構造改革

構造改革というのが実現したとするとどうなるだろうか。社会の構造が変わったとしたら、我々は今まで慣れ親しんでいるのとは違ったやり方で暮らしていかなくてはならない。構造改革が成功した暁には、みんなが今までとは違った生活をすることになる。構造改革というのは、いわゆるリストラであって、簡単に言うと社会全体で無駄な出費を減らすということである。そういうわけで、経済は縮小してデフレとなる。構造改革の後に待っている「今までと違った生活」というのは、今までよりお金を使えない生活だということになる。

お金というのは他人に何かをやってもらうためにあるので、お金を使えなくなると、自分でやることが増える。自分でやるのは面倒くさいが、そういう時代なんだからしょうがないのである。今まで他人に任せっぱなしにしていたことを自分でやらなくてはならないという状況は結構な試練である。そういう場合は大体「なんで自分がこんなことをやらなくてはならないんだ」という気分になるもので、それを乗り越えるには「自分でやるしかない」という自覚が必要になる。構造改革というのは、我々に意識改革を迫るのである。何年も前にイチロ−が言っていたように「変わらなきゃ」なのである。

我々の暮らしている社会は巨大なので、自分がいなくても問題無く成り立つような気がする。だから、我々にとって社会というのは「自分以外の全ての人たち」という意味である。そうなると、社会の構造改革というのは他人の問題になる。しかし、社会というのはどこにあるのかというと、我々の頭の中にある。現実の世界にある住宅地も学校も会社も市役所も繁華街もそこにいる人々も「社会」というものではない。社会というのはそういう具体的なものではなく、抽象的な概念なのである。したがって、社会の構造改革は我々の意識改革によって実現されるのだ。

他人任せにしていたことを自分でやるのは大変である。大変だから他人に任せていたのだともいえる。しかし、もう自分でやるしかない。そうなったら、自分の能力を総動員しなくてはならない。お金が無くなった時に小銭をかき集めるように、あまり価値がないと思っていた能力までフルに使う必要がある。そうやって頑張っていると、眠っていた能力もだんだん目を覚ますし、いろんな感覚も敏感になる。自分の能力や感覚を精一杯使っていると、自分のやりたいことも自然に湧いてくるものである。そういう風にして、みんなが自分のやりたいことをやっている社会が実現すればよい、と僕は思います。