自分勝手な男

友人などから「お前は自分のやりたいことがわかっていていいよな」というようなことを言われることがある。これは多分「お前は自分勝手なヤツだ」という意味である。「自分のやりたいことをやるのは自分勝手なことで、お前は自分のやりたいことがわかっているから自分勝手なんだなあ」という相手の気持ちが感じられる。僕が自分勝手な人間であることは(ハッキリそう言われたわけではないのだが)認める。でも、僕は本当に自分のやりたいことがわかっているのだろうか。

僕は「やりたいことは何だろう?」という風に考えることも「これがやりたいんだ」と思って何かをやるということもあまりない。僕が何かをする時は大体、「何をしようかな」と考え、何かを思い付いて、それをやってみる。思い付いてすぐにやることもあるし、思い付いたことをず−っと抱えたままで長い月日が経ってチャンスが訪れた時にやるという場合もある。どちらにしても、それが本当に自分のやりたいことかどうかは、実際にやってみるまでわからない。やってみた後で「なるほど、これがやりたかったのか」とわかることはよくある。他人からはそういう内面のプロセスは見えなくて、僕が何か好き勝手なことをやっていることだけが見える。他人からは、それがやりたいことだからやっているように見えるかもしれない。

最近、多くの人が自分のやりたいことがわからなくて悩んでいるようである。僕は何人かの人に「自分のやりたいことがわかっていていいよな」と言われるまで、「自分のやりたいことがわからない」という状態についてあまり考えたことがなかった。それは僕が自分のやりたいことをハッキリと理解しているからではない。「自分のやりたいことは何か」という風に考えないからだ。僕は「何をしようかな」と考える。そう考えて何をしたいかがわかるのではなく、思い付くまで待つのである。思い付かない場合は、頭の中や家の中や街の中を探して回る。自分のやりたいことというのは考えてわかるものではないのだ。

自分のやりたいことは身体で考えるものである。頭で考えると「他人から誉められるようなことがやりたい」とか「やりがいのあることをやりたい」などというように、問題が「どんなことがやりたいか」になりがちである。そうやって「やりたいこと」の条件を並べていくと自分のやりたいことがハッキリするような気がするが、実は条件を並べれば並べるほど「やりたいこと」の巾が狭くなってしまうだけなのだ。何かをやるためには「どんな」という抽象的な情報ではなく「何が」という具体的な情報が必要である。具体的な情報は現実の中にあるのだから、それを探して回るのが「やりたいことをやる」ということである。

僕は自分のやりたいことがわからなくて悩むことはあまりないが、自分のやりたいことばかりやっているわけではない。自分のやりたいことを追求しているだけでは生きていけないし、やろうとしたことがスイスイとうまくいくことも滅多にない。「どうすればいいのか」については常に悩んでいる。何しろ自分勝手なので「こうすればいいのです」という客観的な正解に従わないのである。そういうのに従っていたら自分のやりたいことがわからなくなる。やりたいことをやるというのは、どうすればいいのかを自分で考え続けることなのではないかと思う。