よくわからない世界

これから先、どういう時代になるのかはよくわからないが、よくわからないのはいいことである。未来がよくわからないとしたら「良くなるかもしれないし、悪くなるかもしれない」ということになり、そこには「自分次第でどうにかなる」という可能性が残されている。一方、自分の未来がよくわかる場合は、良くなるにしても悪くなるにしても可能性の幅が少ないわけだから、自由があまりない。「何をするのも自由だが、何をやっても結果は同じ」という状況があるとしたら、そういうのは見せかけの自由であって本当の自由ではない。自由とは「どうなるかわからない未来に対して、自分の行動が影響する」という状況のことなのである。

最近の世の中は、この先どうなるのかよくわからないような状況だが、それはつまり自由が生まれつつあるということである。世の中がどうなるのかよくわからないと、「自分もどうすればいいのかわからない」ということになりがちだ。「どうすればいいのかわからない」のは「どうやってもいい」ということである。「どうすればいいのかわからない」状況では、創造性が発揮できるし、発揮することが必要にもなるのだ。創造性というと大層なもののようだが、要するに問題は「自分がどうしたいのか」である。

自分がどうしたいのかを考えてやることにはリスクが伴う。それがうまくいく保証はないし、自分の行動が未来に影響するのだから、結果に対する責任が生じる。責任をとる時の第一歩は「自分の誤りを認めること」で、誤りを認めたことは行動を変えることによって表現される。何か問題が起きた時に「自分の誤りを認めて自分を変える」のがイヤな人は、そのリスクを負わないために「自分がどうしたらいいのか」よりも「どうすればいいのか」という正解を探そうとする。しかし、正解はないので困ってしまう。

正解のない世界は自由だ。自由なのはいいが、正解のない世界は「よくわからない世界」でもある。よくわからない世界は頭で理解するのが難しい。しかし、よくわからない世界にも身体は慣れる。よくわからない世界は身体に任せるのが一番だ。身体が慣れるというのは、頭とは違ったやり方で理解することなのである。よくわからない世界を頭で理解しようとすると、すごくシンドイし、いつまでたっても理解しきれない。よくわからない世界を身体で理解するのはすごく面倒クサイが、そのうちに慣れる。慣れてしまえば、頭が「よくわからない世界」に悩まされることがなくなって、だんだんお気楽になるのだ。