違和感との闘い(その2)

今の時代はわけがわからないことが多い。わけのわからないことは、我々に違和感を与える。しかし、物事のわけがわからないのは、今に始まったことではない。わけがわかったつもりで物事に違和感を感じない時代があったとしたら、その時代の人々は自分の感覚にフタをしていたのである。違和感というのは、「自分が当り前だと思っていたこと」と「今感じていること」の食い違いによって生じる。だから、今がわけのわからない時代だというのは、我々が自分の感覚に注意を向け始めたということである。

自分の感覚に注意を向けるのはいいが、そうやってわけのわからない時代に生きることは違和感との闘いの連続である。物事に接した時に違和感が生じると、我々は違和感を物事のせいにして、わけのわからない物事をわけがわかるように変化させたくなる。ところが、それをやっているとキリがない。いくら頑張っても、同じようなわけのわからない物事は次から次に現れるのだ。

違和感をもたらすのは、我々自身の中にある「わけをわかりたい」という願望だ。違和感を無くすには「わけをわかりたい」という自分の願望をどうにかしなければならない。我々がわけをわかりたいのは、物事にうまく対処したいと思っているからだ。わけがわかれば悩んだり失敗したりせずにうまくやれるかもしれない。つまり、手間ヒマをかけず楽をするためにわけをわかりたいのである。

ところが、わけのわからないものはわからないものなのだ。何をするにせよ、悩んだり失敗したりするのを避けることはできない。悩んだり失敗したりするのを避けようとすると、わけのわかることしかしなくなる。わけのわかることにうまく対処しているだけだと、いつまでたってもわけのわからないことに対処できるようにはならない。わけのわからないことに対処するには、色々失敗しながら「わからないなりに何とかする」という面倒クサイやり方しかないのだ。それをやる気になれば、わけをわかる必要がなくなってきて違和感が減る。

わけのわからないことをわからないなりに何とかすることができるようになったら、自分としてはお気楽だ。でも、それで済むほど物事は簡単ではない。次に問題になるのは、「わけをわかりたいと思っている他人」の存在である。適当に何とかやっていけるようになったら、自分は「わけわからなくてもいいや」と思えるが、周りの人は相変わらず「わけをわかりたい」と思っている。「わけをわかりたい人」から見ると、「わけがわからないなりに何とかする」ということ自体がわけがわからないことなので、違和感を持たれてしまう。

その違和感を無くすには、相手にわかるように説明しなければならないが、「わけがわからないなりに何とかする」というのを「わけがわかりたい人」にわかるように説明することはできない。それは「何となく」としか言えない個人的な情報である。そこに他人と違う個性が現れる。つまり、個性というのは他人に違和感を与えるものなのである。

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