楽観する方法

僕はわりと悲観的な性格である。何をするにしても「うまくいかないんじゃないか」と悲観的になりがちだ。悲観的な性格を抱えているのはあまり楽しいことではない。僕はお気楽に暮らしたいのだ。お気楽というからには楽観的でありたいのである。しかし、現実というのは「思ったとおりにはならない」ようにできている。何かがうまくいくことを望んでも、現実は思ったとおりにはならないものだから、うまくいかない。現実を知れば知るほど、悲観的になって当然のような気がする。

現実が「思ったとおりにはいかないもの」だとすれば、そういう現実に対して悲観的であることは全然間違っていない。つまり、楽観的であることは正しくないのだともいえる。だけど、僕は楽観的になりたい。どうせうまくいかないと思っていたのでは何もできないし、楽観的な方がものごとがうまくいったりもするのである。つまり、「楽観的であることは正しい」という考え方もできるはずなのだ。でも、そう考えただけで楽観的になれるわけではない。一体どうすればいいのだろうか?

仮に、楽観的であることは正しいのだと考えてみる。そうすると、悲観的になるのは間違っていることになる。どこが間違っているのだろうか。「現実は思ったとおりにはいかないもの」だから悲観的になるわけだが、現実が思ったとおりにいかないものであることは間違いない。だとすると、現実が思ったとおりにいかないもの「だから悲観的になる」というのが間違っていることになる。

悲観的になるというのは、「うまくいかないだろう」と予測することである。現実は思ったとおりにいかないものなんだから、うまくいくはずのものごとはうまくいかない。ところが、思ったとおりにいかないということは「うまくいかないだろう」という予測もはずれることがあるのだ。うまくいくはずがないようなことが、予想外にうまくいくこともある。

例えば、自転車に乗れない子供が自転車に乗ろうとする時、最初からうまくいくはずがないから、「どうせ乗れないだろう」と悲観的になるのは間違っていない。最初からいきなり乗れるものだと思っていると、「現実は思ったとおりにいかない」という真実に直面することになる。そこでやめてしまうと悲観的予想が当たって終わりである。しかし、そこであきらめずに練習していると、いつの間にか乗れるようになる。つまり、「どうせ乗れない」という悲観的予想ははずれるのだ。

僕は「ものごとがうまくいきそうにないから悲観的になるのだ」と思いこんでいたが、うまくいきそうなことをやろうとすると、悲観的になるしかなかったのだ。現実は思ったとおりにいかないものなんだから、うまくいきそうにないことをやれば、逆にうまくいったりする。うまくいきそうにないのになぜやるのかというと、やりたいからだ。「やりたい」というのは、「できるようになりたい」というのとほぼ同じだ。

何かができるようになりたいと思って努力していると、思ったとおりのことができるようになるとは限らないが、必ず何か少しは身に付くものがある。そのことは、「現実が思ったとおりにいかないものであること」と同じくらい確実である。思ったとおりにいくことだけを考えていると悲観的になるしかないが、「自分に身に付いたこと」に敏感になれば、楽観的になれるのである。