ケータイ持ってない男

最近うちの奥さんがケータイを買った。「着メロ入れたろか、何がいい?」と訊くと、奥さんは「アイ・ショット・ザ・シェリフ」と答えた。ボブ・マーリーとエリック・クラプトンのCDを聴き直して、クラプトン・バージョンでいくことにし、シンプルなアレンジを考え、1時間かけて3小節入力した。

数分後、奥さんが「こんなんあったで」とケータイを鳴らした。それは奥さんがダウンロードした「アイ・ショット・ザ・シェリフ」の着メロで、ボブ・マーリー・バージョンのイントロから8小節くらいがわりと細かく入力してあった。しかし、ケータイの着メロにありがちな、曲の雰囲気を破壊するけたたましい音色である。僕は職場や街で他人のケータイが鳴るたびに「ひどいアレンジだなあ」と思うのだ。

僕自身は携帯電話を持っていない。そう言うと、「なんで?」とか「珍しい」と言われることがある。なんでと訊かれても、特に理由はない。生まれつき持っていないのだ。生まれつきのことに関して「なんで?」とか「珍しい」と言われても困る。

街でどこかに電話をする時は公衆電話を使うのだが、最近は公衆電話がすいていて助かる。昔は公衆電話に並ぶのも珍しいことではなかった。若い頃、夜中に公園の電話ボックスで長電話をしていて、順番を待っていたヤクザ風の男にドアを蹴られたこともある。

今、公衆電話からケータイに掛けると、100円玉がぼとぼと落ちて悪夢のようである。家の電話からケータイに掛けても、かなりの料金をとられているはずだ。何か理不尽なものを感じる。ヤクザに電話ボックスのドアを蹴られる方が、まだスジが通っている。

ところで、ケータイの音質はなんであんなに酷いのだろうか。電話を掛けるという行為には、相手の声を聴く楽しみも含まれていると思うのだが、ケータイの音質は、かろうじて何を言っているかが判る程度である。初めてケータイから電話をもらった時、あの変な音質のせいで、僕は相手が泣きそうになりながら喋っているのかと思ってしまった。デジタル関係の技術には疎いが、音声処理回路の設計思想が何か間違っているのではないかと思う。メールとか画像とか言う前に音質をなんとかした方がいいんじゃないのか。

(02.8.25)