非日常はどこにあるか

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我々はなぜか非日常を求める。非日常というのは、繁華街とかお祭とか旅行とか、とにかく日頃の生活とはちょっと違う時間のことである。なんでそういうものを求めるのかというと、日常生活というのが、息苦しいものだからだ。

日常生活は最初から息苦しかったのではない。最初は希望に燃えて、とまではいかなくてもちょっとは新鮮な気持ちで始めたはずの生活も、慣れるとなんとなく息苦しくなってしまうのだ。息苦しいというのはが動かないということで、それは今の生活に慣れてしまったせいである。要するに、鈍感になって新鮮な気持ちが無くなったのだ。

非日常には災害とか入院とか犯罪みたいに悪い意味のヤツもあるが、そういうのじゃなくて、新鮮で面白い世界を我々は求めている。新鮮で面白いとはいっても、非日常は慣れない世界なのだから危ない。慣れないせいで注意力が散漫になって、ケガをしたり忘れ物をしたりする。つまり、非日常は常に危険と一体なのである。そうでなくても、慣れないことをやるから面倒クサイ。最初は新鮮だからいいが、新鮮さはすぐに失われる。しかし、まだ慣れてはいないから面倒でイヤになったりする。

日常から逃れたいが危険は冒したくないという場合は、小説や映画などの仮想的な非日常の世界に入り込むこともできる。あるいは、スポ−ツ選手が身体を使って非日常の世界で闘っているのを見ることで代理的な満足を得るという方法もある。しかし、そういうことをしていると、だんだん物事を頭だけで理解するようになって、実際の非日常の大変さが解らなくなる。現実が解らないことはコンプレックスとなり、頭で理解したつもりになるとプライドが高くなる。そうすると、どんどん現実に対して腰が引けてくる。

非日常というのは自分にとって慣れない世界のことで、そこに慣れている人にとっては日常であったりする。旅先の土地は非日常の世界だが、そこに住む人にとっては日常である。つまり、非日常を求めるのは、他人の日常が自分の日常よりいいものに見えるということなのである。田舎のネズミが都会に憧れるというわけだ。しかし、実際に他人の日常を経験してみると、慣れないせいでのトラブルばかりで失望したりする。でも、その経験は無駄ではない。それをやっておかないと、心の中にコンプレックスとプライドが同時に発達して、すごくややこしくなるのだ。

自分にとっての非日常は、他人にとっての日常である。いろいろな他人の日常を経験(あるいは、共感的に想像)してから、自分の日常に戻ってみると、「自分にとっての日常も、実は他人にとっては非日常だったのだ」ということに気付く。つまり、自分の日常を新鮮に見ることのできる視点もあるということだ。他人の視点で自分の日常生活を眺めれば新鮮なのだ。その新鮮さも長続きはしないので、常に新たな視点を探す必要はある。でも、非日常の世界を求めるよりもお金がかからないし、いつでもどこでもできる。

 → 日常生活は冒険だ