ナマの現実

自転車に乗れない人に自転車に乗ることの楽しさを伝えることはできるだろうか。これは言葉だけで伝えようと頑張ってもどうしようもない問題である。現実に関するリアルな情報というものは、自分で経験したことのある人にはほんの少しの言葉で伝わるが、自分で経験したことのない人にはどれだけ言葉を費やしても伝わらないかも知れない。

ところが、言葉には魔力のようなものがあって、言葉による知識を得ると何かが伝わったかのような錯覚が起きる。つまり、自転車に乗ったことのない人が「自転車に乗るのは楽しい」という知識を得ると「そうか。自転車は楽しいのか。ふむふむ。」と納得するわけである。そういう場合は「では、他に楽しいものは何があるのかな?」とヘンな方向に行ってしまうことが多い。つまり、言葉による知識を得ると現実に近づいたつもりになり、そのためにかえって現実から遠ざかってしまったりする。

言葉だけで何かが伝わったように思ってしまうのは、言葉に対する信仰のようなものである。「自転車は楽しい」という知識は自分で確認してみない限り本当かどうかはわからないのに、我々はそれせずに真に受けてしまいがちだ。情報化社会とはそういうものだと言うこともできる。この世の中には膨大な知識があって、それを学ぶには一々自分で確かめていたのでは間に合わない。現代社会は膨大な知識の集積によって成り立っているシステムだから、知識を真に受けない限り現代社会に適応できない。

知識を真に受けるのは、ナマの現実を自分で経験しないということでもある。したがって、現代のシステムに適応すればするほど、ナマの現実から遠ざかっていくことになる。しかし、そのシステムに何か不具合が起きた時には、我々はナマの現実に直面しなくてはならない。知識を真に受けるだけでは済まない事態も起こり得る。そういう時は自分の五感と想像力と運動能力だけが頼りである。裏返せば、「言葉で伝わる物事というのは、身体を使って現実の世界を生きていくには役に立たない」ということである。

ナマの現実というのは、自転車に乗れない人が自転車に挑戦する時に感じるものだ。自転車に挑戦してみると、コケれば痛いし、うまく乗れない自分に腹が立ったりする。しかし、ある時、なぜか突然乗れるようになってしまう。自転車でスイスイ走るのは気持がいいものだと分かる。そうなると、乗れなかったのが不思議なくらいで、自転車に乗れなかった自分を思い出すことはできなくなり、ナマの現実が自分にとって不快なものであったことも忘れてしまう。ナマの現実は、我々の身体と心に対して不都合なものとして現れるが、それを乗り越えると自分でも理解できない作用によって気持の良いものに変わる。その時、ナマの現実は自分の一部に変化したのだ。

自転車の乗れる人でも、自転車に乗ることがどういう作業なのかを細かく考えている人はめったにいないだろう。自転車に乗るのは概ね「前進するためにペダルを漕ぐこと」と「倒れないように左右のバランスをとること」と「行きたい方向に向かってハンドルを操作すること」の3つの作業を同時にこなすことである。そういう情報は言葉で伝えることができるが、それだけで自転車に乗れるようにはならないし、乗るとどういう風に気持ちいいのかも分からない。自転車に乗れるようになるのは、自転車に乗るということを言葉ではなく身体で理解することなのだ。

ナマの現実は、我々が把握していないところで時間が流れていくような世界である。時間が流れるというのは物事が変化することの言い換えだから、ナマの現実は我々の知らないうちに物事が変化する世界だと言うこともできる。そして、我々はナマの現実を身体で理解することができるのであり、それは我々が知らないうちに起きる変化である。我々の身体は我々が知らないうちにナマの現実を自分の中に取り入れる。それは、我々にとって自分というものの範囲が広がるということでもある。

我々がナマの現実にぶつかるのは最初は不快で後になって気持が良くなる経験である。最初は自分というものの狭さに気付かされて不快になるが、最後には自分というものの範囲が広がるから気持ちいいのだ。そして、それは我々の意識が不快と闘っている間に我々の知らないところで起きる変化である。我々にできることは、不快に負けずにクールに作業を続けるということだけである。そのためには「知らないうちに、身体が現実を取り入れるはずだ」ということを信じる必要がある。それを信じることができるのは、そういう経験をしたことのある人である。そして、身体を信じられる人は言葉に惑わされないだろう。だから、子どもはなかなか大人の言うことを聞かないのだ。