ああでもなく、こうでもなく

我々はいつも心のどこかに否定的な感情を抱えている。否定的感情は我々の中で膨らんだり縮んだりするが、消えて無くなることはない。自分に都合の良いことに気を取られて、忘れてしまうことがあるだけだ。忘れてしまうと、知らないうちに大きく育ったりするので危険である。否定的感情が小さな泡であるうちはいいのだが、大きな塊に育ってくると、現実に何かを否定せずにはいられなくなる。

我々が否定的感情に従って行動すると、何かを破壊することになる。否定的感情を他人に向ければ不毛な争いが起きるし、自分に向ければ自己破壊である。何かを破壊することで否定的感情が消え去ったように見えても、時がたてばまた現れる。否定的感情が現れるたびに自他を破壊していたのでは、お気楽にはなれない。

自分で何かを創り出して、それを否定するというのはどうだろう。自分で創り出したものなら否定しても構わない。小説を書きかけては原稿用紙を丸めて捨てる作家とか、焼き上がったお皿を次々叩き割ってしまう陶芸家のように、何かを創り出して自ら否定するわけである。しかし、否定するために何かを創り続けるというのは大変である。自分の中の否定的感情が強くなれば、それ以上の何かを創り出さなくてはならない。

日常生活は同じことの繰り返しで成り立っているので、あまり新しいことばかりやってはいられない。日常生活の中でできるのは、「いつもと同じことをいつもと違うやり方でやってみる」ということである。いつもと違う道を通って駅まで行くとか、いつもと違う店でパンを買うとか。そして、その試みはたいてい失敗に終わるだろうが、失敗をたくさんするのが目的だからそれでいいのだ。そして、その失敗を否定する。つまり、もうそのやり方はやらないというわけだ。

何かを試しては否定するということを繰り返していると、必ずいつかは否定しきれないものに出会う。その瞬間、否定的感情はどこかに消えてしまう。そのようにして、我々は自分が求めていたものを発見するのだ。否定的感情はそのために存在しているに違いない。