書 評

分子固体の結合と構造(D.Pettifor著青木、西谷訳、技報堂出版)を読んで

                     山本 悟 1998.4.16

 私はある友人に、「君と全く同じような研究をしているらしい人の本を見つけたよ」といって、この本の存在を知らされた。この本を読んだ直後は「ううーん」と言う以外何も言えなかった。あれから一箇月になる。この一箇月は、何かおかしい、自分には何か納得行かないものがある、何だろう? はっきり分からない。こんな状態の一箇月であった。今になってやっとそれが何であったかはっきりしてきた。以下順に述べていこう。

A)Pettiforも認めるように、競合する構造間のエネルギー差は非常に小さく全凝集 エネルギーの1/100か1/1000程度でしかない。このことは純鉄は温度を変えると構造が変化し、温度変化によるエネルギー変化は全凝集エネルギーの1/100か1/1000程度でしかないことからも納得できよう(1eV=10000Kを思い出されたい)。第一原理に基づくセルフコンシステントな計算ではとてもそのような精度は得られないから、エネルギー計算で構造を議論することは絶望的に思える。ところが、Pettiforは構造エネルギー差定理(p89)などを確立し、この難問を解決したと主張する。そこで、取りあえず、Pettiforの結論を認めて、何らかの方法で、エネルギーの計算の絶対的な精度が確保出来たとしよう。そうすると、競合する構造のエネルギーを計算し、物質が 実際に取る構造は、エネルギーが最低になるような構造であるとして構造が理解できることになり、基礎的で画期的な前進がなされたと言えるであろう。そこで実際そのように言っていいかどうかさらに見てみよう。

B)Pettiforは理論は少なくとも、以下の点を説明できねばならないといって、次の項目を挙げる。(p229参照)。
(1)周期律表の左側の最密充填構造から右側のよりオープンな構造への変化。
   (答えとしての説明はp229-234)
(2)8ーN則、これは、N>4での隣接原子数を与える。また、その例外となるグラ   ファイト状の炭素や、窒素、酸素二量体。
   (答えとしての説明はp233-、244-234)
(3)遷移金属系列のhcp->bcc->hcp->fccという構造傾向。またその傾向の例外で
   あるマンガンや鉄など。   
   (答えとしての説明はp245-、248、253)
(4)ランタノイドでのLa構造から、Sm構造を経て、hcpへ変わる構造傾向
   (答えとしての説明はp244-、247-248)
(5)AB構造マップのなかでのpd結合2元化合物がとる、NaCl, CsCl, CrB, FeB,
   FeSi, NiAs, 及びMnP型の傾向
   (答えとしての説明はp254-260)

こうみると、大成功で画期的な進歩がなされたように思える。だが待てよ。本当にそうであろうか?
彼の答え方は、p238-239の議論に典型的に現われているように、「構造エネルギー」と「バンド占有数」を用いてなされているのである。Pettiforは、当然の事のように、構造エネルギーが低いほど安定であると考えている。しかし、構造エネルギーはp237の定義から分かるように、凝集エネルギーではなく、二つのエネルギーの差として定義された、彼独特の量なのである。凝集エネルギーなら、その大きさが大きい(これは系のエネルギーが低いことに対応する)程安定であるといえるが、このような構造エネルギーでは、果たしてその値が低いほど安定と言えるかどうかさえ分からない。また、バンド占有数は周期律表の族数ではない。同じ族に属する元素でも異なるバンド占有数を取りうるのである。これも説明に用いるべき量かどうか問題があるのではなかろうか。というのは、理論が説明すべき上述の5項目は周期律表の族番号を用いたときのき構造変化の規則性であって、バンド占有数を用いたものではないからである。そもそも族番号ではなく、バンド占有数を用いて上述の規則性が認められるのであろうか?

C)では、なぜPettiforは凝集エネルギーの代わりに構造エネルギーを、さらに族番号の代わりにバンド占有数を用いざるを得なかったのであろうか? それは以下の様な事情を考えると分かる。

 凝集エネルギーを族番号に対してプロットすると、新しい材料科学p146の図から分かるように、VI族、IV 族のところに二つの山を持った周期的な挙動が認められる。このことは、凝集エネルギーは周期律表の族数の決定的な関数となっていることを意味する。一方、IV 族のC(ダイヤモンド、グラファイト) からPb(FCC)への構造変 化を考えてみると分かるように、構造の方は族番号が変化しなくても大きく変わることが分かる。こうして、凝集エネルギーと族番号との間には、はっきりした関数関係があること、さらに、構造と族番号、構造と凝集エネルギーとの間には、はっきりした関数関係は存在しないことが分かる。従って、構造を説明するのに、凝集エネルギ ーと族番号を使ったのではうまくいかず、構造エネルギーとバンド占有数を使わざるを得なかったのだと思われる。

D)さて、我々は著書「新しい材料科学」で、構造を議論するのに、エネルギーに依拠した議論を展開するのではなく、結合軌道の異方性に基づいて説明した。物質の構造とはもともと原子の空間配置の異方性の問題であるからである。この立場に立てば、エネルギーを計算するまでもなく、不活性ガスのような閉殻状態や、CuのようにS軌道の等方的な結合軌道を持つものは、最密等方的な構造をとること、軌道が半分詰まったような状態には空疎な異方構造が対応することがすぐに分かる。ただ、アルカリ金属は等方的なS軌道であるにもかかわらず、空疎で異方的なBCC構造をとるのは、 鉄が高温でBCC構造をとるのと同じく、高温の粗な構造と理解する必要がある。

E)さて、つぎに100歩譲って、エネルギーに基づいて構造が説明できたとしよう。
Pettiforの主張を全部認めようと言うわけである。それでも、しかし、少し考えてみると、構造論という以上、そこには以下に述べるように根本的な問題がある。
 まず、実際に存在する物質の構造は何時もエネルギーが最低になっているであろうか? エネルギーの高い状態の構造が存在することはないであろうか? アモルファス物質はエネルギーの高い構造である。過飽和固溶体も、水素と酸素の混合状態(爆鳴  気)もエネルギーの高い状態である。こんなことを論じている我々人間もエネルギー的には死んだ方が低くなり、エネルギーが低いもののみがこの世の中に存在するとすれば我々は生きていないはずである。そもそも元素も鉄以外の元素は鉄よりもエネルギーが高く存在できないはずである。こうしてみると、この世の中に存在するものはエネルギーの低いものではなく、むしろエネルギーの高いものばかりである。こうして、現実に存在するものを説明するには、安定性の尺度として、エネルギーの高低だけでは不十分で、第二の安定性の尺度として、私の提唱するエネルギーの揺らぎが必要なのである。私がエネルギーの揺らぎを安定性の尺度として提唱した理由は、エネルギー的には不安定であるものが存在することの意味を理解したかったからである。これなくしては反応速度は議論できないし、温度、圧力、化学組成などと共に構造が変化する事実を説明することも出来ない。

 結局、Pettiforがやったことは、つぎのような巨大な虚構である。
1)ありもしない状態(絶対零度、ゼロ気圧の構造 p1)を考える
2)ありもしない関数関係(エネルギーと構造の間の関数関係)を考える
3)事実を反映していないまとめ(Pettiforの構造map)をおこなう
4)周期律評を恣意的に変更している。(p2 表1.1)
5)sp価電子系は金属、pd価電子系は非金属、共有結合というが、むしろsp価電子系
   は典型元素の非金属金属、pd価電子系は遷移金属だ。
6)静電結合を排除する(p21、218、261)がそれは現実無視だ。
7)構造変化によるエネルギーは凝集エネルギーの1/100-1/1000であり、これは第  一 原理のセルフコンシステント計算でも不可能である(計算できる原子数が小さ
   く、したがって表面の影響が大きい)
8)不活性ガスのエネルギーは計算していないのに解釈で済せている。
9)構造エネルギー差定理も、組成、圧力、温度の影響が大きく不成立。