やりたいことをやらないのは無責任だ

ふつう、無責任というのは「やるべきことをやらない」ことである。そう考える場合の「責任」は「やるべきことをちゃんとやる」ということだ。物事がうまくいっている場合は、「問題が発生しないように、やるべきことをちゃんとやる」というのが責任である。物事が右肩上がり的に順調に進んでいる時の「責任問題」は「誰かがやるべきことをちゃんとやらなかった」という問題だが、今のような非右肩上がり的状況で起きる問題は「やるべきことをちゃんとやっているのに、ナゼかうまくいかなくない」ということである。そういう時は責任の所在がアイマイになる。みんながやるべきことをやっている以上誰にも責任はないはずだ。でも問題は起きている。いったい誰に責任があるのだろうか?

「責任」について考えすぎると「やるべきことだけをやればよい」というところに落ち着く。やるべきことをやっていれば、問題が起きても「やるべきことをちゃんとやっているのだから、自分に責任は無い」と言える。でも、大事なことは「誰に責任があるか」より、「どうすれば問題が解決するか」である。「自分はやるべきことをやったから責任はない」と言っていたら問題は解決しない。「やるべきことをやっているから自分に責任は無い」というのは(文字通り)無責任な態度だ。

なぜそんな無責任な態度が生まれるのかというと、その人が自分のやりたいことをやっていないからである。無責任な人はお金や地位を得る手段としてやるべきことをやっているだけだから、それ以上のことはやる必要が無いと思っているのだ。やりたいことをやっている人なら、問題が起きたら、自分のやりたいことを成し遂げるために問題を解決しようとするはずだ。

問題は、あらかじめ決められた「やるべきこと」と現実の状況が食い違っていることである。やるべきことをやったのにうまくいかない場合は、現実の状況次第で臨機応変に対処する必要がある。やるべきことをちゃんとやった結果として起きた問題を解決するには、「やるべきこと」じゃなくて「自分が(問題を解決するために)やりたいこと」をやるしかない。

20世紀の価値観に基く「やるべきこと」は経済成長に結びついていた。20世紀の経済成長とは工業と商業の発展のことである。そして、工業と商業は充分発展した。その結果、デフレという問題が起きている。つまり「みんなが経済活動をちゃんとやった結果、経済活動がナゼかうまくいかなくなった」ということである。この問題を解決するためにはどうすればいいだろう。

デフレは世の中全体の問題なので個人の力では解決できない。デフレを自分の問題として捉えると、要するに「収入が減る」ということだ。収入が減ると、今までみたいにお金のかかる暮らしができない。それを解決するには、お金の代わりに時間のかかる暮らしをすれば良い。「何かに時間をかける=自分のやりたいことをやる」であり、そうすれば収入が減っても充実した生活ができるかもしれない。みんながそういう方向に生活をシフトすれば、今までと違った方向にお金が回りだしてデフレが解消する可能性もある。

 → やりたいことをやると社会も変わる