自分は何者であるのか、ないのか

我々は何者かであろうとする。「何者か」というのは、大は地位や名声、小は職業や役割といった社会的身分みたいなもののことである。何かの社会的身分を獲得したり保ったりすることは面倒くさい。ところで、何かが面倒くさいのは手間ヒマがかかるからではない。自分のやりたいことではないから面倒くさいのだ。自分のやりたいことは自分の中から出てくるものだが、社会的身分というのは自分の中から出てくるものではないから面倒くさい。

我々が、面倒くさいにもかかわらず何者かであろうとするのは、何者でもない状態が不安だからである。何者でもないのは不安だが、社会的に何者であってもなくても我々は自分自身である。つまり、我々は「ただ単に自分自身であること」が不安なのである。単に自分自身であるだけでは不安だから、面倒くさいのを我慢して何者かであろうとするのだ。つまり、我々が何者かであろうとするのは、自分自身ではなくなろうとすることに等しい。

自分のやりたいことをやるのは、自分の中から出てくるものに従うことだから自分自身であろうとすることである。「自分自身であろうとすること」は「何者でもなくなろうとすること」でもある。それは不安だ。不安であるにもかかわらず自分のやりたいことをやろうとするのは、自分自身ではない何者かになるのは面倒くさいからである。

我々は「ただ単に自分自身である」というだけでは不安で、不安なあまり「自分自身であること」そのものが不安の原因だと勘違いしがちである。自分自身であることが不安の原因だと思い込むと、「自分自身ではない何者か」になるしかなくなって、帰る場所を失ってしまう。これから先、我々は「自分自身でありながら」同時に「何者か」になる必要がある。それはすごく難しいことだが、それさえやればいいのだし、ゼッタイに面白いはずだ。