等級もほかの恒星より明るいという事実に、 かるい驚きを覚えた。木星にたいするそれらの星の配置は、つぎのとおりである。

E      *        *  O    *          W

 東には星が二つ、西には一つあった。一番東と西との星は、もう一つの星より大きくみえた。木星との距離については、 気にとめていなかった。いま述べたように、恒星と考えていたからである。

『星界の報告』(山田慶児・谷泰訳、岩波文庫 青906-5 P42.P43)より引用

●シュミレート 1610.1.7
 上記の図で「Eは東」「*は小さく見える衛星」「*は大きく見える衛星」「Oは木星」 「Wは西」を表します。上記の一時とあるのは、日没が16時50分ですから17時50分として 計算いたしますと右図のようになります。

Aさんは、イオとエオロパは非常に接近していたために、ガリレオの望遠鏡では2つの 衛星が分離できなかったのではないかと言っておられます。 確かにシュミレートしたものでも見分けが付きにくいですし、 屈折望遠鏡の欠点は、色収差(色のにじみ)にあります。


 ガリレオの望遠鏡は口径が42mmであったそうですから、115.8/42で約2.757秒が分解能の 限界です。これは現在のケプラー式の望遠鏡の式だと思いましたので、 それより性能が悪かったであろうガリレオの望遠鏡です観測しますと、 イオとエウロパの角度は1秒未満なので、分離して見えなかったであろうと推測できますね。

1610年1月8日

●観測第2日目
 (7日よりの続き)ところが、運命の導きによってか、翌八日にもおなじ観測に たちもどって、その配置がまったく変わっているのを発見した。 次図に示したように、三つの小さな星はみな木星の西にあり、 まえの晩より相互に接近していて、いずれも等間隔であった。

E                O    * * *        W

 星の相互接近など思いもおよばなかったので、ここでつぎの疑問にとらわれはじめた。 まえの日には、木星は上記の恒星のうち二つの星の西に位置していたのに、 いまはどうしって三恒星の東にあるのだろうか。 天文計算とくいちがって(恒星の場合の計算)、指定された場所に存在せず、 固有運動によってこれらの星を追い越したのではないか、とわたしは疑った。

 『星界の報告』(山田慶児・谷泰訳、岩波文庫 青906-5 P43.P44)より引用
括弧書きは私の注です。

●シュミレート 1610.1.8
 二日目は時間の記述が無く「翌八日にもおなじ観測」とありますのを拡大解釈しまして、 同じく一時に観測をしたと仮定します。この仮定では日の入りが16時51分なので、 17時51分に観測をした事になり、そのシュミレートが右図です。

第1・2・3衛星はガリレオの観測と同じ位置にありますが、 第4衛星のカリストが木星の東に約10'にある所が食い違っております。 Aさんはガリレオは四衛星のことをまだ知らないのでカリストを 恒星と思っていたか、或いはガリレオの望遠鏡の実視界が狭かったので 見逃してしまったのでははないかと言っておられます。


 ガリレオ式の望遠鏡は高倍率にすると視野が狭くなる欠点があります。 接眼レンズの口径が解らなかったので、どのぐらいの実視界があったのかは解りませんでした。 星見の隊長の話ではケプラー式の約半分の視野だと言っておりました。それにしましても、 口径が4cmから6cmの間のよう(科学博物館にあったレプリカによる)ですので、解像度は あまりなかったと思われます。


1610年2月12日

●さて問題の2月12日
 上記のように多少の食い違いはあるもののシュミレートは、大体において ガリレオの観測した通りになり、シュミレートが本の記述と食い違っても何らかの説明は付きます。

しかし2月12日だけは何とも解釈のしようがないのですね。

●1610年2月12日
 一二日、〇時四〇分、二つの星は東に、おなじように二つは西にあった。 木星からいちばん遠い東の星は一〇分離れ、いちばん距たった西の星は、八分離れていた。

E      *          * O *          *  W

 いずれも十分はっきりみえた。ほかの二つは木星のすぐそばにあり、きわめてちいさかった。木星から〇分四〇秒離れた東の星はとくに小さかった。一方、西の星は一分離れていた。しかし、四時には、木星のすぐ近く東にあった星は、もうみえなかった。

『星界の報告』(山田慶児・谷泰訳、岩波文庫 青906-5 P61.P62)より引用

●シュミレート 1610.2.12
 この日の日没は17時39分で、ガリレオは〇時四〇分としているので、仮に18時19分として 計算したものか右図です。

エウロパの位置が木星の西と東でことなるのです。

 Aさんは東側は2つの星を1つに見誤ったにしても、西側の星の説明が付かないといって おられます。私はこの部分が誤植ではないかと思いましたが 「二つの星は東に、おなじように二つは西にあった。」と文章でも記載されているので、 誤植の可能性は消えると思います。

【ラテン語の「星界の報告」がネット上で見ることができます。】


検証に使用したソフトウエアは、StellaNavigator Ver.2.0 for Windows(AstroArts)

参考引用文献等

  • A1「星界の報告」ガリレオ・ガリレイ著・山田慶児・谷泰訳、岩波文庫 青906-5

  • A3「ガリレオ」世界の名著26・中央公論社

  • B1「暦」広瀬秀雄著・東京堂出版
  • B2「天文年鑑1996」誠文堂新光社
  • B3「天体望遠鏡クラブ」誠文堂新光社

  • ◆古天文目次へ ■ホームページヘ