生きるヨロコビ

松本人志が缶コーヒーのCMで「ずーっと続くシアワセなんて、退屈でしかない」と言っていた。だから、シアワセじゃなくても気にするな、というようなことを松ちゃんはいう。同じ頃、インスタントコーヒーのCMで「続く幸せ〜」というのがあったが、それに対する鋭いツッコミである。そういえば、岡本太郎も「自分の中に毒を持て」という本で「僕は“幸福反対論者”だ」と言っている。「自分だけが安全であればよい」というような鈍いエゴイストでなければ「しあわせ」ではあり得ないのだという。

そんなことをいわれても、僕みたいな小市民的な人間は困ってしまう。「自分だけが」とまではいわないが、なるべく平穏無事でありたい。それがシアワセというものである。でも、それだけでは何となくモヤモヤした満たされない気分が残ることも事実だ。シアワセを追求するだけでは何かが足りないのだ。岡本太郎は「しあわせ」の代わりに“歓喜”という言葉を使う。危険なことや辛いことと対決する時に人間は燃え上がる。それが生き甲斐であり、その時にわきおこるのがしあわせではなく歓喜なのだという。

確かに、危険に近づくと身体の中から生きている実感が生まれる。歓喜というのは自分の中にある生命力を発揮することと関係しているようだ。それを裏返せば、シアワセというのは「生命力を発揮しなくてもすむ状態」だ。幸せは生命力を発揮しなくてもすむような「状況」であり、歓びは自分の「行動」によってうまれる。幸せというのは周りから受け取るものであり、喜びは周りの世界に働きかけることで自分の中に生じるものである。

ずーっと続くシアワセなんて退屈でしかない。一旦幸せな状態になったとしても、それが長く続けば飽きて退屈になる。退屈になると、それまでは幸せであったはずの状況に対して不満になる。つまり、周りの状況は変わらないのに幸せではなくなるのである。退屈な時の不満の中身は「もっと幸せになりたい」である。退屈を感じる時、我々は過剰な幸せを求めていることになる。退屈の原因は周囲に過剰な幸せを求める自分にある。

幸せというのは、自分のことを周囲に任せてしまっている状態である。退屈を感じたら、周囲に任せていることを自分でやればいいのだ。それはどちらかというと幸せを手放す方向だが、周りに何かを要求するのではなく自分で何かをすると、幸せではなく歓びが得られる(はずである)。では、歓びの方は飽きないのだろうか? 歓びは自分の行動によって得るものだから、持続するのが大変であり、飽きるほど絶え間なく続けられるものではない。