日射神話 ◆天文民俗学目次へ ■ホームへ

(^^;  弓の名手:羿(ゲイ)のお話です。

このお話の中で羿(ゲイ)に打ち落とされる「三足烏」は アマテラスの祀られる神社の幟に描かれております。 また日本でも千葉県北部の沼南町などで「三足烏」を打ち落とす神事として残っております。 (文字表示にUnicode使用)


中国の五帝

 中国の創世神話の後に、「1代目−燧人」「2代目−せんぎょく(別称:炎帝)」 「3代目−こく(別称:黄帝)」「4代目−堯(ギョウ)」 「5代目−舜」と呼ばれます「五帝」がおりました。

 この3代目の「こく」の子供が、中国で2番目に古い殷王朝の始祖である契(せつ)でありまして、「契」から数えて14代目の湯王が夏王朝を倒します。
 また5代目の「舜」の臣下の「禹」が中国最古の王朝「夏王朝」の始祖となります。

 次にお話いたします「帝俊」は殷の始祖と、周の始祖を生んだ「こく」でもあり、 同時に「舜」でもあります。  この辺りの先祖の繋がりはおかしいのですが、殷や周の時代に入り、 神と王との繋がりを持たせるため神話に変更が加えられたらしく、 人名と親子関係が整合性がなくなっていたり繁雑になっています。

東母と西母

帝俊には、3人の妻がおりました。

一人は娥皇といい、地上の国を産みました。
一人は羲和(ギワ:太陽の女神)と言い、太陽である息子を10人産み、
一人は嫦娥(ジョウガ:月の女神)と言い、月である12人の娘を産みました。

 殷の時代の宇宙観では、太陽の数は全部で10個ありまして、毎日交代で空を廻ります。 それぞれの太陽に甲乙丙丁など十干の名があまして、それを司る10人の神巫がおりました。
太陽は東方の扶桑(ふそう)の木の枝からから昇って、 西方の若木を経て、地下の虞淵(ぐえん)にほとぼりをさまします。

 殷の暦は10日を区切りとした旬日を基本にして、月相が1巡する三十日を併用しました。周の時代になりますと新月から満月までの約十五日を単位とする朔望(さくぼう)の観念が中心となりました。 この十日神話が生まれる背景にはこのような考えがあったのでしょう。

 さて、この太陽の10人の子供たちは、母親羲和(ギワ)の用意した六頭の竜の牽く車に 毎日一人ずつ順番に乗っておりましたが、長い間同じことをしているのに飽きてしまいました。
 それで太陽の10人の子供たちは、堯(ギョウ)の時代に一度に天に現れました。 俗世界の人間は一度に10個も太陽が出て熱くてたまらず、作物も枯れてしまい、 それは悲惨な状況になってしまいました。五帝の堯(ギョウ)の願いにより、 神「こく:黄帝」が、 天界から弓の名手の羿(ゲイ)を派遣したのでした。

冷遇されたゲイ

 羿(ゲイ)は最初に10個の太陽を脅す構えをしましたが全然効果はなく、 太陽は依然10個のまま輝き続けておりました。 そこで羿(ゲイ)は仕方なく太陽を射落とす事にしました。
 まず羿(ゲイ)が最初に太陽を1個を射落としたとき、 帝の堯(ギョウ)は随分と涼しくなっことに気がつきました。 堯(ギョウ)は太陽の恵みを実感して、羿ゲイの矢筒に入っている10本の矢の内、 1本そっと抜き取りました。

 こうして羿(ゲイ)は9本の矢を使い9個の太陽を次々に射落としましたが、 地上に落ちてきたのはなんと9羽の三足烏でありました。 俗世は元通り太陽が1個だけとなりました。

 しかし天帝から見れば、射落された太陽は自分の子供でありますから不機嫌になり、 地上界を救う功績を上げた羿(ゲイ)を天に帰す事をやめたのです。 こうして天に帰れなくなった羿(ゲイ)は不死ではなくなってしまいました。

西王母のもとへ

 羿(ゲイ)の妻は創世神の一人である嫦娥(ジョウガ)でありましたが、 羿(ゲイ)の罪の類が及んでやはり俗界におろされていました。 羿(ゲイ)は妻の嫦娥(ジョウガ)にあまりブツブツ言われるので放浪の旅にでて、 やがて不死の薬を持つ「西王母」の所へと向かいました。

 西王母の住む崑崙山の西は人間ではとても行けないのですが、 羿(ゲイ)には、まだ僅かだけ神力が残っていたので崑崙山までたどり着き、 西王母から不死樹(又は三珠樹)で作った不死の薬を貰うことができたのです。

月の蛙

 その西王母から貰った不死の薬は二人で分けて飲めば不死になるには十分な量で、 一人で飲めば天に昇れ神になれる量でした。

 羿(ゲイ)はその不死の薬を持ち帰り、 適当な吉日を選んで妻と共に飲もうと保管しておいたのです。

 しかし嫦娥は天に居た頃を忘れられず、羿(ゲイ)のふとしたすきに、 一人で薬を全部飲んでしまいました。すると嫦娥はたちまち天に舞い上がりましたが、 そのまま天に行くにはさすがに気がひけました、が、かといって地上にも戻れず月に向かいました。

 しかし嫦娥は月に着くと、あれよあれよと言う間に蛙になってしまいました。 中国ではこうして月には蛙がいると云われております。

羿(ゲイ)の死

 不死の薬を嫦娥に飲まれてしまった羿(ゲイ)は性格が変わってしまい。 毎日放浪や狩りを続けていました。あるとき家僕の逢蒙(ホウモウ)に弓を教えました。 逢蒙は何年もかけて修業をして、あるとき師匠を殺せば自分がこの世で1番の弓の名手になれると思い、 羿(ゲイ)に矢を放ちましたが、羿(ゲイ)も矢を射返して その矢を打ち落としました。羿(ゲイ)は「逢蒙よ未だ未だ修業が足りないようだ」と云い、そのようなことがあっても羿(ゲイ)は逢蒙を家僕として使っておりました。

 逢蒙は更に何年も修業を重ね羿(ゲイ)と同じ弓の技を身につけた頃、 今度こそはと羿(ゲイ)が獲物を狙って弓をしぼった所を、 後ろから頭めがけて桃のこん棒を振りおろしました。 羿(ゲイ)はこうして殺されてしまったのです。


宗布(そうふ)神

 不幸の連続の生涯であった羿(ゲイ)の死後、人々は彼の功を懐かしみ、 宗布神として祀りました。 宗布神とは鬼の首領のようなもので、 邪悪な鬼が人に害を及ぼさないようにするのが仕事であったようです。


不死樹

 お話に出てきました不死樹は崑崙山に生えていると云われております。 崑崙山には黄帝が遊びにいったところであるそうです。 また不死の薬は三珠樹から作るとも云われているようです。

この三珠樹は葉が珍珠で、幹から左右に二本枝が伸びていて珍珠がボーっと光ので 遠くから見ると彗星のように見える樹であるそうです。


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参考文献
「史記・本紀」「山海経」「楚辞」
「中国のあけぼの」世界の歴史3、貝塚茂樹・大島利一著、河井書房新社
「中国の神話」、白川静著、中公文庫し-20-1、他
注)文中の「逢」の文字はです。